↑ 劇場ロビーには青年団のこれまでの舞台写真や着想の元になった資料が展示されている。地方からの観客は、次はどの作品の再演の時に上京して来ようかなどと考えながら眺めるのだ。
前売りが完売のため、当日券のキャンセル待ちの人たちで開場間際になると小さな劇場は大変な混雑であった。青年団の役者さんたちが交代で受付や場内整理を務めていて、先輩後輩ということもあるだろうに体育会的な上下関係は見受けられず、其の辺がとても青年団らしいなと思う。
「走りながら眠れ」は、大杉栄(古屋竜太)のパリ帰国から関東大震災の混乱の中で虐殺されるまでの数ヶ月間の伊藤野枝(能島瑞穂)との生活を描いたもの。
稽古を始めてから東北大震災が起こったのだけれど、特に台本に手を入れることはなかったという。ただ観る側の観客の気持ちには、それ以前とは違う変化が起こるだろうと、そのことに思いを馳せながら、作品を仕上げたそうである。
平台の上に縁無しの薄縁畳を敷き、書き物机らしきちゃぶ台と座布団が二枚、それに木の丸イス、茶器を載せたお盆がひとつ。上手は玄関、下手は階段で地下へ、階下は台所になっているらしい。
外出の多い大杉と4番目のこどもが生まれたばかりの野枝の取りとめのない会話がつづき、事件らしきものは何も起こらない。だが、一瞬も目が話せない。なんともドキドキするふたりのやりとり。野枝は辻潤の話をさりげなくするし、大杉は、雷鳥に「女の人に刺されるのはどんな気分です?」なんて訊かれた話をするのだけれど、ジェラシーというようなドロドロした雰囲気にはならない。
大杉が船旅の折の話したときに、「信じない~」と野枝がすねて意地悪をいうと、君が信じてくれないんじゃ「話せないよ」と大杉が駄々をこねる。まるで恋人同士のようだ。
大杉はこどもの遊び相手や、台所の洗い物、赤ん坊のオシメの世話までソツなくこなすし、野枝が育児の合間に翻訳している「ファーブル昆虫記」についての相談にも気軽にのっている。
決して女性に声を荒げることはなくて、上から目線で女にものを言ったりしない男だ。一見軟弱そうに見えるが、特高警察の尾行が付きまとう日々にも屈しなかった骨のある男である。
戦争前の大正時代にこのような生き方をする男がいたのかと慨嘆する。
21世紀の現代でさえ、若い頃は少しはリベラルに見えた男が、40歳にもなると古色蒼然たる「男尊女卑の俺様おとこ」に成り果ててしまうことが多い。
岸田國士の「紙風船」を恋人同士が始めて夫婦になった日と評した人がいたけど、これはまるで永遠に恋人同士の「紙風船」のようだなと私は思った。
パリから帰ったときの大杉は生成りの三つ揃いスーツにトランクという姿、学者や仲間に会いに行くときの絽の羽織の和装といい、和洋ともオシャレに着こなして様子のいい男である。買い物で出かけるくらいでワンピースやスカートの普段着の野枝は、4人のこどもがいるようには見えず、まるでむすめのように若々しい。
宮本研の「ブルーストッキングの女たち」や「美しきものの伝説」で、大杉と野枝の何となくのイメージは合ったのだけれど、今回の芝居で一新した感じ。
野枝という女性のどこに大杉が惹かれたのか、野枝が何故、大杉を射止めたのか目の前で見ていてすごく解る。
ふたりの外出には必ず特高警察の尾行がつき、ふたりはその特高たちとも気安く話したりするらしい。自分たちはやがて殺されて死ぬのだろうが、そのあとに残されたこどもたちを心配する話などさりげない会話の中に、ふたりに忍び寄る死が仄見える。
確実に忍び寄る死の影の中でさえ、あれほど明るく希望に満ちた知的な生活をおくったふたりの姿。観客は、その後のふたりが特高警察による虐殺という非業の死を遂げたことを知っている。
