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【滋賀・近江の先人第90回】東京陸軍軍法会議判士長(二・二六事件)も務めた陸軍大 将・磯村 年(滋賀県)

磯村 年(いそむら とし、明治5年9月(1872年10月頃) - 1961年(昭和36年)9月12日)は、陸軍の軍人。最終階級は陸軍大将



滋賀県は歴代4人の大将を輩出しているがこの中で83年前のに起こった「2・26事件」の軍事裁判長の一人が「磯村 年」であった。


中村 覚(なかむら さとる)、安政元年2(1854年) - 大正14年(1925年)。陸軍大将。
三須 宗太郎(みす そうたろう、安政2年8月6日(1855年) - 大正10年(1921年)。海軍大将。
磯村 年(いそむら とし)、明治5年9月(1872年) - 昭和36年(1961年)。陸軍大将。
喜多 誠一(きた せいいち)、明治19年(1886年) - 昭和22年(1947年)。陸軍大将。


磯村 年は、滋賀県士族・平田繁の二男(石川士族・平田栄二男との説もある)として生まれ、陸軍中佐・磯村惟亮の養嗣子となる。
東京府尋常中学、陸軍幼年学校を経て、1893年(明治26年)7月に陸軍士官学校(4期)卒業。翌年3月、砲兵少尉に任官し野戦砲兵第3連隊付となる。1900年(明治33年)12月、陸軍大学校(14期)卒業。

日露戦争において大本営陸軍部参謀を経て、第一次世界大戦における通称・青島攻略戦と呼ばれるドイツの要衝・青島へ独立第18師団高級参謀として出撃。

1918年(大正7年)、陸軍少将に進級。1月に広島湾要塞司令官に補職。その後に野戦砲兵射撃学校長を経て、
1921年(大正10年)3月28日、シベリア出兵により、途中、浦塩派遣軍参謀長に就任。
1922年(大正11年)8月、陸軍中将に昇進し陸軍砲工学校長となる。翌年8月、第12師団長に親補され、
1926年(大正15年)7月、関東大震災により設けられた東京警備府司令官に就任。

1928年(昭和3年)8月10日、陸軍大将に進級し、予備役編入となる。
1937年(昭和12年)2月17日、二・二六事件の後、直ちに召集され、参謀本部付となる。東京陸軍軍法会議・真崎甚三郎裁判における判士長就任。
1938年(昭和13年)4月、後備役。

■ヒストリー
滋賀県士族平田繁の二男、陸軍中佐磯村惟亮の養嗣子妹は陸軍中将藤田進に嫁す
長男は陸軍中将磯村武亮娘は陸軍中将国分新七郎に嫁す

明治5年9月30日 生
明治26年7月25日 陸軍士官学校卒業
明治27年3月7日 任陸軍砲兵少尉
明治30年12月28日 陸軍大学校入校
明治33年12月20日 陸軍大学校卒業(第14期)
明治43年11月30日 野砲兵第12聯隊長
大正2年1月15日 野砲兵第16聯隊長
大正2年7月3日 陸軍砲兵大佐
大正2年8月22日 第18師団参謀長
大正3年8月16日 独立第18師団高級参謀(青島攻略)
大正5年4月10日 参謀本部編制動員課長
大正6年8月6日 参謀本部庶務課長
大正7年1月18日 陸軍少将・広島湾要塞司令官
大正7年7月24日 野戦砲兵第3旅団長
大正8年4月15日 陸軍野戦砲兵射撃学校長
大正10年3月28日 浦塩派遣軍参謀長
大正11年7月10日 参謀本部附
大正11年8月15日 陸軍中将・陸軍砲工学校長
大正12年8月6日 第12師団長
大正15年7月28日 東京警備司令官
昭和3年8月10日 陸軍大将・待命
昭和3年8月29日 予備役
昭和12年 東京陸軍軍法会議判士長(二・二六事件)
昭和36年9月12日 没

 

■家族
磯村武亮 従五位(明治31年生まれ)(磯村年の長男)
陸軍士官学校、陸軍大学校各卒
陸軍中将

磯村尚徳(磯村年の孫)
昭和4年生まれ、磯村武亮二男(磯村年ー武亮ー尚徳)学習院大政経卒
NHKニュースキャスター、NHK報道局長、専務理事待遇特別主幹

<Wikipediaより引用>

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