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【滋賀・近江の先人第220回】六角氏、織田氏の家臣/蒲生氏郷の祖父・蒲生定秀(滋賀県日野町)

 蒲生 定秀(がもう さだひで)、永正5年(1508年)ー天正7年(1579年)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。六角氏、織田氏の家臣。蒲生氏郷の祖父。近江国日野城主(滋賀県日野町)。


ヒストリー
永正5年(1508年)、蒲生高郷の子として誕生。父と共に南近江の戦国大名・六角氏の家臣として仕えた。
定秀の父・高郷は蒲生氏の分家で、本家の家督は定秀の従兄弟・蒲生秀紀が継いでいたが、秀紀が幕府寄りであったのに対し、高郷・定秀は主君・六角定頼の信任を受けていたため、その後ろ盾を得て「定」の一字を賜って定秀と名乗った。
また、六角家中有数の重臣である馬淵氏から正室を迎え、六角家中での地位を固めた。

大永2年(1522年)に音羽城の本家「蒲生秀紀」を攻撃し、翌大永3年(1523年)3月に8ヶ月に及ぶ籠城戦の末に秀紀を降服させ、六角定頼の仲裁で秀紀から蒲生定秀に蒲生家の家督を譲る事で和睦が成立し、蒲生家の家督を相続した。
また、当時の蒲生氏の居城であった音羽城はこの時に六角定頼によって破却されている。
さらに大永5年(1525年)、鎌掛城にあった蒲生秀紀を謀殺。その後、天文年間前半に日野城(中野城)を築き居城とした。

蒲生定秀は主君六角定頼の家臣として享禄3年(1530年)の京都出陣や享禄4年(1531年)の浅井亮政との戦いなどでは29の首級を挙げるなど(蓑浦の戦い)、定頼の主要な合戦の大半に参加し、大いに武功を挙げた。
天文8年(1539年)、六角定頼に従って上洛。
天文18年(1549年)には三好長慶と摂津国で戦っている。
天文21年(1552年)の六角定頼死後はその子・「六角義賢」に仕え、伊勢国攻略を任されるなど活躍した。

永禄元年(1558年)に出家する。
永禄2年(1559年)には浅井久政の属城であった佐和山城、永禄5年(1562年)には種村三河守が守る八仏手城を攻めている。同年、主君六角義賢に従って上洛。

 次男・茂綱を佐々木一族の青地氏へ、三男・実隆を伊勢攻略の前任者である小倉氏の養子に入れ、娘を伊勢の関盛信、神戸具盛に嫁がせるなど、婚姻政策によって独自の勢力を築いた。
 内政面にも優れ、六角定頼の信任を受けて城下町の形成や商業対策などを行なっている。日野椀の製造は城下町の成立と共に始められた。また、鉄砲の重要性を早くから認識しており、日野城下に鉄砲職人を招聘している。

永禄6年(1563年)、六角氏内部にて観音寺騒動が起こると、後藤高治、続いて主君・六角義治を匿ってその調停と収拾に尽力した。
永禄7年(1564年)に小倉宗家に養子に入れていた定秀の三男だった実隆が小倉西家(小倉氏庶流家の一つ)との抗争の中で敗死すると、蒲生定秀は小倉西家の拠点である山上城や八尾城を報復攻撃し、小倉西家を滅ぼして所領を拡大した。
永禄10年(1567年)の六角氏式目にも六角氏の宿老として署名している。
永禄11年(1568年)、六角氏が滅亡した後は織田信長に仕えた。

天正7年(1579年)に死去。享年72。

人物・逸話
六角家の重臣の中では重鎮の中の重鎮であり、永禄5年(1562年)には徳政令を独自に発布している。
六角定頼とは主従の絆で結ばれていたが、六角義賢の時代からは主従の力が逆転してむしろ蒲生定秀の力のほうが上であり、永禄7年(1564年)には観音寺騒動で居城を追われて生活苦にあえぐ主君六角義賢に対して金銭を貸し、しっかりと返済の約束も取り付けたりしている。

系譜
父:蒲生高郷(?-1530)
母:不詳
正室:馬淵山城守の娘
長男:蒲生賢秀(1534-1584)
次男:青地茂綱(?-1570) - 青地長綱の養子
生母不明の子女
三男:小倉実隆(?-1564) - 小倉実光の養子
女子:関盛信正室
女子:神戸具盛室
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