山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
(興味のある話題のカテゴリーを古い順に見て下さい。)

幕末・明治を駈け抜けた長州医家  重宗家 山根家 秋本家 

2023年01月22日 08時37分52秒 | 長州医家 重宗家 山根家 秋本家 物語
幕末・明治を駈け抜けた、或る長州医家

 長州医家で有名なのは青木家であるが、他にも多くの著名な医家もあります。
 
 今回貴重な医家の記録の提供を受けましたので、NET上にUPすることにより、より深い理解と歴史の一証言となる
 と思います。事実誤認や別情報があれば、コメント欄にお知らせ頂きたい。

 尚、この系譜原本は、重宗家、山根家、秋元家の親族である平野氏が自家の史料を基に記述したものを底本としている。
 この底本の現蔵者は周防大島町屋代 高城旅館館主(周防大島学習館長)である高城 俊氏である。
 基本的には個人情報が含まれるので、高城俊氏の了解を取っています。
 氏の父親が重宗家よりの養子のため親族の情報となります。

 しかし、原本以外の(注・説明書)は筆者の挿入です。屋代源三 拝  




『長州医家 重宗家 山根家 秋本家 物語』

              【注・原文は縦書きであるが都合上、横書きで記す】



前書き
  亡母の持ち物の中にあった古い写真を貼付して、長く保存し、併せて亡母が
晩年話して呉れたことを主とし、それに他の人から聞いた話も加へて、重宗家、秋本
家のことを書き留めておきます。
                   平野 秀




「重宗家のこと」

 周防国山口矢原邑(現山口市大歳区矢原。湯田温泉の西南方)に山根と
謂う姓の家があった様である。宗旨は真宗であったらしい。
明和の終りか、天明の始め頃(昭和四十年から数えておよそ百八十年位前)に
右山根家に現山口県吉敷郡小鯖邑から重宗良策と謂う人が婿入りし、亦後
山根姓を重宗姓に改め現重宗家の祖となった。宗旨も山根家の真宗を良策実家
の曹洞宗に改め小鯖邑禅昌寺(注1)の門徒となった。
家紋は九曜星と上羽蝶である。

初代 重宗良策

 良策は立誠堂と号し、眼科医を業とし、その術に秀で名声四隣に及び遠近
来たりて療を受けるものあとを絶たず、家運大いに振ひ、所謂、重宗流眼科医術の
基を築いた、然し、生来多病、齢四十にして手足麻痺しその業を子に譲る。
良策は屋敷内に堂宇を建て薬師如来像を安置していた。来たって療を受ける患者
は同時にその薬師堂を拝し祈願したとの事である。
右仏像は現に富田の重宗家に保存せられてある。良策は又極めて多趣味の人で
或いは力士を食客として・・・・・・・・・・・・・・・・・・

注)「この間 写真在り」

この写真は明治四十二年頃撮ったもので当時樹齢百五十年以上と
謂われていた。私たちの少年時代には開花の季節知人を招いて酒宴
を開いたものである、父は此の管理には特別の意を用いた様である、殊
に父が日露戦争で出征の留守中、母が盛夏の候、灌水、蟻害の
防除等に日夜心を砕いていた様が想い出される、年は流れ此の名木
も遂に力尽き昭和四十三年枯死二百年の命を終わった(秀 記)


良策には二男一女があった。長男を恭安と謂い、重宗家第二代として家業の眼科
医を継いだ。
次男は文季と謂ひ文政十一年子(1829年)父良策の意を体し嘗て良策が婿入り
する前の山根家の姓を嗣ぎ山根家の位牌を奉じて長門萩靍江香川津邑に移り
伴靍堂と称して父より授けられた眼科医の術により一家を構えて患者の診療に当
たった。
尚、長女は吉敷郡門田邑(大内邑門田)益田家臣、岡本仁兵衛に嫁いだ。
都濃郡富田邑にあった開業医土井氏,同郡福川村の開業医尾崎氏は共に
岡本家の関係の人である。
良策は天保三年辰八月十日行年七十一歳で病没した。矢原邑三角原の重宗
家墓地(椹野川畔)に埋葬せられている。尚、妻は弘化二年己に世を去り良策と
同一墓所に葬られた。
  法名は
    良策    立誠堂重宗良策居士
     妻    浄光院壽昌妙願大姉

 (注)  重宗家と山根家との関係は岩波書店発行の吉田松陰全集第五
      巻戌午幽室文稿 山根文季墓誌銘に明記してある。


第二代  重宗恭安

 恭安も亦、眼科の医術に堪能で家運は益々榮た。当時彼の治療を受けた盲目
の琵琶法師で快癒の禮に愛器の琵琶を残して帰ったものが数人に及んだと謂うこと
である。明治中期に重宗家が今の南陽町富田に移るまでその数個は家に保存
せられていたとのことである。
恭安は武術を長松道與に学び文政十三年庚寅九月十九日と天保二年辛卯
五月九日に天下無双兵法二天二刀流目録を授けられた。右目録は現に重宗
家に保存されている。
恭安は文政十年亥、若くして妻(三田尻 重枝家より入嫁)と死別し後妻として
上矢原邑 神保太郎右衛門の長女を迎えた。先妻との間に生まれた長男順造
は弘化二年牛二月三日齢二十八歳で病没した。二男孝中以下三女は後妻
との間の子である。
 二男、孝中は父恭安の弟、山根文季(注2)の長女の婿となり山根家を継ぎその第
二代となった。孝中、亦眼科の術に秀で文久三年十二月十五日、毛利本藩の
医員に召し出され、又、明治維新に際し会津征討軍の長州軍医として従軍した
山根省一、山根正次(注3)等は共に孝中の子である。
 山根文季には為八(注1)と謂う男児がおったが若くして疱瘡の為、一眼を失ひ為に
眼科医として不適当なりしにより早く家を出て、毛利藩の医家小野家を継いだ。
為八、名は正朝と謂い多芸多能の奇士にて吉田松陰に師事し、長崎に出て
地雷火術、写真術等を学び刀槍棒鎖鎌、柔等の武術に秀で、又画をよくした。
維新後一時山口祇園社境内に写真撮影所を開き、晩年には武術の道場を
呉市に開いた。山口県に於ける写真営業の嚆矢である。
明治四十二年頃呉市で病没した。生前の功により従五位を贈られた。妻は孝中
の妹、みね、である、即ち重宗秀熊の母、しげ、の妹である。

山根孝中
重宗恭安の次男
重宗しげ、及び小野
為八妻みねの兄
山根省一、正次の父


注)上記人物の寫眞あり


前記の如く恭安の長男、順造は歳若くして病没し次男孝中は出て山根家を継い
だため、重宗家は恭安の三女しげに婿養子として周防三田尻今宿邑金屋職
右田毛利家臣吉武彦右衛門の三男孝菴を迎え重宗家第三代として眼科医を
継がせた。
恭安は万延元年申十二月十日、齢六十四歳で矢原邑に没し父良策の傍に
葬られた。

