ONCC 8期 敗者から見た古代史

~古代史の通説を敗者の立場から読み解く~

坂上田村麻呂とアテルイ

2020年12月24日 | 日記

坂上田村麻呂とアテルイ

講師:若井 敏明先生

12月21日(月)10時~12時

 

①大化改新と東北

 日本海側への進出:「日本書紀」の記述

 太平洋側への進出:考古学から、城柵跡の発掘から

②奈良時代の東北政策

 先住民(蝦夷)の反乱と朝廷の積極政策

  709年 陸奥・越後に蝦夷が侵入、兵器を出羽柵に運ぶ

 大野東人の東北経営

  724年 多賀城の創建

 多賀城の変遷

  第1期~第4期

 柵戸の移入

 蝦夷の内地移送

③蝦夷の反乱と朝廷の遠征 38年戦争

 第1次征討:774年~777年

  蝦夷、桃生城に侵攻

  鎮守将軍・大伴駿河麻呂による征討

 第2次征討:780年~781年

 桓武天皇の征討準備

  782年 春宮大夫大伴家持に陸奥按察使・鎮守府将軍を兼任させる

 「続日本紀」783年

  蝦夷は平常の世を乱して王命に従わないことがまだ止まない。追えば鳥のように散り去り、

  捨て置けば蟻のように群がる。なすべきことは兵卒を訓練し教育して、蝦夷の侵略に備えて

  おくべきである。

 第3次征討

  787年 紀古佐美を征討将軍に任命

  789年6月3日 紀古佐美、アテルイに敗れると報告

  同年6月9日 紀古佐美、物資輸送の困難を理由に現地解兵を奏上するも、天皇、許さず。

  同年7月   天皇、10日に得た紀古佐美の戦勝報告を虚偽と非難

  同年9月    紀古佐美、帰還

第4次征討

 794年 平安遷都との関係

第5次征討

 延暦16年 坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命

 延暦20年・801年 坂上田村麻呂の遠征

 田村麻呂の戦果

 「日本紀略」

胆沢城の建設とアテルイの降伏

 「日本紀略」延暦21年正月9日

  田村麻呂を遣わして、陸奥国胆沢城を造らしむ。

 「日本紀略」延暦21年7月

  坂上田村麻呂、アテルイとモレを従えて帰京

 「日本紀略」延暦21年8月

  アテルイやモレらを斬刑とした。両人は陸奥国内の奥地である胆沢の首長であった。両人を

  斬刑に処する時、坂上田村麻呂らが「今回は郷里に戻し、帰属しない蝦夷を招き懐かせよう

  と思います」と申し出たが、公卿らは自分たちの見解に固執して「蝦夷らは性格が野蛮で、

  約束を守ることがない。たまたま朝廷の威厳により捕らえた賊の長を、もし願い通り陸奥国

  の奥地に帰せば、いわゆる虎を生かして災いをあとに残すのと同じである」と言い。ついに

  両人を引き出し、河内国の植山で斬った。

  

 

次回1月18日(月)の講義テーマは「応天門の変と大伴家の没落」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 


早良親王と怨霊

2020年12月15日 | 日記

早良親王と怨霊

講師:鈴木 明子先生

12月14日(月)10時~12時

 

早良親王

 750~785年。父は光仁天皇、母は高野新笠で同母兄に、桓武天皇

 幼少時に出家

 桓武天皇の即位にともなって還俗して皇太弟となる

 藤原種継暗殺事件の嫌疑をかけられて皇太弟を廃され、幽閉ののち死亡

 怨霊となる

僧侶としての前半生は?/なぜ皇太弟となったのか?/事件の背景は?/なぜ怨霊と認識されたのか?

(1)生い立ち

 ①誕生

  父:白壁王

  母:高野(和)

 ※山部王(のちの桓武天皇)737年誕生

  早良王   750年誕生  山部王より13歳年少

 ②天武系皇統と天智系皇統

  奈良時代:皇位は天武→文武(天武の孫)→聖武(文武の子)→孝謙(称徳、聖武の子)

       =天武系皇統で継承

 ③出家

  東大寺羂索院(けんじゃくいん、法華堂)に入り、11歳で出家

(2)父と兄の即位

 ①天武系皇統の断絶

  称徳(孝徳)天皇(聖武天皇と光明皇后の娘)は未婚の女帝→天武系皇統の直系の

  皇位継承者なし

 ②良弁の後継者早良親王

   良弁と連携して東大寺の修造に尽力

 ③還俗

   781年

(3)長岡京遷都

 ①遷都前後の出来事

 ②遷都理由

(4)藤原種継暗殺事件

 ①藤原種継(造長岡宮使 長岡京への遷都にかかわる中心人物)

