映画なんて大嫌い!

 ~映画に憑依された狂人による、只々、空虚な拙文です…。 ストーリーなんて糞っ喰らえ!

晩春 ~映画の読解 (13)

2010年11月29日 |  晩春
     ■『晩春』 (1949年/松竹) 小津安二郎 監督


 ※以下、晩春(4)の記事を補足して置きます。

●1937年 中秋名月翌日 上海
 《昨日は中秋の名月だった。黄浦江の上に出る月の眺めは仲々よろしい。嘗て阿倍仲麻呂に天の原ふりさけみればと詠ましめたあれだ。渡烏仲麻呂の心境になってみる。このところ連日快晴に恵まれている。矢張こっちでもコスモスが咲いている。木舌鳥も鳴く。これで秋刀魚でも食えれば先ず申分ないがそうはいかぬな…》

                         (※写真:1) 

●1938年6月6日 蚌埠
 《(略)麦畑が続いてその上に照りつける。汗と埃と、到る処水にも不自由した。去年の暮じょ県(※「じょ」の正字は「さんずい」に「除」)攻撃の時は青みどろのみじんこのいる水に飯盒の飯を炊いた。臭かった。不味かった。たまらんと思った。が、今度は、みじんこでもいれば喜んで飲んだ。蝌蚪を追い散らして腹這いにクリークの水をのんだ。敵は退却に毒物を投入したと云う。蒙城では四十四名が城内の井戸水に悶死したと云う。みじんこがいれば毒の無い証拠、何と淋しい証拠であることか。あとから狼狽してクレオソート丸をのむ…》

●1938年8月14日 南京
 《わがいのち 絶えなば絶えよ 夏草の 草のもえたる 雲の湧く果》

●1938年10月18日 信陽
 《桐城の城外には清冽な流があり河原に曼珠沙華が赤かった。行水をした。褌を洗った。曼珠沙華赤きをよけて野糞かな。穏かな秋の夕暮だった。大安ではコレラが猖蹶を極めていた。真症患者三百余名。枕を並べて痩せ細って枯竹を折る様にたやすくあまた死んで行った…》

●1938年11月15日 漢口北西部
 《ふたとせを 秋刀魚は喰はず 秋暮るる》 (「僕はトウフ屋だからトウフしか作らない」小津安二郎著/日本図書センターより)

●1939年4月3日(月)
 《戦争に来て馬の顔をしみじみ見た。目と目との間の、鼻面から鼻穴にかけての、大まかな間の抜けた顔貌がとても可愛いものに思われる。馬の目も確かに物を言う。泥んこになって道傍に斃れて置き去りにされた馬が暫くは四肢で力無く足掻いているが、やがて静かに頭を下げて死んで行く。こんな光景も一度ならず見た。「本当につらい時は馬も涙を零しますよ」と輓馬の輜重の兵隊が言った。黙々と草を喰んで びっしょり汗ばんだ馬が横目で見ている。鞍擦れで背中が赤く剥け、痩せて肋骨が数えられる。人間に似た、もっと剥き出しの感情がそこに見られて憐憫の情がとても湧く。「動物の中で一番可哀相なのは馬、睾丸抜かれて戦争に来て、後方撹乱には手出しも出来ず目標になって どの道死ななきゃ内地に還れない。一番羨しいのは鶏。宛がわれた牝鶏で事足りず、白昼隣の牝鶏まで追い駆け回す」小隊の誰かが、そんな事を言った。犬でも駄犬の方により多く、馬でも乗馬より駄馬の方に余計に何か通じる親しいものを感じた…》

●1939年4月4日(火)
 《こんな事があった。安義から奉新に向う途中の靖安に通ずる三叉路の所で、残敵と土民が道路上に死んでいた。その土民の傍に漸く誕生が来たかと思われる程の赤坊が無心に乾パンの袋を弄んで遊んでいた。瞼から血が頬に流れて凝結して、散々泣いて泣き止んで けろりとした顔だった。傍の藍衣の土民が果して父親か何か知る由もないが、誰の目にも傷ましく映って、赤坊が泣き出さない前に通り過ぎたい気持で足を早めた。追撃が急で、赤坊には構っていられなかった。四列の行軍は、この道路上の赤坊に堰かれて左右に分れた。巻脚絆に大きな靴、踏まれれば一溜まりもない赤坊が行軍の流れの中で無心に戯れていた。菜の花を背景に巧まず映画的な構図になっていた。だが、これはあまりに映画的であり過ぎて、これにレンズを向ける事のあからさまな作意が、『Hearts of the World』(『世界の心』監督D・W・グリフィス、1918年)の、足の悪い父親と娘の件を思わせた。だが、これは作意ではない。現実の痛々しい風景で、それだけに心打たれた…》 (「小津安二郎『東京物語』ほか」小津安二郎著/田中眞澄編/みすず書房より)