  法名は
    恭安    爽翁院重宗恭安居士
    先妻    浄雲院至覺妙光大姉
    後妻    清浄院善入妙室大姉


第三代  重宗孝菴

 孝菴、亦眼科の医術を良くし文久三年亥、三丘宍戸家に医員として召し抱へ
られた。矢作邑の自宅の門内に空高く紺地に「め」の字を染め抜いた幟を常に
上げていた。
孝菴には二男一女があった、長男恭輔は医学修行中、明治十一年十二月一日
二十一歳で病没し、次男秀熊が医師として家を継いだ。
長女さくは最初旧萩藩士陸軍少尉矢野正助に嫁したが、明治十年夫正助が
西南戦争で重傷を受け大阪城内にあった陸軍病院で戦傷死した為、当時一歳
の子、虎若を残して矢野家を去り後陸軍中尉石光又助と再婚した。
 若虎は後年、山根孝中の外孫しづと結婚し新たに山根姓を称えた。
孝菴時に酒を嗜みまた骨董を愛した。重宗家にある古道具類は概ね彼の遺したも
のである。
孝菴は明治二十七年一月三十日矢原邑に於いて、妻しげは明治四十四年
九月五日都濃郡富田村(現南陽町)に於いて病没した。

  法名は
    孝菴    重宗院孝菴義忠居士
    妻しげ   重盛院宗菴貞光大姉


第四代  重宗秀熊

 秀熊は第三代孝菴の次男で長男恭輔が医学修業中病没した為、第四代と
して重宗家を継いだ。
彼は慶應元年矢原邑に生まれ若くして東京に出て医学を修め明治二十年業を
卒へて帰郷、矢原邑で父と共に医療に従事した。父孝菴までの医術は概ね漢方
を主とし西洋医学は秀熊からである。
医術は明治維新以後急速に進歩し、又一般社会の諸情勢も目を逐て変化し
矢原邑の辺地に在って先祖以来の方法を踏襲しておっては経営上不利な点多き
により秀熊は予てから父と分かれて交通利便の新たな土地に独立開業を考えて
おったが、明治二十七年父孝菴死後遂に意を決して祖先の地を離れ都濃郡
富田村(現南陽町)に転住した。
秀熊は明治三十七年日露戦争に方って自ら軍医を志願し戦争の前半は概ね
広島陸軍予備病院に勤務し後半は第一軍に属し満州の野に転戦し戦役の功
により勲六等に叙し瑞宝章を授けられた。
秀熊は特に酒を好み囲碁をよくし其の技量は郷党に於いて彼の右にいづるものは
なかった。また、晩年は謡曲を愛した。
彼は中年以降絶対に洋服を用いず一生和服で通した。妻は周防三田尻の医師
秋本好謙の長女アヤで謙造以下五人の男の子があった。
妻アヤは和歌をよくした。
秀熊は昭和十七年三月十七日齢七十七歳で妻アヤは仝二十六年齢八十三
歳で共に都濃郡南陽町で病死し遺骸は矢原の重宗家墓地に葬られた。
尚、矢原の墓地は昭和七年、秀熊が長男謙造と計らい初代良策の墓石は其の
儘残し置き他は之を整理して一基に纏め新たに先祖累代の墓として墓石を建立
改葬した。

 秀熊夫婦の法名は
    秀熊     重宗院寛翁秀醫居士
    妻アヤ    重薫院寛室貞純大姉

秀熊には五人の男児があったが遂に一名も医師として家業を継ぎ得ず先祖代々
の医家も秀熊他界ともに週末を告げたのである。長男謙造の二男、正二が医学
を志し折角その業を了そながら若くして病魔に斃れたことは返す返すも遺憾至極で
ある。

資料 1
医術開業免状御返上届
内外科医術開業免状
     山口県士族 
         重宗孝庵
         天保三年十一月生
明治十一年二月山口県ニ於テ下付シタル内外科医術開業許可ヲ
諦認シ此免状ヲ授与ス
明治御十七年四月廿八日
     内務省正四位勲一等山県有朋
  此免状ヲ勘査シ第一二六三二号ヲ以テ医籍登録ス
     内務省三等出仕正五位勲四等長與専斉

此免状拙者実父孝庵申受医術開業罷在候所
同人義明治廿七年一月三十日死亡仕候ニ付
該御免状御返上仕度此段御届仕候也
   山口県周防国吉敷郡矢原朝日村第百三番屋敷住士族
         孝庵死亡跡相続人
                重宗秀熊   ㊞
   明治二十八年   月
   内務大臣子爵 野村靖殿




「秋本家のこと」

 重宗第四代秀熊の妻アヤは周防国三田尻の医師、秋本好謙の
長女である。秋本家も代々医家で好謙の祖父、台寿(だいじゅ)は
徳川末期、周防国は勿論、当時藩の中心であった長門国萩にも名
の通った医師であった。台寿には男児なく娘ジュンの養子として周防国
秋穂の神職藤村氏の八男、里美を迎えて医家を継がせた。台寿には
二人の弟があった、二人とも僧侶で、兄は周防国分寺、弟は能登
永平寺の住職を勤めた。里美及びその子、好謙共に医術に秀で
旧藩主の侍医に班し、明治七年県当局が三田尻に華浦病院(注5)及び
華浦医学校を設立するに及び里見は病院の診察医官に好謙は
学校の教官に任命せられ、明治初年の県下医育に貢献する所が
大であった。里見は又、明治元年戊辰の役に毛利藩の軍医として
奥羽、蝦夷等に出征した幕末の志士。野村望東尼(注6)の臨終に立ち
会うたとのことである。
 里見は歌人として、好謙は漢詩人として有名であった。従って当時の
文人墨客との交際多く、秋本家に伝わる頼山陽揮毫の「観潮」の
扁額は山陽が秋本家に宿泊した際に書いたものだとの事である。
 左記は山口県医師会編纂、山口県医師会史第一章五に掲載
してある、華浦病院、華浦医学校職員任命にあたり当時の県令が
文部大輔に認可を申請した書類に書いてある、里見、好謙の履歴で
ある。

       【履歴】

         山口県貫属士族 好謙父  秋本 里見
                      当亥ノ三月六十二歳七ケ月

一、文政九年丙戊秋より長州萩田中三宅に従学、同五年甲午春
  より同地松村玄機に従学、同八年丁酉春より同国厚狭郡
  市川玄伯に従学、同十一年庚子秋より萩・青木周弼(注7)に従学
  同十三年壬寅春よりお大坂緒方洪庵(注8)に従学、同年秋より江戸
  伊藤玄朴に従学、前後都合十七年医学修行

