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【滋賀・近江の先人第41回】城造りの名人/一土豪から遂に大名に・藤堂高虎(滋賀県甲良町)

藤堂 高虎(とうどう たかとら)、弘治2年(1556年)-寛永7年(1630年)、は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。伊予今治藩主。後に伊勢津藩の初代藩主となる。藤堂家宗家初代。近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)出身。

弘治2年(1556)、現在の甲良町在士に生まれる。
44歳の時、関ヶ原の戦いで家康に従軍し、功績をたて今治(現愛媛県)20万石の城主となる。
以後、 丹波篠山城・亀山城(京都府)の普請奉行に任ぜられ、58歳で江戸城の普請奉行となる。
61歳の時、東照宮(栃木県)の縄張りの功績で32万石余の大大名 となる。
74歳でその生涯を終え、三重県津市に葬られる。
藤堂 高虎「何度も主君を変えた戦国武将」として知られる。
築城技術に長け、宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城・二条城などを築城し黒田孝高、加藤清正とともに名人として知られる。
高虎の築城は石垣を高く積み上げることと堀の設計に特徴があり、石垣の反りを重視する加藤清正と対比される。


浅井家臣時代
弘治2年(1556年)1月6日、近江国犬上郡藤堂村(現・滋賀県犬上郡甲良町在士)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる(長兄・高則は早世)。
藤堂氏は先祖代々在地の小領主であったが、戦国時代にあって没落しており、農民にまで身を落としていた。幼名を与吉と名乗った。

始め近江国の戦国大名・浅井長政に足軽として仕え、元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参戦して首級を取る武功を挙げ、長政から感状を受ける。
天正元年(1573年)に小谷城の戦いで浅井氏が織田信長によって滅ぼされると、浅井氏の旧臣だった阿閉貞征、次いで同じく浅井氏旧臣の磯野員昌の家臣として仕えた。
やがて近江国を去り、信長の甥・織田信澄の家臣として仕えるも長続きしなかった。このように仕官先を転々として流浪生活をしている間、無銭飲食をしたという話も残っている。

豊臣家臣時代
天正4年(1576年)に信長の重臣・羽柴秀吉の弟・秀長(後の豊臣秀長)に300石で仕える。
天正9年(1581年)には但馬国の土豪を討った功績により3,000石の所領を加増され、鉄砲大将となった。
秀長のもとでは中国攻め、賤ヶ岳の戦いなどに従軍する。賤ヶ岳の戦いで佐久間盛政を銃撃して敗走させ、戦勝の端緒を開く抜群の戦功を挙げたため、1,300石を加増された。

天正13年(1585年)の紀州征伐に従軍し、10月に湯川直晴を降伏させ、山本主膳を斬った。
また、秀長の命令で雑賀党の鈴木重意を謀略で自害に追い込んだと言われる。戦後は紀伊国粉河に5,000石を与えられ、猿岡山城、和歌山城の築城に当たって普請奉行に任命される。これが高虎の最初の築城である。

同年の四国攻めにも功績が有り、秀吉から5,400石をさらに加増され、1万石の大名となった。方広寺大仏殿建設の際には材木を熊野から調達するよう秀吉から命じられている。

天正14年(1586年)、関白となった秀吉は、秀吉に謁見するため上洛することになった徳川家康の屋敷を聚楽第の邸内に作るよう秀長に指示、秀長は作事奉行として高虎を指名した。
高虎は渡された設計図に警備上の難点があるとして、独断で設計を変更、費用は自分の持ち出しとする。
後に家康に引見され、設計図と違う点を尋ねられると、「天下の武将である家康様に御不慮があれば、主人である秀長の不行き届き、関白秀吉様の面目に関わると存じ、私の一存で変更いたしました。御不興であれば、ご容赦なくお手討ちください」と返した。家康は高虎の心遣いに感謝したという。

天正15年(1587年)の九州征伐では根白坂の戦いで島津軍に攻められた宮部継潤を救援する活躍を見せて2万石に加増される。
この戦功により、秀吉の推挙を受けて正五位下・佐渡守に叙任する。天正17年(1589年)、北山一揆の鎮圧の拠点として赤木城(現三重県熊野市紀和町)を築城した。

