家をリフォームするには、年次計画が必要となる。 我が家では2階の電動シャッター化を終えて使い勝手が良かったら、来期には1階にも適用しようと考えている。 そしてやがてリタイアしたら、長期で留守にすることもあるだろうから、その時に電動シャッターが役立つと思っている。 何故ならシャツターには、タイマー機能が付いているそうだ。 朝になる。 2階のシャッターから次々に開きだし、やがて1階のシャッターも順次開く。 電話も国際化の時代だから、留守中にコールが入っても、外国から「はい、どちらさんですか?」と出られるであろう。 更には一部の照明にもタイマーを付ければ、外から見たら留守とは思えまい。 その上で、人感センサーとブザーをコネクトさせれば、「ホーム・アローン」も必要ない。 毎月支払うセキュリティ費用に比べれば、設備投資ははるかに安い。 よしよし「セコムしてますか?」は必要ないなと、DIY店を散策しているとアイデアが出てくる。 今私が真剣に考えているのは、セキュリティと耐震化である。 地震時に揺れが来て、家がガタピシと音を立てる。 家具は天井からの支え棒で一応固定されているが、天井板など薄くてすぐに変形してしまう。 そうなれば家具は暴れ出す。 だからキッチンをシステム化して改修した際には、引き出しや戸棚からものが飛び出さない仕様にしてある。 今回の2階の改修では、妻の嫁入りタンス類は産廃処分してポイしたいのだが、寝首を掻かれる心配があるから、子供部屋だった一部屋を家具室として、天井にベニア板を重ねて地震時の変形を防ぐ算段だ。 また現状は観音開き式の押入や収納庫などを、折り畳み式に改修する計画としているが、他に抜けはないかと頭蓋骨を激しく振ってやると、ガタガタと脳内が活性化されるのかイメージ上で家具などが動き出すから、これで予知予防できる。 家の内部の被害を最小限に出来たとして、次に目を向けるのは外装である。 築35年の我が家は、モルタル仕上げの内側に、これを固定する金網と防水紙、更にトタン板と木下地から成り立っている。 地震時には柱部などは今回補強しているからほとんど動かないと云っても、ある程度外壁が変形することは避けられまい。 そこで今補強しているのが、トタン板を木下地に所々釘で固定している現状に対し、それらを一体化させる為に金属・コンクリート用ボンドを塗り込んでいる。 ヘラを差し込んでみるとトタンと木の間に、数㎜の隙間があることが分かる。 そこに丁寧にボンドを詰め込むのだ。 これで外装の一体化をかなり図れる筈なので、「爺さんが夜なべをして、隙間を塗り込んでくれたー♯」と励んでいるのだ。。 昨晩は疲れ果てた真夜中に、妻の寝顔の皺が作り出す隙間にも、ボンドを塗り込まにゃいかんなとヘラを動かそうとする夢を見て、ガバッと飛び起きてしまった。 こんな話し、聞いたら間違いなく寝首を掻かれるに決まっているから、今度は「寝首対策してますか?」と云うセキュリティが必要な様だ。
トマトの家庭菜園を思い付いたのは、先日妻がゴルフ場の売店で、朝摘みの完熟トマトを買ったので八百屋で買ったものと食べ比べると、「こりゃ、全然味が違うぞ」と、感動したことが切っ掛けだ。 単細胞でにわかファーマーな私は、「苗木までに育っていれば、実を付けるのもさして難しいことではあるまい」と考えたのだが、インターネットで情報を得てみると、トマトは野菜作りの中で難しいひとつだと云う。 日照、病害虫問題では梅を惨敗させたインチキ・ファーマーが、果たして完熟トマトを育て上げられるのか、読んでいて自信が無くなってきた。 例年になく天候不順な今年は、日当たりの悪い庭にある梅の実が、まったく成らなかった現実がある。 梅の木の下で、毎夕のようにバケツを持って縮れた葉に向かい、「元気に実を成らせましょう」と、欲張り爺さんよろしく石灰を撒いて努力したのだが、「梅成らず爺さん」のイエローカードを、妻から突きつけられているのだ。 無知な私は、トマトはサッカーで云うならオランダ同様の強敵であることや、我がチーム(庭)最大の欠点である、日当たりが悪ければ育たない野菜だと云うことなど、まったく知らなかったのだ。 しかしこういう時に、戦乱期や終戦直後の食糧事情の悪い時に、当時の人は必死になって猫の額程の土地から食糧を得て家族に食べさせようと、悪戦苦闘した筈だと考えるのだ。 それと同時に死んだ母の、「お前は幼い頃から飽きっぽかったから」と云う言葉が、今でも胸を突いてくるのだ。 こうなりゃ、日当たりの悪い我がアウェー(庭)でも、強豪トマトを見事完熟させてみせてやるぞと、心に誓うことになる。 しかし隣のプランタンの苗木は、一緒に何を買ったのだっけ? 惚けた頭ではなかなか思い出せない。 そうだ、ナスだ! 何? ナスもトマトに劣らず、野菜作りに関してはスペイン並みの強豪だって? すると最初のプランタン実習で、強豪2種を選でしまったのだ。 惚けナス!