一、天保九年戊戌四月より同十一年庚子五月まで二年間防州
  吉敷郡秋穂に開業、弘化二年乙己正月より於同国佐波郡
  三田尻開業。

一、慶應二年丁卯四月より、元山口藩三田尻病院出張所痘掛
  兼勤。明治元年戊辰十月より同藩兵隊に従い東京奥羽蝦夷
  等へ出張し、同二年己巳七月まで勤務、同月旧主の侍医に
  班れ八月免職、同九月三日三田尻病院出張、十月免職、
  同五月より侍医兼勤、同五年壬申三月免職、同七年三月
  より華浦病院診察医官勤務。


      山口県貫属士族     秋本 好謙
                当亥ノ三月三十四歳三ケ月



一、明治三年庚午春より元山口藩医院入学、仝五年壬申夏より
  翌年癸酉四月迄東京に於いて「シモンズ」氏従い、独逸学
  修行、同年五月より大阪病院「エルメレンス」氏に従学十二月
  帰県。

一、教師給料
  一月金百円  但三人分


 好謙は地山と号し漢学の造詣深く書をよくした。三田尻付近には
彼の撰文なる碑が点々ある様である。
好謙には四人の妹があった。萩の森広家(子、長一は海軍将校退役
後、広島居住、原爆で死没)。
長府の向井家(夫・泰「ゆたか」は向井勉一、仝、泰「やすこ」の義父)
及び、大島郡森野村 西村千熊(注9)(山口県会議員を勤めた)。又、
津和野・澄川芳槌に夫々嫁した。
好謙の妻、由は佐波郡古曽原の外科医伊達道白の女で三人の兄
があった。長兄、静造は大楽源太郎(注10)暗殺の容疑を受け伊達家の家督
を継ぐことができず新々内海家を建てた。大楽を殺した人は實は静造の
妻の兄で大道且の伊藤家のものであった。静造は後、長門忌宮の
宮司を勤めるる傍ら、古曽原に漢学塾を開き子弟の教育に献身した。
内海幸太郎は彼の子である。次兄哲三は伊達家を継いだ。
伊達精一医師は哲三の子である。今一人の兄、小田村信之進は
幕末長州藩士河上弥一等とともに筑前の志士平野國臣等の計画
に加わり公家澤宣嘉を奉じ但馬生野に兵を挙げ事敗れて自刃した。

(昭和四十四年一月朝日新聞連載大仏次郎執筆「天皇の世紀」参照)

好謙の長男、寿太郎は重宗秀熊等と共に明治初年医学修行の為
東京へ遊学中不幸にも二十一歳で病没した。病名は肺炎であった。
当時有名な独逸人医学者「ベルツ」博士による手当も空しく不帰の
客となったことである。遺骸は山口県出身の学友の手により東京谷中
の墓地に葬られた。
寿太郎発病の報を受けた父好謙は急ぎ上京の途につき途中大阪港
に上陸、待合所で休憩中、偶々隣席で休んでいた男が小声で静かに
親鸞上人の御文章を口ずさんでいたのを耳にし愕然とし途端に上京
の気力を失い悄然として故郷に引き返したとのことである。
寿太郎の死は秋本一家に甚大な打撃を与え其の後に於ける家運の
衰退を決定的なものにした。男子は寿太郎のみで他は皆女子であった。
長女アヤは重宗秀熊に、二女キクは大岡通丸(旧津和野藩の家老
の家であったが明治初年石見銀山の事業関係に失敗し家産を蕩尽
東京大阪等各地を流浪し東京で一生を終わった。死に当たって重宗
謙造が大変尽力したとのことである)

四女、英子「ふさこ」は安村介一、(海軍少将に累進、昭和二十一
年頃病没。英子は大正初年満州旅順にて病没)に、五女泰子は
向井勉一(海軍機関中佐で退役、昭和三十年名古屋で病没、
泰子は昭和三十八年東京で病没)に夫々嫁し、三女淑子「よしこ」
が佐波郡小野村から辰平を婿養子として迎え秋本家の家督を継いだ
が淑子には子が無く、大正末年病没した。その死後辰平は他より後妻
を迎えて一女を得、その娘に養子をとり辛うじて家名存続しあるも、
秋本家本来の血脈は完全に絶えた。アヤを始め姉妹の落胆推察に
余りあるものがあった。
好謙は晩年佐波郡牟礼村今宿に隠棲し明治四十年ころその生涯
を終わった。妻、由は好謙より稍々前に他界した。
秋本家は元来真宗であるが、里美が新神職の家の出であった関係か
其の後は神道であった。墓は三田尻桑ノ山(台寿は桑山麓大楽寺)
に在る。

重宗謙造は小学校時代は両親の許を離れ祖父好謙の膝下に在って
直接その薫陶を受けた。従って特に祖父を敬慕していた。今、重宗家に
在る「少年易老学難成・・・・」の朱熹の詩は謙造が中学校に入学に
あたり祖父が勉学の戒めとして書き与えたものである。
祖父危篤の報を受けた時、当時中学生であった謙造は汽車の発車
時刻が待ちきれず、富田から牟礼まで五里の道を駆け足で枕元に
馳せ参じた。明治四十年頃は山陽本線も勿論単線で列車の運転
回数も極めて少なく、現今のことを思うと全く嘘の様な話である。

    *上記が系譜手記である。(筆者注)

    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   
   (注1)【禅昌寺】

     山口市下小鯖1170番地 禅昌寺
     創建以来幾度か失火の為その都度再建して、現在の本堂は嘉永3年(1850)に建立された。
     法幢山禅昌寺は、室町時代の創建にして開山は慶屋定紹禅師、開基は大内義弘公である。
     開創当時この禅昌寺は約80の末寺小庵がこれをとり巻き千人をこえる雲水が修行して
    「西の本山」とよばれていた。


