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【滋賀・近江の先人第210回】織田信長の妹・浅井長政/柴田勝家の妻・お市の方(尾張/愛知県・長浜市)

 お市の方(おいちのかた)は、天文16年(1547年)- 天正11年(1583年)、越前北ノ庄城没、37歳。

 戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。小谷の方(おだにのかた)、小谷殿とも称される。名は通説では「於市」で、「市姫」とも云い、『好古類纂』収録の織田家系譜には「秀子」という名が記されているが定かではない。
 戦国大名・織田信長の妹(または従妹)で、信長とは13歳離れている。通説では、父は織田信秀で、五女と伝えられ、母は土田御前とされている。信行、秀孝、お犬の方は同腹の兄姉という。
初めは近江の大名・浅井長政の継室となり、後に織田家重臣の柴田勝家の正室となった。

 子に茶々(豊臣秀吉側室)、初(京極高次正室)、江(徳川秀忠継室)がいる。
孫にあたる人物は豊臣秀頼(茶々の息子)、豊臣完子、千姫、徳川家光、徳川和子(江の娘、息子)など。徳川和子は後水尾天皇の中宮となり、その娘は明正天皇となった。また、今上天皇の先祖に当たる人物でもある。

生涯
 前半生についてはほとんど記録がなく不明である。
婚姻時期については諸説あるが永禄7年(1564年)に浅井長政に嫁いだ。通説には(1568年)永禄10年(1567年)9月または永禄11年早々の1月から3月ごろ、美濃福束城主・市橋長利を介して、浅井長政に輿入れしたともある。
この婚姻によって織田家と浅井家は同盟を結んだ。なお、長政は主家である六角家臣・平井定武の娘との婚約がなされていたが、市との婚姻により破談となっている。

 その後、長政との間に3人の娘を儲ける。この時期、長政には少なくとも2人の息子(万福丸、万寿丸)が居たことが知られているが、いずれも市との間に設けられた子供ではないと考えられているが定かでない

 元亀元年(1570年)、信長が浅井氏と関係の深い越前国(福井県)の朝倉義景を攻めたため、浅井家と織田家の友好関係は断絶した。しかし、政略結婚ではあったが、長政と市の夫婦仲は良かったらしい。永禄13年頃から実家の織田家と浅井家が対立するようになり、緊張関係が生じた時でも、娘を出産したことから夫婦間は円満であったように思える。
 一方で、末娘の江に関しては小谷出生説に異論を唱える史料もあり、延宝7年(1679年)に成立した『安土創業録』(蓬左文庫所蔵)では、小谷城を脱出したのは市と娘2人であり、市は岐阜で江を出産したとある。

 浅井長政が姉川の戦いで敗北した後、天正元年(1573年)に小谷城が陥落し、長政とその父・久政も信長に敗れ自害した。
 市は3人の娘「茶々」「初」「江(江与)」と共に藤掛永勝によって救出され織田家に引き取られる。
 その後は信長の許しを得て、清洲城にて兄の信包の庇護を受け、三姉妹と共に9年余りを過ごしたという。この時の信長の市親子に対する待遇は大変厚く、市や三姉妹のことを気にかけ、贅沢をさせていたという。信包も市や三姉妹を手元で保護し、姪たちを養育したという。
 また、近年の研究成果によると、市と三姉妹は市の兄・信長の弟である織田信包の庇護ではなく、尾張国守山城主で信長の叔父にあたる織田信次に預けられた可能性が高いとされており、織田信次が天正2年9月29日に戦死をした後は信長の岐阜城へ転居することになる。

 信長死後の天正10年(1582年)、柴田勝家と羽柴秀吉が申し合わせて、清洲会議で承諾を得て、柴田勝家と再婚した。従来の通説では、神戸信孝の仲介によるものとされてきたが、勝家の書状に「秀吉と申し合わせ…主筋の者との結婚へ皆の承諾を得た」と書かれたものがあり、勝家のお市への意向を汲んで清州会議の沙汰への勝家の不満を抑える意味もあって、会議後に秀吉が動いたとの説もある。
 婚儀は本能寺の変の4か月後に、信孝の居城岐阜城において行われた。同年、勝家の勧めにより、京都の妙心寺で信長の百箇日法要を営んだ。

 天正11年(1583年)、勝家が羽柴秀吉と対立して賤ヶ岳の戦いで敗れたため、夫と共に市は越前北ノ庄城内で自害した。享年37。
墓所は西光寺(福井県福井市)。菩提寺は自性院(福井県福井市)、幡岳寺(滋賀県高島市)。戒名は自性院微妙浄法大姉、東禅院殿直伝貞正大姉(自性院照月宗貞とも伝わる)

人物
   小谷寺には、市の念持仏と伝えられている愛染明王が納められている。また、戦国一の美女と賞され、さらに聡明だったとも伝えられる。
 長女の淀殿は父・長政の17回忌、母・市の7回忌に菩提を弔うために、両親の肖像画を描かせた。この肖像画は(高野山 持明院)に伝えられており、戦国末から安土桃山時代にかけての貴婦人の正装の典型的なものである。
 『朝倉公記』によると金ヶ崎の戦いの折り、信長に袋の両端を縛った「小豆の袋」を陣中見舞いに送り挟み撃ちの危機を伝えたという広く知られた逸話があるが、この逸話は後世の創作と言われている。
 もっともその頃の風習から、大名間の政略結婚において、女性は実家から婚家へと送り込まれた外交官・間諜としての側面があったため、市は、両家をとりまく状況の変化を情報として得て、それを実家に伝達をする役割を果たしていたことが窺える。
 『溪心院文』によれば、37歳の時点で、実年齢よりもはるかに若い22、23歳に見えるほど若作りの美形であった。

 3人の娘たちの行く末を心配していた市は、北ノ庄城の落城の際には庇護を受ける羽柴秀吉に直筆の書状を送り、3人の身柄の保障を求めた(『溪心院文』)。また、血統の存続を考えての行動でもあった。なお、徳川家に嫁ぎ多くの子を成した江(崇源院)により、その血筋は現在に至るまで続いている。

伝説
 三重県阿山郡阿山町下友田・浄光寺の稲増家の墓所に浅井長政の墓碑がある。
稲増家の始祖治朗郎左衛門は浅井家の重臣であったが、浅井家滅亡ののち、「日比」、さらに「稲増」と苗字を改めて、享保年間に入って、伊勢・伊賀を支配する藤堂家に仕え、伊賀忍術の皆伝を受けたという。
 現在地には、今も江戸時代以来の稲増屋敷が残されているが、同家の土蔵にお市の方の「のど仏」が納められていると伝えられている。

<Wikipedia、「近江戦国の女たち」より引用>

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