山口県周防大島物語

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因島村上文書 1

2024年01月27日 09時16分50秒 | 因島村上文書
因島村上文書を「とんぼ草」氏が整理してくれましたので転載します。
背景や意味を共同で勉強したいと思います。協力してくれる方はコメント欄から
投稿ねがいます。

[01]『因島村上家文書』「目録」
本文末尾に証文や家譜を上関(周防)で焼失しており委細不明とのこと。
毛利家萩移封での因島村上宗家の同行時、周防上関深浦の浜で4か月近く待機しており、その時の焼失か(屋代源三氏)。

①『因島市史料 第五集の「因島村上文書」』より。
②『因島村上家文書を読む』(以後、因島読)。
③整理番号は本書で固定扱い。壱之巻 01~31、二之巻 32~42、参之巻 43~51。
④整理番号右肩に*は、②因島読で年が判明したもの。
⑤整理番号右肩の[数字]は、閥閲録図書組村上太左衛門文書の山口県文書館編纂での整理番号。
⑥整理番号右肩の+は、⑤で補足の年がある文書

01 貞元年(1222)十一月十一日 備後国因島中庄預所下文(賜給田) 公文清原守高
02[23] 貞応三年(1224)四月六日 備後国因島中庄頜家下文(公文職宛行)
03[24] 弘安九年(1286)十月日 預所寄進状(放生会頭田)
04[22] 弘安三年(1333)五月八日 大塔宮令旨写[度々合戰捨身命致] 備後国因嶋本主
05[25] 天授三年(1377)三月十五日 正民充行状[讃岐国弘田郷地頭] 両三人
06[26] 応永三十四年(1427)十二月十一日 足利義持感状[就播州事早々馳参] 村上備中入道
07[27] 正長元年(1428)十月廿日 山名時熙充行状[備後国多嶋地頭職] 村上備中入道
08[30] 宝德元年(1449)六月十四日 河野教通書状[去十一佐礼城打落] 村上備中守
09[28] 享徳二年(1449)五月十五日 管領細川勝元奉書[就河野伊予守通春] 村上備中守
11 文明十五年(1483)十一月十五日 村上吉充譲状[ゆつり状之事] 亀若
13[29]* 明応八年(1499)三月廿四日 大內高弘書状[今度与風至佐賀関] 村上備中守
14[31]* 永正五年(1508)三月廿一日 大內義興書状[就所用警固船事] 村上備中守
51* 天文十三年(1544)天文十三年七月三日 大內義隆下文(村上新藏人宛)[備後国安名都鞆浦内 知行] 村上新藏人□□
20[15]* 天文二十四年(1555)卯月十日 小早川隆景書状(向島一円之事)礼紙付[]村上又三郎
  >この文書には年の記載がなく、閥閲録の山口県文書館編では弘治二年、『因島村上家文書を読む』では天文ニ十四年としている。
21[14] 弘治三年(1557)正月十二日 小早川隆景吹举状[新藏人御所望] 村上又三郎
22[11]* 永禄四年(1561)十一月九日 小早川隆景書状[今度其表御出船] 村上新藏人
45[04]* 永禄十二年(1569)八月廿五日 毛利輝元元就連署状[今度神辺不慮] 村上左衛門大夫
46[17]* 天正二年(1574)五月三日 小早川隆景感状(軍忠)[ 今度元太動之] 村上左衛門大夫

44[33]+ 天正四年(1576)卯月九日 足利義昭御內書[当津逗留中馳走] 村上左衛門大夫
47[10]* 天正四年(1576)八月三日 毛利輝元感状(大坂兵粮差籠)[ 殊於河口一戰] 村上左衛門大夫
48[16]* 天正四年(1576)八月十四日 小早川隆景感状(大坂表警固之事)[ 木津河口敵舟切崩] 村上左衛門大夫
43[34] 天正五年(1577)七月七日 足利義昭奉行人奉書[至備後国鞆就移] 村上左衛門大夫