   (注2)山根文季  コロリで命を落とした長州藩の名眼科医

     関連、 花燃ゆ, 長州藩
     会津戦争, 幕末, 長州藩, 松下村塾

     長州藩医(眼科医)であった山根文季は、矢原村で眼科医として名声高い
     重宗良策の次男である。名は山根正直とも。
     子の小野為八(おのためはち)は幕末の攘夷運動に身を捧げている。
     山根文季はは矢原の蔵光で育ち、げんだ川という灌漑用水路を隔てた
     南側に住んでいたと言う。
     父・重宗良策は40歳頃に、手足の麻痺して仕事ができなくなった為、
     藩医になるという念願を山根文季に託した。
     やがて、山根文季は長州藩の御雇医となって萩城下に住みむと
     寺社組に組み込まれ、のちに城番となった。
     長州藩からは萩の東香川津に広大な土地を与えられ、そこで眼科医として開業。
     遠方から来た患者はそのまま自宅に泊めて食事も与え、薬代が払えない者から
     は代金も受け取らず、逆にお金も与える事があったと言う。
     その為、萩の人々からは大変慕われ、医院はいつも混雑していたようだ。
     普段は倹約家で、無口だったと言うが、客が来れば親しく酒を飲み、
     飲むと客が大笑いをするほど楽しませたと言う。
     山根文季は、吉田松陰とも親交があり、1855年には、子の小野為八を連れて、
     外国船来航を警戒する相模国(神奈川県)三浦半島の警備に長州藩士らと共に赴いている。
     なお、長男・小野為八は、藩医・小野家の養子となっていた為、重宗恭安の次男・
     山根孝中を養子に迎えている。
     山根孝中も36歳の時(1858年)、吉田松陰の松下村塾で学んだ。
     NHK大河ドラマ「花燃ゆ」では、コロリに感染したキクの母親を心配する、
     キクを思う杉文(久坂文)と共に登場するシーンがある。
     しかし、山根文季は1858年8月、流行のコレラで没した。57歳。
     この時、当時幽閉中の吉田松陰は「山根文季墓誌銘」と題して文を起している。
     養子の山根孝中(やまねこうちゅう)も眼科医としての評判は良く、
     戊辰戦争でも医師として従軍。
     特に会津攻めでは敵味方問わず負傷者の治療にあたったと言う。
     なお、この山根家の子孫は、のちの日本医科大学の創設にも関わった。
     (参考) 吉田松陰全集 第5巻


    (注.3)山根正次(やまねまさつぐ)

                          
      教育・文化
      衛生行政に尽力した医学者・政治家

     【生没年】安政4(1857年)- 大正14(1925年)
     【享年】 69 歳
     【誕生地】長門国萩香川津(萩市椿東)
     【墓】萩市前小畑 東京都港区(青山霊園)

     
     明治3年(1870)藩の医学校で蘭学を修め、萩中学(藩校明倫館の後身)でドイツ人教師ヒレルに学ぶ。
     明治15年、東京大学医学部を卒業、長崎県医学校一等教諭として赴任する。 明治18、19年、
     長崎でコレラ病が大流行したため検疫委員や伝染病予防委員に任じられ、臨床経験をもとに明治20年
     『虎列剌病汎論』を刊行。衛生上の理由から、長崎市に上水道敷設の急務を力説し採用された
     (明治24年に供用開始)。また、裁判医学の振興を山田顕義法相に建議して受け入れられ、
     明治20年、長崎医学校を辞めて司法省雇となり、ヨーロッパへ派遣されて法医学、衛生行政などを学んだ。
      明治24年に帰国後、警察医長、内務省検疫委員などを歴任し、衛生行政に尽力する。明治35年、
     山口県から衆議院議員に初当選。明治37年、私立日本医学校(現在の日本医科大学)の創立に関与、
     初代校長となり後進を育成した。明治39年、帝国議会に帝国聨合医会草案の「医師法案」を提出、
     「医師法」が発布・施行される。大正9年(1920)政界を引退後、東京駒込の特許消毒株式会社社長となった。

     山根 正次(やまね まさつぐ、)

     安政4年12月23日 [1](1858年2月6日) - 大正14年(1925年)8月29日)は、
     日本の衆議院議員(中正倶楽部→大同倶楽部→立憲同志会)、医学者。


     (留学時写真)
     1888年、プロイセン王国ベルリン市にて日本人留学生と前列左より河本重次郎、山根(日本医科大学創始者)
     田口和美、片山國嘉、石黑忠悳、隈川宗雄、尾澤主一中列左から森林太郎(作家・森鴎外)、武島務、
     中濱東一郎、佐方潜蔵(のち侍医)、島田武次(のち宮城病院産科長)、谷口謙、瀬川昌耆、
     北里柴三郎(北里大学)、江口襄。後列左から濱田玄達、加藤照麿、北川乙治郎

     長門国阿武郡椿郷東分村(現在の山口県萩市)出身。長州藩の医学館であった好生堂で蘭学を、
     中学校でドイツ人教師からドイツ語を学んだ[1]。東京大学医学部を卒業し、長崎医学校一等教諭に
     任じられた。1885年(明治18年)、長崎でコレラが大流行すると、検疫委員として防疫に尽力した。
     1887年(明治20年)よりドイツ・オーストリアに留学し、法医学を学んだ[4]。帰国後は、警察医長、
     医務局長、警視庁第三部長を歴任した
     1902年(明治35年)、第7回衆議院議員総選挙に出馬し、当選。当選回数は6回を数えた。
     また東京市会議員も兼ねた。
     さらに、1904年(明治37年)に日本医学校(現在の日本医科大学)が創設されると、初代校長に就任した。

     栄典
     1902年(明治35年)12月27日 - 正五位[6]
     著書[編集]
     『虎列剌病汎論』(英蘭堂、1887年)
     『実用検毒学』(誠之堂、1894年)
     『改良服図説』(伴鶴堂、1902年)
     『日独比較 改正伝染病予防法論』(清水書店、1906年)


     【日本医学史総会 演題】「藩閥政治の日本医学校に与えた影響」

     1)はじめに 日本医学校創立者の山根正次は今日の日本医科大学の基礎を作ったにも不拘,資料が非常に少ない.
      済生学舍の突然の廃校で行き場を失った学生達の救済の為,済生学舍とも浅からぬ因縁のある
     日本週報 社主の川上元治郎は長州出身で長州閥の領袖山県有朋の部下で国会議員の山根正次に懇請して
     日本医学 校を創立させた.創立した学校の初代校長として 15 年も在籍したが何故かその資料が乏しいが
     残され た資料を参考にその苦難の経営の跡を辿ると共に私立医学校の存続にも権勢を誇る長州閥の影が
     見え隠 れする事実にも注目した.

     2)渡韓以前の日本に於ける山根の活動 山根正次は安政 4 年現在の山口県萩市に眼科医山根孝中の
      次男として出生,明治 7 年長崎医学校に入 学したが当時の校長長谷川泰の計らいで東京医学校に編入,
     以来長谷川との親交が続くが同 15 年 4 月, 東大医学部を卒業,森鷗外の 1 年下にあたる.同年 12 月
     長崎医学校 1 等教諭に任命され同 18 年~19 年 にかけ同地方でのコレラ大流行時には検疫委員として
     活躍し流行の原因が水源にあるとして上下水道の 設置を願い出る.また同 19 年長崎での清国水兵の
     暴行事件から「裁判医学」の必要性を長州人の山田 顕義司法大臣に説く.同 20 年 8 月同校辞任,
     司法省に出仕するが法医学研究の為渡欧,同 24 年 11 月帰 国後は内務省から警察医長,医務局長に
     任命され同 35 年迄 11 年間日本及び東京市の医事衛生に尽力し た.同 35 年 8 月山口県から
     衆議院選に出馬,以後 6 回も当選している.性格は温厚篤実,恭謙で礼譲を 尚び清廉かつ郷党後進の
     指導に懇切であったと伝えられている.

