山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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周防大島の小学校・中学校の消息記事作成中

2022年08月22日 09時02分38秒 | 周防大島学習館便り
周防大島町(旧四町)には多くの、小学校、中学校がかってありました。
いまは人口減少に伴い、次々と閉校し、見るも無残となりつつあります。
中学もかっての大島町立大島中学校と、現在、周防大島町立周防大島中学校が並立します。
久賀にあるので旧久賀中学を継承するのかと思いきや、新設なので、校歌も新しくなりました。
この校歌は星野哲郎氏の子息の手になるもののようです。
後数年たてば、現在屋代の大島中学校も閉校の上、久賀の周防大島中学へ生徒は引っ越しとか。
未だに、江戸時代の勘場(代官所)のイメージで久賀に引っ越すらしい。
島の玄関口小松ですら衰退しているのに、更に衰退している久賀へ移すとは明治維新が懐かしいのでしょう。
久賀の高校まで現在、なけなしの町税を使って交通費補助をしているのに時代錯誤としか言いようがない。
次の合併は貧乏な柳井市より金持ちの岩国市と囁かれる時代に無駄な投資でしょう。

そんな世間話はさておき、無くなりつつある小学校、中学校の記録を残そうと頑張っています。
各旧町の担当者の皆さま宜しくお願いします。

龍門由五郎関連放送 KRYラジオ 12月8日 投稿者:ふるさと学習館 投稿日:2020年12月 3日

2022年07月24日 13時22分06秒 | 周防大島学習館便り
12月8日(火)8時40分頃~「わがまち自慢」おはようKRYラジオ番組コーナーで、

江戸時代に周防大島町に生まれた巨漢力士、「龍門由五郎」について、

電話インタビュー(5~6分程度)放送されます。


大まかな流れは

Q 巨漢力士は、どれだけの大きさだったのか?

Q そんな力士が、本当にいたんですか?

Q 江戸時代のいつ頃の人ですか?

Q どんな話が残っていますか?

Q 地元に、龍門に関するものは何が残っていますか?

Q 手の大きさはどれくらいなんですか?

Q 今、「ふるさと大島学習館」で行われている特別展では、
 龍門に関するどんなものが展示されているのですか?

Q「ふるさと大島学習館」の場所や、会期などを教えて頂きますか?

 そんな内容にっいてお答えするつもりです。


良かったら耳を傾けて下さい。

特別展について 投稿者:町民 投稿日:2020年10月29日

2022年07月24日 13時21分01秒 | 周防大島学習館便り
特別展が開催されるらしいですが、開催場所がよく分かりません。
住所と地図をUPしてもらえれば助かります。

①「幻の銅版画」大島郡名所社寺名勝22点展示。

  の大島郡の名所はどことどこか教えてくれませんか?

② 龍門由五郎手形

  貴乃花 若乃花は分かりますが、龍門由五郎とは何ですか?
  プロフィールを教えてくれませんか?

特別展のお知らせ 投稿者:ふるさと学習館 投稿日:2020年10月29日

2022年07月24日 13時19分40秒 | 周防大島学習館便り
令和2年度 第2回特別展開催についてご案内

①「幻の銅版画」大島郡名所社寺名勝22点展示。

 原本は明治30年、大阪の大成館が県別の「名所図録」を作成し、出版しょうとして計画したものが、結果的には特定の県でしか実現しなかったという。
各絵図はそれぞれ実地踏査にもとづく鳥瞰図によって真景を模写しています。貴重な資料に高城が色を付け加えました。

② 龍門由五郎手形(大島に存在する4点原寸コピー)・錦絵コピーし貴乃花・若乃花色紙手形他8枚を展示手形比較展。

<展示期間>
令和2年10月16日から令和3年2月27日まで
毎週金曜日と土曜日、
時間10:00~15:00開館いたします。
入館料200円。
宣伝方法中国新聞・アイキャン・関心ありそうな知人方々へ呼び掛け。
事前予約いただければ臨時開館も受け入れします。

また学習館には常設展示のコーナーもあります。
大島大橋関係は特に詳しく展示説明してあります。

電話 0820-74-2150(学習館)

昭和20年9月枕崎台風屋代川氾濫の記憶

2022年07月24日 13時18分27秒 | 周防大島学習館便り
昭和20年9月17日 大型台風の枕崎台風は周東地区にも大きな被害を出しました。
当時、柳井高校一年生の屋代上片山の岡本哲郎氏は家の目の前で屋代川が氾濫し家々が押し流される様を
目の当たりにしました。その時の記憶の手記が下記の通りです。
屋代川は多くの場所で氾濫しましたが、大島中学の手前で氾濫した水の大元は屋代橋のその上の橋の間で
堤防が切れ、眺海山側に溢れだし、東村酒場の裏をえぐり、現在の日本ハワイ移民資料館の前を押し流し、
京免の田を溢れ、朝鮮長者の窪田氏が築いた通称「窪田土手」に遮られ、大正橋の手前(上流)で本流に
戻りましたが、大正橋が流木等で遮られていたので、水は益々増え、現在の大島中学の野球ベースの所が
切れ、馬喰の山根さんちの田が土砂で埋もれました。
増水に耐え切れず、大正橋は崩壊し押し流されました。