天正19年(1591年)に秀長が死去すると、甥で養子の豊臣秀保に仕え、秀保の代理として翌年の文禄の役に出征している。
文禄4年(1595年)に秀保が早世したため、出家して高野山に上るも、その将才を惜しんだ豊臣秀吉が生駒親正に説得させて召還したため還俗し、5万石を加増されて伊予国板島(現在の宇和島市)7万石の大名となる。

慶長2年(1597年)からの慶長の役にも水軍を率いて参加し、漆川梁海戦では朝鮮水軍の武将・元均率いる水軍を殲滅するという武功を挙げ、南原城の戦いと鳴梁海戦にも参加し、帰国後に大洲城1万石を加増されて8万石となる。
この時期に板島丸串城の大規模な改修を行い、完成後に宇和島城に改称している。朝鮮の官僚・姜沆を捕虜にして日本へ移送したのもこの時期である。

関ヶ原の戦い


↑関ヶ原の戦いの藤堂高虎・京極高知陣跡(岐阜県不破郡関ケ原町)

慶長3年(1598年)8月の秀吉の死去直前から、徳川家康に接近する。高虎は元々家康と親交を有しており、豊臣氏の家臣団が武断派・文治派に分裂すると、高虎は徳川家康側に与した。

慶長5年(1600年)、家康による会津征伐に従軍し、その後の河渡川の戦いに参戦する。
9月15日の関ヶ原本戦では大谷吉継を相手に戦闘を行った。また、留守中の伊予国における毛利輝元の策動による一揆を鎮圧している(毛利輝元の四国出兵)。更に脇坂安治や小川祐忠、朽木元綱、赤座直保らに対して、東軍への寝返りの調略を行っている。

戦後、これらの軍功により家康からはこれまでの宇和島城8万石の安堵の他、新たに今治城12万石が加増され、合計20万石となった。
これにより、高虎は新たな居城を今治城に定めて改築を行い、宇和島城には高虎の従弟藤堂良勝が城代として置かれた。

江戸時代
その後、高虎は徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げたため、慶長13年(1608年)に伊賀上野藩主・筒井定次の改易と伊勢津藩主・富田信高の伊予宇和島藩への転封で今治城周辺の越智郡2万石を飛び地とし、伊賀国内10万石、並びに伊勢安濃郡・一志郡内10万石で計22万石に加増移封され、津藩主となる。
今治城は高虎の養子であった藤堂高吉を城代として治めさせた。
家康は高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格(別格譜代)として重用した。

慶長19年(1614年)からの大坂冬の陣では徳川方として参加する。
翌年の大坂夏の陣でも徳川方として参戦し、自ら河内方面の先鋒を志願して、八尾において豊臣方の長宗我部盛親隊と戦う(八尾の戦い)。この戦いでは長宗我部軍の猛攻にあって、一族の藤堂良勝や藤堂高刑をはじめ、600人余りの死傷者を出している。
戦後、その功績により伊賀国内と伊勢鈴鹿郡・安芸郡・三重郡・一志郡内で5万石を加増され計27万石になり、同年閏6月には従四位下に昇任した。

家康死去の際には枕元に侍ることを許され、家康没後は第2代将軍徳川秀忠に仕えた。

元和3年(1617年)新たに伊勢度会郡田丸城5万石が加増され、弟正高が下総国で拝領していた3000石を津藩領に編入し、これで津藩の石高は計32万3000石となった。

なお、田丸5万石は元和5年(1619年)に和歌山城に徳川頼宣が移封されてくると紀州藩領となり、藤堂家には替地として大和国と山城国に5万石が与えられた。

高虎は一方で内政にも取り組み、上野城と津城の城下町建設と地方の農地開発、寺社復興に取り組み、藩政を確立させた。また、幕府の命令で陸奥会津藩と讃岐高松藩、肥後熊本藩の後見を務め、家臣を派遣して藩政を執り行った。

寛永7年(1630年)10月5日に江戸の藤堂藩邸にて死去。享年75。
後を長男の高次が継いだ。養子の高吉は高次の家臣として仕え、後に伊賀名張に転封、分家を興した(名張藤堂家)。

墓は東京都台東区上野恩賜公園内の寒松院。また、三重県津市の高山神社に祀られている。
屋敷は東京都千代田区神田和泉町他にあった(町名の和泉町は高虎の官位和泉守にちなむ)。


