美男子俱楽部

※単行本はBOOTHにて発売中。

やけになる度胸

2022-07-30 | エッセイ

 やけになる、というのは何か、思い通りにならない事・厭な事があり苛苛して、滅茶苦茶をする、という事であり此の滅茶苦茶、というのは現実味の無いこと、すなわち社会的にあかんことをする、という事でたとえば酒を浴びる様に飲んで往来で絶叫してみたり見知らぬ婦女に裸身をさらしたり小学生にビンタしたりと、色々在るが、考えてみると俺は今が今まで碌にやけになった事がないなぁと思い驚愕した。情けないと思った。恥ずかしいと思った。

 こういうのは大抵、一般世俗・社会にそぐわない人間つまり俗悪此の上無い文章を脈脈と認め赤貧に喘ぎながらにたにた嗤う芸術家気質の文筆家のあほなどが俺の作物が売れねえのはてめえ等の脳味噌がピメントだからなんだよ、だぁほ、などと云って酒を飲み、絶叫して、婦女に裸身をさらして小学生にビンタするというパターン、これが通例というか、俺も芸術家の端くれ、文筆家の末端として、絶叫して、婦女に裸身をさらして小学生にビンタしなければならぬと思うのである。

 しかしながら、俺は酒を飲まない、というか二十三歳現在迄一度たりとも、一滴たりとも酒を口に入れた事すら無く、往来で絶叫したり裸に為ったり、小学生にビンタしたりした事もこれ一度も無いという体たらく、絶望的な有様であるが要は現実味の無い事・社会的で無い事を兎に角すれば良いという所で、何も酒を飲んだり、絶叫、裸身、ビンタする事がやけになる、という事では決して無く、あれこれ考えた末俺が思う反社会的な事、これをやったろと心に決め、それは何かと云うと、先ずブルース・リーが「死亡遊戯」で着用していたあの黄色と、黒のラインの入ったタイツの様なもの、此れを着装のうえ牛丼屋へ出向き、牛丼を註文。提供された刹那口は一切付けずにこれをどんぶりごと店から持ち出し疾走、附近の銀行に駆け込むのである。受付窓口の前迄来たところで手に持っている牛丼を頭から被り、「俺はシングルファーザー、マザーファッカー」などと絶叫しながらヌンチャクを振り回し、これを約五分間繰り返した後、今度はヌンチャクを捨て、周囲の人間にサンキュウ・ベリィ・マッチと米語で米的に謝辞を述べながら頭上の牛丼のうち、牛肉を一枚ずつ配った末バラタナティヤムを踊り土下座をするというもので、これを明日にでも決行したろと思い至った所で再度驚愕。悲嘆。絶望。というのは、俺には思い通りにならない事・厭な事がこれといって無いという不幸があって、であるのに頭上の牛肉を配ったりしてはそれはもはや徒の烏滸の沙汰というものであり、これではやけになれないという所で俺はやけになって部屋で一人ヌンチャクを振り回し家中の家具・其の他品々を破壊。俺はシングルファーザー。俺はマザーファッカー。自棄。


モノホンのシャヤク

2022-07-29 | エッセイ

 最近の映画の、というか、ドラマなどもそうなのだけれども、特に生身の人間が役柄を演じている務めている演劇・芝居をテレビで視聴していると、発狂して、此れをヌンチャクで真っ二つに破壊したくなる、というのは、猛烈に腹が立って仕舞うからである。

 嘘も放便という言葉があり、是れは、人間、このような世知辛い世の中で生きて行く為には、嘘、これを付く事が必要不可欠であり、逆に言えばこれを付かなければ生きて行く事は出来ぬのだから、嘘は、便の様に自然に放っても仕様の無い事であり、同時に仕様が無いのであるのだから、嘘は、放った便の様に、水に流そうぜ、という意味であるが、しかし、嘘というのは隠し通してはじめて、その効力を発揮するのであって、見え透いた嘘というもの程見苦しく、不幸なものは無くその点を考慮すると、役者というのは自我を押し殺し自分の演じる役柄に徹する職業であって則ち嘘を演じる、という所に本分が在るのであるが、その嘘、が見え透いた役者の演技程人を不快にさせるものもあまり無い。

 特に、現代の、と言うか、昔からなのかは知らんけど、俳優や女優というのが映画やドラマ以外の番組によう出没して「ゲラゲラゲラ、すぽぽぽぽぽ、しゅるるる、ゲラ」とか仰って、そう云うのは、注目の人気俳優・若手女優、とか言っておきながら、ラーメンを食したりクイズに正解したりとかいう、全くもって俳優・女優業に関係の無い仕事をしてはるのであって、「こりゃおかすくね」と愚生は思うのである。