「岡本哲郎氏手記」

枕崎台風により屋代川が氾濫、土手が切れ、大島中開校候補となり財政上、小松町と屋代村の合併のきっかけとなる。
「昭和20年9月17日、枕崎台風によって関西を中心に大きな被害を受けたが、山口・広島も記録的な水害だった。
柳井の町も、柳井川が国清で決壊。市街地の大部分が水没した。
 この年の四月から柳井中学校の生徒として柳井に通い始めた私だったが、入学した柳井中学も、一階の軒下あたりまで
浸水した跡が残っており、後始末が大変だったと思う。自分たちが後片づけに参加した記憶はないが、クラス別に郊外の
整理作業に出かけたような、かすかな記憶もある。しかし、この当時の記憶はほぼ完全に抜け落ちている。
 授業ができないので休みが続いたのか、復旧作業の手伝いをしたのか、定かではない。
学校本館の増築部分4教室の内、2階の2教室は授業に使っていたが、階下の2教室は倉庫だった。
書類が水に濡れて散乱していたような記憶がある。
柳井では学校以外の被害とは無縁だったが、地元屋代では川が氾濫し、川沿いの県道や堤防はズタズタになった。
屋代橋は健在だったが、大正橋は落ちて水没。橋が落ちて水をせき止めたからだろうか、その上手、現在の大島中学校
前の堤防が決壊、流れ込んだ土砂で美田が砂に埋もれていたし、屋代橋の上流、広川の上手の堤防が約100M決壊、
その水が上片山に流れこんだ。川端の内側を流れ下り、部落に入る道を分断。片岡、東村、松本、中原、山本、宮岡、
原田、吉兼、徳村家は床上浸水。片岡は半壊、吉兼も一部流失、徳村の家は母屋・納屋とも流失。
 徳村の家を流した水は、部落へ入る道を切断して、床上浸水を解消した上、京免地区の水田地帯を流れ、(久保田土手
に当たり)大正橋の上手で本流に戻っていった。なぜか一番低い位置にあったはずの松本の被害について記憶がない。
 松本のお婆さん一人で豆腐を挽いていた。毎日豆腐籠をぶら下げて、買いに行っていたけれど、小学生から見ての
お婆さんであり実際の年齢は不明。後年、久保惣吉さんが入居。信仰問題で物議を起こすこととなる。
 古老の説明によると、水は屋代川の旧流路を流れたものだと言う。
明治19年の「郷の坪洪水」の後、屋代川の堤防を全面的に改修したが、現在の屋代川の流路はその時に作られたもの
らしい。水は元の道を通りたかったのかも知れない、とオチがついた。
 後年、郷土史に興味を持つようになったのはこの話が伏線になっているような気がする。
尚、当日は荒神祭りだった筈で部落の主だった人は当屋に集まっていたと思われる。家が流れるくらいの大水で死傷者が
出なかったのは、避難の指示が早かったからではないだろうか。
ちなみに当屋は石田さん宅(井倉)だったと言う。世話人は多分、福元長右衛門さんだったであろう。
 県道の被害では、吉兼部落と郷の坪部落の間のカーブ、銅(あかがね)公会堂下のカーブ、神領と自光寺の中間の
カーブ(屋代ダム工事で引っ越した中原の上手)、樫原の吉田、川窪(共に屋代ダム工事で引っ越し)下などが通行
出来なくなっていた。また、西村酒造の上流、徳神羽橋の上流などが崩壊。旧神領停留所から徳神に渡る橋が流失。
自光寺の田中(ダム工事で北迫に引っ越した)の下で自光寺部落の道等が流失した。
  本格的な復旧工事が、いつごろ始まったのか記憶がない。
しかし、たまたま戦場から引き揚げてきた、若い労働力が豊富だったし、失業者の救済も兼ねて復旧工事は以外に早く
進んだ。働いた人たちの間の陰口では、あんないい加減な仕事、(手抜き)で大丈夫?との声も聞こえていたが、その後
数十年間壊れもせず堤防の役割を果たしてきたのを見ると、案外合理的な工事だったのかも知れない。
  9月17日は前述のように、片山荒神の祭礼日だった筈である。(現在は日曜日にお祭りを行うが本来は17日が
定例日だった)
そう思って記憶を探ると、お祭りの為に部落の人たちは石田(その後山本、現在井倉)へ集まっていたようだ。
年よりをお寺に避難させたと言うような思い出話を聞いた気がする。
徳村の家が流れ、吉兼の風呂場が引きちぎられ、部落道が深くえぐられて通りにくかったが、修理して楽に通れるまで
どのくらいかかっただろうか。
 我家から下にでるには福元の坂を下るのが正式ルートだが、吉兼の所の被害の記憶だけが強いのは、東側の道が
通れなかったからこも知れない。