この歳になる迄に、器用な人間とそうでない人、その違いを如実に悟らされることが多い。 そしてそれが顕著に出てくるのが、長男、長女においてではないか。 両親などから構われ過ぎて育った場合の彼らは、バカ殿様ではないが、「良きに計らえ」的に成長し、極端な話しが箸をも家族が扱ってくる様な育ち方もあるだろう。 一方で多産系の家では、長男、長女はこき使われたり、下から突き上げられたりして、おっとりと育つことも出来まい。 8人兄妹だった父とは異なり、2人兄弟の私らは、ややバカ殿的に育った気もする。 長女だった母も家庭の事情で好き放題な育ち方をしたから、これこそ正にバカ姫そのものだ。 確か小学校3年生の頃か、給食制度が出来る寸前の時に、引っ越して来て直ぐに仲良くなったOが、海苔の下に鰹節を弁当箱一面にまぶしたものを食べだした。 「美味そうだな」「俺のタラコと交換しようよ」と、我が弁当の定番になっているものを分けて交換したのだ。 O君のお母さんは小学校の先生だったから、眼鏡を掛けたやさしいお母さんと同じ弁当だったのだろう。 一口食べて「美味い!」と感動した私は、家に帰って母に、「タラコは飽きたから、鰹節をまぶして海苔を載せた弁当にしてよ」と頼んだのだ。 翌日アルミ箱の蓋を開けると、黒々とした海苔が一面に敷かれている。 箸で思いっ切り引き上げて海苔付きご飯を頬張ると、昨日Oから貰ったものと全然違う。 海苔をめくってよくよく見ると、一面に花鰹がまぶしてある。 料理下手のバカ姫さんと母をよく認識していた積もりだったが、小3の我が身でも分かるようなことをと、愕然とした思い出がある。 勿論この時はOに向かって、「やっぱり鰹節弁当は美味いな」と答えて、無理矢理喉に押し込んだのだ。
雨が少しパラつく午後に、神田明神の方から妻恋坂に向かってゆったりした下り坂の歩道を歩いていると、向こうの方から綺麗な女性が歩いてくる。 年取って感じるのだが、かつて若い子をじろじろと眺める先輩達の視線を横目で見て、ちょっと、一緒に居るのは嫌だよ、と感じることが結構あった。 ところが、今度は自分がそんな先輩達と同じような年になると、はっと彼らと同じ行動を取っている自分に気が付く。 今日は、前方から来る女性が遠目に、私にはミロのヴィーナスのような表情にも見え、はっとして近づくまで何回か、それこそジロジロ観てしまった。 10mを切る近さになって彼女の表情がはっきりすると、彼女の黒目がすっと横に移動して、まだ見ているの、と表情は変えずとも読みとれる変化をした。 これも感じることだが、頭が惚けたからそうなのか、昔よく言われた、木は余り見なくなって、森全体を見るように、というよりも、森しか見なくなった。 だが、これによって個人を見た時に、昔よりその人が今何を考えているか、内心を読めるようになった気がするのは私だけだろうか。 さらには知らない人の、氏、育ちも少し分かるかな、という気もする。 水天宮下の交差点近くにある寿司屋のウインドウの前で、ここで良いですか、と女性に聞いている。 ほぼ同年で40歳程の女性が、ええ、と返事している横を通り掛かって、二人の全てのリレーションが読みとれた気がしたのは異常だろうか。 広小路側に出れば気さくそうな店が幾らでもあるのに、ウィンドウの中の2100円の上寿司サンプルを眺めていた二人には、味はどうでも良いのかも知れない。 近所の会社員も、この金額で時々でも昼飯を食べているとは考えにくいので、寿司屋の親父の昼のターゲットは別にあるのか。 しかし寿司屋さん程、大変な職人店はないのではないか、と他人事ながら非常に気の毒に思うことがある。 かつて北海道の食品会社課長を東京で寿司屋のカウンター席に接待して、そちらに伺った時に社長さんから地元の美味しい寿司をご馳走になりました、と話題を振ったら、カウンター席では職人さんの機嫌を損なう話はしない方が良いよ、とこっそり注意された。 そうだよな、かつては馬鹿にされないようにするには、どんな順番で頼んだら良いと諭す先輩もいたな。
