Flour of Life

煩悩のおもむくままな日々を、だらだらと綴っております。

映画「アイ、トーニャ 史上最大のスキャンダル」感想

2018-05-09 16:17:41 | 映画

みなさんこんにちは。ゴールデンウィークはいかがお過ごしでしたでしょうか。
私は、5月に入ってすぐ、母が急に「東京行こう!」と言い出したので、1週間ほど東京に行ってました。ほんとに急だったので、連休中に消費しようと思って買った食材を冷蔵庫の中で傷むがままにして置くのは心苦しかったのですが、まあ東京にいる間は映画を見に行ったりしてそれなりに楽しく過ごせました。

さて、5月4日に公開された「アイ、トーニャ」は、公開初日に見ました。プリンスアイスワールドの横浜公演を見に行って、その帰りに横浜のシネコンに寄って見て来ました。アイスショーの後にこれを見ていいのかなとも思いましたが、まあこれも縁なのかもということで。

「アイ、トーニャ」の公式サイトはこちら。1994年、アメリカのフィギュアスケート界を震撼させた「ナンシー・ケリガン襲撃事件」の容疑者となり、一躍世界に注目されたトーニャ・ハーディングの半生を描いた映画…ですが、制作側がこれを「真実の物語」と謳っているのかというとちょっと違う。映画はトーニャをはじめトーニャの元夫のジェフ、ジェフの友人の自称元諜報員のショーン、トーニャの母親のラヴォナなど、トーニャの周りの人々のインタビューをもとに作られています。それぞれが自分の主観、というか自分の都合で語るし、そもそもインタビュー受けてる人たちがどいつもこいつもアレな奴ばっかり(除くコーチ)なので、とりあえず彼らの言い分は真に受けずに、「藪の中」的なちぐはぐさを楽しむつもりで見るのが、この映画の最もストレスフリーな見方だと思います。けして「私は真実を知っている。なぜならばこの映画を見たからだ」と思い込んだりしませんように。

主人公のトーニャを演じるのは、「スーサイド・スクワッド」のバッドヒロイン、ハーレイ・クインを演じたマーゴット・ロビー。トーニャのキャラクターはハーレイ・クインと重なるところがあるように思えたけど、さすがにあそこまで突き抜けてはいない。粗暴な振る舞いと強気な態度の隙間に、トーニャの弱さや幼さが伝わってくる演技はさすがだなと思いました。製作にも関わっているだけあって、主人公トーニャをわがものにしています。

トーニャの母親ラヴォナを演じたアリソン・ジャニーは、この映画でアカデミー賞助演女優賞を受賞。実際のラヴォナがどういう人だったかは別として、とてつもなく強圧的な、近づくと石にされそうなオーラを放っています。映画の内容が内容なので、演じるにあたってラヴォナ本人に会って、どうやって本人に近づくか演技プランを練る…なんてことはしてなさそうですが、エンドロールで流れるインタビュー映像がかなり酷似していたので、そりゃオスカー獲れるわなと納得しました。

トーニャの元夫のジェフを演じているのはセバスチャン・スタン。「アベンジャーズ」「キャプテン・アメリカ」シリーズのバッキーちゃんです。バッキーったら、こんなところで何やってるのよもう…と突っ込みたくなりましたが、バッキーだと思うとジェフを非難しづらくなるから、それを狙ってのキャスティングだったのかと納得…するかーい!でも自称元諜報員のショーンに騙されてしまう説得力はありました。ニートの振りした工作員とか、MCUならいそうだもんねぇ。というかトーニャとジェフのカップルって、DCとマーベルの対決だったのね(今頃気づいた)。そりゃ上手くいくわけないわ。

