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こんな本を読んできた、ほか少々

これまでに読んできた本やマンガについて、好き勝手に書てみることにした。記憶のままに書いているので、間違い等はご容赦を。

カミュ「異邦人」

2013-11-24 21:30:58 | 普通小説
大学時代に読んだ本…て、もう二十年以上前なのか(何回目かの遠い目)。

この作品は、よく「不条理」という言葉で紹介される。

あらすじから、この小説はある種の変質狂的な人間の物語かと思っていた。しかし実際に読んでみると、主人公はいかなる意味でも決して「異常」ではないと強く感じた。

確かにかなり変わった思想の持ち主ではあるかもしれないが、まあ正常の範囲内、どこかにいるかもしれない人である。また、その行動も、場面場面では合理的であり、なんらおかしなところはない。

それなのに、普通の人とのわずかな違いが少しずつ蓄積して、最後には太陽のせいで人を殺すという、異常な行動に至ってしまう。そこが「不合理」ではなく「不条理」と言われるゆえんだろう。


実は、大学以来読み返していないのである。ここに書いた感想は大学時代に感じたこと。長い年月がたっていても、印象深く残っている。
今読んでみたら、どんなことを感じるだろうか。もしかして、全然違うことを感じるかもしれない。読み返してみようか。


J.L.ボルヘス「伝奇集」(鼓直訳 岩波文庫)

2013-11-19 22:19:00 | 普通小説
時々、身の程知らずにも「文学的」で「難解」な小説が読みたくなることがある。その結果は、予想外に楽しめたり難しくて挫折したり様々。

ボルヘスの「伝奇集」は有名な短編集で、「バベルの図書館」という名前などは文学に疎い私でもどこかで聞いたことがあった。
何しろ岩波文庫だし、なじみのない南アメリカ文学だし(そもそも文学だし)、と買うまでかなり躊躇したが、興味が勝って購入。

感想は「とても難しかったけれど、とても面白かった」。
印象的だったのは…と目次を見ながら題名をあげようとしたが、危うく、全編あげるところだった。

ストーリー性の高い作品もあるが、ストーリだけでは測れない作品も多い。
「バベルの図書館」「円環の廃墟」などは、作品世界全体が何らかのメタファーになっている作品。あるいは、百科事典に掲載されていた架空の国の不思議な言語・文化を述べた「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」や、セルバンティスになりきることで「ドン・キホーテ」と同一のテキストを生み出した作家についての架空の論評「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」など、現実と作品内世界の壁をあいまいにしてしまうような作品など。

どの作品も幻想的な雰囲気に彩られている。読み終わると、どことなく足元が不確かで世界があやふやになったような、ちょうど夢から覚めた直後のような、不思議な思いにかられる。
解説には「迷宮としての世界を描いて」いるとあるが、まさに、である。

もっと読解力が高かったら、もっと楽しめたのに、と少し残念でもある。


ところで、このブログ。
カテゴリー「普通小説」というのは、SFやファンタジーに対してのいわゆる文学的とみなされているものを分類するつもりで作ったんだが、この小説集、「普通」でいいんだろうか。

L・M・モンゴメリ「赤毛のアン」

2013-10-27 22:47:31 | 普通小説
さて、復活第1回。

重厚な文学作品で、と思ったが、そんなものには縁がないのでしょうがない。
で、思いついたのはこれ。まあ、文学っていえば文学だし、確か、次(次の次だっけ)のNHKの朝ドラは、村岡花子の半生に題を取っているらしいし。

子供の頃、名作劇場のアニメは見ていた。でも、本で初めて読んだのはなんと大学生の時。
むくつけき男子学生の読みものとしては、結構恥ずかしいものがある。人前じゃ、ちょっと読めない。

感想。結構、面白かった。

なにより、アン(綴りは一番最後のeが重要)のかっとび具合がいい。感受性と生命力の権化のような少女。喜ぶときには本当に天に昇っていきそう、悲しむときには世界が終わるかのよう。
現実にはそんな少女はいないだろうが(というか、ほんとに身の回りにいたら・・・ちょっとヤかも)、なぜか、荒唐無稽になっていない。なぜなんだろう。

