大阪神戸間にまだ鉄道が走っていなかった頃、居留地に住む人々は、不自由な暮らしをしていました。彼等にとって日常の必需品:小麦粉、バター、チーズ、コ-ヒー、紅茶などや、ウィスキー、ワインその他のものは、片道半日かけて神戸まで行かないと手に入らなかったのです。
そのことを知った祖父は、食料品や、洋酒、食器などを輸入、販売する仕事をはじめました。
父が生まれた頃には、祖父の新しい仕事もかなり軌道に乗っていたようです。住まいを住吉に移した跡に(敷地の何割かを駅前広場のために提供したものと思います)三階建ての その頃としてはハイカラな店を建ました。
そのことを知った祖父は、食料品や、洋酒、食器などを輸入、販売する仕事をはじめました。
父が生まれた頃には、祖父の新しい仕事もかなり軌道に乗っていたようです。住まいを住吉に移した跡に(敷地の何割かを駅前広場のために提供したものと思います)三階建ての その頃としてはハイカラな店を建ました。
事業家サンだったのですね。。
1日がかりだった事が
数十分、数時間となり、
みなさん大喜びだったでしょうね
ワ~イ
たしかに そうなんですけれど、喜んでくれたのはごく一部の人たちで、大方の日本人にとっては 西洋かぶれの変な奴 だったかもしれません。なにしろ、それから約30年後に、日本が戦争に負けて食料が不足していた頃、アメリカ軍(駐留軍)から提供されたチーズの配給があったのですが、(見た目が)石鹸みたいや・・・とか、「臭くって食べられない」と言う声があちこちで聞かれたんですから。
素晴らしい方ですね。
いつか学問を積んで、おじいさまのような方々を
研究し本にして、広くそのご活躍を知っていただき
歴史におじいさま方の存在を残したいです。
そんな研究をしたいんです。
(突然、すみません)