○野田高悟(脚本家)が聞いた小津の戦争エピソード
 《仲の良かった戦友が敵弾に斃れ、その場では殆ど何の感慨も無かったのに、二、三日して、全く思いも掛けない時に、不意に涙が溢れて来て、どうにも仕方が無かったという話、敵の夜襲にあって、直ぐ焚火を消したところ敵弾がその焚火の跡に当たってパッパッと火の粉が散り、その度に自分達の影が背後の土民の家の壁に映って、ああこれは映画で使えるなと思ったという話、これも夜、敵の狙撃兵が前面の林の中から撃って来たので、こっちも直ちに応射すると、それが目の前のアンズの枝をかすめ、白い花がパラパラ散って綺麗だったという話、等々等々……。帰還後、戦死した部下の遺族に遺品を届けようと、あちこちと尋ね回り、やっと探し当てたところ、その兵隊が分隊中で一番臆病だったにも拘らず、細君は亭主が如何に勇敢だったかを聞きたがって困ったという話も聞いた。後年『早春』の中に取り入れた戦友達の噂に出る女の話はその細君の感じを発展させたものだった…》 (「小津安二郎の芸術」佐藤忠男著/朝日新聞社より)

●シンガポールでの米国映画体験
 《『小狐』『ウエスターナー』『嵐が丘』のウィリアム・ワイラーと、『怒りの葡萄』『タバコ・ロード』『我が谷は緑なりき』のジョン・フォード、それから『北西への道』のキング・ヴィダー、いずれも面白く見ました。戦時中だからといって、少しも調子を落としていない。これは当り前の事ながら、我々としては感心させられました。映画というものに対する米国の政策も上手だったのでしょう。またアルフレッド・ヒッチコックの『レベッカ』も印象に残った方です。だが結局、それらを見て敬服させられるのは、監督というよりも、キャメラ及び技術の進歩です。どんな思い切った画面でも遣りこなしているという感じ、監督の空想している事をどしどし実現してみせるといった感じ、これが堪らなく羨ましいと思いました。ディズニーの『ファンタジア』を見た時、真っ先に感じたのもその事でした。そして『ファンタジア』を見ながら、こいつはいけない。相手が悪い。大変な相手と喧嘩したと思いましたね…》 (「小津安二郎の芸術」佐藤忠男著/朝日新聞社より)

●新しい感覚の映画
 《戦地から帰って来てから外国映画を随分見ましたが、米国映画からはもう殆んど摂取するものはないと思います。敢えて学ぶ点といえば技術的な面でキャメラ技術なんかじゃないでしょうか。最近見た米国映画は『コンドル』仏蘭西ものでは『格子なき牢獄』ですが、『コンドル』のシナリオを書いたジュルス・ファースマンには感心しました。伏線の張り方とか盛り上げ方とか実に卒がなくて巧い。まるで歯車が噛み合う様に正確そのものです。それだけにもう古いという感じが強いのです…》 (「僕はトウフ屋だからトウフしか作らない」より)


 ※以下、『晩春』などの余話です。

●山本武(プロデューサー)が語るキャスティング
 《『晩春』では、その後の小津さんの映画の常連となった原節子が初出演した。この原節子の起用は、湯河原の中西旅館で打合せの時、決まったと思う。志賀直哉先生も見えられて、色んな話をしたが、そんな時「原さんを使ってみたら……」という話が出たように記憶している。或いは、小津さんが、以前から意中の人として考えていたのかも知れない。(略)確か、杉村春子を使ったのも、この中西旅館からの提言からだと思う。それまでの小津さんは、「新劇人はオーバーで嫌だ」と言って、あまり使っていなかったが、『晩春』で使ってみて、とても杉村春子が気に入ったようだ…》 (「小津安二郎文壇交遊録」貴田床著/中公新書より)

                         (※写真:2) 

●石坂昌三(映画記者)が取材した『晩春』の改題
 《これは実話である。野田と組んだ小津のコンビ復活第一作『晩春』が、完成間近になった時、松竹の宣伝部は「秋に封切るのに『晩春』では売れません。題名を変えましょう」と言い出した。『君の名は』の時、「女風呂を空にしたラジオ・ドラマ、遂に映画化」という語り種のメイ文句を考えた野口鶴吉宣伝担当重役らの宣伝部の猛者が考えた題名は、『花嫁御寮はなぜ泣くのだろ』だった…》 (「小津安二郎と茅ヶ崎館」石坂昌三著/新潮社より)

