F君とはその後会うことがありませんでしたが、10年程前の同窓会に彼が出てくるから来ないか、と友人に勧められ会いに行きました。 彼は少年院に入ったためにまともに中学も卒業していない、毎日が夢中だったので当時のことはほとんど覚えていない、と言ってましたがまさにその通りだったろうと思いました。 大半の大人達が、自分や家族の生活を守ることで精一杯の時代だった。 しかしF君は、暴力団を辞め駅前にレストランを開いているという。 何度か食事にいったが、彼の奥さんはとびきり綺麗だし、息子さんはお医者さんになっていると聞かされ、中学生の時の私の眼力は正しかったと、心から喜びました。 F君はその後レストランを引き払ったが、また元気にやっていることと思い、私も負けずに頑張っているつもりです。 今や問題も、一部では人権が利権化し、在韓問題も韓流や拉致問題で揺れている昨今。 私のような鈍感な人間には、途方に暮れるような毎日だが、残された人生を幼い頃の気持ちを失わず、できるだけまっすぐ生きていきたいと思っています。 でもある市で暴力団組長をやっているという幼馴染みのD君も、元気な内にリタイヤして同期会にでも出てきて、昔話でもできたら面白いだろうなと思う。
中学に入ると気分が変わるかと思いましたが、越境者も多いという近くの中学の先生方は、私には小学校の先生のように体を張っていないし、慢性的に仕事をこなしているだけとしか見えませんでした。 2年生の後半に、兄貴が最近活躍している暴力団員だというF君が、私らのクラスに来て、私があちこちで彼の子分達を殴っていると、喧嘩を売ってきた。 彼が在日韓国人の息子であることは、噂で知っていた。 私は日頃高鉄棒で鍛えていたので、喧嘩には負けないと思ったが、乗らずに手を出さなかった。 彼は、私の顔を一発殴ってきた。 除けない私を見て、鼻血を拭くようにと自分このハンケチをくれた。 そのハンケチを後でよく見ると、ハンケチはきれいにアイロンが掛けられていて、それを彼に渡すときの母親の顔を目の前で見ているような気がしました。 その後私は、このことを時々思い出し、自分の家族を泣かせることを止めようと決意しました。 彼とは、3年生の初めに喧嘩の立ち会いに来てくれと、友人から言われ、人気の少ない公園で友人と、現在暴力団の組長をしているというD君との喧嘩立ち会いに、相手方の立会人として来ているのに久しぶりで合った。 彼は、二人の喧嘩を見ていて、一方の戦意がかなり無くなったと判断すると、適切に喧嘩を止めた。 もしこの両人が物でも持ったりしたら、きっと怒ったろうと後から考えても思えてくる。 今の社会は子供の喧嘩をまったく否定するが、いじめの言葉が暴力以上に相手を傷つけることもあるのではないか。 私は彼を通じてずいぶんいろんなことを教えてもらった気がします。
小学校一年の時のクラスにI君がいたが、学年早々から臭い、汚いなどと一部の級友達からよく虐められていた。 私も小さい頃に坊ちゃん、坊ちゃんと後ろから声を掛けられ、あわてて振り向くと頬に人差し指が突き刺さってくる、痛くて文句を言いたくなるが、5歳年上だと我慢するしかなかった。 そしていつも思った、いつかやっつけてやるぞと。 そんな経験をしている私には、I君がそそうをしたことがあるとか何かが原因かと思われた。 体も丈夫ではなく時々休むし、まったく反対方向から通ってくる彼は、次第に私の関心の外に行ってしまった。 5年生のクラス変えでI君と同じ農家ブロックのMさんが同じクラスになると、また同様の意地悪が始まった。 女性のMさんは、別段変な容姿ではないが、しかし何時もおどおどと下を向いている感じで、彼女が何を考えているのか私にはわかりませんでした。 しかし住井すゑの橋のない川を偶然読んで、すべてが瓦解しました。 虐める連中や親たちの無知、偏見そしてそれを咎めない社会や教師達の無関心さに憤りを感じましたが、だからといって自分で何もできず、ただただ学校に対して反抗的になっていきました。
小学校低学年の頃は給食はなく弁当持参で、まだまだ食料事情も悪く、よく新聞紙の包装で弁当の中身を見られないように隠した子もいたりして、子供なりにも厳しい時代だったと思います。 それでも年に何回か、学校で行われた野外での映画会はみんなの楽しみで、風で揺らいで歪んだりした仮設の布製スクリーンでも、顔を突き出して夢中で見たように記憶しています。 私は当時爆発的に出てきた子供向けの月刊誌や単行本を、近くに出来た貸本屋で一日10円の小遣いの中から借りまくっていました。 ある日突然、学校帰りの私の前に見たこともない高級外車が停まり、侍従と思しきりっぱな紳士が、お迎えに上がりました、貴方は故あってあずけられていましたが、本当は大金持ちのお坊ちゃんなのです、などと空想したりすることもあって(勿論両親には絶対にそんな話はできませんでしたが)、振り返ると両親の厳しさもあっただろうが、やはり周囲を見渡しても貧しい現実社会に対し、夢を抱いていたものと思われます。
小学校1年生の時に近くに住む祖父の家から、リヤカーで少しばかりの家具を引いて現在の地に移り住んだことをよく覚えています。 家のすぐ前は10m程の道幅がある、でも実際は人一人通れる程度の、踏みならされた箇所の両側は雑草でいっぱいでした。 よく雑草の頭を結んで、通りかかる人が蹴躓くのを悪ガキ達で楽しんだものでした。 家から小学校までは500m程で、でも雪が積もるとたんぼ道と畑の区分けが付けにくくなって、誰々が肥だめに落っこったんだってさあ、と噂しあったものです。 田畑や沼が多く、レンゲや菊など四季折々の花や白鷺、トンビなどの鳥なども飛来し、まさに田園というよりも田舎そのものでした。 学校からは、よく西に富士山や丹沢連邦、北に筑波山なとどが望め、当時は学年の半数近くが農家の子供達で、昭和28年開校で私共が1年生として初めて入学した当初は2クラスでした。 しかし途中入学する子供達も増え、5年生の頃には3クラスになったが、私は私達1年からの生徒を先住民、転校生を開拓民と区別して、でも私は父が自営業だったせいか農家の子達よりも後から転校してきたサラリーマンや商店の開拓民の子供達の方が仲が良かったようです。