5代目外池宇兵衛正方(といけうへえ)、(明和3年-天保8年)(1766-1837年)。近江国蒲生郡下小房村(東近江市桜川西町)出身の酒造業・紅粉製造販売。近江商人。
外池家は、近江出身の4代目外池宇兵衛正保(教意)によって、その基礎が築かれた。宝暦年間(1751〜63年)には、現在の栃木県・茨城県方面で薬種行商を展開し、その後は清酒醸造業、酒屋・運送店などを中心に発展。文化・文政の頃(1804〜29年)には江戸に進出し、名門の老舗「柳屋油店」を買収・承継した。
↑明治期の柳屋(所蔵・外池洋隆氏)
ヒストリー
外池宇兵衛家は近江国蒲生郡下小房村(東近江市桜川西町)に居住し、祖先は近江日野城主の蒲生氏の家臣と伝えられる。
初代宇兵衛宗玄、2代目宇兵衛は不明、3代目宇兵衛正宗(享保19年・1734年没、享年66歳)。4代目宇兵衛は正保(教意)、5代目正方、6代目女・千世、6代目正房、7代目正誼、8代目寅松正国、9代目寅松、現当主10代目洋隆と続いている。
■4代目外池宇兵衛正保(教意)
中興の祖である4代目宇兵衛正保・教意(または敬意)(享保14年-寛政6年(1719-1794年)65歳病死。3代宇兵衛正宗の長男。5歳の時(享保19年・1734年)、父と死別した。外池宇兵衛家の中興の祖。
「正保」は近江国蒲生郡下小房村で農業に従事していたが、農業では一家を維持出来ないので壮年に発奮し、宝暦年間(1751-1764年)に近江の薬(日野万病感応丸)、日野碗などを中山道を下り下野国・常陸国で薬種の行商を10年間を行った。努力の末、正保は下野国馬頭に薬種業の店舗を開き、「近江屋重治郎」と言われここを起点に交易をした。
その後、薬種業の商いが安定した頃、当時この近辺では濁酒(にごり酒=一般にドブロク)しかなかったので安永年間(1772-1781年)以降、下野国那須郡馬頭村で「近江屋重治郎」の屋号で清酒の醸造を始め、火災などに遭ったが商機を掴んだ。
■5代目宇兵衛正方
「正方」は4代目宇兵衛正保の長男として明和3年-天保8年(1766-1837年)71歳没。13歳の時から父に従い下野国馬頭村(栃木源那須郡)の出店で修業し、父の死後5代目宇兵衛正方を引き継いだ。2歳下の弟の「正義」(明和6年生れ)は別家して初代「半兵衛」明願(五郎三郎)(別家西外池家初代)を名乗り兄弟で協力して発展させた。
外池家は5代宇兵衛正方と弟正義の時代、文化元年(1804年)、「呂一官」から江戸日本橋の「柳屋油店」を買収し、紅粉・白粉などの化粧品を製造販売して大奥や江戸市中で愛用された。そもそも「柳屋」は中国明の漢方医で後に帰化した「呂一官」(日本名堀八郎兵衛)が天正12年(1584年)に浜松で徳川家康から屋敷を拝領し、天正18年(1590年)家康の江戸移封に伴い、江戸日本橋に移住し、家康から御朱印地として得ていた。明からの紅製造技術を駆使し、元和元年(1615年)紅粉・白粉を「紅屋」の屋号で商い(後日、「柳屋」と改めた)幕府御用商人の鑑札を得ていた。一官は元和9年(1623年)に没した。呂一官は辻一官と称し、5代目から堀氏になっている。
☆呂一官家(堀八郎兵衛家)から紅粉製造販売・「紅屋(柳屋)」の買収
4代目宇兵衛正保が宝暦年間(1751-1763年)に北関東で出店を開いてから大凡50-60年後の文政5年(1822年)、13代目堀八郎兵衛の時、5代目外池宇兵衛正方は「紅屋」を呂家(堀家)から買収した。紅屋の呂家(堀家)は一官の死後、10代で跡継ぎが途絶え、4代目正保の二男「正義」(長男で5代目宇兵衛「正方」の弟)外池正義が養子となり、紅屋を引き継ぎ、屋号を変えて「柳屋」の創業年、創業者となった。正義は分家して「半兵衛家」(西外池)となり「柳屋五郎三郎」と称した。商品は主に、紅、白粉、頭髪用髪付油、柳清香油などで、今日の「柳屋ポマード」に続いている。