さらに、主人公に負けず劣らず、アンの周囲の人々が、いい味わいを出している。気が強くて厳格なマリラと、内気で穏やかなマシューの兄妹(強い父親と優しい母親という役割が、ちょうど逆転している)をはじめ、アンの宿敵(?)で後に恋人になるギルバート、アンの「心の友」ダイアナ、(ついでに)ご近所の噂好きおばさんのレイチェル・リンド夫人等々、レギュラー陣から脇役に至るまで、個性豊かで生き生き伸び伸びと活躍してくれる。個人的には、マシューが好きだなぁ(以前「マシューになりたい」と妹に言ったら、ものすごくいやな顔をされた)。

ところで、赤毛のアンには何冊か続編がある。妹が何冊か買ってきて、そのうち2~3冊読んだ覚えがあるが・・・内容を覚えていない。

やはり一作目を越える続編というのは難しいようで。
(一番の難点は、アンがだんだん常識的になってくること)

ちなみに、私が読んだのは、おそらく一番有名だろう新潮文庫の村岡花子訳。これ、実は完訳ではないらしい。ずいぶん後になって知ったのだが、ところどころ省略されているとのこと。(今は、村岡氏による完訳版も出版されているらしいのだが)。
古い翻訳なので、若干、言葉遣いに違和感を感じるところもある。

それでも、赤毛のアンというとやはり村岡花子の翻訳でないと、しっくりこない気がする。
(ほかの訳を読んだわけではないけれど)

ところで、最初に読んだ時からの疑問なんだけど・・・「精神的な顔」って、どんな顔?

川端康成

2012-09-04 21:53:27 | 普通小説
言わずと知れた、日本のノーベル文学賞第一号。

しかし。

確かに「雪国」と「伊豆の踊子」を読んだという記憶はあるのだが、本は亡失してしまった。その上、ストーリーを全く覚えていない。そもそも、私にブンガクは高等すぎるのだ。

わずかに残っている印象をもとに無理やり書いてみる。

「伊豆の踊子」
伊豆を旅行中の主人公(学生だったか?)が踊り子の一行と出会ってしばらく同行する。宴席に呼ばれていく踊り子のことを思って主人公がやきもきする。そんな話だったような気がかすかにするのだが。本当に読んだんだっけ、これ。

「雪国」
出だしの「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった」は有名である。でも、そのあとの一文「夜の底が白くなった」。むしろこちらの方が名文だと思う・・・と悦にいっていたら、この前読み返した阿刀田高のエッセイに同じことが書いてあった。どうもそれに非常に同感したあまり、自分の考えだと思い込んでいたらしい。よく、盗作騒ぎがあると、「資料の中の文章をうっかりそのまま使ってしまった」と釈明があるが、その気持ちがわかった。
そのあと汽車が駅に入り、駅長さんを呼ぶ女性の声がし、と、非常に美しい情景が続くのだが、はて、どんなストーリーだったか。確か芸者さんが出てきて、主人公と話をするシーンがあって、はて。
で、最後の場面、この芸者さんが火事になった旅館の2階から落ちる妖しくも美しいシーンで終わったのだと思うのだが。
ちなみに、新潮社のHPの作品紹介には

親譲りの財産で、きままな生活を送る島村は、雪深い温泉町で芸者駒子と出会う。許婚者の療養費を作るため芸者になったという、駒子の一途な生き方に惹かれながらも、島村はゆきずりの愛以上のつながりを持とうとしない


とあるのだが・・・やっぱり思い出せない(そもそも、そんな話だっけ?)。


実は、川端康成は私の天敵である。高校時代、現代文の成績は良い方だったのだが、テストに川端康成が出ると途端に点数が悪くなった覚えがある。決して苦手意識というものではない。あるとき、現代文のテストが返ってきて「今回は点数、低かったなあ」と思っていたら、先生が「この文章は川端康成の・・・という小説で」と解説があり、初めて川端康成の文章だと知ったことがある。ブラインドテストで同じ結果が出たんだから、これはもう相性が悪いというほかはない。

