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【滋賀・近江の先人第160回】「六角の六家老」の一人・平井定武(高島市)

 平井定武(ひらい さだたけ)、生没年不詳は、戦国時代の武将。近江守護大名佐々木・六角氏の家臣。近江国高島郡平井村(高島市)出身。

ヒストリー
近江国の大名・六角氏の家臣である平井高好の子として誕生。平井氏は近江国高島郡平井村(栗太郡平居村とも)を本貫とした宇多源氏佐々木氏の支流で、佐々木信綱の玄孫の「平井師綱」を祖とする。

 平井定武は同族の六角氏の執政を支え、後藤賢豊、蒲生賢秀、三雲成持、進藤貞治、目賀田綱清らと並ぶ六宿老と呼ばれた。
大永5年(1525年)の六角氏と浅井亮政との戦いでの出陣や、
天文22年(1553年)11月の浅井氏との和議に関する書状、更には石山本願寺への使者として派遣されたことが本願寺側の記録に見えることから、家中で重きを置かれていたことがわかる。

 また、六角氏に臣従した浅井久政の子・浅井賢政(後の長政)の烏帽子親をつとめ、後に娘を浅井長政の嫁に送り込んだ。
しかし、六角氏の専横に怒った浅井家臣団が久政を廃して長政を擁立すると、娘は離縁され平井家に送り返されたという。

永禄11年(1568年)、織田信長が近江に侵攻すると六角氏を離反して信長に降った(『言継卿記』)。
以後の消息は不明である。

 尚、『浅井氏家譜大成』によると、離別された娘は長政との間に「浅井万福丸」を産んだとされ、そのため「平井定武」は「万福丸」の外祖父にあたるとされる。

参考>浅井万福丸
近江国の戦国大名・浅井長政の嫡男として誕生。
生母については不明。長政には二男三女がいたとされるが(『翁草』)、万福丸は『信長公記』に基づく織田信長の妹・お市の方の入嫁以前の出生とされ、長政は六角氏重臣・平井定武の娘とも婚約しており、側室の存在も確認されていたため、万福丸と次男は市の出子でなく継母となった市の養子となった説(『浅井氏家譜大成』)や、市の入嫁時期を永禄4年(1561年)とする見解を示す説があり、市の出子や浅井三姉妹との双子である可能性を示している。幼い頃に、越前の朝倉義景のもとに人質として過ごしたという(『当代記』)。
天正元年(1573年)、織田氏の攻撃による浅井氏の滅亡に伴い、乳父の村喜内之介とともに余呉湖のほとり、あるいは越前駿河地方(『浅井三代記』)に匿われていたが、信長の命で万福丸を執拗に捜索した羽柴秀吉の軍勢によって発見されて、串刺しの刑に処せられた。『信長公記』によれば、処刑は関ヶ原で執行された。「浅井備前が十歳の嫡男」とあり、この時に10歳であったことから、永禄7年の誕生であることがわかる。

墓所: 生蓮寺(滋賀県愛知郡愛荘町平居197)

<Wikipediaより引用>
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