人物・逸話

弘治2年(1556)、現在の甲良町在士に生まれる。
44歳の時、関ヶ原の戦いで家康に従軍し、功績をたて今治(現愛媛県)20万石の城主となる。
以後、 丹波篠山城・亀山城(京都府)の普請奉行に任ぜられ、58歳で江戸城の普請奉行となる。
61歳の時、東照宮(栃木県)の縄張りの功績で32万石余の大大名 となる。
74歳でその生涯を終え、三重県津市に葬られる。

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エピソード1  ~ 15歳にして191センチの体格 ~

生まれたとき乳母一人の乳だけでは足りず、家来の女房から乳をもらった。
3歳には餅を食べ、6歳で大人の食事をし、7歳で40キロの荷物を持ち、元服の15歳には背丈が191センチもあったたくましい子どもであった。

エピソード2  ~ 誠意ある人柄 ~

生涯を通じて誠意を尽くす人であった。
若い頃仕えていた浅井家の滅亡後、豊臣秀吉の異父弟秀長に仕えたが、秀長とその子秀俊の死後、出家(僧になる)まで しようとした。
また、特に尽くした徳川家康にも、死後も奉公すると家康と同じ天台宗に宗派をかえたのも見事な献身ぶりといえる。

エピソード3  ~ 築城土木の天才 ~

高虎は築城工事にも優れていた。
秀吉時代は伊予大洲城、宇和島城、家康時代にはヨーロッパの技術を取り入れた今治城、二条城、石垣技術を生かした大坂城 (再建)、そして城主となった津城、日光東照宮などである。
秀忠の命で日光東照宮の大棟梁(責任者)になった甲良豊後守宗廣は高虎と同じ甲良町出身である。高虎46歳、宗廣28歳の時であった。

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身体的特徴
身長は6尺2寸(約190センチメートル)を誇る大男だったと言われている。
高虎の身体は弾傷や槍傷で隙間なく、右手の薬指と小指はちぎれ、左手の中指も短く爪は無かった。左足の親指も爪が無く、満身創痍の身体であり、75歳で高虎が死去した際に若い近習が遺骸を清めて驚いたと言われている。

家臣への対応
高虎は8度も主君を変えた苦労人のため人情に厚く、家臣を持つことに余り頓着せず、暇を願い出る者があるときは「明朝、茶を振る舞ってやろう」と言ってもてなして自分の刀を与え「行く先がもしも思わしくなければいつでも帰ってくるが良いぞ」と少しも意に介しなかった。
そしてその者が新たな仕官先で失敗して帰参を願い出ると、元の所領を与えて帰参を許したという(江村専斎の『老人雑話』)。
この高虎の行為に家臣が反発すると「臣僕を使うのに禄だけでは人は心服しない。禄をもらって当然と思っているからだ。人に情けを掛けねばいけない。そうすれば意気に感じて、命を捨てて恩に報いようとするものだ。情けをもって接しなければ、禄を無駄に捨てているようなものである」と述べたと伝わる。

戦国時代並びに江戸時代初期、主君が死ぬとその後を慕って殉死する者が絶えなかったが、高虎はこれを厳禁とした。
生きていれば頼りない嫡子の高次を支えてくれる有能な人材であるためだった。
そこで国元において箱を書院に置き、「自分が死んだら殉死しようと考えている者はこの箱に姓名を記した札を入れよ」と命じた。
開けてみると40人余の札があり、続いて駿府屋敷でも同じ命令を出すと30人余が名乗り出た。高虎は70人余の名を書いて駿府の家康を訪ね、「私が死んだら殉死を願い出る者がこんなにいます。皆、忠義の者で徳川家の先鋒として子々孫々までお役に立つ者たちです。ですので上意をもって殉死を差し止めて下さい」と嘆願し、家康も了承した。
高虎は家康の書状を受け取ると70人余を集めて家康の上意である事を伝えた上で、「殉死を願い出た者は殉死したも同然である。家康公の厳命に背いてはならぬ。殉死は絶対に許さぬ」と自分の死後は腹を切らずに切腹したつもりで藤堂・徳川両家のために働くように命じた。
この70人の中に1人だけ命令に同意しない者がいた。彼は合戦で右腕を失っており、生き長らえても役には立たないから自分は殉死させてほしいと願い出た。
しかし、高虎は許さず、家康もこれを聞かされて「藤堂は我が徳川の先鋒。命令に違えて1人でも殉死したら藤堂の先鋒を取り消す」と厳命したため、その者も生きる事に同意したという。

