体罰がよいか、じゅうぶん説明して分からせるべきか、はたまた褒めるべきか、子供達や後輩への接し方には今でも悩みます。 小学校3年生の時、どの学期であつたかは覚えていないが、級長に指名されました。 しかしこの時担任されたM先生は、男の方でしたが、依怙贔屓がひどい方でした。 私は完全ににらまれて、授業開始のベルが鳴ったのにクラスの生徒が席に着いていなかったと云っては級長の私を後ろの黒板の前に立たせ、口答えしたと云っては原爆だ、水爆だと私ら男子生徒の頭に拳骨を振る舞った。 私は、女子の級長(副級長と云ったかな)や、他の級長の時は責任を取らせないようなことも、なぜ私には厳しいのかとM先生を恨んだ。 しかし今思い返してみると、あの先生は反面教師としてすばらしい人だったと思う。 子供達を叱った時や、後輩達を指導する時にも極力不公平にならないように常に考えています。 これはM先生から戴いた財産だと思っています。 これからも、理不尽な思いを自分が味わうことがあるだろうし、また人へ掛けることもあり得ると思う。 でも自分の経験から、反面教師でもよいから、自分の意思をしっかりと相手に伝えるべきだと思います。 お友達感覚の親子や上下関係もよいでしょうが、やはり伝えるべきことは相手にしっかりと伝えようとする、姿勢、熱意も必要ではないかと思います。 しかし私に理不尽なことがこの歳になって降りかかると、租借するのに50年近く掛かってしまうので、今からだと降りかけた人に恨みを抱いたままあの世に行くことになってしまうので、まあ無いことを望みましょう。
幸い私ども家族に関しては、今のところトラブルに巻き込まれずにすんでいるが、テレビなどでは悲惨な事件が続いている。 幼い子供達が殺されたり、事件を聞いていても許されないと思う。 私の家族がトラブルにあったら、しかもその加害者が10年前後で刑期を終えて出てくる、しかし自分の家族はもう戻らない、そんな想定をしたら、絶対に許せないという憤りを感じるはずだ。 親友に判事がいるが、酔うと私はよく言う。 裁判官制度の見直しに、素人裁判長制度を作れ。 そしたら私が無垢な子供達に危害を加えた犯罪者達をすべて、市中引き回しの上、斬首、獄門さらし首にすると。 10年程度の刑期だから、後から後から同様の事件が起きるのだ。 さらし首になるとなったら、ちょっとした出来心での行動も、それこそ首を洗う覚悟が必要となったら激減するだろう。 被害者の家族はそんな思いで、その痛みはいかんとも表現のできないものであろう。 一方で加害者の家族となってしまった方達も被害者だろうな。 とにかく幼子や弱者が被害に遭わないように、我々ももっと社会に関心を持たなくてはいけないと思う。
肉体の痛みは、ある意味において私を強くしてくれた要素もあったような気がします。 しかし心の痛みは、時間的軽減はあるにしても、かなりのことがいつまでもそのまま残っている感じがします。 私の心の痛みの内、一番大きいのは父の死に際して自分の取った処置です。 私の20歳直前の夏の朝6時頃、突然母が私の部屋に来て、お父さんがおかしい見にきてくれ、とたたき起こされ、父達夫妻の部屋にすっ飛んで行きました。 その時父は呼吸が荒く、大変苦しそうにしているので、この様子から私はすぐに父を上向きのままにして、少し知っていた胸部を押さえつける人工呼吸で父の呼吸を手助けしょうとしました。 救急車の人達が来て、酸素呼吸をしてくれるまで約15分程、繰り返し胸部マッサージを続けていました。 その後主治医も駆けつけましたが、それから10分も経たない内に完全に脈も停止しました。 主治医の判断は、死因は心臓マヒとのことでした。 火葬場で父の頭蓋骨に黒い部分があったのを係の人が見つけ、脳溢血でお亡くなりだったのですね、と云われ文字通り頭をガーンと殴られた気がしました。 