 ②暗殺計画と処分

 ③事件の背景

  早良親王は東大寺の高僧であった異色の皇太弟

  当時12歳になっていた安殿親王(桓武と皇后藤原乙牟漏の長子)の立太子をのぞむ桓武天皇

  等との対立

(5)早良親王の怨霊

  生母、皇后の相次ぐ死

  皇太子安殿親王の病気

(6)長岡京廃都、平安京遷都

 ①長岡京完成せず

 ②廃都理由

  水害、立地の問題、早良親王の怨霊

(7)平安京における御霊信仰

  863年 神泉苑で官民一体となった御霊会を開催

      祀られた怨霊の筆頭に崇道天皇(早良親王)

  御霊信仰の盛行:上御霊神社、下御霊神社

 

次週12月21日(月)の講義テーマは「蝦夷の首領アテルイ,モレと坂上田村麻呂」

 

 

 

 

 

 


井上皇后と他戸親王

2020年12月08日 | 日記

井上皇后と他戸親王

講師:鈴木 明子先生

12月7日(月)10時~12時

 

井上皇后

 717~775年。第45代聖武天皇の娘。伊勢斎王となり、伊勢神宮に仕えた。

 退任後、第49代光仁天皇の皇后となる。

他戸親王

 761?~775年。父は第49代光仁天皇。母は井上皇后

 

伊勢斎王とは?

皇后を廃された理由は?

怨霊の特徴

 

(1)生い立ち

 ①誕生

 ②同母の弟・妹

  安積親王

  不破内親王

 ③異母の妹・弟

  光明皇后所生子

  ・阿倍内親王

  ・基王

(2)伊勢への旅立ち

 ①斎王就任

  斎王とは、天皇にかわって伊勢神宮に奉仕した未婚の皇族女性

 ②盛大な就任儀式

(3)京での動向

 基王誕生

 安積親王誕生

 光明子→皇后

 阿倍内親王→皇太子

 安積親王(17歳)、死去(暗殺説も)

(4)結婚と出産

 安積親王の死の服喪により、斎王を退任

 帰京後、白壁王と婚姻→他戸親王誕生

(5)天武系皇統の断絶と光仁天皇即位

 ①天武系皇統と天智系皇統

  奈良時代:皇位は天武→文武(天武系)聖武→孝謙=天武系皇統で継承

  ※白壁王(のちの光仁天皇)は天武天皇の兄、天智天皇の孫(天智系皇統)。

   白壁王が即位する可能性は皆無だった。

 ②天武系皇統の断絶

  称徳(孝謙)天皇は未婚の女帝→文武系皇統の直系の皇位継承者なし

 ③白壁王、立太子

  孝謙天皇崩御

 ④即位

(6)井上皇后、廃后

  772年 井上内親王、天皇を呪詛した謀反の罪により皇后を廃される。

      他戸親王、廃太子→庶人

  775年4月 井上・他戸親子、同日死亡(他殺?自殺?)

(7)怨霊

  775年8月 伊勢・尾張・美濃に異常な風雨

(8)幽閉の地

  大和国宇智郡(奈良県五條市)に井上皇后、他戸親王の陸墓がある。

 

 

次週12月14日(月)の講義テーマは「早良親王」

 

 

 


道鏡と孝謙・称徳天皇

2020年12月02日 | 日記

講義テーマ:道鏡と孝謙・称徳天皇

講師:斉藤 惠美先生

11月30日(月)10時~12時

 

道鏡事件 ・称徳(孝謙)天皇の歴史的位置

1. 道鏡事件

◎道鏡と孝謙(称徳)天皇の出会いから別れまで

 権力争い、恋愛感情、女性天皇としての苦悩

◎道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)

宇佐八幡宮から称徳天皇に対して「道鏡を皇位に即ければ天下は太平になるであろう」との託宣 が下される。                                     称徳天皇は神託を確認するために和気清麻呂を派遣。清麿呂の持ち帰った託宣・・・「我が国家は開闢より君臣の秩序は定まっている。君下を君主とすることは未だかつてなかったことだ。天の日嗣(皇位)には必ず皇統の人を立てよ。無道の人は早く払い除よ」

神託を受け取り称徳天皇は激怒→清麿呂を大隅国へ配流。

称徳天皇は皇族や諸臣に対して元正天皇や聖武天皇の言葉を引用し、妄りに皇位を求めてはならない事、仏法を尊ぶ事、皇位の継承を謀によって決めることは仏神が許さない事を表明。

聖武天皇関係系図

 