     3)日本医学校長兼任の「韓国衛生事務顧問」 国会議員でもあり多忙を極める山根に無理を承知で
     学校の設立経営を懇願した川上であったが済生学 舍廃校の経緯を熟知していただけに長州派の協力
     がなければ基盤の脆弱な日本医学校の創立は無理とみ てその篤実な性格や長州閥を背景に
     その政治的手腕に期待したものと推察する.山根を補佐すべく 15 才年下の元書生,長州人の
     磯部検三が幹事(事務長役)に起用される.かくて同 37 年 4 月に「私立日 本医学校」は開校した.
     当時韓国では日本の強引な干渉の為不穏な情勢が続いていたが同 42 年 10 月 26 日初代総監
     伊藤博文はハルピン駅で韓国人安重根に射殺され,同 43 年 8 月 29 日遂に日本は韓国を併合 し
     総督府を設置した.同 43 年 4 月山根は現職の儘「韓国衛生事務顧問」として赴任し以後 5 年も
     滞在す る.韓国での山根は各地の医院の開設,整備,後の京城帝大医学部の創設,看護婦,
     助産婦の養成等医 学教育の振興をはかり,衛生施設の改善,また同 44 年満州でのペスト大流行に
     際しては北里柴三郎ら と協力して朝鮮侵入阻止等大きな功績をあげている.

      4)日本医学専門学校の異変 山根は大正 4 年 1 月韓国衛生顧問を辞任しているのでその頃帰国した
     ものと思われる.設立時いずれ 指定医学専門学校に昇格し卒業すればそのまま医師になれる筈で
     入学してきた学生はそれが実現不能と 知って憤激し山根磯部らの不信を詰って大正 5 年 5 月 16 日
     遂に総退学を決行した.(約 450 名)事態を 重く見た文部省は同年 8 月に再建指導の為,江原素六,
     中原徳太郎,早川千吉郎ら政財界の錚々たる大 物を含む 17 名から成る評議員会を設置し事態の
     計った.

     5)おわりに 国事に奔走していた山根には苦境に手を拱いて傍観する当局や長州閥には我慢ならぬ
     ものがあった. 強力な評議員会の後押しや,山県傘下の桂太郎,寺内正毅らの援助で学校は蘇った.
     慧眼な川上元治郎 の読みは当ったといえよう.大正 15 年には小此木,中原らの新体制のもとに
     悲願の大学昇格を果たす が山根はこれを見届ける事なく大正 14 年 8 月 29 日他界した.
     行年 69 才であった

     【日本医学史総会 演題】

     山根正次(以下山根)は安政 4 年 12 月 23 日現在の山口県萩市に眼科医山根孝中の次男として出生,
      明治 7 年長崎医学校に入学したが当時の校長長谷川泰の計らいで東京医学校に編入,同 15 年 4 月,
     東 大医学部を卒業,同年 12 月長崎医学校 1 等教諭に任命され,同 18 年~ 19 年にかけての同地方
     でのコレ ラ大流行時には検疫委員として活躍し,流行の原因が水源にあるとして上下水道の設置を願い
     出る.ま た同 19 年長崎での清国水兵の暴行事件から「裁判医学」の必要性を長州人の山田顕義司法
     大臣に説く. 同 20 年 8 月長崎医学校を辞任し司法省に出仕するが法医学・衛生学研究の為渡欧,
     同 24 年 11 月帰国 後は明治 29 年内務省から警察医長,医務局長に任命され,同 35 年迄 11 年間
     日本及び東京市の医事衛 生に尽力した.同 35 年 8 月山口県から衆議院議員となり政治家として活躍
     し,以後 6 回当選している. 性格は温厚篤実,清廉かつ郷党後進の指導に懇切であったと伝えられて
     いる.後に日本医学専門学校の 学校騒動時校是「克己殉公」の制定を行って学校の再建を行い,
     日本医科大学の初代学長,第 3 代学長 となる中原徳太郎および塩田広重の学生時代に山根は保証人
     となっている. 日本医学校創立者である山根は今日の日本医科大学の基礎を作った.済生学舍の廃校
     で行き場を失っ た学生達の救済の為,済生学舍と縁のある日本医事週報社主の川上元治郎は長州閥
     の山県有朋の部下で 国会議員である山根に懇請して明治 37 年 4 月に日本医学校を創立させ,
     山根は初代校長として 15 年も 在籍した.明治 43 年 3 月 31 日同郷の二代目韓国総督の曽称荒助の
     懇願により,総督府衛生顧問につき, 各地の医院の開設,整備,後の京城帝大医学部の創設,看護婦,
     助産婦の養成等医学教育の振興をは かり,衛生施設の改善に尽くし,また同 44 年 3 月満州でのペスト
     大流行に際しては北里柴三郎らと協 力して朝鮮半島侵入阻止等大きな功績をあげ,日本医学校長との
     兼任生活は大正 2 年 4 月まで 5 年間続 いた. 衆議院議員としては明治 36 年「慢性及急性伝染病
     予防ニ関スル質問書」や明治 38 年ハンセン病の予 防を一般法の中に含める「伝染病予防法中改正
     法律案」,明治 39 年「癩予防法案」等を提出し,明治 40 年の法律第 11 号「癩予防ニ関スル法律」に
     繋げ,その後の同法律改正に影響を与えた大正 5 年に設立 された内務省保健衛生調査会第 4 部会
     の主査も務めている. 山根は学校騒動の後大正 7 年 4 月日本医学専門学校校長を辞し,中原徳太郎
     を校長に推薦する.大正 9 年衆議院議員選挙に落選し,東京府駒込の「特許消毒株式会社」の社長を
     務め,大正 14 年脳卒中に罹 り,8月29日永眠する.その際,新聞に追悼記事は一切書かれていない.
     山根は,政治家,医学校長,朝鮮総督府の衛生顧問として多くの役割を果したために日本医学校校長
     から日本医学専門学校校長時代に学校経営が疎かになり,日本医科大学の校史には山根についての
     記述 が僅かにしか存在しない.日本医学校の事務長として山根を支えていた同郷の磯部検三が
     昭和 9 年,自 らが私立日本医学校の設立者であると名乗り出て実権を握り,校史が歪められて記述
     されてきた. 結果的に山根は様々な社会的な業績を残しているにもかかわらず今日まで不当に過小
     評価されてきた 点について明らかにする。

