演劇ユニット体温は年1回のペースで広島でプロデュース公演を続け、その上質な舞台づくりに安心して観られる数少ない演劇集団である。
今回の「彼岸の花火 此岸の花火」は松田正隆の「坂の上の家」をプロデューサーのなかいくみが翻案、広島を舞台に広島弁で上演された。彼岸はあの世のことかなと見当がつくが、此岸というのは調べると私たちの住んでいる世界の事で、欲や煩悩にまみれたこの世のことだという。
両親を水害で亡くし、きょうだい3人でだけで暮す兄二人と妹。一番上の兄の結婚話、予備校に行っている次男の進学問題、しっかり者の妹。最初の頃こそ直子役の吉野智美の台詞遣いにちょっと違和感を感じたものの、「お芝居の世界」には何とか入れたようでしみじみとしたいい舞台であった。
ただ、あまりにちょっと以前の(同じく中井さんがプロデューサーだった)「水曜日の食卓」そっくりの雰囲気の舞台になんだかちょっと戸惑った。
なんと言ってもよかったのはお盆の花火の頃になると実家には寄らずに彼らの元に立ち寄る大阪の叔父、本上善一郎の高尾六平。地元のテレビやラジオでは有名なタレントさんで私も名前とその独特のお声は存じていたが、こんなに芝居のうまい役者さんとは知らなかった。
その商業演劇っぽい達者な演技は、地元のアマチュア演劇では逆立ちしても見られない。こういう人が居ると舞台に厚みが出るのだ。
田舎や親類縁者のしがらみを嫌い、単身大阪に出て何とか生活の目処は立っているもののお盆の時期になると、つい兄弟達のところに足が向いてしまう。実家には立ち寄らず、縁の薄い(亡くなった兄弟達の父親が彼の兄)この3人の家に花火を口実に泊まっていくのだが、そんな人生の背景を生々しく感じさせる年齢の役者は土台アマチュアでは食っていけないのが普通だし。
こういう人を舞台に共演して欲しいと口説き落とせるのもプロデューサーの実力のうちかしらなんて密かに舌を巻きました。
広島を舞台にしたということで、いったいいつの時代でどこの町かしらというのが気になって仕方がなかった。原爆症の疑いがあることを引け目に縁談から身をひく女性というのは何年前くらいだろう。水害の被害というので何となく場所は呉かなと思ったりしたが、呉からは大阪行きの夜行バスは出てないのじゃないかしらなんて。
現在の広島では地元を舞台にした芝居というのは滅多に観ることができない。
舞台で見る広島弁の台詞はなかなかいい雰囲気で。言葉の向こうに暮らしが見える感じがとても素敵である。
田舎の地縁・血縁のしがらみが嫌でそこを飛び出したものの、たった一人で暮す身の寂しさというのは年齢とともに募るのであろう。捨てたものは取り返せはしないのだけれど。
何年か以前、田舎の叔母の家を訪ねた折、突然訪問した私のために従兄弟の嫁さんが湯茶の接待をしてくれた。物静かな人で私にはもちろん初対面だった。それがちょっと申し訳なくて。
田舎の親類を訪ねた時の懐かしいホッとした感じは、この様な縁もゆかりも薄い女性たちの一方的な無償労働に支えられていることが多い。私はそれが嫌であった、世話になるのも、するのも。
よく働き、文句を言わず、決して異を唱えないたくさんの女たち。
それが私にとっての『田舎』であった。
そのことがチクリと心に痛い。
今回の「彼岸の花火 此岸の花火」は松田正隆の「坂の上の家」をプロデューサーのなかいくみが翻案、広島を舞台に広島弁で上演された。彼岸はあの世のことかなと見当がつくが、此岸というのは調べると私たちの住んでいる世界の事で、欲や煩悩にまみれたこの世のことだという。
両親を水害で亡くし、きょうだい3人でだけで暮す兄二人と妹。一番上の兄の結婚話、予備校に行っている次男の進学問題、しっかり者の妹。最初の頃こそ直子役の吉野智美の台詞遣いにちょっと違和感を感じたものの、「お芝居の世界」には何とか入れたようでしみじみとしたいい舞台であった。
ただ、あまりにちょっと以前の(同じく中井さんがプロデューサーだった)「水曜日の食卓」そっくりの雰囲気の舞台になんだかちょっと戸惑った。
なんと言ってもよかったのはお盆の花火の頃になると実家には寄らずに彼らの元に立ち寄る大阪の叔父、本上善一郎の高尾六平。地元のテレビやラジオでは有名なタレントさんで私も名前とその独特のお声は存じていたが、こんなに芝居のうまい役者さんとは知らなかった。
その商業演劇っぽい達者な演技は、地元のアマチュア演劇では逆立ちしても見られない。こういう人が居ると舞台に厚みが出るのだ。
田舎や親類縁者のしがらみを嫌い、単身大阪に出て何とか生活の目処は立っているもののお盆の時期になると、つい兄弟達のところに足が向いてしまう。実家には立ち寄らず、縁の薄い(亡くなった兄弟達の父親が彼の兄)この3人の家に花火を口実に泊まっていくのだが、そんな人生の背景を生々しく感じさせる年齢の役者は土台アマチュアでは食っていけないのが普通だし。
こういう人を舞台に共演して欲しいと口説き落とせるのもプロデューサーの実力のうちかしらなんて密かに舌を巻きました。
広島を舞台にしたということで、いったいいつの時代でどこの町かしらというのが気になって仕方がなかった。原爆症の疑いがあることを引け目に縁談から身をひく女性というのは何年前くらいだろう。水害の被害というので何となく場所は呉かなと思ったりしたが、呉からは大阪行きの夜行バスは出てないのじゃないかしらなんて。
現在の広島では地元を舞台にした芝居というのは滅多に観ることができない。
舞台で見る広島弁の台詞はなかなかいい雰囲気で。言葉の向こうに暮らしが見える感じがとても素敵である。
田舎の地縁・血縁のしがらみが嫌でそこを飛び出したものの、たった一人で暮す身の寂しさというのは年齢とともに募るのであろう。捨てたものは取り返せはしないのだけれど。
何年か以前、田舎の叔母の家を訪ねた折、突然訪問した私のために従兄弟の嫁さんが湯茶の接待をしてくれた。物静かな人で私にはもちろん初対面だった。それがちょっと申し訳なくて。
田舎の親類を訪ねた時の懐かしいホッとした感じは、この様な縁もゆかりも薄い女性たちの一方的な無償労働に支えられていることが多い。私はそれが嫌であった、世話になるのも、するのも。
よく働き、文句を言わず、決して異を唱えないたくさんの女たち。
それが私にとっての『田舎』であった。
そのことがチクリと心に痛い。
でも、確かにどこかで観た芝居だなあ…という気がして。「水曜日の食卓」には深く関わっていらしたのですね。あれもいい舞台でした。「まるち」でも2月4日に記事を載せています。
またおじゃまします。今後ともよろしく!
広島に住んでいても寂しくないなと。
ブログ検索でお芝居好きの広島在住の人と
めぐり会えるのが、楽しみの一つです。
これからもどうぞよろしく。
広島の舞台の観劇ブログを集めて記事にしています。
おけいさんの記事をトラックバックさせていただきました。
もしよろしければのぞいてみてください。
よろしくお願いします。