●浜田辰雄(美術担当)が語る《襖》と《畳》
 浜田 《まぁ大体、日本間が多いですからねぇ、日本間の二間が主体になりましてね。その大きさは、金持ちは十畳と八畳とか、貧乏人は六畳と八畳とか、そういうふうになってましてね》
 井上 《片方はどちらかというと「引き場」というか、キャメラがそこに据わるスペースですね》
 浜田 《そういう事です。そして襖が重要な役目をしましてね。そしてその襖も、例えば人物に襖が掛かると困る場合は襖をこう……》
 井上 《ずらして》
 浜田 《ずらすんですけどね、それがだんだん利口になりまして、「半分襖」を作ってずらす事が自由になったんです。ですからその襖も正規の襖と半分の襖と……》
 井上 《撮影用の特別な縦半截の襖ですねぇ》
 浜田 《そういう事です。そしてその襖に模様がありましたらね、同じ模様をやはり襖に……。そいから、嫌がったのは畳の縁なんですけどねぇ、あのぅ、この縦の線がね、二重になる所があるんですよ。それでねぇ、バランスが取れない訳ですねぇ。セットがシンメトリカルにとってますからね、その線が崩す訳ですねぇ》
 井上 《畳の縁を嫌がるってのはそういう事ですか》
 浜田 《ええ。ですから普通の家ではね、大きなあの莚、花茣蓙でやる。それから特に上等な旅館とか良い家ではね、特に畳の縁を、今で言う2センチですかね、七分ぐらいの狭いものを作りましてね。見ても目立たないようになりました》 (「陽のあたる家-小津安二郎とともに」井上和男・編著/フィルムアート社より)

●佐藤忠男(映画評論家)が取材した『風の中の牝鶏』の編集エピソード
 《編集者の浜村義康の回想によれば、小津は、アクロバットの吹き替えの女を使って撮影したこのショッキングなショットを、フィルムを輪にして映写機に掛けて、およそ15回も繰り返して見詰めていたそうである。ついに映写技師が、フィルムが熱くなって燃えそうだからと言い、映写を止めてしまうまで見詰めていたのだそうである。小津は、あの恐ろしいショットの奥に何を見詰め続けていたのだろうか…》 (「小津安二郎の芸術」佐藤忠男著/朝日新聞社より)


 ※以下、小津さんの一日です。

●野田静(野田高梧夫人)が語る、蓼科の雲呼荘での一日
 《仕事よりお酒の方が多かったんじゃないでしょうか。本当に掛かればひと月位で済むんですけどね、その仕事になる迄が大変なのよね。朝起きるのが9時ですよね、そして朝風呂へ入るの、その入るのがね、「小津さんお先へ」「野田さんお先へ」って言ってるのよ。私、まどろっこしいから、「なら、私が入るわ」って先に入っちゃう。そしてそれがもう習慣になっちゃって私が入らなきゃ二人が入らない。そいで、出るでしょう、そして朝ごはんですね。それが朝3合を二人で飲むの。それで御飯済むでしょう。するとそのまま昼寝ですよ。それが1時頃まで寝ている。そして起きて、こんどは散歩ですね。散歩に2時間位かしら。帰って来ると仕事です、それが4時から6時位までね、仕事…。それで6時と7時の間から御飯が始まる。その時は5合ですよ二人で。8時頃済んで、のってる時はもうそれから直ぐ「仕事をしましょう」って行くんですよ。そうすると12時迄ね。それでそれが済んじゃうでしょ、するとお夜食ですよ。だから私は寝る訳にはいかないのよ、それまで起きてなきゃならない、食べさせるから。夜食は何でもいいの、とろろのお吸い物でもいい、うどんでもいい、何でもいいの。とにかくお腹に入れるの。それで寝るの。そうすると小津さんはねぇ、それから蒲団入ってコンストをずーっとやってるのよね。今日書いたとこ。で、野田は野田でそれをまた読むんです。で、あくる日、また9時に起きるでしょ。それでお昼っからの仕事になるでしょ、そうすると前の日の事を小津さんは「ここんとこ、おかしいじゃありませんか」と、野田は、「このセリフはおかしい」ってやるでしょ、そいでそこですっかりもう固めちゃって、それでまた夜は新しいシーンをやるんですね。それの繰り返し。それで、掛かれば、ひと月で完全に出来ますけどね。それ迄が大変なのよね、掛かる迄が…》 (「陽のあたる家-小津安二郎とともに」井上和男・編著/フィルムアート社より)

