私の初めての海外渡航は1974年11月、行く先はタイ・バンコク経由の「バングラデシュ」で、その時のフライトは「大阪伊丹発」バンコク行きの「JAL日本航空便」であった。もう今から47年も前のことである。
海外の航空会社の選択肢もあっただろうが初めての海外渡航だったので安心感を持てる日本航空が第一選択だったと思う。勿論、この時はまだ関西国際空港(KIX)=1994年9月)はまだ開港していなかった。
この時、バンコクからバングラデッシュのダッカへの往復は「タイ航空」だった。
チケットはノーマルチケットのエコノミークラスであった。
その先から何年頃までか詳しく覚えいていないが1990年代頃までは予約便のリコンファーム制度があったので搭乗便、日時を変更しない場合でも事前に搭乗する旨、面倒だが航空会社に連絡をする必要があった。そうしないと予約の座席がキャンセルされる可能性があったからである。
1974年当時、ANA全日空はまだ国際定期便(1986年(昭和61年)進出)を飛ばしておらず、日本航空が唯一の国際線航空会社だった。後発の航空会社ANAは社名の全日本空輸のごとく国内線の航空会社であった。海外旅行もまだ今日ほど一般化、大衆化しておらずJAL国際線の搭乗は一種の憧れの時代であった。
初めてのパスポート申請は確か1974年の7月か8月だっと思うが申請先の滋賀県庁からの帰路、大津市内で追突事故を受けた苦い思い出もある。サイズは今より少し大きく紺色の5年のパスポートだった。当時は最長5年だった。
↑ダグラスDC-8
私の国際線初フライトの機種はダグラス「DC-8」だった。勿論、ボーイングの747ジャンボはまだなく、JALの長距離便はDC-8の時代である。
伊丹(ITM)~バンコク(BKK)間のJAL DC-8は150席位はあったと思う。バンコク~ダッカ間はタイ航空のジェット機だったが恐らくボーイング737だったと思うが機種をよく覚えていない。
ダグラス DC-8(Douglas DC-8)
アメリカのダグラス・エアクラフト社が開発した大型ジェット旅客機である。ボーイング707やコンベア880と並んで第一世代ジェット機を代表する旅客機で、世界で初めて超音速飛行を行った旅客機でもあった。
DC-8は747ジャンボのようにノンストップで日本からアメリカ西・東海岸やヨーロッパ直行はできず途中給油していた。アメリカへはアンカレッジ経由、ヨーロッパへの多くはカルカッタやボンベイ、ベイルート経由などの南回りだった。今と違ってノンストップの直行はなく海外渡航は長時間を要する時代であった。
因みに、私は数えきれないほど国際線に搭乗してきたがきたが1974年のJAL初フライト以来の縁もあって、いつしか私も「JALグローバルクラブ」の会員となっていた。JALのグローバルクラブはJAL便を年間にある一定以上の搭乗マイルを超えると入会資格があると案内通知がある。
商社員なんぞは各航空会社の会員になり、マイルもしこたま貯めていた。
JALは経営破綻後、一時、シンボルマークが変わったが今では元の「鶴丸マーク」に戻した。
JALはやはり「鶴丸マーク」がよく似合う。
余談になるが、後年、北米への出張時、サービスは並み以下だったが料金が少し割安だった「ユナイテッド航空」も良く使うこともあった。スターアライアンスのマイレージとアメニティキットが溜まった。
具体的な初めての海外の旅の思い出は次回以降に書き綴ることにしたい。