2. 称徳(孝謙)天皇の歴史的位置

◎古代的天皇の終焉と新たな天皇像の模索

・聖武天皇の転換

 契機としての疫病 

 聖武天皇の仏教政策

 ①国分寺・国分尼寺建立の詔

 ②大仏造立の詔

Q&Aタイム⇒講義終了

                               

 

次週12月7日の講義テーマは「井上皇后と他戸親王」                                                                                                           

 

 


藤原広嗣の乱と藤原仲麻呂の乱

2020年11月18日 | 日記

講義テーマ:藤原広嗣の乱と藤原仲麻呂の乱

講師:若井 敏明先生

11月16日(月)13時~15時

 

①天平9年の疫病の影響

「続日本紀」に4月~6月の疫病の影響について記述されている。

天平8年の議政官

 右大臣 藤原武智麻呂

 中納言 多治比県守

 参議  藤原房前 藤原宇合 藤原麻呂 鈴鹿王 橘諸兄 大伴道足

天平9年の議政官

 知太政官事 鈴鹿王

 大納言   橘諸兄(翌年正月右大臣に)

 中納言   多治比広成

 参議     大伴道足 藤原豊成

②藤原広嗣の乱

 藤原広嗣(宇合の子)

  天平10年(739)、太宰少弐に転出。

  天平12年8月29日、玄昉と吉備真備を朝廷から除くことを主張した上表文を提出。

   これが国を転覆させようと企んでいるとして、

  天平12年9月3日、朝廷は大野東人を大将軍として兵を派遣。

  天平12年10月に逮捕され11月初めに処刑された。

③藤原仲麻呂の台頭

 藤原仲麻呂(武智麻呂の次男 706~764)

  天平11年(739)従五位上、12年 正五位上、13年 従四位下・民部卿、15年 従四位上

  天平18年 式部卿、従三位、20年 正三位に昇進

  天平勝宝元年(749)聖武天皇の譲位と孝徳天皇の即位とともに大納言、中衛大将となり、翌年に従二位に昇進

 光明皇太后を背景にした権力掌握

 孝謙天皇の信頼

 橘奈良麻呂の変

  橘諸兄の子の橘奈良麻呂が大伴古麻呂らとともに、仲麻呂を殺害して天武天皇の孫にあたる安宿王・道祖王や黄文王を

  擁立する反乱を企てる。

  変は露見して、反仲麻呂派の一斉検挙と粛清の実施。大伴古麻呂、道祖王も逮捕され拷問死。

  仲麻呂の兄 右大臣・豊成も左遷→藤原仲麻呂の独裁体制の確立

④孝謙太上天皇と道鏡

 光明皇太后の死去と道鏡の登場

 道鏡が病を患った孝謙上皇の傍に侍して看病。以来、その寵を受ける。

淳仁天皇が孝謙上皇と道鏡との関係について諫言したことを契機にして両者の関係は悪化。

 天平宝字6年5月

  孝謙上皇、保良宮から帰還して法華寺に、淳仁天皇は平城宮中宮院に入る。

⑤藤原仲麻呂(恵美押勝)のクーデター計画

 道鏡が常に宮中にはべって孝謙天皇)に特別寵愛されるようになった。押勝はこれを妬んで、心が安らかでなかった。

 仲麻呂の上皇への諫言内容

 「道鏡が昼夜朝廷を護り仕える様子を見ていると、道鏡の先祖が大臣として地位と名を受け継ごうと思っている野心のある人物である」といって、「退けられますように」と奏上したけれども、道鏡を大臣禅師に任命された。「続日本紀」天平宝8年9月

⑥藤原仲麻呂の乱

9月11日

 度重なる密告通知をうけた孝謙上皇は少納言山村王を淳仁天皇のいる中宮院(内裏)に派遣して、鈴印を回収(淳仁天皇もこの時に中宮院内に幽閉されたか)。その夜、仲麻呂は一族を率いて平城京を脱出。

9月12日

   淳仁を連れ出せなかった仲麻呂は中納言氷上塩焼(新田部親王の子)を同行して「今帝」と称して天皇に擁立し、自分の子息たちには親王の位階である三品を与えた。奪取した太政官印を使って太政官符を発給し、諸国に号令した。

9月18日

 討伐軍の海陸からの攻めでつい仲麻呂軍は敗北した。仲麻呂は湖上に船を出して妻子とともに逃げようとするが、斬られる。その一族も皆殺しにされ、塩焼王も殺された。

⑦淳仁天皇の廃位

 10月、孝謙上皇の軍による中宮院包囲、淳仁天皇は上皇から「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、親王の待遇を持って淡路島に流される。

 

次々週11月30日の講義テーマは、「道鏡と孝謙・称徳天皇」