文化4年(1807年)江戸で奈良屋吉兵衛から「奈良屋煙草店」を買収し、外池家は日本橋で「柳屋油店」と「奈良屋煙草店」の2大店舗を構えた。この煙草店は「奈良屋宇兵衛店(後に柳屋煙草店)」と称し、正義が「半兵衛」と名乗り監督した。正義は天保2年(1831年)馬頭にて病死した。
また、外池宇兵衛家はその後も北関東で本業だった清酒醸造店や運送業も拡大させている。事業の拡大に伴う資金調達には当時、日野商人「大当番仲間」という講があって外池家も加入しこの組織の協力があったと考えられている。
■6代目宇兵衛家、女・千世(夫・光重)(?ー文政13年(1830年))
正方に男子がなかったようで長女千世の夫として中野郡和田氏から養子「光重」を迎え一時継がせている。しかし、千世が文政13年(1830年)に没し離縁となり、光重は明治3年(1870年)に没した。
千世が没した文政13年(1830年)には正方はまだ存命中であり、正方の死去が71歳(1837年)であるか64歳であった。千世の婚期中は夫光重が跡目を一時継いでいたとあるが千世の死去により離縁となった。光重は6代目宇兵衛とはならなかった。理由は判らないが光重が外池宇兵衛家の当主として目に敵わなかったのであろうか。光重・千世の子、正房(文政7年)(1824年)生まれは、母の死後35年以上後の明治になって7代目宇兵衛の家督を引き継いだ。
■7代目宇兵衛正房、文政7年ー明治23年(1824-1890年)66歳没。
母千世は1830年、正房が6歳の時、祖父より早く亡くなっている。また、祖父で5代目の正方は天保8年・1837年死去なので正房が13歳の時である。
正房は明治(1868年以降~)に入ってから7代目外池宇兵衛家を継承したとあるので、5代目正方の死去30年後のことになる。このことから30年程度は正式な家督継承がされていなかったことになる。また、正方の弟正義は正方より早い天保2年(1831年)に亡くなっており、正義の子で叔父である外池義浩(柳屋五郎三郎)などに家督を引き継ぐまで後見されていたと思われる。正房は江戸末期の慶応年当時43歳と働き盛りの年齢に達し、7代目外池宇兵衛の家督継承は明治に入った43-44歳辺りに行われた。
正房は長じて日本橋に勤め、外池家事業の発祥地である下野国馬頭村店の経営も当たっている。時代は幕末の激動期で北関東各地と東京に広げた事業の将来性の経営判断を迫られていた。
外池家の歴史的見地から徳川家の静岡移転に伴い、柳屋も静岡に移転する議論も出たが、・最終的に東京に留まり、・東京を本拠とし柳屋油店を本店とする、・関東17店の内、江戸の柳屋油店、柳屋煙草店のみ江戸に残す、・関東出店では太子、下舘店のみ残し他は廃止する。4代、5代宇兵衛の時期にで創業、事業の基盤を確立した北関東の清酒醸造業の大半は整理したのである。
7代目正房の時代、柳屋油店と柳屋煙草店は一体だったが煙草店で販売の不祥事が発生した。結果、両店で確執が起こり、最終的に明治40年(1907年)に柳屋煙草店は100年の歴史を閉じた。この柳屋煙草店は「柳屋海苔鰹節店」として再スタートし、大正3年(1914年)「柳屋商店」と改名して継承した。多くの豪商の乗り切れなかった幕末明治の激動期に遭遇したが、正房はその後の柳屋グループの舵取りの重責を果たした。