     日本医科大学公式ホームページ(2023.1/22日現在)

     現在の日本医科大学は創始者であり初代学長を無視している。
     設立者を長谷川泰としている。しかし、ウイキペヂアは設立者として山根を載せ初代校長とする。
     調査不足か意図的なものがあるのかは不明であるが、山根正次を排除する理由を説明して頂きたいものである。
     調査不足であるなら「校史」を修正して頂きたいものである。(屋代源三)

     「日本医科大学は、1876年に長谷川泰により創設された済生学舎を前身とし、創立140年を超えるわが国最古の
      私立医科大学です。本学の源流である済生学舎は、明治維新から間もない明治9年(1876年)、医師の早期育成を
      目的として設立されました。近代国家として歩みを始めた当時の日本において、西洋医学に基づいた開業医の
      育成は最重要課題の一つであったのです。「済生救民」「克己殉公」という建学の精神と学是は、設立者である
      長谷川泰の「私心を捨て、全ての人々を分け隔てなく助ける」という思想から定められ、今日の日本医科大学に
      おいても引き継がれています。

     済生学舎は28年間の活動の後、明治36年(1903年)に廃校を余儀なくされますが、9000名以上の医師、医学者を
     輩出し、当時の日本の開業医の半数以上が済生学舎出身者で占められるなど、日本の医療の土台作りへの貢献は
     大きく、この9000名の中には、世界的な細菌学者である野口英世、小口病の発見者である小口忠太など現代の
     医学界にも名前を残す偉人も含まれています。また女性が働く事すら一般的でなかった明治の時代に130名以上
     の女性医師も済生学舎から生まれました。

     済生学舎廃校に際して、在学生への教育を継続するため、旧済生学舎の教員によって同窓医学講習会が開校され、
     翌年の私立日本医学校の設立へと繋がります。その後、明治43年(1910年)に私立日本医学校付属駒込医院
     (現在の日本医科大学付属病院)、大正13年(1924年)に日本医学専門学校付属飯田町医院(旧 日本医科大学
     付属第一病院、1997年に閉院)、昭和12年(1937年)に日本医科大学付属丸子病院(現在の日本医科大学武蔵
     小杉病院)を開院し、診療体制の整備も着々と行われました。

     昭和27年(1952年)に現在の学校法人日本医科大学となり、また同年には、伝統ある日本獣医畜産大学
     (現在の日本獣医生命科学大学)と合併し、1法人2大学での学校運営をスタートしました。

     戦後復興、高度成長期と戦後日本の歩みとともに医療体制、設備の充実に努め昭和52年(1977年)に
     多摩永山病院、平成6年(1994年)に千葉北総病院を開院し、従前からの千駄木、武蔵小杉を加えた
     付属4病院と市ヶ谷の呼吸ケアクリニック、駒込の腎クリニック、成田の成田国際空港クリニックの開院
     で首都圏全域をカバーした診療体制を確立するに至りました。

     明治43年(1910年)に千駄木で付属病院を開院して以来、この地で医学者の育成、医学の発展に力を注ぎ
     続けてきました。しかしながら長い歴史の中で、大学、付属病院の関連施設は老朽化が進み、創立以来、
     高い評価を受け続けてきた教育、研究、診療を今後も維持し、未来へつながる医療、医療人を創っていく
     ためには、建物、設備の再開発が必要不可欠でした。 そこで平成18年(2006年)に創立130年を迎えた節目に、
     医学部教育棟、大学院棟、付属病院の建て替えを柱とした学校法人日本医科大学アクションプラン21(AP21)
     を策定し、千駄木地区再開発事業に着手しました。


    (注4) 小野 為八(おの ためはち)

    長州藩医。名は小野正朝、号は小野等魁。 長州藩医(眼科医)・山根文季の長男。
    山根文季の父は矢原の眼科医・重宗良策。 藩医の小野春庵の養子となった。
    ただし医師の道には進まなかった。 天保 15 年、吉田松陰に兵学を学ぶ。
    安政 2 年、父とともに相模国沿岸警備の任に就き、その傍らで西洋砲術を学ぶ。
    ポンぺに写真術を学んだ中島治平が、小野為八、山本伝兵衛らを教育している。
    文久元年、長州藩主・毛利敬親を撮影。文久 3 年、下関戦争で、軍艦・癸亥丸に
    乗船して砲戦を指揮。また奇兵隊結成に加わり、砲術指南を担う。 慶応元年、
    長州藩諸隊の鴻城隊・砲隊長。慶応 2 年、長州征討で砲隊を指揮。
    明治元年、整武隊で大砲司令を務めた。 明治維新後、科学者としてバター製造や
    写真術に携わった。 明治 23 年、黒住教に入信し、布教活動も行っている。
     明治 40 年、死去。墓所は海潮寺。 雲谷派の絵師でもあった。
    山口の写真師・松原繁は、近年の研究に小野為八に学んだ可能性が指摘されて
    いるが断定できる資料はない。
    生年/出身: 1829 山口(萩、香川津)
    開業年:不明
    開業地、主要拠点: 山口(長州)
    師匠: 中島 治平


   (注5)華浦医学校 (はなうらいがっこう)

    明治時代初期に山口県佐波郡三田尻村
   (現在の防府市華浦二丁目[注釈 2])にあった医学校。山口大学医学部の源流とされる。

    概略
    1874年(明治7年)、「華浦医学舎」の名で、校長の鳥田圭三、副校長の福田正二を中心として開校した
    当時の山口県ではトップクラスの設備を有し、フランスから人体紙型模型(クンストレーク)、顕微鏡、
    外科器械などを購入したり、医科の原書を翻訳したりするなどして最新の西洋医学を教授したことから
    名声が高まり、県内外から学生が入学した。1877年(明治10年)7月をもって病院と医学校は廃止されたが、
    福田正二はこれに屈せず、私費で学校教育を継続しようとした。1880年(明治13年)に、山口県は洋医師の
    不足から医学校を復活させて「山口県医学校」と称して福田を校長に任じ、学生81人が集ったが、
    1882年(明治15年)に臨床実験が可能な附属病院の併設が義務化されると、当時の県の財政ではそれを
    備えるだけの財力がなかったことから、1883年(明治16年)末限りで医学校の継続は断念に至った。
    しかし福田正二は、この再度の廃校の後もなお、三田尻桑山の山麓で晩翠堂病院を経営しながら
    後進の養成に努めた。