23[13]* 天正十年(1582)卯月七日 小早川隆景書状 折紙[就其表之儀] 吉充
24[08]* 天正十年(1582)卯月十日 毛利輝元書状礼 紙付[今度被拍御一門] 村上新藏人
49[09]* 天正十年(1582)卯月十三日 毛利輝元充行状(人質)[] 村上左衛門大夫
  >山口県文書館:村上左衛門大夫(祐康)
25[12]* 天正十年(1582)卯月廿六日 小早川隆景書状(伊保庄)礼紙付[]村上新蔵人
26[06]* 天正十年(1582)九月廿三日 毛利輝元書(来島逆意刻)礼紙付[]村上新蔵人
50[07]* 天正十年(1582九月廿三日 毛利輝元充行状(来島逆意刻)[] 村上左衛門大夫
  >山口県文書館:村上左衛門大夫(祐康)
28[21] 天正十九年(1591)十二月朔日 毛利氏年寄連署打渡状[]村上新左衛門尉
  >打渡:所領を知行人に引き渡すときの文書
29[18] 寛永弐年(1625)十二月朔日 毛利秀就仮名書出(村上又三郎宛)[任 新左衛門] 村上又三郎
30[19] 寛永九年(1632)卯月十二日 毛利秀就加冠状(村上又三郎宛)
31[20] 正保四年(1647)正月十三日 毛利秀就官途書出(村上又三郎宛)[任 带刀]
以上31通

10[32] 十二月十一日 大內政弘書状[其後久閣筆之槎] 村上新藏人
12[35] 六月八日 山名政豊軍忠状礼紙付[敵舟弐艘切取] 村上左衛門大夫
15 正月十一日 小早川隆景礼状[寔春陽之御嘉祥] 村上加賀守
16 十二月廿八日 陶隆礼状 礼紙付[加州上因之時者] 村上弥次郎
17[01] 三月廿三日 毛利隆元元就連署状(隆景宛)礼紙付[就村上新藏人] 備中守
18[03] 十二月十六日 毛利隆元元就連署状(村上新藏人宛)毛利隆元書状[就御愁訴磋対隆景] 村上新藏人
19[05] 十二月十六日 毛利隆元書状[於防州荐米百石] 村上新藏人
27[02] 十一月廿六日 毛利輝元書状(小早川隆景宛)折紙[因嶋内証之通](因島忠誠隆景に)

32 十一月八日 小早川隆景礼状[大鯛一候給] 村上鍋松
33 正月十九日 毛利秀就礼状[鷹射候て送越] 村又三
34 二月十六日 毛利秀就礼状(改年之祝儀)折紙[樽代到来] 村上又三郎
35 六月廿九日 毛利秀就礼状 折紙[申越殊鱧一] 村上新左衛門尉
36 正月廿八日 毛利秀就礼状(改年之祝儀)折紙[樽代到来祝] 村上新左衛門
37 十一月廿三日 毛利秀元礼状[伊采女正所迄 殊鱧之子] 村又三
38 十二月十四日 村上又三郎宛毛利輝元書状 折紙断半[十二月十四日] 村上又三郎
39 五月十六日 国信書状[東国依御旅行] 村上源左衛門尉
40 二廿六 書状(女手、馬之事)[ 又本慈院への御書]大内義隆の奉行人からの手紙
41 棟札写(金蓮寺)[ 奉新造立宝鏡山金蓮寺薬師]
42 位牌写[前備州雲臺常功揮定門]

[02] 『因島村上家文書』本文
一 備後因島中庄預所下文(賜給田)
下 備後因嶋中御庄政所
     四斗代二段
     三斗代二反
 可早宛賜給田捌段内
     二斗代二反
     一斗代二反
公文清原守高可宛
賜之状所仰如件
  貞元年十一月十一日
比良木祢宜鴨県主(花押)

二 備後国因島中庄領家下文(公文職宛行)
下 因嶋中庄
 可早宛行公文職事
右以人為彼職庄務所任先
例可被沙汰状如件庄
官百姓等所宜承知勿違
失故以下
貞応三月(ママ)□月六日

三 預所寄進状(放生会頭田)
寄進 放生会頭田事
  友貞名内興田壱段半
右於彼坪所当者每年宛賜
頭人等可致其募庄官百姓
等宜承知敢不可違失者
可祈誠頜家御方並庄内
貴富仍所寄進如件
弘安九年十月 日
(花押)

四 大塔宮令旨写
度々合戰捨身命致
軍忠之刻去四月三日同八日
廿七日等合戰之時子息己下郎從
討死之条尤以不便次第
所有御感也早可有恩賞者
大塔二品親王令旨如此悉之
以状
元弘三年五月八日 左少辯(ママ)判
備後国因嶋本主治部法橋幸賀館
(本文書のみ写し)