私にとって三越がトラウマになった原因は、小学生の3年の時に遡る様だ 戦後、祖父の家から自立した父母が、何とか食べられるようになって家族で初めて、女性が好きな三越で買い物をしたいと、水戸街道(今の国道6号)を揺られて三越前に着くと、私はバスにすっかり酔ってしまっていて、三越の反対側の歩道でしゃがんでしまったのだ。 すると山本海苔の店員さんが、「どうかされましたか?」と駆け寄ってきてくれ、父母が事情を話すと、「どうぞ、どうぞ」と言って、当時こんな立派な応接室など見たこともなかった私達を、引き入れてくれたのだ。 私はもしかすると吐くかも知れないと思ったので、このことを母に話すと、店長と思しき人が、「どうぞ、気にせず休んで下さい」と笑って答えてくれたのだ。 ソファーは真っ白で、シミひとつ無いのにだ。 30分程休ませてもらう間に、お茶を頂いたりして、私はすっかり元気になることが出来た。 だから私はやがて稼ぐ様になってから、海苔を贈る時は「山本海苔」と決め込んでいるのだ。 しかし一方で、父母が戦後浦安で、ヤミの塩製造工場を営んでいた時代に、「留守番をして、赤ん坊の貴方の面倒を見て背負ってくれたりしたのは、近所に住んでいた白子海苔の社長の娘さん達なのよ」と、幼い頃から母に聞かされて育ったのだ。 だから、贈り物は「山本海苔」、そして自宅用は、「白子海苔」と定めていたのだが、これが災いしたのか、橋本氏病には海苔や海草類の食べ過ぎは良くないと云うのだ。 義理と人情を最も大切にして生きてきた私にとって、これ程辛いことは無い。 そしてこのことを、ゴルフでよく一緒する日本橋の鰻屋「伊勢定」の、白髪の三代目おやじさんに話したら、「おうおう、良い話しを聞いたね」「私らも常にその様な気持ちを持たなければいけないのだが、今の若い者達は苦労を知らないから」と、二人してゴルフ場のティーグランドで、泣いて抱き合ったこともあるのだ。
最近は都市部では、同居世帯がほとんど見られない。 そしてそれは我が家でも同様だ。 ひとつには家の広さに問題もあると思うが、もうひとつにはやはり嫁姑の問題だろう。 かつてサラリーマンとして入社した時に親しかったH君の結婚式の司会を、昨年亡くなったI君がした。 千葉大で同期生だったH君と奥さんは、しばらくは社宅に入っていたが、長男夫婦が姑と仲が悪いと飛び出したために、次男のH君夫妻が代わりに同居し始めた。 I君と私は何回かそのお姑さんにお会いしたが、しっかりし過ぎのきらいはあったが、このお婆さんなら孫達もきっと良い子に育つだろうと思われたのだ。 しかしI君達も同居の家を飛び出した。 それを見ていたI君と私は、嫁姑問題は深刻だな、としみじみ感じたものだった。 我々二人は長男で、男子の本懐でござる、と同居を当然と考えていたからだ。 だからI君に私が勧めた彼女は見事同居をしぬいた、ござる嫁だった。 しかるに私の妻はH君の奥さんと同様大卒だから、ノットござる嫁の傾向が強かったのだ。 嫁姑問題が我が家で起きる度に、問題になるのは赤い糸の太さなのだと感じた。 それと嫁に同調しがちな実の母に対して、実の父の態度が大きなウエイトを占める。 その父が、お前さんの帰るところはこの家には無いのだよ、と諭されて居れば、ドメステック・バイオレンスでもされなければ、まさに山海に家無しだ。 それが最近では、父親まで母親化してしまっていて、ござる嫁は絶滅の危機に陥っているのだ。 しかし超高齢化が益々進むと、家督制を復活させて面倒を見た子供だけが遺産を受ける制度に変えないと、赤い糸が細くなった今日では、親を守る子供など当に絶滅するだろう。
隣のYサンの娘さんは、確か私より3歳上だったと思う。 元々お母さん同様に痩せてはいたが、最近、91歳になった母は、ろくに食事も取ってくれず、話しもほとんどしたがらないからまだらボケになっているの、と家で介護する話を聞くと、心なしか疲れ切った感じがする。 隣のおばさんは戦争未亡人だったが、この地に移り住んでから兄妹二人を高校まで行かせたが、苦労の顔をひとつとして見せなかった。 しかし夜遅くまで内職のミシンを踏む音が聞こえてくると、テレビを付けて談笑していた我が家では、音を下げたりして隣に思いを馳せたりしたものだ。 そのおばさんにデイ・ケアーの車に乗り込む時に何度か歩道で会ったが、昔のようなやさしい笑顔は向けて貰えない。 昨晩は中国戦の野球を途中まで、そして9時からのニュースも途中まで見た後BSにチャンネルを回すと、青年時代に誤って浅瀬に飛び込んで首の骨を折り、50歳近くになってであろうか自身の尊厳死を求めて裁判を起こしている、寝た切り男性の話しに目が留まった。 私もやがて同様の環境になる可能性が近づいて来るのだが、やるべき勤めもなくただ家族や社会の重荷として長らえて生きていると自覚した時、人はその状況を神の処置として安心して身を任せられるだろうか。 特に隣のおばさんの様にプライドの高い人が、果たしてそれで日々を平穏に暮らせているかと考えると、余程裕福で様々な手段で介護の分担も出来る家庭でないと、どこかに無理が出てくるのは必定だと隣の話しとテレビのストーリーがだぶって感じられる。 しかも今は大恐慌の真っ直中なのだ。 冬の夜に 凛とミシンを 踏みたりし 隣の母も 今は介護か