岡林 信康(おかばやし のぶやす、1946年7月22日 - )は、日本のミュージシャン。実家は教会で、父親は牧師。近江八幡市出身。現在は京都府亀岡市在住。
ヒストリー
生い立ち
父親は新潟県の出身で30歳まで新潟で農業をしていた。
しかし、閉鎖的な村社会が嫌になって故郷を飛び出し滋賀県の紡績工場に就職。その時期に宣教師のウィリアム・メレル・ヴォーリズに出会い、牧師となるため大阪の神学校に通った後、近江八幡市の田んぼのど真ん中に西洋建築の教会を立てた。
近江八幡市で岡林信康は生まれる。近江兄弟社中学、滋賀県立八日市高等学校を経て、1966年に同志社大学神学部入学。
熱心なキリスト教信者であったが、実家の教会の不良少女の扱い(お祈りをさせないなど)に疑問を感じ「脱出」、その後社会主義運動に身を投じる中で、高石ともやに出会いギターを始める。
フォークシンガーとして
1968年、京都で行われた第3回フォークキャンプに参加。同年9月、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコードデビュー。翌年までに、「友よ」「手紙」「チューリップのアップリケ」、「くそくらえ節」、「がいこつの歌」など、名作・問題作を発表。
その内容から、多くの曲が放送禁止となる。当時、岡林とともに高石友也、高田渡、加川良、五つの赤い風船なども活躍し、プロテスト・フォーク、反戦フォークが若者の間でブームとなった。中でも岡林は一世を風靡し、「フォークの神様」と言われたが、勤労者音楽協議会との軋轢や周囲が押しつけてくるイメージと本人の志向のギャップ(同時期、岡林はすでに直接的なプロテストソングに行き詰まりを感じており、ロックへの転向を模索していた)などにより1969年9月、3カ月余りのスケジュールを残したまま一時蒸発した。書き置きは「下痢を治しに行ってきます」。
1970年4月、コンサートに再登場、「ごめんやす。出戻りです。お互い堅くならんといきましょう」と話した。この時期からボブ・ディランに影響を受けたロックを、当時無名だったはっぴいえんどをバックに展開し始める。「それで自由になったのかい」「私たちの望むものは」「自由への長い旅」などの作品を発表、喝采を浴びて東京に移り住み、一夫一婦制ナンセンスを唱えて自由なヒッピー風生活をするが行き詰る。
1971年の日比谷野外音楽堂での「自作自演コンサート 狂い咲き」および、「第3回中津川フォークジャンボリー」を最後に、再び表舞台から姿を消す。
4年間の農耕生活
やがて岡林は人ぎらい、街ぎらいとなり、三重県で農業共同体を営んでいた山岸会を見学し、「ヤマギシズム」に傾倒。自然の環境に身を置こうと岐阜県中津川近くの山村に移り住み、約1年後京都府綾部市の総戸数17戸の過疎村に居を移し農耕生活を始める。
1973年にソニーへ移籍し、活動を再開。松本隆をプロデューサーに迎え制作されたロック路線のアルバム『金色のライオン』、『誰ぞこの子に愛の手を』などを発表。ディラン風の暗喩を多用した「あの娘と遠くまで」、「26番目の秋」などの曲などを発表するが、相変わらず「フォークの神様」を期待するファンは多かった。この時期はレコードこそ発表はしたが、数度のゲスト出演を除き人前に登場しなかった。
復帰後
数年間の農村生活の間、文明との接点は古ぼけたステレオだけ、次第に肩肘から力がとれた。ふと聞いた西川峰子の「あなたにあげる」を聴いて感激。「おれのものも歌だが、演歌もまた歌だ。歌にはいろいろな役目がある」と、ぽつりぽつりと自分だけの演歌を作り始めた。「月の夜汽車」「風の流れに」が美空ひばりに採用される。4年間にわたる農耕生活を終え山を降り亀岡市に転居。
1975年には、岡林本人もコロムビアに移籍し、演歌路線のアルバム『うつし絵』をコロムビアより発表。 美空ひばりの後押しも受け、12月に中野サンプラザで久しぶりのワンマンコンサートも行った[6]。コロムビアでは他に、新録の2枚組ベストアルバム『岡林信康』、私小説的弾き語りの『ラブソングス』を発表。