ジェフの友人で自称元諜報員(実際はニートの童貞)のショーンを演じたポール・ウォルター・ハウザーは、検索しても他の出演作が出てきませんでした。この映画がきっかけで出演オファーがたくさん来るとは思いますが、ショーンのイメージがつきまとったりしたら気の毒ですね。それくらいショーンという男は、最低最悪、諸悪の根源のように描かれてますから。この映画のショーンという男は、元諜報員というのは盛りすぎですが、ジェフを言いくるめて誘導できる程度には口が上手く、都合よく操ることができる才能は持っていました。誰でもというわけではなくて、ジェフのようにカモにできる相手は限られているんでしょうが。ショーンのような人は、SNSの中でよく見かけます。あたかも自分が何もかも知っているかのように振る舞い、尊大な態度で他者をジャッジするけど、言ってることは根拠のない出鱈目だらけ。本当のことよりも己の耳に心地いい言葉を欲しがる人たちにはもてはやされる人。彼のような人に振り回されないように、あるいは彼のようになってしまわないように気をつけなければと強く思います。

インタビューを元に書かれた脚本は、語り手たちの主観で物語を紡いでいるので矛盾がありますが、この映画の中にはひとつだけ、揺るぎのない事実があります。それは、ナンシー・ケリガンというフィギュアスケーターが襲撃された、ということです。彼女には何の落ち度もないのに。オリンピックという夢の舞台を目前にして。リレハンメル五輪でケリガンは銀メダルでしたが、もし襲撃されて怪我をしてなかったら、表彰台の真ん中に立っていたかもしれません。もちろん、優勝したオクサナ・バイウルの演技を貶すつもりはないし、たらればでものを言うのはよくないことですが。映画の中では、主人公のトーニャが過酷な環境の被害者として描かれていますが、それとは別の次元でケリガンは被害者です。この2つの「被害」は相殺されるものではありません。映画の感想をネットで検索すると、トーニャを憎悪する人がいれば、事件を正当化する人もいて、とても残念です。

この映画はフィギュアスケートを題材にしていますが、ルールとか当時のスケート界の事情とかにはあまり触れておらず、結構ざっくりしています。正直雑です。これだけ雑だと、「真実の物語だ!」なんて恥ずかしくて言えないと思うのですが、それでも言っちゃう人がいるのがアイタタですね。ただ、雑は雑でも、トーニャが語る言葉の端々に、フィギュアスケートファンとしてどきっとするものはありました。「女性スケーターに求められるのは古い時代の理想の女」「4位の選手にスポンサーはつかない」…などなど。メダルを獲らなければ価値がないと言われ、取れば獲ったで金じゃないと文句を言われ…日本でも、偏った知識をひけらかす人が、オリンピックの時期にわらわら湧いてきて、似たようなことを言ってますね。

おそらく、この映画を作った人たちは、フィギュアスケートという競技についてはドライで、トーニャの半生を描くことでフィギュアスケート界の光と闇を描くつもりはなかったのでしょう。いや、もしそのつもりでやってたのなら激しくつっこむけど。毒親に支配され、選んだパートナーには暴力を振るわれ、パートナーの友人にトラブルを起こされ…全米選手権で優勝、世界選手権では銀メダル、オリンピックでは4位…良いほうに切り替わるタイミングをことどとく逃し、悪いほう悪いほうへと転がっていく彼女の人生ゲームは昼ドラみたいで引き込まれるけど、もしあの時ああしてたら、してなかったらと悔やまれもする。ピカレスクコメディの色が強い映画だけれど、“同じ過ちが繰り返されないように、私たちはどうすればいいのか”という問題提起の意思も感じる映画でした。


ところで、あんまり大きな声では言えませんが、トーニャが「私はトリプルアクセルが跳べるのよ!」とアピールする度に「でもそれだけじゃ勝てないのよ」と心の中でつっこんでました。「トリプルアクセルを跳べる者が真の勝者」っていう念仏を唱える人、日本にはまだいますけどね。跳んだら跳んだで、これは正しくないとかイチャモンつけてくるし。日本の宣伝がトーニャがトリプルアクセルを跳んだことを前面に押し出してるのはセンスが古いと思います。いい加減脱却してー。


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