■8代目宇兵衛正誼(五郎三郎)、弘化2年ー明治45年(1845年-1913年)68歳没。
正誼は正房の長男で、父正房の没後、柳屋油店の家督を引き継ぐ。二男の正徳は分家して柳屋煙草屋の商いを継続する。盛況であった煙草業も明治37年に専売となると柳屋煙草屋は柳屋海苔鰹節店を廃止、転換し、大正3年(1914年)に正徳の長男が柳屋商店を相続した。
■9代目宇兵衛正国、明治13年ー昭和40年(1880年-1965年)85歳没。
明治45年、8代正誼の長男の正国は家督を継承したがこれからは一人で全事業を経営するのは困難と判断し、正国は柳屋総本家を引き継ぎ柳屋の不動産管理部門と小売り部門を受け継ぎ、正誼の二男で弟の五郎三郎に化粧品部門の柳屋油店(柳屋本店)を正式に移譲(現代でいう分社化)した。大正9年(1920年)男性用整髪化粧品「柳屋ポマード」として有名になった。
かくして柳屋は本家正国の柳屋総本店と分家である五郎三郎の柳屋本店に分かれた。外池五郎三郎、明治21年-昭和57年(1888年-1982年)94歳没。
大正12年(1923年)から始めた不動産賃貸業を昭和25年(1950年)、柳屋ビルディングとし、柳屋総本店などを10代目の外池寅松が担っている。
■10代目外池寅松、大正9年ー平成17年以降に没(1920年ー2005年以降に没)。
外池宇兵衛正国の長男。大正12年(1923年)から始めた。昭和23年(1948年)に柳屋総本店は長男寅松に継承した。不動産賃貸業を昭和25年(1950年)を柳屋ビルディングとして、以降、柳屋ビルディング、寅松は柳屋総本店、柳屋不動産、柳屋開発の代表を担った。寅松は滋賀県蒲生郡蒲生町桜川西で生まれたが本籍は東京日本橋であった。
寅松は12歳で生まれた滋賀の母の元を離れ、父正国の方針で東京に出た。小中高学校は学習院で過ごし、大学は京都大学法学部へ進んだ。戦時中は学徒出陣も経験している。また、外池本家は元々同村の浄土真宗敬円寺が菩提寺であったが妻百合子が熱心なクリスチャンで、寅松も昭和35年(1960年)に入信している。
■11代外池洋隆、昭和26年(1951年)~
10代寅松の長男。柳屋ビルディング、柳屋総本店、柳屋不動産、柳屋開発の代表は外池洋隆。
尚、明治45年に8代正誼の長男9代目外池宇兵衛正国が「柳屋総本家」を引き継ぎ、正誼の二男五郎三郎が化粧品部門の「柳屋本店」を引き継いで以降、柳屋は別経営となっており、「柳屋本店」の代表は外池栄一郎が就任している。
☆滋賀県東近江市桜川に町の郷里には外池家の大きな旧家が現存し、外池寅松家、外池五郎三郎家、外池昌平家(7代目正房の二男正徳の孫)、西外池家(4代正保の二男「正義」。初代外池半兵衛家)がある。現在は外池寅松家の所有は寅松没後、長男洋隆が継承したと思われる。
■社会への貢献
馬頭町松野新田開発(外池松野新田):栃木県那須
4代目正保、5代目「正方」の時代、外池家事業隆昌繁栄には事業地の水戸藩の配慮に感謝して、公共事業のために自己資本による社会奉仕として松野新田の開発した。時は文政3年(1820年)に始まり実に15年を要して天保6年(1835年)に完成している。
■郷里蒲生の治水工事
社会的貢献として郷里の下小房〈しもおぶさ〉(桜川西町)の飲料水用に佐久良川の伏流水を利用する「宝水」を開き、三代目宇兵衛正意は田用水に「新溜」の建設、四代目正保は小学校・近江鉄道の開通に私財を投じ故郷に貢献されている。
<「東近江の近江商人群像」、「日本橋の近江商人」より引用>