五 正民充行状
讃岐国弘田郷地頭
職事為兵粮料
所被置預者也
任先例可被知行
之状如件
天授三年三月十五日正民(花押)
両三人御中

六 足利義持感状
就播州事早々馳参候
神妙候於向後弥可抽
忠節也
(異筆)
応永三十□年
十二月十一日 (足利義持) (花押)
村上備中入道殿

七 山名時熙充行状
備後国多嶋地頭職事為給分
所充行也早任先例可致沙世之状
如件
    (山名寺熙) (花押)
正長元年十月廿日
村上備中入道殿

八 河野教通書狀
去十一佐礼城打落松岡以下打
取顕八到来怏大応無極候同
所之敵城落居候目出今(ママ)度合
戦ニ御手の人々高名由注進候
申つくしかたく候度々におよひ
御手の人如此候目出候さ候間
府中の事ハ彼城へ能々もた
せ候て一勢こし給へと申付候
御意見肝要候道前辺の
事ハ手をかけ候ハす共にて候 先
早々此方ヘ一勢給候はゝ肝要侯
ゆの山城儀難儀に候条一了簡可
仕候猶々今度の事御取成共
により候て如此候御高名至候毎事の
ゆの山可申候時旦重々可承候 恐々
謹言
 六月十四日 教通(花押)
宝德元
村上備中守殿

九 管領細川勝元奉書
就河野伊予守通春局国事
被致忠節云々尤神妙弥可被
抽戰功之由所被仰下也仍執達
如件
 享徳二年五月十五日右京大夫(細川勝元) (花押)
村上備中守殿

一〇 大內政弘書状
其後久閣筆之槎候自然
之遲意惠外候逄無差题目
候連々申承候者可為祝
着侯委細猶刑部丞可申候
恐々謹言
十二月十一日 (大內)政弘(花押)
村上新藏人殿

一一 村上吉充譲状 ゆつり状之事
右所々の御判地者不及申其外私領
並札等事亀若丸ゆつり
渡者也守先例相斗 御屋屋形様江
無余儀可奉公女子分之事は
其身一後のちの吉充あとめへ可返候
仍之状如件
文明十五年十一月十五日 吉充(花押)
亀若とのへ

一二 山名政豐軍忠狀 礼紙付
敵舟弐艘切取
同可然者討捕之由
神妙儀候弥可模
調法可為肝要候
丹亦地下警固出
由候能々可有褒美
恐々謹言
六月八日 (山名)政豐(花押)
村上左衛門大夫殿
(礼書亨亨書)
「村上左衛門大夫殿 政豊」
带封アト有

一三 大內高弘書狀
今度与風至佐賀関金蓮寺
着律候之間令申候仍先状如合
申候爰元弓矢之儀近々事候
各至豐前国出張候大友備前守
同発足一而日候然者此
度被相談警固事預馳走
候供憑存候之趣委曲金蓮寺
令申候恐ゝ種言
三月廿四日 (大門)高弘(花押)
村上備中守殿

一四 大内義興書状
就所用警固船事
申旨候可然候可有
調法之条可為祝着候
委相之趣杉次郎左衛門呀
可申候恐々謹言
榮號
(永正五年)
(大門)
三月廿一日
義興(花押)
村上備中守殿

一五 小早川隆景礼状
寔春陽之御嘉祥
千秋萬歲自他以幸
甚云々仍太刀一腰畏
悅之至候何様面祝儀
從是可申入候猶御使
者申候恐ゝ謹言
正月十一日 (小早川隆景)德好
村上加賀守殿
御返報

一六 陶隆満礼状 礼紙付
加州上因之時者依不得隙
不参申候且者御心安存候
殊刀一腰国久慥到来候
  >慥:たしかに
怡悦之至候此等之趣被相
心得御伝達所希候恐々
謹言
十二月廿八日 隆滿(花押)
村上弥次郎殿
  進之候
(礼書ウワ書)

  陶安房守
村上弥次郎殿  隆満
  通之候」

一七 毛利隆元元就連署状(隆景宛)礼紙付
就村上新藏人被申儀
蒙仰得其心候所带等
於裁判之砌可致其心
得候不可有疎略候弥警固
馳走肝要之由可被仰候
恐々謹言
(弘治元年)
三月廿三日 隆元(花押)
      元就(花押)
隆景 御陣所
(礼書ウワ書)
「・・・ 右馬頭
     備中守
隆景 御陣所 隆元」