しかし『ラブ・ソングス』を音楽評論家の中村とうようが「岡林が演歌をやめてフォークに戻ってきた」と評し、再び「フォークの神様」に戻ることを危惧した岡林は、1978年に偶然テレビで観たピンク・レディーの影響を受けてアルバム『セレナーデ』を発表。これを皮切りに、パロディ色の強い、ニューミュージック路線を展開した。古巣のビクターに再び移籍し、さらに『街はステキなカーニバル』、『ストーム』、『グラフィティ』を発表し路線を深めていく。「ミッドナイト・トレイン」、「Good-bye My Darling」、「君に捧げるラブ・ソング」、「山辺に向いて」などがこの時代の代表曲である。
1980年、テレビドラマ『服部半蔵 影の軍団』のエンディング・テーマである「Gの祈り」を発売。しかし、『ストーム』制作の際、プロデュースを担当した加藤和彦にそれまでの作詞の根本としていた部分を「逃げ」だとして批判されたことで、再び新たなスタイルを模索することになる。
1980年代中頃より、メジャーレーベルとの契約が切れたことなどもあり、往年のフォークスタイルであるギターとハーモニカによる弾き語りツアー「ベアナックルレビュー」を開始し、全国を巡る。また、この頃より、封印していた初期の曲の一部を再び歌うようになる。
エンヤトットの完成〜現在
1981年にロンドンでキング・クリムゾンのロバート・フリップに「俺たちの真似じゃない。日本人のロックを聴かせろ。」と言われたことで、日本民謡的なリズムに乗せた独自のロック「エンヤトット」を思案[7]。平野融らとともに模索を続ける中、韓国の打楽器集団サムルノリと出会い、開眼する。
1987年、自主制作テープ『エンヤトットでDancing』を発表。その後、東芝や日本クラウンなどでアルバムを発表。全国各地でコンサートを行う。
「古いファンからはあまり喜ばれなかった」と本人が語る「エンヤトット路線」ではあったが、2007年10月20日に36年ぶりの日比谷野外音楽堂ライブ「狂い咲き2007」を行うまでに至る。また、前述の日比谷野音ライブに前後した時期から、10年以上「封印状態」にあったURC時代の音源を含む全アルバムが、紙ジャケットで再発された。また、岡林を敬愛するサンボマスターとの競演や、フジロックフェスティバル、COUNTDOWN JAPANなどのロックフェスへの参加、ロック時代の曲を数十年ぶりに再演するミニライブの開催、数々のテレビ出演など、より積極的な活動を行っている。
2009年の九段会館のコンサートで「越後獅子の唄」をカバーしたことをきっかけに、翌2010年、EMIから美空ひばりのカバー曲を中心とした『レクイエム〜我が心の美空ひばり〜』を発表。5月には久々となる全国ツアーも行った。
2011年、「岡林信康コンサートツア-2011」を行い、東名阪のZEEPでライブを行った。
2012年、14年ぶりに作詞作曲をした自主制作シングル「さよならひとつ」を発表した。2016年にはフリー・ジャズの山下洋輔とも共演した。
人物
本人は気さくな性格で、コンサートで「友よ」の歌い出しを「ホモよー♪」と自ら歌うほどである。
前述のように、プロテストソングとしての評価は高く、先輩の小室等は、「岡林、よくぞ歌ってくれた」と『昭和は輝いていた』で絶賛していた。ただし、フォークの神様の称号が、一人歩きする苦悩も垣間見たという。
差別をテーマにした「手紙」「チューリップのアップリケ」は、放送禁止歌の代表例といわれる(実際のところ、放送禁止になっている歌というものは存在しない。抗議などを恐れての自主規制・自粛である)。
2009年、美空ひばり作詞の「むぎばたけの鳥」を作曲した。
岡林の作品の特徴として、「くそくらえ節」のように関西弁と東京弁を混ぜた歌詞もあれば、「山谷ブルース」のように東京弁だけを使用した歌詞もあったりする。
「友よ」は、歌詞の内容からサッカーのJリーグのスタジアムで歌われることがある。大抵は、長期間低迷が続いているクラブのサポーターが低迷脱出を願って試合前などに歌うケースである。