野々市町史通史編に明治末期に写真修業をはじめた同町の写真師について、コラムを書かせていただきました。昨日、調査で大変お世話になった息子さんのところへ、抜き刷りをもってお礼に伺いました。
1000字の記事を書くのに、何度もお宅にお邪魔して、ガラス乾板をみせていただいたり、お話をうかがったり、調査に時間がかかりました。今年2月に発刊されてから、早くお礼にと思いながらも行けずにいたので、ほっとしました。89歳のご高齢なので、お元気な姿を見ることができたのが、一番うれしかったです。
■家族へのやさしいまなざし
中村光海という写真師は、不思議な人でした。プロにもかかわらず、残された写真の点数からすると、家族写真の方が多い。息子さんに聞いたお話をもとに、撮り始めた明治35年頃から昭和30年代までの写真を何度もながめていると、家族思いのやさしいまなざしが感じとれました。
当時はヨーロッパの影響で、日本の写真界には様々な芸術運動が起きます。県内の営業写真師のなかにも、芸術写真を追求した人がいますが、光海さんは関心がなかったのか、写真のスタイルは写真館の肖像写真ぽいものがほとんどです。
でも絵画的な風景写真がないわけではないし。ドキュメンタリーぽい、いいスナップもある。
商売っけがなく、好奇心いっぱいで、いろいろな副業をもち、その上、発明までしてしまう、おもしろい人でした。
「あなたにとって写真とは、何だったんですか?」
光海さんと、お話できればな。いろんな質問が浮かんできて、今になっても、彼のことが気になります。
■時代にふれる
光海さんは、ガラス乾板時代の写真師です。ガラス乾板(フィルムのもと)に刻まれた修整の跡や乾板の箱をみると、その時代にワープしたみたいな感覚、光海さんの作業を見ているような錯覚を感じます。
たとえば、富士写真フィルム株(今の富士フィルム)の創立の翌年、昭和10年に発売された「A-1」乾板の箱が残ってます。それまで輸入品にたよっていた感光材料は、大正時代に国産化がはじまります。日本一の富士山にあやかって、「富士」を社名にしたその会社は、今や国際優良企業です。
■ちょっと心配
このお宅には、光海さんの写真関係のものが、いろいろ残っています。町史編纂事業のときに、残っているものをすべて、きちんと史料化したかったのですが、諸事情から、できませんでした。息子さんが生きている間は、そのままでしょうが、その後のことを想像すると、悲しい思いになります。お金になるものは、どこかへ売られるでしょうし。そして、素人目に何だかわからないものは、捨てられるような気がしてならないからです。そして、歴史の証拠がまたひとつ消えていく。
■写真の歴史的価値
写真を史料として扱うには、撮影年がはっきりしていることが大切です。それが記されていることが一番いいのですが、そんなにうまくはいきません。光海さんの写真も撮影年が記されているもの、また写っている事柄から、判断できるものは、確実に史料価値があります。
じゃ、そうでないものに歴史的な価値がないわけではありません。歴史的価値はあります。その写真をどう扱うか。どう見るかの問題です。これは、今の私たちの問題なのです。