そう言えば、父は時々眼底出血を起こしたりしていたのに、なぜあの時もう少し冷静に、別の観点からの対応をも考えなかったのだろうかと、これは何度も繰り返し自問したことです。 一方で主治医ですら間違えたのだから、もうこれ以上自分を責めるな、との思いもありました。 しかし最近になって思い返すと、親父と同郷の茨城県人の、実直でいつも穏やかそのものの、クリっとした目のあのK医師と自分がほぼ同じ歳になってはじめて、K医師はその時死因を脳溢血と知っていたのではないかと思うようになってきました。 私のとった素人判断に対し、後で苦しめさせないようにと、死因を曲げて宣言したのではと思うようになったのです。 だとすると、父の死後以降、ヤブ医者めと思ってK医師から離れていった私は、なんと馬鹿者だったのかと、2重の馬鹿さ加減にウジウジしたりしています。
次に経験した継続的な肉体の苦痛は痔です。 社会人になり、若さもあって不規則な生活や、残業、残業を繰り返している内に、外痔がひどいものとなりました。この間に約8年、ほとんどほったらかしで、でもトイレに行った後はイボ痔による充血ですぐにも座ることもできない。 おおよそ拳の1/3程度の大きさですから、紹介されて青山の痔専門の治療院で診てもらったら先生から、貴方のは横綱級だ、よくここまで我慢できたものだ、とお褒め?の言葉を頂いたほどの成長ぶりでした。 8年間、幸い工場勤務だったので昼夜大きな浴場が使え、よほどひどい時はトイレに行った後風呂に入り、30分程度横になって腫れの引くのを待ったりしていました。 しかし30歳で本社に転勤になり、横になる逃げ場もなくなって会社に事情を話して、前述のように治療を受けました。 そこの治療法は、外痔でゆるんだ肛門の周辺の皮膚を何カ所かで紐で縛り付けて薬剤を塗り、私の場合は一週間入院し、途中で締め上げた紐の周りの皮膚が薬剤で腐って、紐が落ちるとほぼ治療終了ということでした。 この一週間の排便も結構痛くて、つらかったのを覚えています。 保険の利かない治療法でしたが、紹介者同様私も以来痔の苦しみからは解放されました。 ちょっと人に言いにくい部分の病気ですが、私ほどでなくても、毎日の生活に若干でも差し障りがあるようであれば、恥ずかしがることなく早く治療することをお勧めします。
痛みにも種類があるが、小学校入学する前はかなり虚弱体質だったのか、しょっちゅう腕が抜けて、ぎゃあぎゃあ泣きながら夜でも親に背負われて医者に駆け込んだのを覚えています。 小学校に上がると今度は、ふくらはぎが突然痛くなるこむら返りの一種であろうか、これに悩まされ、これは高校を卒業する頃まで続きました。 月に2回ぐらいぐぐーっと急にふくらはぎの筋肉が硬直してきます。 これは経験された方でないとわからないと思いますが、とにかく痛い、本当に痛い。 経験で30分から1時間で治まることがわかっているからなんとか耐えられるが、私の場合歩くことも、まして寝ることなどできない。 なぜ私がこんな思いをしなくてはいけないのかと、ずいぶん悩みました。 ただ小さい頃から感じたことは、私よりもっともっと痛いつらい思いをしている人達がいるのに、自分はこの程度の痛みで泣き言を言うのかということでした。 昼夜の境なく襲ってくる痛みが始まると、手拭いでふくらはぎをぎっちりと締め上げ、神経を麻痺させます。 痛み止めを飲んでも間に合わず、私はこの方法だけで顔をゆがめながらも切り抜けてきました。 成人後ずーと、もうこの痛みから解放され、ほっとしていたら、なんと今度は老化による筋肉の縮小によってか、ときどき昔の痛みがでてきました。 しかし昔と違って痛みの程度が、かつての30%程度でしょうか。 他の人達も老化は同じだろうに、私だけが成長期と同様に痛むようになる、体の不思議さと同時に他の人と違う私のふくらはぎにちょっぴり愛着を感じます。