伊藤八重(いとう やえ)、1848年(嘉永元年)-1952年。豊郷村四十九院(現滋賀県豊郷町)出身。伊藤忠・丸紅創始者初代伊藤忠兵衛の妻。
↑前列左端(中央は夫の忠兵衛)
八重は、豊郷村四十九院の藤野惣左衛門の長女で、名を「幸」といった。
慶応2年(1866)に18歳で豊郷村八目の5代伊藤長兵衛(紅長)の二男初代伊藤忠兵衛に嫁ぎ、姑「やゑ」の名を継いで「八重」となった。
忠兵衛は近江麻布の持ち下がり行商に専念し、九州を拠点に実績を上げていたが、妻八重はその間、留守宅の本家で一切を切り盛りし、「内助の功」を超えた働きで、伊藤家の事業を支えた女性である。また、商標を「まるべに」を発案したのも八重であった。
初代忠兵衛が1872年(明治5年)、大阪・本町に「紅忠」を開店した際、八重は豊郷の伊藤本家の運営を一手に引き受けた。大阪店で使う「近江米」や「中野たばこ」、茶の選定、味噌や梅干しの漬け込み、夏冬には、大勢いる店の丁稚への襦袢・帯・前掛けの選定と仕立て、夏季の布団の洗濯、綿の打ち換え、仕立て直し等、年中多忙な日々を過ごしていた。
体付きは、当時の婦人としては大柄で、強健であり、性格は清純で強い意志力を持ち、浄土真宗の篤い信者だった。
自分が受けた教育としては、寺子屋での読み・書き・算盤を習ったのみだったが、算用数字の書き方と計算を夫の忠兵衛から習得し、よくハガキを書いたそうである。
このように近江商人の妻である八重は、留守を預かる主婦や子供の母であること以上に、事業のパートナーであったと言える。
新入店員の教育も八重の重要な仕事の一つだった。
当時、採用募集には自らも立会、伊藤家の店に見習い店員として採用されると、まず豊郷の本家の自分の手元で、八重から行儀作法や読み書き、そろばんなど店員として必要な教育を施された。
そして八重は、この教育の過程で一人ひとりの性格や能力を見極め、それぞれの力量、適正に応じた配属先を考え、初代忠兵衛に進言するなど、人事面でも重要な役割を担っていた。また、入店後、本店で問題を起こすと直ちに豊郷本家での再教育が常だった。
また、本家では、一般の家庭の子女を預かって一人前の女性に教育するため、汐踏みと称される嫁入り前の短期間の行儀見習いの指導を受け持つこともあった。
後に、二代忠兵衛は母八重のことを「彼女は家庭の主婦とか人の母であるとか言うよりも、仕事の上で父のパートナーであった」と述懐している。
更に、八重の本領が発揮されたのは初代忠兵衛が亡くなり、息子精一に二代忠兵衛を継がせたときのこと。
八重は二代忠兵衛を店に入れる際、何の役職もつけずに丁稚奉公からスタートさせ、周囲を驚かせた。二代忠兵衛は、辛い下積みの修業時代を経験することで、将来経営者として立っていくために欠かせない基調な事柄を沢山学んだに違いない。
夫忠兵衛は丸紅、伊藤忠商事の基礎を築き、62歳で没したが八重は1952年(昭和27年)4月29日104歳で天寿を全うした。
現在においても、毎年春、伊藤忠と丸紅の新入社員研修の一貫として彼らの聖地であり、八重の社員教育の場所、豊郷の伊藤忠兵衛本家を訪れていると言う。
これはひとえに伊藤忠・丸紅の原点理解、社員の母たる八重への感謝、現代の社員研修所の先駆け(八重)への敬意も含まれているに違いない。