父は、人の悪口を絶対に言うな、と私達を育てて来たので表向き母方の爺様を恨むじゃないが、思春期にはちりぢり考えた。 鼻筋は何とか通って頬をすぼめ、随意筋の目と口で表情を作ると、私も若干マックイーンに似てくる。 部屋で表情を作って高校に通い、みんなと喋り出すと表情が崩れ出すのが分かる。 慌てて元に戻そうとすると、鏡がないので直ったかどうか分からない。 姿の映るガラス窓にそっと近づいたり、マックイーン似は辛い。 家に戻って母に笑顔で、お帰りなさい、と言われると恨むことも出来ない。 弟は何となく私よりみんなに可愛がられている様に思え、私は更に内面よりも外面の改革に努めた。 必然的にマックイーン似を保とうとすると、表情を変えないようにするしかない。 電車の中で友人に会えば、おう、と言ってぺちゃぺちゃ喋っていたのが単行本を読むことで寡黙になって表情を変えないようにした。 学校の休み時間も机で本を読んでいるか、仲間の話の聞き役に廻るようにした。 これだと表情が崩れない。 幸い3年間クラスを担当されたN先生は江戸川乱歩賞の第一回受賞者で、先生は授業中に乱歩の新作や川端康成の踊り子などを読んで下さったりして、クラス内では小説ばやりだったので私の行動もさして可笑しくなかったろうと思った。 中学校時代から頭に良く、安い食事として毎朝続けていたきな粉丼を高校2年生で辞めたせいか、頬をすぼめなくてもやや痩せてきた。 鼻の穴も1年以上続けていると広がった状態が普通となるので不思議なものだ。 しかし睡眠中はきっと元の状態になっているのだろうから、学校で居眠りも出来ない。 バスケット部のクラスメートと比べると座高がこれまた母譲りのモンゴル系で、これの改造も計画した。 中学校の時に父が高鉄棒を設けてくれたので、膝で逆さにぶら下がって脚を伸ばす訓練をした。 その結果1cm脚が伸びた。 人体改造であるが、大事な思春期に私は何をしていたのだろうと今にして思う。
母が私を叱って興奮すると鼻の穴が広がり、結果としてその上の鼻筋が通ってくることを見つけていたので、これをどう生かすかが思春期に入った高校1年生の私の課題であった。 鼻の穴を大きくするには、鼻筋の奥の筋肉を少し奥に引く、別の言い方をすると前歯の奥の筋肉を引っ張るとできることが分かってきた。 鏡に向かってこれを何度も繰り返し、何とか鼻筋を通す随意筋の開拓に成功させた。 しかし時々鼻筋が通るだけでは仕方がないので、これをどう持続させるか、もともと鼻筋の通っていない者が無料で無害な整形を確立しようとするのだから、定期試験以上に大変だ。 父母の写真を眺め、自分の骨格との違いを検討した。 幼い頃に正面を踏みつけられたようにフラットな顔と細い目、がっちりした鼻と顎などを持つ母方の祖父は、世界史で見たチンギスハーンによく似ていて、間違いなくモンゴル系の顔立ちだ。 母は70%近くその祖父の顔立ちを受け継いでいた。 その母のルックスの40%程度が私に、20%程度が弟にDNAとしてバトンタッチしたようだ。 一方父の方は、父方の祖父母の肖像画を田舎の仏壇の間で見ても、どうしてこれだけの美男子が出たかと思わせるほどいい男だ。 男、男、女、男、女、女、男、女の順番の8人兄弟で父は三男だが、長女と父が一番ルックスが良かった。 下に行くと中国系の顔になるが、上は南方系で、男は全て天然パーマで私にも受け継がれている。 南方系の顔立ちが濃い長男、次男に比べ、長女と父は顔立ちも丁度程良く、壮年期で軍人姿の父の写真は、ユル・ブリンナーやスティブ・マックイーンと云うと褒めすぎだが、近い顔立ちをしていた。 ルックス的には私の顔立ちの中から、鼻筋だけでなく母の持つモンゴル系を消さなければならないと認識した。 でも頭蓋骨そのものは変えられない。
昔、旧暦と新暦があることを知って、わー、日本という国はなんて良い国なのだろうと思いました。 だって、東京で正月を楽しんで、更に上京してくる叔父達からお年玉を貰え、旧暦で父の里に挨拶に行って、やさしい叔母(お年玉をくれるから)がそっと紙包みをくれる。 即物的な私は、小遣いをくれる親戚の人は大好きだった。 しかし、小学生も高学年になると、里の父の兄弟も嫁に行った先の事情など、人をお年玉だけで評価してはいけないことも分かってきました。 かつて父の里に行くには、土浦まで常磐線にゆられ、土浦駅からは西端にそっとあった筑波鉄道と云うローカル単線に乗り換えていました。 ゆっくり走るジィーゼル車ですから日帰りは無理で、二番目の叔父の家が駅前の小さな旅館を買い取った造りだったので、いつもその家で一泊し、更に母の父方の実家がある、真壁まで行ってから東京に帰っていました。 したがって、常磐線の帰りはいつも遅く、同様に里帰りした人達にもまれ、窓辺に立たされた私は、真っ暗になった外を見ていると、お月様が私達の列車をずーっと追いかけてくる。 私は、お月様にじーっと見られているような気がして、何だか寂しくなったのを記憶しています。