 役者というのは本来、本当の自分すなわちプライベートな所を、表立って見せない方がいいんじゃねえのってのは、たとえば、ある番組で女優が自分は一切恋愛などしたことが無え、という様な事を公表した場合、其奴が恋愛ドラマの恋する乙女を演じようものなら、劇中、本来は恋愛など一切しないのだけれども今は仕事中、演技で、恋愛に夢中な女を装っているのであって、このギャラでギロッポンのエステティックサロンでシースーでも食いながらサンバでも情熱的に踊ろうかしらん、といった心の声が視聴者に伝わる気がするのであるし、俳優が趣味は腹踊りです、などと公表しようものなら、自分が幼い時多額の借金を家庭に残して蒸発した父親と町中で偶さか出逢ったものの彼はもはやホームレスと成り下がっておりそれはもう見て居られぬ程の醜悪な風貌・有様で、再会できた喜び・悲しみ・虚無感が一気に押し寄せた時の息子の演技をしている際も、本来の姿即ち「趣味は腹踊りです」が過ってしまう危険性があるのであり、こうなってしまったら、つまり趣味は腹踊りを思い出してしまったら、終いで、興醒めもいいところ、一瞬にして現実に引き戻され、このギャラでザギンのキャバレーでシースーでも食いながら腹で踊ったろ、といった心の声が視聴者に伝わってしまう。

 詰まるところ、逆に、真に価値のある一廉の役者というのは演技を現実世界と混同させない、というのは前提として演技こそを現実と思い込ませる能を持っている人間であり、自ずと無名でありながら演技力のある者という条件が課せられるのであって、そういう意味ではこの間偶偶ローカルな映画館で観たごくマイナーな映画が結構面白く、誰一人役者の事は知らんのだけれども、それが非常に心地良かったというか、そもそも、日本の映画というのは、なんか、陰気というか陰湿というか、じめじめした感じがあって、好きじゃないのだけれども、それを差し引いても非常にオモローだった。オモロー。オーモロ。


おめぇ、猿みてえな人間だな

2022-07-03 | エッセイ

 人に、「おめぇ、猿みてえだな」などと謂われて不快にならない人間というのは多分居らず、居たとすれば自分が猿などという下等生物に形容され汚辱を受けている事にすら気が付かないまぬけ、という事になり、「やっぱ猿じゃねえか」って事になる訳なのだけれども、まったくもって非道い事だと思う。卑しいと思う。俺は。

 「俺様を猿ごときと一緒にするんじゃねえ、ダァホ。」などと云うのは人間の慢心、つまり自分のような人間という種が猿などという生物の上に立場を置いているのは実に当たり前である、俺ぁ、獣と違ってこのように優雅に、おディナーを食べられるんだという認識、此れが在るからで、そういうのはいい加減、撤廃したろ、と思うのである。俺はね。

 とか云って、考えてみると人間の愚劣極まりない認識によって迫害されているのは猿だけではなく、其の他色々な生物が在って、驚愕すべき注視すべきは、逆に、然程迫害されていない生物も居る、という点である。詰まる所、人間はまったく、愚かしき事に迫害だけでは飽き足らず、あらゆる生物に対しその一方的・断片的な印象によって優劣をつける、印象差別を働いているのであるよ。わっ。

 たとえば近頃の若い女が、自身の彼氏を語る際によく、「犬」という例えを用いるが此れは脳天からつま先に至るまで毛がびっしり生えており、デートの際などに「ちょっくら御免」とか言って電柱に駆け寄るなり片脚を高く掲げ傍若無人に小便を放散する癖があるという訳ではたぶんなく、犬のようにふわふわしておりペットの様で可愛らしい、という事を言いたいのだと思うのだよ。俺はね。

 これはプラスの印象というか、つまり、このように犬という生物は然程印象によって迫害されていないのである。されていぬのである。されて、いぬ、のである。へっ。

 しかし同じ場合で、「うちの彼氏ゴリラみたいでさぁ」などと言おうものなら、筋肉むきむきの運送屋かスポーツ・ジムに勤務、年がら年中情欲にかられており何かにつけて彼女の軀を欲しがり汗だくに為りながらうほうほと云い腰をふりつづける、たぶん毛深くてたぶん不器量である野性的で粗野な男を想像してしまうのであるよ。俺はね。悲運な事ながらに。

 結果マイナスな印象。迫害。因果。体力が仰山在りそうで、頼りになるってのは良いんだけどね。それでも陰な印象が優ってしまうのは、人間がゴリラに対して何故か勝手に好ましくない印象を定着させ差別している事の証拠である。

 其の他、印象の乱れ、沢山在って。

 「貴方、ライオンみたいに強いのね。」

 「午睡している姿が愛おしいね、猫みたいで。」

 「踊る君はまるで、蝶だね。」

 プラスの印象。

 「君の腕は長くて便利そうだね、テナガザルだね。」

 「仕事であっちこっち飛び回ってるんだって?すごいね、蛾みたいだね。」

 「君は何時も僕の傍に居て呉れるね、亀虫だね。」

 惨烈たる有様。地獄の気分。

 双方、印象の良い事を申し上げているにも関わらず形容に用いる生物によって恰も馬鹿にしたような言い草になったりならなかったり、というのはやはり間違っている、差別である、という俺の訴えは倫理・正義感に基づくものではなくて、実際、全動物印象平等協議組合関東支部長の剛力羅純吉さん通称ごりじゅんより依頼を受けこの随筆原稿を執筆しているのでありごりじゅんとはよくバラタナティヤムを踊る仲っていうかこの俺を全動物印象平等協議組合に勧誘して呉れた一人とかいう虚辞を述べる俺は山羊の様な鼯鼠の様な鼹鼠の様な馴鹿の様な狸の様な狼の様な猫の様なそんな感じがする今日此の頃。もはや、何を言っているのか分か蘭。