一八 毛利隆元元就連署状(村上新藏人宛)
就御愁訴磋対隆景
蒙仰委細又申述候然者
先浮米遣置候処為
御礼御使者畏悦之至候
猶御使江申上候恐々謹言
 十二月十六日 隆元(花押)
        元就(花押)
村上新藏人殿
  御返報

一九 毛利隆元書状
於防州荐米百石
進之候起為御礼以御
使状承候懇意之至候
每事隆景可申述候間不
能詳侯恐々謹言
 十二月十六日 隆元(花押)
村上新藏人殿
    御返報

二〇 小早川隆景書狀(向島一円之事) 礼紙付
向嶋一円之事任承旨致
同心候以宇賀嶋一着之上可有
御進退候神茂御照覧候へ
聊不可有相違候弥御入魂
此節候恐々謹言
(弘治元年)
卯月十日  隆景(花押)
村上又三郎殿
  御陣所

(礼紙ウワ書)
「・・・ 小早川又四郎
        隆景
村上又三郎殿
   御陣所 」

二一 小早川隆景吹举状
新藏人御所望之事
可令吹挙京都
之状如件

弘治三年正月十二日散位隆景(花押)
 村上又三郎殿

二二 小早川隆景書状
今度其表御出船動稠度
仰付候依之此口敵敝退散
然者田原退口被待付被砕
手数輩被討果之由到来候
誠御馳走御粉骨之次第不
浅候此表伝之要害明退候
条動深重依申付之旁御
礼申後候慮外候其表御滯留之
間弥人数出候可被仰談候猶
桂右衛門大夫可申上候恐々謹言
 十一月九日 隆景(花押)
村上新藏人殿
    御陣所

二三 小早川隆景書狀折紙
就其表之儀御使
者被差越以条数
被仰越候慥承知候
  >慥:たしかに
両嶋相違之段無
申事候於此上茂
以御才覚被相調侯
事簡要候於趣者
至乃兵所申遣候条
可得御意候就夫
至御家来中従
後方切々可有御
同意之由申置候上
金星與萃際善情不
不及是非候雖然吉充
+++(折り返し)+++
亮康御覚悟無二
之儀候条於輝元吾等
向後忘却有間敷候
間御家中衆へも
能々被仰聞無異儀
段肝要候於御愁
訴者随分可相調候
委細御者(使)へ申入候
恐々謹言
  左衛門佐
卯月七日 隆景(花押)
 吉充
   御返報

二四 毛利輝元書状 礼紙付
今度被拍御一門中無二此
方御届之段寔本望之至候
仍五百貫之地以防長寺社
半済之内可進置之候御懇
切之儀向後不可有忘却候
猶隆景可被申候恐々謹言
  卯月十日 輝元(花押)
村上新藏人殿
    御宿所
(礼托ウワ書)
「・・・  右馬頭
 村上新藏人殿
   御宿所  」

二五 小早川隆景書状(伊保庄)礼紙付
今度被抽御一門中別而預御
入魂之段対当家難謝本望候
然間於伊保庄参百石之地進置候
聊御志計候目出度度長久可
  >聊:いささ(か)、たよ(る)、たの(しむ)
申談候猶乃美兵部丞可申候恐々
謹言
 卯月廿六日 隆景(花押)
村上新蔵人殿
   御宿所
(礼紙ウワ書)
「・・・  小早川左衛門佐
 村上新藏人殿  隆景
    御宿所  」

二六 毛利輝元書状(来島逆意刻)礼紙付
連々別而御馳走珠去者來鴻
逆意之刻無二御入魂大慶候
然間防州都濃郡戸田之
内三百石地先以進之置候全
御知行肝要候猶隆景可被
申候恐々漫言
 九月廿三日 輝元(花押)
村上新藏人殿
   御宿所
(礼紙ウワ書)
「・・・   毛利 輝元
 村上新藏人殿
   御宿所   」

二七 毛利輝元書狀(小早川隆景宛)折紙
因嶋内証之通
慥承届候聊無
忘却之条不
可有氣遺之候
自然族之儀共
候者何時茂可
被相尋候之由
可被仰渡候
先年沖家数
  +++(折り返し)+++
度之変地(化力)候茂
対当方新藏人
覚悟不相替段
貞心之儀候弥
可有馳走事
肝要候恐々謹言
  右馬頭
十一月廿六日 煇元(花押)、
隆景まいる
  >隆景よりお手紙差し上げます
  申給へ