    教育の実際
    当時は寄宿教育で、入塾には保護者親族からの申請が必要で、春秋の2回帰省が許された。
    それ以外に親族の不幸があった場合は別途許可された。食費は白米6合と金1銭、授業料は月に50銭だった。
    休日は、小学校と同様であった。
    教育内容は、1874年(明治7年)以降、ドイツ医学を主とし、オランダ語を基礎としてドイツ語を習得させていた。
    学生は11組のグループに分けられ、一緒に勉強していた。辞書、医学書の原書は、同じものが11組、
    11冊揃えられていた。また、蔵書の汚れ具合から、洋学の語学力は他藩に比べてかなり高度であったこと、
    そして山口県におけるオランダ医学からドイツ医学への転換の原動力となったのは福田であったことが
    確認されている。

    萩の乱
    校長の鳥田圭三はしばしば人体解剖を行い、洋書の翻訳もしながら学生を指導したが、1876年(明治9年)10月に
    前参議の前原一誠が突如萩で兵を挙げた萩の乱に際しては、負傷者の治療のため、医学校および病院の後事を
    副校長の福田正二に託して萩に急行し、萩市瓦町の蓮池院[注釈 5]を仮病院に充て、自ら院長として負傷者の
    救護にあたった。1879年(明治12年)、鳥田は病気により医学校と病院の職を辞し、福田が校長職を継いだ。

    卒業生
    華浦医学校に学んだ者には、三田尻病院の創設者で佐波郡医師会会長や山口県医師会初代会長を務めた
    神徳一人をはじめ、黒川周甫、尾崎麒一ら地元医師会の名士の他に、湯田の人中原政熊、日本で初めて
    水銀体温計を製造販売した柏木幸助などがいる。


    (注6)野村 望東尼(のむら もとに、ぼうとうに)

    文化3年9月6日(1806年10月17日) - 慶応3年11月6日(1867年12月1日))
    幕末の女流歌人・勤王家。贈正五位。

    生涯
    文化3年(1806年)9月6日、筑前国御厩後(現福岡県福岡市中央区赤坂)に生まれる。福岡藩士・浦野重右衛門勝幸
    の三女で、幼名は"モト"。幼少時より二川相近[4]に和歌や書道を学んだとされる。
    文政元年(1818年)、13歳の時に林五左衛門家に行儀見習いとして仕え、学門や裁縫手芸など多芸な趣味を覚える。
    文政5年(1822年)、17歳の頃に20歳年上の福岡藩士郡甚右衛門に嫁ぐものの半年ほどで離縁、生家に戻って
    和歌・書道などに加えて尊皇思想を学んだ。
    文政12年(1829年)、24歳で二川塾同門の福岡藩士・野村新三郎貞貫と再婚[2]。野村も再婚であるが、その連れ子と
    の関係は良好だった。一方で、4人授かった子どもは早世している。 二川相近が病で家塾を閉めると、天保3年(1832年)
    からは夫と共に大隈言道の門下に入る。
    弘化2年(1845年)、連れ子である次男に家督を継がせ夫が隠居すると、福岡南側の山村 (現・福岡市中央区平尾)
    にあった自分の山荘(平尾山荘)に40歳で隠棲した。
    安政6年(1859年)、54歳の時に夫が亡くなり、剃髪して受戒。 文久元年(1861年)11月、望東尼は福岡を
    発ち4年ほど前から大坂に滞在していた大隈言道の元を訪ねた。 その後、京都へ赴き、翌2年5月まで滞在したが、
    この間に島津久光の上洛や寺田屋事件など、騒然とする京都市中の様子を見聞きした。また、福岡藩御用達の
    商人で尊皇攘夷派と交流があった馬場文英と知り合い、次第に政治に強い関心を持つようになった。その後、
    福岡へ戻った望東尼は平尾山荘に勤皇の士を度々かくまったり、密会の場所を提供したりする。
    彼女に便宜を図って貰った中には、勤王僧・月照、長州藩士・高杉晋作、熊本藩士・入江八千兵衛、対馬藩士・
    平田大江、福岡藩士・加藤司書、平野国臣、中村円太、月形洗蔵、早川養敬などがいる。
    慶応元年(1865年)6月、福岡藩内の尊攘派弾圧の動きが強くなり、孫で福岡藩士の野村助作(夫と前妻の孫)
    と共に自宅謹慎を命じられ、親族が集まって今後の相談をしていた深夜、親しく近所づきあいをしていた隣家の
    喜多岡勇平が暗殺された。望東尼は藩の密命を受けて重要な任務にあたっていた喜多岡から様々な
    情報を得ていた。禁門の変後の12月、長州周旋を成し遂げた喜多岡が「長州の高杉が空き家に潜居しているようだ」
    などと望東尼に伝えている。
    10月に姫島(現・福岡県糸島市志摩姫島)へ流刑となった。(乙丑の獄)
    翌2年(1866年)9月、晋作の指揮により福岡脱藩志士・藤四郎、多田荘蔵らが姫島から脱出の手引きをし、
    下関の勤皇の豪商・白石正一郎宅に匿われた。その後病に倒れた晋作の最期を看取る事となり、
    晋作が「おもしろき 事もなき世に おもしろく」と詠むと、望東尼が続けて「住みなすものは 心なりけり」と詠んだ。
    望東尼はその後も毛利家から二人扶持が与えられ厚遇されるが、薩長連合軍の戦勝祈願のために行った断食が祟り 、
    望東尼は体調を崩し、慶応3年(1867年)11月、三田尻(現・山口県防府市の古称)で62歳で死去した。
    辞世の句は「雲水の ながれまとひて花の穂の 初雪とわれふりて消ゆなり」
    山口県防府市の大楽寺の桑山墓地と福岡県福岡市博多区の明光寺に墓がある。
    明治24年(1891年)、正五位を追贈された。


    (注7)青木 周弼(あおき しゅうすけ)

    享和3年1月3日(1803年1月25日) - 文久3年12月16日(1864年1月24日))は、江戸時代後期の蘭方医。周防国大島郡和田村の地下医
    (村  医)青木玄棟の長子[1]。諱は邦彦で、周弼は字。号は月橋。
    初め、長州藩医の能美洞庵に医学と儒学を師事する。18歳で大坂、30歳で江戸に行き、深川の坪井信道にオランダ語、臨床医を学び、
    その  縁で宇田川榛斎にも師事した[2][3]。同門に緒方洪庵がいる。弟の青木研蔵と長崎にシーボルトに教授を受けにも行った。
    1839年に長州藩医、1842年、周防医学所の教授蘭学掛になった。また、医学校の好生館設立に尽力、1855年に御側医に昇進した。研藏と
    ともに藩内に種痘をし、コレラ治療に貢献した。門人も多く、村田清風とも交流を持ち、晩年は江戸で西洋医学所頭取就任の要請を固辞
    した。
    著書に「袖珍内外方叢」、「察病論」など。
    1903年、従四位を追贈された[4]。
    山口県萩市南古萩町にある青木周弼の旧宅は、当時の様子をよく残しており、萩市により公開されている。


    (注8)緒方 洪庵(おがた こうあん)

