建部 七郎右衛門(たけべ しちろうえもん、1615?-1691)は、安土桃山時代から江戸時代初期、蝦夷地進出の先駆けとなった近江商人。
元和(げんな)元年?生まれ。近江(おうみ)(滋賀県)柳川の人。同郷の田付(たつき)新助(福島屋)らと相互扶助組織の両浜組をつくり蝦夷地交易に従事。松前藩の場所請負人となって漁場を経営した。元禄(げんろく)4年死去。77歳?。屋号は材木屋。
藤野喜兵衛 、田付新助らの後輩の近江商人も蝦夷地で活躍している。
ヒストリー
建部七郎右衛門、諱は元重と言う。建部氏は東近江市の建部地区があるが、元々佐々木・六角氏家臣で、父建部重武は天正元年(1573年)織田信長との戦いに敗れ一家離散。七郎右衛門は近江愛知郡柳川村(現滋賀県彦根市柳川町)に暮らし、武士を捨て帰農したとされる。
七郎右衛門は天正16年(1588年)野菜類の種子の行商で福山(現北海道松前町)に渡り、その後,
度々近江と松前を往復した。
天正18年(1590年)には、松前藩主の蠣崎慶広に面会し北海交易に食い込むと共に豊臣秀吉との謁見を勧めたと伝えられる。
天正16年(1588年)、同じ建部出身の「田付新助」も北方商売を志し、松前、奥羽方面を行商したが、建部七郎右衛門の蝦夷入りも田付の行商に触発されてのことという。
なお、建部家過去帳によると建部元重は元禄4年(1691年)に数え77歳で死去、元重の父重武は寛永12年(1635年)死去とされている。過去帳に従うならば前項記載事項(蠣崎慶広への秀吉謁見の話等)や、七郎右衛門が同郷の田付新助の相談に乗った結果、新助が慶長年間(1596年 - 1615年)に津軽の鰺ヶ沢、渡島国松前郡福山(現北海道松前町字福山)に出店したとの話もありえないことになる。
但し、七郎右衛門が江戸時代初期に松前進出を果たし巨利を得、若狭小浜や越前敦賀で大船を建造し、主に米・味噌や生活用品を松前に運び、松前からはエゾマツ、トドマツ、アスナロなどの材木を上方に運んだ(北前船)とされ、屋号も『材木屋』と称していたことは事実である。
建部氏の氏神である大宮神社(彦根市柳川町)には、七郎右衛門の持ち船(韋駄天丸・自在丸)が描かれた『松前渡海絵馬』が奉納されている。
<Wikipediaより>