二八 毛利氏年寄連署打渡状
 打渡事
一四百参拾参石五舛八合  備後御調郡因嶋
一七拾六石六斗八合    備後 鷺嶋
一百五拾九石三斗七舛二合 長州豊西郡
  以上八百六拾九石三升八合
天正十九年十二月朔日
    治部大補 元清(花押)
    式部少輔 広俊
    飛彈守  長(花押)
    肥前守  就長(花押)
    与三左衛門尉 元嘉(花押)
  +++(折り返し)+++
    太郎右衛門尉 就辰(花押)
    与三右衛門對 元栄(花押)
    安国寺    惠瓊(花押)
村上新左衛門尉殿

二九 毛利秀就仮名書出(村上又三郎宛)
  任  新左衛門
寬永弐年十二月朔日 (花押)
     村上又三郎とのへ

三〇 毛利秀就加冠状(村上又三郎)
   就冠
     就
寬永九年卯月十二日 (毛利秀就)(花押)
 村上又三郎とのへ

三一 毛利秀就官途書出(村上又三郎宛)
   任 带刀
正保四年正月十三日 (花押)
      村上又三郎とのへ

三二 小早川隆景礼状
大鯛一候給候一段
見事芳志之至祝着候
猶従新次郎所可申候恐々謹言
 十一月八日 隆景(花押)
(捻封)
〃/  村上鍋松殿
   隆景まいる

三三 毛利秀就礼状
鷹射候て送越候祝着候
其方仕候由奇特ニ候
委細児豊前所より可申
聞候かしく
 正月十九日 (毛利秀就) (花押)
〆    村又三

三四 毛利秀就礼狀(改年之祝儀)折紙
為改年之儀
樽代到来
令祝着候猶
桂能登守可
申聞候かしく
 二月十六日 (毛利秀就) (花押)
  村上又三郎とのへ

三五 毛利秀就礼状 折紙
此表着候付而
申越殊鱧一
折到来祝
着候猶追而
可申候かしく
 六月廿九日 (毛利秀就)(花押)
  村上新左衛門尉とのヘ

三六 毛利秀就礼狀(改年之祝儀)折紙
為改年之祝儀
樽代到来祝
着候旧冬茂院
暮申越満足候
猶重而可申聞候
かしく
 正月廿八日 (毛利秀配) (花押)
  村上新左衛門とのヘ

三七 毛利秀元礼状
伊采女正所迄被
仰越候之通令承知候
殊鱧之子枉物一送
給候遙々預御音
耗祝着申候一入弥
賞味候猶期後音候
恐々謹言
十一月廿三日 甲斐守 秀元(花押)
 村又三
  まいる

三八 村上又三郎宛毛利輝元書状 折紙断片
 十二月十四日  (毛利輝元) (花押)
  村上又三郎とのへ

三九 国信書状
 如仰雖未申通候一家之由
 承及候間内々御床敷
 候之処御音信本望候
 於向後者連々可申通候
 兼又御所縁様東国依
 御旅行路次事承候間
 当国中事者送申候
 折節難去依隙彼方
 参会不申候条非本
意候心事期後便之
時候恐々謹言
 五月十六日 国信(花押)
 村上源左衛門尉殿
    御返事

四〇 書状(女手、馬之事)
「事うみ山 にて候筑辺事 御調の事」
又本慈院への御書申までも
候ハねとも其方にて御文箱に
入られて可被遣候返々申度
差御事侯ハねとも便宜さしをき
ともありけに候是たにも
   かたく候て令申候御厩藤衛門被下
調へ候ニて候へとも実も候ハす候
   候之時貴礼令拝見候忝候わかさ
さりともと天道をたのミ(ママ)まで
   ちとよく御座候由文に見ヘ候
にて候さても堺の時宜一定由
   誠目出侯よき時分竹法下向
申候天下如此候ヘハ何とやらん
   候て御力つき候すると此方にて申斗候
心わるく候如何思召候哉

馬の事御床しかりハ尤候
   さりなから
めつらしき馬も御座候ハす候
   わかさ
河原毛はかりニて候身かかわらけ
弘兵念を入られ候へとも身一期
馬一期と申候て一向取合ハす候
於竹よりもわらハれ候何ともいらせ候
   へく候
近日ハこしのいたみ年内より
なをり候てのり一向かはり候弘兵ハ
わかさよりもほしきよし被申候

