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【滋賀・近江の先人第131回】浜ちりめんを長浜の主要産業に押し上げた・浅見又蔵(長浜市)

 浅見又蔵 (あさみ またぞう)、天保10年8月16日(1839年9月23日) ~ 明治33年(1900年)4月21日。長浜市出身の実業家。

 浅見又蔵は、江戸時代末期の天保10年、近江坂田郡長浜宮町(現滋賀県長浜市神戸町)の薬種問屋商若森彦右衛門と母田中氏との3男として生まれた。

 数えの12歳の時に京都で呉服商を営む親戚の土田家に奉公に出る。その後、万延元年(1860年)12月、長浜で縮緬(ちりめん)製造を生業とする浅見又之助の養子となった。



 浅見又蔵は、家業である『浜ちりめん』の育成・特産化に力を注いだ。浜ちりめんの宣伝普及にも熱心に取り組み、国内の博覧会をはじめ、フィラデルフィア万国博覧会にも出品した。万博では高評価を受ける。海外への拡販努力が実り、明治12年(1879年)からは、浜ちりめんを輸出するようになる。浅見又蔵の指導のもと、浜ちりめんは全国に知られるようになり、長浜の主要産業になる。

 また、浅見又蔵は、長浜町内の有力者として区長・町会議員・県会議員・長浜町長を務める一方で、長浜発展のため、琵琶湖湖上輸送の推進に取り組む。長浜港の整備に力を尽くすと共に、太湖汽船の社長に就任し、更に長浜の第21国立銀行頭取・大津の第64国立銀行頭取等を歴任、篤志家として様々な支援活動を行い、晩年は日本赤十字社の活動に対しても積極的に関わった。

 大車輪の活躍をした浅見又蔵だが、築いた富を元に、社会貢献にも尽くした。帰郷を望む東京在住の彦根藩士達の住宅地を開発している。

 明治5年(1872年)11月の長浜大火事に際しては、備蓄米の放出と私財を投じた被災者支援を始め、その後も事あるごとに寄付を行った。

 明治19年(1886年)には、博愛社に対して度々行った寄付に対し、博愛病院開院式典において皇后陛下より特別に言葉を賜わっている。これらの活動より、佩有功章特別社員に推され、晩年は日本赤十字社滋賀支部幹事・会計監事などを歴任した。

 また、浅見又蔵は、滋賀県第一(開知)小学校(現長浜市立長浜小学校)の設立や滋賀商業学校(現滋賀県立八幡商業高等学校)の設立にも積極的に参画した。

 明治20年(1887年)、明治天皇・皇后陛下が京都より琵琶湖汽船経由で長浜に来られた際、又蔵は私費を投じ両陛下の「お休み処」を建てる。現在も残る長浜の迎賓館『慶雲館』である。


<滋賀県立長浜北高校歴史部より引用>

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