                         (※写真:3) 

●小川くみ子(家政婦)に訊いた、北鎌倉の自宅での一日
 《小津は朝寝を楽しむ。11時頃に起きると、それから朝風呂に入る。ゆっくりつかった後、居間の食卓兼用の掘炬燵でちょび髭の入念な手入れが始まる。終わるのを見計らって、小川は燗をつけたお酒を選ぶ。温度が決まっていて55℃、かなり熱燗である。長年、目盛りの付いたガラスの哺乳瓶が調子代わりに使われていて、盃がまたガラスのエッグ・スタンドである。やや艶消しな話だが、映画で使う小道具には選び抜かれた一品を使う小津のイメージとは異なった庶民の顔である。そのエッグ・スタンドでチビリ、チビリ飲む。サンマの季節ではサンマを欠かさない。小川はサンマを2匹焼き、尾の方を切って、腹わたの付いた頭部を2つ皿に並べる。それもジクジクと音が聞こえるほど熱くなくてはいけない。小津は熱い腹わたが大好物である。 小津の食卓には必ず母が付き添う。酒は気分によるが2合を越す事がある。母は食事もせずに付き合うが、その間が母と子の睦まじい会話の時間であり、母はそれを楽しみにしている。交わす言葉は少ないが、心の通い合う一時である。2時頃食事になるが、母にとっても、それが朝食であり、長年の習慣では母はひもじさにも慣れていた。食事は大きな茶碗に2杯、食が進むと3杯になる事もある。味噌汁にお漬物、特に胡瓜や茄子は糠から出して色が褪めない内に出す。小川が気を使うところである。最後はお茶漬になる事が多く、燻製の鮭を最も愛した。それが済むと常備の薬を飲む。彼の背にある棚に運び膳に入れた例の売薬がずらりと並べてある。その上の棚には愛用のブランディやウィスキーなどの洋酒がこれまたずらりと並んでいる。小津曰く、「毒と薬が一緒に置いてあるようなもんです」。 隣の日本間が寝室で布団が敷きっ放しになる。遅い朝食兼昼食が済むと、昼寝である。彼にとって昼寝は無上の楽しみであり、日記には必ず記帳する。道楽はと問われれば、「道楽というと、僕は昼寝ですよ」と答える。撮影が終わって何が一番したいかと問われれば、「昼寝だよ」と答えるのである。 起きるのは夕方である。晩酌は3合ばかり、旬の鱸と鯛の刺身、鮭の粕汁、湯豆腐、鱈汁…など母が考えた季節の料理が食膳を飾る。夕食が済むと就寝、しかし眠る訳ではない。「枕辺雑書乱読」である。彼は蒲団の中で寝そべりながらの読書を好む。「枕頭、灯を掲げ『荷風日乗』をよむ。巻をおくあたわず興味津々として窓外すでに白む」(日記)という事になる。気儘で時間を超越した一日がこうして終わる。「無為」「ひねもす就床」という言葉が日記に散見されるが、小津なりのささやかな幸福感の表現であろうか。 仕事のない時、小津は自宅で何日もくつろいでいる事はない。人恋しさが募って、午後も遅くなって東京へ出る。気心の知れた人たちに招集を掛け、食べ歩きや飲み歩きになる。何軒もハシゴをするのである。帰りはたいてい横須賀線の終電車になる。ところが北鎌倉では降り難い。鎌倉に下車すれば、馴染みの寿司屋やバーに足が向き、飲み直しとなる。 北鎌倉の自宅に帰るのは午前2時か3時になる。トンネルを抜け、私道の坂道をふらつきながら登ると、玄関には主人を待つ灯が点っている。扉を開けると、小川も直ぐに起きるが、老いた母が一番に出て息子を迎えるのである。ところが、そのまま小津は寝ようとしない。たいてい、お茶漬を求めた。糠から出したばかりの漬物に熱いお茶を掛けて、啜り込む。原節子が『麦秋』で、佐分利信が『お茶漬の味』でしていたように食べる。かくして小津の一日は至福の内に終わるのである。小川くみ子によると、母の晩年は、深夜ご帰還の小津を迎えるのに、小川の方が早くなったという。母も老いたのである…》 (「小津安二郎日記」都築政昭著/講談社より)

                         (※写真:4) 

 ……つづく


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