高校時代、3年間ずっと我らのクラスを担当されたN先生は、江戸川乱歩賞を最初に取られた方だそうで、当時流行った推理小説や文学誌をよく担当の国語や古典の時間に購読して下さり、こわい先生でしたがとても魅力的な方でした。 その先生が口癖のように仰っていたのが、歯舞、積丹、国後は日本の領土ではないか、君たちが取り戻さないでどうする、ということでした。 このことを最近よく思い出し、自分ももう4,5年すれば完全な濡れ落ち葉となってしまう、NPO法人を立ち上げて同胞を募り、老人1000勇士もしくは尊皇攘夷義歯として、北方領土や尖閣諸島に肉弾突撃して、華々しく散ってもよいのではと時々考えます。 今は65歳を過ぎても若者に負けずに元気な上、安保闘争で火炎瓶などの武器を作れる経験者も大勢いるし、死んだら靖国神社に祀ってもらえるように小泉純一郎氏を隊長にしたらよいかなと思います。 ただし氏の場合は、世論が喜ばないとやーめたとなりかねない心配な面もあります。
幕末には志士たちが国のため、藩のためと若い命を投げ出した時期があったし、その後の大東亜戦争までの間にも大勢の軍人達が、天皇陛下万歳と死をとしている。しかしこの人達の死に臨む時の気持ちは、キリスト教徒やイスラム教徒と同様であったのでしょうか。 日本人の信仰にも極楽浄土、来世といった言葉を聞きますが、私などは79歳の母に、あわてて親父のもとに行っても相手は47歳のままだから、知らんぷりされるのがおちだよと話し、特定の信仰心を持たない一般人はこんなものかなと、今でも考えています。 では死をとせるようにすればよいかというと、これは司馬遼太郎氏の表現を借りれば狂気を持たねばならないようで、凡人には、現段階では家族以外にはこれなら命をとしてもいいなと思えることはありません。 病人の方達からは、なにぜいたくいってるのとお叱りを受けそうですが、この歳になると何か自分で納得できることに命をとしたいと、ただし渡辺淳一的死に方はまだ寂しく感じられるので、これではないななどとまさに凡々人です。
感動というと、まえに駅で転落した人を救おうとして2名の方が亡くなったニュースに大変びっくりしました。 アメリカなどからは、度々自分の命を省みず行動を起こし、美談としてニュースが伝わってくることがありましたが、かの地にはキリスト教と騎士道の精神があってのことで、日本人の頭は農耕民族的で、おのれの家族のためには一命をもなげうっても、見知らぬ人には瞬間的に動けないと思っていたのに、今の人達は違うようだ。 戦後のこのような変化を、私は勝手に日本人が肉類の摂取割合が急速に増えたことに関係していると解釈しています。 私などは、キリスト教のような懺悔をすることもなく、終わってしまったことをまあいいか、とすぐに忘れてしまいます。 かつてボーリング場が雨後の竹の子のように増えたり、バブル期には誰も彼もがお金を使いまくったり、私を含め個性がなかった。 今でも、そう言ってしまうと被害者の方達には気の毒だが、俺々詐欺など、なんで簡単にそんな手口に引っ掛かるのかと普通だと考えるのだが、これもおのれの家族のためなら命も捨てようとしているのだから、滅多に連絡のない家族から連絡を受けたお年寄りの心理を利用したものであろう。 へたをすると子供や孫が事件に巻き込まれる、金で解決できるならと、とっさに判断されるお年寄りを攻められない。 これはまだ残っている日本人の良い意味での死生観だと、私は解釈しています。 勿論、だから積極的に引っ掛かるべきだというのではなく、名前を利用された人達のことを考えても、絶対に引っ掛かるべきではない。
私の死の観念は、この世とあの世の間に目に見えない薄い膜があって、老若男女すべての人がこの膜に向かうコンベアに乗せられている。 その膜まで、近距離にいる人達を見比べられるとすると、まさに寿命と思われるご老体や若くして病魔に犯された人達、中には突然交通事故や犯罪に巻き込まれて膜前に現れる人達もいるのだろう。 粛々と近づいてくる人や、私のように未練たらしい人もいるでしょう。 私自身は、町中でマヒした足を引きずるようにして一生懸命歩いているご老人や、元気に駆け回っている子供達の明るい声に励まれて、これじゃいかんと日々叱咤している状態です。 先日のNHKのど自慢チャンピオン大会で、工業高校の生徒会長の若人が、自分は育った岩国が大好きだ、地元の企業に勤め元気を与えていきたいというような主旨を胸を張って述べているのにも、非常に感動しました。 そんな感動や元気づけを自分の後押しとして、毎日を過ごしていきたいと思います。
私は、小さい頃から死に対して異常なほど恐怖感を持っていたように思います。 例えば夜中、目を覚まして自分の死を考え、死によって自分の思考はその途端に停止するのだと思うと居てもたってもいられなくなって、布団から跳ね起きたりします。 これは59歳の今でもあまり変わらないので、心理的、精神的、宗教的いづれの面でも成長がないように感じられます。 若くして亡くなった何人かの友人、それもなんであんな好い奴らが、と思ったことがずいぶんありました。 幼い子供達を残してあの世に行かざるを得ない親のやり切れない気持ち、死は決して公平ではなく、無意味に自殺する人たちの生命を神の力でそのような人達にシフトすることができないのかと考えます。 しかし医学的にそんなことがもし可能になったとすると、神と人間のエゴの誤差が不公平さを呼び、人類は決して幸福にはなれないのでしょう。