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【国際線フライトと海外の旅の物語】(第4回) 初渡航先「バングラデシュ」の強烈な印象

 私の初めての海外渡航先は1974年の「バングラデシュ」であった。
バングラデシュは1971年12月16日にパキスタンから独立した。独立前はインドを挟んだ西側の「東パキスタン」である。

 バングラデシュはインドの東側にあるベンガル湾に面し、豊かな緑と多くの川や水路が特徴の南アジアの国。パドマ川(ガンジス川)、メグナ川、ジャムナ川が肥沃な平野を形成している。
 バングラデシュは南アジアにおけるイスラム圏国家の一つ。人口は1億5,940万人で、都市国家を除くと世界で最も人口密度が高い国で、人口数は世界第7位である。
 1971年独立後はアワミ連盟のシェイク・ムジブル・ラフマンが首相となった。1975年にクーデターが起き、ムジブル・ラフマンが殺害されている。
 現在はアジアの最貧国に属する。しかし近年は労働力の豊富さ、アジア最低水準の労働コストの低廉さに注目した、多国籍製造業の進出が著しい。
第3国への輸出のほか、人口の多さからスマートフォンなどはバングラデシュ国内市場向けにも生産されている。新興国として期待されるNEXT11の1つに数えられている。 


 1974年当時、外交官や商社員などの人以外、普通の人はアジアの最貧国で疫病がありそうな「バングラデッシュ」なんて行きはしない。そのように思われていた「バングラデシュ」に約1週間、それでも行った。趣味の為であった。
 バンコクからダッカまでのフライト時間は2時間程度である。上空から見るバングラデシュは正にデルタ地帯。洪水が常態化するデルタの構造を垣間見た。

 1974年当時、バングラデシュは独立後3年経っていたが独立前の西パキスタンに人材を含めて殆ど全てのものを搾取持ち去られ、また、私が行った1974年は全土が洪水に見舞われ困窮を極めていた。
 デルタ地帯に立国するバングラデシュでは洪水は付きものであるがこの年は規模が大きかったようだ。到着後の首都ダッカもまだ傷跡が色濃く残り、平地の多くの田んぼは沼や池のようになっていた。

 バングラデッシュに到着してまず驚いたのはダッカ空港での出来事である。
空港ビルは人盛りで人々が溢れていた。それは半端な数ではなかった。後から友人のオランダ人に聞いたが彼らは出迎えに来ているのではなく、豊かな外国人から恵みを得ようと空港に押し寄せていたのである。

 私は戦後生まれで戦争中や終戦直後の悲惨さを体験していない。ダッカ空港の入管と通関を終えゲートを出ると新聞やテレビで見た光景の物乞いの人の山。手を差し出し、服を掴み引っ張る、ぞろぞろといつまでも付いて来る。言葉は判らなかったが”Give me a money”だったに違いない。
 また、飛行機から降りてくる人は金持ちに見えたに相異ない。私はそれらの慣れぬ光景に戸惑い、お金を与えようとしていた。すると友人は横から止めておけと冷たく言って静止させた。何故だと聞くとこんな多くの人々の偶然の極一握りの人にお金をあげて何の役に立つと言うのだと。。。。
それは単なる自己満足、感傷の気休めにしかならないと言い放った。この時、冷たい奴だなと一瞬思ったがこのときの光景は私の心に強いインパクトを残した。

 また、こんなこともあった。滞在中友人のバイクに乗せて貰ってダッカの旧市街に出かけた時、空港と同様に物乞いを迫られたり、多数の人ごみの中で顔を布で覆った人にまた何かくれと衣服を引っ張られたことがあった。振り返ってその人の顔を見たら何と顔の皮膚が崩れているではないか。一見にして天然痘(ハンセン病)だと思いビクッとしたことを覚えている。

 この年のバングラデシュは大洪水後だったから特別だったかも知れないが街の至るところに地方から首都ダッカへ出てきた人で溢れ返っていた。また逆に裕福な人もいた。一部の裕福者と大多数の貧者のコントラストにも強い衝撃を受けていた。
 これらのバングラデシュの経験が後年、海外ボランティアを志すモチベーションの1つになったに違いない。
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