しかしこの病院でも3ヶ月を過ぎると、これ以上のリハビリ治療は望めないと退院もしくは転院を勧めてきた。 ちょうどその頃に母の人工肛門の上流側で、ガンによる腸閉塞をきたし、食事が取れなくなった。 このため退院の話は無くなったが、頭のしっかりしている母は自分の最後を悟ってきたのではと思えました。 ふつうの食事から点滴生活になり、だんだん寝たままとなり体重も激減していってほぼ2ヶ月後に亡くなりました。 やがては自分も迎える死の瞬間、朝、晩しか見舞えない私達がたまたま院長といつもより遅くまで話していると、看護婦さんが母の異常を伝えにきて、それから30分程度で息を引き取っているので、家に帰っていたら立ち会えなかったと思います。 もう十分に話し合ったし、一番元気な頃に遺書も書いていたので、痛み止めの麻酔のかかった状態で最後は大きく息をして亡くなった。 死に対する恐怖感の強い私にも、母の死を見て少しは薄らいだかなと思うこの頃です。
結果的にK病院から4ヶ月後に移ったF病院は、リハビリを主体にしているそうで、病院自体も比較的ゆったりとしていて、共働きで朝晩しか見舞えない我々にとって、有り難いところでした。 人工肛門にも積極的に向き合うようになり、1ヶ月後には自宅や床屋にも行けるようになりました。 この間に院内で何度も病院を出たい、いつ帰れるのか、といって家族に泣きついている患者さんを見かけ、母も本当は帰りたいのであろうと考えることが多々ありました。 しかし実際に自宅療養したばあい、双方に過度な負担がかかると考え私の意志で帰宅を勧めませんでしたし、母も一度として言わないでくれました。 毎日一回のリハビリを受け、院内の食堂に出かけてそこにあるエレクトーンで遊んだり、私としてはこんな日々が永く続いてくれたらと祈ったりしました。
個室に入って2ヶ月も経つと、人工肛門になった母も少しずつ元気を取り戻していった。 医者の見立てでは余命は半年程度とのことで、少しでも快適な毎日が過ごせればと、私は悪役に徹して何回かナースセンターに文句を言いに行きました。3ヶ月目にはもうこれ以上の治療はないと追い出し作戦が始まった。 話には聞いていたが、まだ自分で人工肛門の処置がうまくできない母に向かって、もう家に帰りたくなったでしょうなどと母の不安をつのらせる。 幸い事前に探し回って、よかろうと判断したやはり近くのF病院で個室に入れた。 私達は子供達も独立して、母自身にも年金以外にも収入源があったから比較的恵まれていたが、それでもやはり医は算術と感じてしまう。 自分の終末のころには余力も無くなっているだろうから、つらい思いを味わうこととなるのかなとつくづく感じています。
痔で出血していると近隣の内科医に言われていた母が、あまりにトイレ通いが頻繁になって同じく近くのK総合病院で検査を受けることとしました。 検査結果を聞きに行った母と私ら夫婦に、担当医は母に直接ガンの告知をした。 ちょっと待ってよと云う顔をした私に医者は、自分は直接告知することを主義としていると話する。 79歳の老人にガン宣言をして、本人に何をしろとこの医者は言うのだろうと感じました。 医は仁術なりとはよく聞きますが、家族に事前に相談することもなく一般人には直接ほぼ死の宣言に近いガン告知をする権限が医者にあるのかと強い疑念を感じました。 案の定、母は手術を嫌い2ヶ月間元の不自由な生活に戻り、直腸がほぼ閉塞状態になってやむを得ずK病院で手術を受けました。この手術の2年前にケガで同医院に入院したことのある母には、比較的なじみがあったことと、なにより私どもにとって行きやすいのがメリットでこの病院での手術を決定しました。
4人部屋の隣ベットは母とほぼ同年の女性患者さんで、母の一日前に同様の手術をしたのに従順に治療を受けているという。 母は尿漏れするとすぐに夜中でもナースコールを押す、夜中は看護人も少なく、騒ぐのでベッドに縛りつけたのだとの説明であった。 それが個室の階に入れば、看護人の担当患者の数も少ないので、母の希望を満足できるといわれました。 母が個室に入って一週間位後に、本来は母より早く予約されていたという隣のベットの方も個室に入られたのでほっとしました。 しかしその患者さんはその後一週間もしないで亡くなられ、へそ曲がりの私には、様態が悪くなったので急に個室に移したのか、穏和な家族の皆さんを知っていた私には、患者のためには家族は病院でおとなしくしていてはだめだとつくづく思いました。