江戸時代を通じて津藩藤堂家の家臣は高虎のある遺訓を座右の銘とした。それは「寝屋を出るよりその日を死番と心得るべし。かように覚悟極まるゆえに物に動ずることなし。これ本意となすべし」である。
つまり高虎は毎日を今日こそが死ぬ日だとの覚悟を持って生きよと家臣に言い聞かせたのである。現在、伊勢の津城跡には高虎の騎乗像と共にこの遺訓を記した碑が建っている。

加藤嘉明との対立
慶長の役において加藤嘉明と功を競い、仲が良くなかった。
高虎の領地が今治藩、嘉明のそれが伊予松山藩と隣接していたことも事情にあるとされる。
別の話もある。
陸奥会津藩主の蒲生氏が嗣子無く改易されたとき、徳川秀忠は高虎に東北要衝の地である会津を守護させようとした。しかし高虎は「私は老齢で遠方の守りなどとてもできませぬ」と辞退した。
秀忠は「では和泉(高虎)は誰がよいと思うか?」と質問すると「伊予の加藤侍従(嘉明)殿です」と答えた。秀忠は「そちは侍従と不仲だったのではなかったか?」と訊ねた。
当時の加藤嘉明は伊予20万石の領主で、会津への国替えになれば40万石の太守になり、30万石の高虎より上になる。
しかし、高虎は「遺恨は私事でございます。国家の大事に私事など無用。捨てなければなりませぬ」と答えた。後にこれを聞いた加藤嘉明は高虎に感謝して和解したという(『高山公言行録』『勢免夫話草』)。

何度も主君を変える
藤堂高虎は何人も主君を変えたことから、変節漢あるいは走狗といわれ、歴史小説などでは否定的に高描かれる傾向が多い。
しかし室町時代では、家臣は自分の働きに見合った恩賞を与え、かつ将来性のある主君を自ら選ぶのが当たり前であり、何度も主君を変えるのは不忠でも卑しい事でもなかった。
高虎は、取り立てて血筋がよかったわけでもないにも関わらず、彼は己の実力だけで生き抜いてきた。
織田信澄に仕えていたときにも大いに功績を挙げたが、信澄は高虎を嫌って加増しようとしなかった。そのため、高虎は知行を捨てて浪人し、羽柴秀長のもとで仕えたと言われている。

高虎は豊臣秀長に仕えていた時分には忠実な家臣であり、四国攻めの時には秀長に従って多大な功績を立てている。
また秀長が亡くなるまで忠節を尽くしている。

そのため幕府軍側から「さすが藩祖の幕末の鳥羽・伏見の戦いで、藤堂氏の津藩は彦根藩と共に官軍を迎え撃ったが、幕府軍の劣勢を察すると真っ先に官軍に寝返り、幕府側に砲撃を開始した。薫陶著しいことじゃ」と、藩祖高虎の処世に仮託して皮肉られたという。だが一方、寝返った藤堂家は官軍の日光東照宮に対する攻撃命令は「藩祖が賜った大恩がある」として拒否している。
この津藩の寝返りが藤堂高虎の悪評を決定づけてしまったため、高虎にはありもしない悪評がつきまとうようになったと羽生道英は著書『藤堂高虎』の後書きで弁じている。


徳川家康との逸話
家康は大坂夏の陣で功を挙げた高虎を賞賛し、「国に大事があるときは、高虎を一番手とせよ」と述べたと言われている。
徳川家臣の多くは主君を度々変えた高虎を余り好いていなかったらしいが、家康はその実力を認めていたようである。
大坂夏の陣で高虎がとった捨て身の忠誠心を認め、晩年は家康は高虎に信頼を寄せた。高虎について「神祖(家康)の神慮にかなっていただけでなく、今の大御所(秀忠)も世に頼もしく思い、家光公も御父君に仰せられる事の多くを、この人(高虎)に仰せになった」とあるほど、徳川3代の将軍に信任を受けていた。