    文化7年7月14日〈1810年8月13日〉 - 文久3年6月10日〈1863年7月25日〉)は、江戸時代後期の武士(足守藩士)・医師・蘭学者。諱は
    惟章(これあき)または章(あきら)、字は公裁、号を洪庵の他に適々斎、華陰と称する。
    大阪に適塾(大阪大学の前身)を開き、人材を育てた。天然痘治療に貢献し、日本の近代医学の祖といわれる。

    略歴
    文化7年(1810年)7月14日、豊後国の豪族豊後佐伯氏の流れをくむ備中佐伯氏の一族である備中国足守藩(現・岡山市北部)士・佐伯惟因
    (瀬左衛門)の三男として生まれる[2]。母は、石原光詮の娘・キャウ。幼名は騂之助(せいのすけ)。備中佐伯氏は佐伯惟寛(惟定の弟)
    の末裔と称した。8歳のとき天然痘にかかった。
    文政8年(1825年)2月5日、元服して田上惟章と名乗る。10月、大坂堂島新地4丁目(現・大阪市北区堂島3丁目)にあった足守藩大坂蔵
    屋敷の留守居役となった父と共に大坂へ出た。
    文政9年(1826年)7月に中天游の私塾「思々斎塾」に入門。この時に緒方三平と名乗り(のちに判平と改める)、以後は緒方を名字とす
    る。4年間、蘭学、特に医学を学ぶ。
    天保2年(1831年)、江戸へ出て坪井信道に学び、さらに宇田川玄真にも学んだ。同7年(1836年)には長崎へ遊学し、出島のオランダ人
    医師ニーマンの下で医学を学ぶ。この頃から洪庵と号した。
    天保9年(1838年)春、大坂に帰り、津村東之町(現・大阪市中央区瓦町3丁目)で医業を開業する。同時に蘭学塾「適々斎塾(適塾)」
    を開く。同年、天游門下の先輩・億川百記の娘・八重と結婚。のち6男7女をもうける。
    弘化2年(1845年)、過書町(現・大阪市中央区北浜3丁目)の商家を購入して適塾を移転。移転の理由は洪庵の名声がすこぶる高くなり、
    門下生も日々増え津村東之町の塾では手狭となった為である。
    嘉永2年11月1日(1849年12月15日)に京都に赴き、滞在7日にして出島の医師オットー・モーニッケが輸入して京都に伝わっていた痘苗を
    得、古手町(現・大阪市中央区道修町4丁目)に「除痘館」を開き、牛痘種痘法による切痘を始める。同3年(1850年)、郷里の足守藩より
    要請があり「足守除痘館」を開き切痘を施した。牛痘種痘法は牛になる等の迷信が障害となり、治療費を取らず患者に実験台になってもら
    い、かつワクチンを関東から九州までの186箇所の分苗所で維持しながら治療を続ける。その一方で、もぐりの牛痘種痘法者が現れ、除痘館
    のみを国家公認の唯一の牛痘種痘法治療所として認められるよう奔走した。
    安政5年4月24日(1858年6月5日)には洪庵の天然痘予防の活動を江戸幕府が公認し、牛痘種痘を免許制とした。
    万延元年(1860年)、除痘館を適塾南の尼崎町1丁目(現・大阪市中央区今橋3丁目)に移転。
    伊東玄朴らの推挙を受け、文久2年(1862年)に幕府の西洋医学所頭取として出仕の要請を受ける。一度は健康上の理由から固辞するが、
    幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として江戸に出仕する。歩兵屯所付医師を選出するよう指示を受け、手塚良仙ら7名を
    推薦した。12月26日「法眼」に叙せられた。
    文久3年6月10日(1863年7月25日)、江戸下谷御士町の医学所頭取役宅で突然喀血し、窒息により死去。享年54(数え年)。墓所は大阪市
    北区同心1丁目龍海寺、東京都文京区向丘2丁目高林寺。戒名は「華陰院殿前法眼公裁文粛居士」
    明治42年(1909年)6月8日、贈従四位

    (注9)大島郡森野村 西村千熊(山口県会議員)



    (注10)大楽 源太郎(だいらく げんたろう)は、幕末期の武士・長州藩士。

    生涯
    萩城下に萩藩(長州藩)重臣で寄組児玉若狭の家臣である山県信七郎の子として誕生した。
    幼くして児玉氏の給領地がある吉敷郡台道村(山口県防府市台道)に移住し、天保14年(1843年)
    12歳にして、主命により同地の大楽助兵衛の養嗣子となる。

    尊皇攘夷
    青年期に太田稲香、僧月性、広瀬淡窓らの門下に学び、勤皇思想を身に付け、また久坂玄瑞ら
    と知己となる。安政4年(1857年)に師月性とともに上京し、以後京都において梁川星巌、
    梅田雲浜、頼三樹三郎、西郷吉之助らと交流を深めるが、翌5年(1858年)から始まった安政の大獄
    を受け急遽帰藩。幕府の手前もあり、藩命により蟄居を命ぜられる。その後脱藩して水戸に赴き、
    大老井伊直弼の襲撃を計画するが、未然に発覚して再び禁固に処せられる。
    赦免の後、久坂、高杉晋作らと協力して積極的に尊王攘夷運動を推進。元治元年(1864年)5月には
    大和国丹波市(現在の天理市)において画家の冷泉為恭を暗殺。同年に起こった禁門の変においては
    書記として参陣。長州藩の敗戦を受けて再度山口へと逃れ、慶応元年(1865年)高杉の功山寺挙兵に
    呼応して宮市に忠憤隊を組織した。同2年(1866年)には、故郷台道に私塾敬神堂(別称西山書屋)
    を開設、明治2年(1869年)までに多くの門人を育てた(後の内閣総理大臣寺内正毅もここに学んだ一人である)。

    大村益次郎暗殺事件
    しかし同年、大村益次郎暗殺事件が勃発。犯人の神代直人、団紳二郎らが門下生であったことから
    首謀者の嫌疑を受け、幽閉を命ぜられる。翌3年(1870年)、多くの門下生が奇兵隊脱隊騒動を起こすと、
    再び首謀者の嫌疑を受け藩庁から出頭を命ぜられる。ここに至りついに山口より脱走し、豊後姫島に
    潜伏した後、豊後鶴崎において河上彦斎と語らって二卿事件を企てるも失敗。さらに久留米に走って
    応変隊を頼るが、新政府からの追及を受けた同隊隊士の川島澄之助らの手によって、翌4年(1871年)
    に斬殺された(久留米藩難事件)。
    勝海舟の評「大楽源太郎は善さそうな男だったよ。あまり度々会った事はなかったが、
    話せる奴らしかった。長州人には珍しい男さ」



最新の画像もっと見る

コメントを投稿