”スローライフ滋賀” 

中日新聞<わたシガ名探偵> 古墳時代の近江・愛荘で栄えた「依智秦氏」とは

 最近に中日新聞で紹介された興味深い古代人物「依智秦氏」の記事を以下に紹介する。
ブログ筆者も2020年に「依智秦氏の里古墳公園」を訪れている。
 
*****************************

 滋賀県愛荘町の取材でたびたび耳にする渡来系の「依智秦氏(えちはたうじ)」。春は桜の名所として知られる愛荘町上蚊野の「依智秦氏の里古墳公園」にも、その名がつく。

一体、この町にどんな影響をもたらした存在なのか、興味が湧いた。
 「渡来人」という言葉は、高校までの社会科で習った記憶がぼんやりとある。朝鮮半島などからやってきて、漢字など大陸の文化を伝えてくれた人たちだったはず…。なぜ湖国に、愛荘の地に訪れたのだろう。

 滋賀県愛荘町立歴史文化博物館の古代担当、大友暢学芸員を訪ねた。

 渡来人は、古墳時代の4〜6世紀ごろ、日本に渡って来た。中でも有力だったのが、その名の通り、漢字などを伝え秘書官として政治にも関与した「漢(あや)氏」と、土木や織物などを伝えた技術集団の「秦氏」。
 秦氏は2万人ほどが渡来し、現在の京都市(太秦)を本拠地とした。その一部が湖国に定住したとされる。血縁のある種族ではなく、現在の朝鮮半島南東部にあった国「新羅」の出身とされ、同じ地域出身の集団だそうだ。
 表記は「愛知」「愛智」とさまざまだったが、当時から愛荘の地は「えち郡」と呼ばれた。地名と、そこに住む秦氏が名乗る「依智秦氏」のどちらが先かは定かではないという。

 4世紀ごろ湖国にたどり着き、古墳時代後期の6世紀ごろに愛荘で繁栄したとされる「依智秦氏」。
琵琶湖から離れたこの土地の水田開発を進め、水稲農耕の発展に貢献した。また、織物の技術も広めた功績があるとされる。「近江上布につながる麻の織り方も伝えたのでは」と大友さん。現在の滋賀県愛荘町でもさかんな産業の礎が、この頃できたのかもしれない。

 そうした功績から地域の有力豪族となり、古墳に葬られた。6世紀中期〜7世紀初期に、盛んに築かれたとされる。かつては、宇曽川流域に滋賀県内最大規模の298基の古墳があり、「金剛寺野古墳群」と総称された。昭和の発掘調査で土器などの副葬品も多く見つかった。戦後の開墾などで多くが解体され、現存するのは約20基

 うち10基が保存される古墳公園に足を運んでみた。
一見小高い丘が点在する公園だが、その丘の正体が古墳だという。うち6基は、日本式とは異なる構造だ。

↑写真:中日新聞より

 石室内を見学できる「たぬき塚古墳」をのぞいてみた。朝鮮式の構造で、棺おけを入れる「玄室」とその手前の通路「羨道」に約35cmの段差があるのが特徴という。古墳の構造から、朝鮮半島から渡った渡来人のものであると推測される。

 古墳の保存の一方で開墾が進んだ1970年代。地元の人らの関わりも深かった。「がれきがいっぱいあった」と石を起こして田畑にするのに一苦労だったという。石室や副葬品がしっかりと残っていた証拠だ。
 海を渡り、なぜ湖国を定住地に選んだの? 1500年近く前の歴史に解き明かせない謎も深まり、渡来人に聞いてみたいことは山ほどだ。けれど、築かれた遺跡が語る歴史があった。農業と織物がさかんな愛荘のまちをつくった、偉大な存在だ。

(中日新聞石曽根和花記者)

過去に紹介した関連記事
依智秦氏の里-「依智秦氏の里古墳公園」(滋賀県愛荘町)
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/78914b4437b46bc0bb0d3f776cc0a82d

古代近江の英雄 滋賀・湖東愛知郡出身の武将 「秦田来津」の新刊
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/eb016769df1df6c10e9fcf64e559715d

愛荘出身の古代勇士「秦田来津」描く 東近江の丁野さんが「天智天皇と秦田来津」出版
https://blog.goo.ne.jp/ntt000012/e/ba2445b305f29f4e86c59790745ed8ae
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「近江の歴史文化・探訪」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事