平田オリザが腕によりをかけて創りあげた舞台、大震災のショックの覚めやらぬ私にそれでも希望に満ちた心豊かな生活が送れるはずだとエールを送ってくれた気がする。
前売りが完売のため、当日券のキャンセル待ちの人たちで開場間際になると小さな劇場は大変な混雑であった。青年団の役者さんたちが交代で受付や場内整理を務めていて、先輩後輩ということもあるだろうに体育会的な上下関係は見受けられず、其の辺がとても青年団らしいなと思う。
「走りながら眠れ」は、大杉栄(古屋竜太)のパリ帰国から関東大震災の混乱の中で虐殺されるまでの数ヶ月間の伊藤野枝(能島瑞穂)との生活を描いたもの。
稽古を始めてから東北大震災が起こったのだけれど、特に台本に手を入れることはなかったという。ただ観る側の観客の気持ちには、それ以前とは違う変化が起こるだろうと、そのことに思いを馳せながら、作品を仕上げたそうである。
平台の上に縁無しの薄縁畳を敷き、書き物机らしきちゃぶ台と座布団が二枚、それに木の丸イス、茶器を載せたお盆がひとつ。上手は玄関、下手は階段で地下へ、階下は台所になっているらしい。
外出の多い大杉と4番目のこどもが生まれたばかりの野枝の取りとめのない会話がつづき、事件らしきものは何も起こらない。だが、一瞬も目が話せない。なんともドキドキするふたりのやりとり。野枝は辻潤の話をさりげなくするし、大杉は、雷鳥に「女の人に刺されるのはどんな気分です?」なんて訊かれた話をするのだけれど、ジェラシーというようなドロドロした雰囲気にはならない。
大杉が船旅の折の話したときに、「信じない~」と野枝がすねて意地悪をいうと、君が信じてくれないんじゃ「話せないよ」と大杉が駄々をこねる。まるで恋人同士のようだ。
大杉はこどもの遊び相手や、台所の洗い物、赤ん坊のオシメの世話までソツなくこなすし、野枝が育児の合間に翻訳している「ファーブル昆虫記」についての相談にも気軽にのっている。
決して女性に声を荒げることはなくて、上から目線で女にものを言ったりしない男だ。一見軟弱そうに見えるが、特高警察の尾行が付きまとう日々にも屈しなかった骨のある男である。
戦争前の大正時代にこのような生き方をする男がいたのかと慨嘆する。
21世紀の現代でさえ、若い頃は少しはリベラルに見えた男が、40歳にもなると古色蒼然たる「男尊女卑の俺様おとこ」に成り果ててしまうことが多い。
岸田國士の「紙風船」を恋人同士が始めて夫婦になった日と評した人がいたけど、これはまるで永遠に恋人同士の「紙風船」のようだなと私は思った。
パリから帰ったときの大杉は生成りの三つ揃いスーツにトランクという姿、学者や仲間に会いに行くときの絽の羽織の和装といい、和洋ともオシャレに着こなして様子のいい男である。買い物で出かけるくらいでワンピースやスカートの普段着の野枝は、4人のこどもがいるようには見えず、まるでむすめのように若々しい。
宮本研の「ブルーストッキングの女たち」や「美しきものの伝説」で、大杉と野枝の何となくのイメージは合ったのだけれど、今回の芝居で一新した感じ。
野枝という女性のどこに大杉が惹かれたのか、野枝が何故、大杉を射止めたのか目の前で見ていてすごく解る。
ふたりの外出には必ず特高警察の尾行がつき、ふたりはその特高たちとも気安く話したりするらしい。自分たちはやがて殺されて死ぬのだろうが、そのあとに残されたこどもたちを心配する話などさりげない会話の中に、ふたりに忍び寄る死が仄見える。
確実に忍び寄る死の影の中でさえ、あれほど明るく希望に満ちた知的な生活をおくったふたりの姿。観客は、その後のふたりが特高警察による虐殺という非業の死を遂げたことを知っている。
平田オリザが腕によりをかけて創りあげた舞台、大震災のショックの覚めやらぬ私にそれでも希望に満ちた心豊かな生活が送れるはずだとエールを送ってくれた気がする。