この2作品だけで結論づけるのはいささか乱暴ではあるが、川端康成の小説の真骨頂は、繊細で微妙な人間心理を美しく(醜さすらも美しさの一種として)描写することにあるのではないのだろうか。
一方で、私は人の心の機微には全く疎い人間である。自分でもよく自覚している。日常生活でもそうだが、読解の上でもやはり感度が鈍い。これまでの読書傾向も、登場人物の心の動きを堪能するよりも、ストーリー展開であるとか、物事の分析や考察を楽しむといった種類のものが多い。(というわけで、苦手の最たる物が恋愛小説である)

インターネットをちょっと検索したら、「伊豆の踊り子」や「雪国」のあらすじや感想が、数多くみつかった。それらを読むと、このすばらしい作品に対して上記のようなことしか書けない自分がつくづく情けなくなってくる。

というわけで、私、全く文学とは縁遠い人間なのだなあと再認識した。

フランツ・カフカ「変身」

2012-08-25 18:01:36 | 普通小説
村上春樹の「海辺のカフカ」を読み終えてから気が付いた。
そういえば、カフカは読んだことがないや。

というわけで、さっそく「変身」(新潮文庫)を購入。隣に「城」もあったが、その厚さに恐れをなして、とりあえず薄い方を。

主人公が朝起きると、自分が一匹の虫になっていることに気が付くという、最初の場面は有名である。しかし、物語はもっぱら主人公の自分や家族に関する心情描写と虫になってしまった主人公への家族の対応という形で進み、主人公が虫になってしまった原因については一言も触れられない。

以前、この作品について「主人公が虫になってしまったことは現代社会における人間性の疎外を表している」といったような解説を見たような記憶がある。しかし、私は、カフカはその様な現代社会の非人間性のようなことを訴えたかったのではないと思う。この物語は、すべて主人公の家の中で終始する。家族と使用人以外の人間は、最初に主人公の上司と、終盤に下宿人が出てくるだけ。どうも、社会云々とは関係ないように感じるのである。

むしろ、テーマはもっと身近なことではないだろうか。物語の大部分は主人公と家族の関係性を描いている。主人公は姿は変われど、最後まで両親と妹を愛し続ける。しかし、醜悪な姿で言葉も通じない主人公を、家族はどう扱えばいいか困惑し、負担に感じ、部屋に閉じ込めて外部の目からも自分たちのめからも隠してしまう。そして最後は、主人公は父親が投げつけた林檎が体にめり込み、それがもとで死んでしまう。つまり、主人公は家族によって殺されてしまう。一方、彼の愛した家族たちは、主人公の死によってやっと安らぎを得る。
家族との擦れ違いがもたらす悲劇、それがこの作品のテーマだと感じる。
家族にとっては、主人公は全く理解できない異質な存在である。たとえ、主人公がどれだけ家族を愛していても。
この物語に限らず、「自分の子供(親)が理解できない」「自分は親(子供)をこんなに愛しているのに、親(子供)に自分の気持ちが通じない」というのは、どこの家族にも起こりうる問題だろう。しかし、それを小説にするには、その状況に至る経緯を納得できるように描く必要がある。それは、それだけで小説のテーマとなりうるものである。ともすれば、その経緯の描写によって、真に描きたい主題(擦れ違いの悲劇)がぼやけてしまいかねない。
カフカは、主人公を人間とは異質な「虫」にしてしまうことで、そのプロセスを割愛し、小説を「家族の擦れ違い」に特化したのではないだろうか。だから、主人公が虫になった理由は説明されないし、説明する必要もないのだと思う。

とてつもなく重い話ではある。しかし、どこか乾いた文章と、「主人公が理由もなく虫になってしまう」という非現実性が、この作品を寓話のようにしている。そのせいか不思議なことに読後感は、そんなに悪いものではなかった。(さわやかとはとても言えないが)