関ヶ原の合戦では大谷吉継、大坂夏の陣では長宗我部盛親隊という常に相手方の特に士気の高い主力と激突している。
関ヶ原以降、徳川軍の先鋒は譜代は井伊、外様は藤堂というのが例となった。なお、高虎は大谷吉継の墓を建立している。

高虎は自分が死んだら嫡子の高次に伊勢から国替えをして欲しいと家康に申し出た。家康が理由を訊ねると「伊勢は徳川家の要衝でしかも上国でございます。このような重要な地を不肖の高次がお預かりするのは分に過ぎます」と答えた。
しかし家康は「そのような高虎の子孫ならこそ、かかる要衝の地を守らねばならぬ。かつて殉死せんと誓った二心の無い者たち(前述)に守らせておけば、もし天下に大事が起こっても憂いが無いというもの。そちの子孫以外に伊勢の地を預けられる者などおらぬ」と述べたという。

秀忠がある日開いた夜話会で、高虎は泰平のときの主の第一の用務は、「家臣らの器量を見抜き、適材適所につけて十分に働かせることと述べた。次に人を疑わないことが大切で、上下の者が互いに疑うようになれば心が離れてしまい、たとえ天下人であろうと下の者が心服しないようになれば、肝心のときに事を謀ることもできず、もし悪人の讒言を聞き入れるようなことになれば、勇者・智者の善人を失うであろう」と語った。

家康はのちにこの高虎の言葉を聞いて大いに感動したという。
元和2年(1616年)、死に際した家康は高虎を枕頭に招き、「そなたとも長い付き合いであり、そなたの働きを感謝している。心残りは、宗派の違うそなたとは来世では会うことができぬことだ」と言った。
その家康の言葉に高虎は「なにを申されます。それがしは来世も変わらず大御所様にご奉公する所存でございます」と言うとその場を下がり、別室にいた天海を訪ね、即座に日蓮宗から天台宗へと改宗の儀を取り行い「寒松院」の法名を得た。
再度、家康の枕頭に戻り、「これで来世も大御所様にご奉公することがかないまする」と言上し涙を流した。

政治家
武勇だけではなく、津藩の藩政の基礎を築き上げた内政手腕のほか、文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあった。

三大築城名人の1人と言われるほどの城郭建築の名人として知られる。
慶長の役では順天倭城築城の指揮をとった。この城は明・朝鮮軍による陸海からの攻撃を受けたが、全く敵を寄せ付けず撃退に成功し、城の堅固さが実戦で証明された。また層塔式天守築造を創始し、幕府の天下普請で伊賀上野城や丹波亀山城などを築いた。
本領の津藩のほかに幕府の命で、息女の輿入れ先である会津藩蒲生家と高松藩生駒家、更には加藤清正死後の熊本藩の執政を務めて家臣団の対立を調停し、都合160万石余りを統治した。これらの大名家は、高虎の存在でかろうじて家名を保ったと言え、彼の死後はことごとく改易されている。

遺言
高虎は死去する5年前に嫡子の高次に対して遺言を遺している。
わかりやすくいえば「仁義礼智信、1つでも欠ければ諸々の道は成就しがたい」である。
高虎は人の上に立つ人間には五徳が絶対不可欠であり、これを心に戒めて高次に文武両道に励むように求めた。
ただ当時は既に泰平の世であるため、戦国を経験した者から詳しく聞いて指針にするように述べている。
他に奉公の道に油断なく励む事、人の意見はよく聞いて常に良き友人と語り合い意見してもらい、身分の上下を問わずに良き意見は用いる事、人をもてなす場に遅刻しない事、長酒はしてはならない事を述べている。
特に奉公の道は厳しく説いており、「主君がお尋ねの折には、直ちに参上せよ。虚病と偽るなどはもってのほかで、気ままな心持ちであってはならぬ」と戒めている。
他には「年貢に携わる代官の報告もよく聞き、懇ろに召し使う事、戦いにおいて兵糧、玉薬が続かなければ長陣もかなわないので、侍と実務の代官は車の両輪のように思え」「武家として鉄砲・弓・馬以下の家職を忘れてはならず、諸侍には憐憫の情をかける事」などを諭している。
その上で最後に「自分は小者から苦労して今の地位を得た事を考えれば、これくらいの遺訓を守る事は苦労ではなかろう」と高次に釘を刺している。

<Wikipedia引用>

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