早々懸御日度候又鵇毛あし
  >鵇:トキ(鴇)
よくなり候て身ハかわらけよりも
秘蔵にて候是又見せ申候万に
其方御床敷候ゝ猶々御養性
ちと御快気之由候目出度候ゝ
    かしく
 二 廿六
  きや  より於中
    人々
      申給へ

四一 棟札写(金蓮寺)
奉新造立宝鏡山金蓮寺薬師
如来精舍一宇
備後因詢調郡因島中之庄村
右祈願者奉為金輪聖皇天
長地久御願円滿殊者当村
本家領家庄官衆民大檀那
家門繁昌武運增進息災
延命增長福寿現世安穏
後生善処
文安陸天己巳八月吉日
住持権大僧都法印快秀
領主村上備中守源吉資
大領主弥旀(ママ)明光子息
  >沙弥明光
宮地大炊助大江資弘
大工源弥(ママ)永金藤原満村
小工拾二人

四二 位牌写
前備州雲臺常功揮定門
前備州太守功嶽常勲公禅定門
南江光周禅定尼 応永五年戊寅正月廿五日
達叟明源禅定尼 応永六年已卯三月十一日
        五十三逝去
明海了悟禅定尼 応永廿五年壬寅正月十七日
昌栄禅定門   応永廿五年戊戌十一月八日十五逝去
智秀禅定尼   永享五年辛丑六月廿三日二十逝去
前越州太守雲松常貞居士
齢岳常椿大姉

四三 足利義昭奉行人奉書
至備後国鞆就移 御座摂津国
内尼崎[除寺社本所領並諸侯方知行文]事被付訖
早存知之可抽忠節之由所被仰下也
仍執到如件
  天正五年七月七日 大和守(花押)
           丹後守(花押)
  村上左衛門大夫殿

四四 足利義昭御内書
当津逗留中馳走
侯忠切无感覚候本意
上可恩賞仍毛氈(亶+毛)鞍
  >氈:もうせん
覆白拿袋令免除畢
猶昭光可申候也
 卯月九日 (足利義昭) (花押)
 村上左衛門大夫とのへ

四五 毛利輝元元就連署状
今度神辺不慮出来候処
別而以奔馳走之故則
被切返候御入魂之通
    盛重息
弥八郎又次郎所より
    被申越候
祝着此事候委細旨
    盛重
可被甲候恐々謹言
  八月廿五日 輝元(花押)
        元就(花押)
  村上左衛門大夫殿
     御宿所

四六 小早川隆景感状(軍忠)
今度元太動之
時敵船被懸頸[三並]
一人被生捕殊御自
身御高名無比類
存候毎事御馳走之
至候猶使者可申
恐々謹言
  五月三日 隆景(花押)
 村上左衛門大夫殿

四七 毛利輝元感狀(大坂兵粮差籠)
今度上口警固差上候付而
御自身御乗船御馳走之至候
殊於河口一戰之時別而被砕
手剰敵船数般切埋之
数百人討果至大坂兵粮差
籠之都鄙之覚無申斗候
併御粉骨之所成候仍而
太刀一腰[金覆輪]銀子五枚
令遣之候猶委細桂左衛門大夫
可申恐々護言
  八月三日 輝元(花押)
  村上左衛門大夫殿
    御宿所

四八 小早川隆景感状(大坂表警固之事)
熊令啓候今度大坂表警
固之事旁以御馳走於
木津河口敵舟切崩数百
人被討捕則時兵粮指籠
得勝利候併御入魂故候
上意樣御動座己後初而
御手合候処如此属御太利
候事尤珍重候初中後
被成御短息別而被入御心候通
井又右慥申聞候本望候何茂
從輝元御礼可被申候仍而
太刀一腰[金覆輪]青銅千疋
令遣之候誠表御祝儀
斗候猶吏(使)者可申侯恐々謹言
  八月十四日  隆景(花押)
  村上左衛門大夫殿
     御宿所

四九 毛利輝元充行状(人質)
今度被抽御一門頓人質被
差出候無二御入魂之段喜悦
之至候向後弥可申談之儀
仍於防長之間三百貫之地
可進置候猶以御馳走簡要候
恐々謹言
  卯月十三日  輝元(花押)
  村上左衛門大夫殿
       御宿所

五〇 毛利輝元充行状(来島逆意刻)
連々別而御馳走殊去春
来嶋逆意刻無二之御入
魂大慶候然間防州都濃
郡湯野之内百石之地先
以被進置之候全御知行簡要候
猶隆景可被申候恐々謹言
   九月廿三日  輝元(花押)
  村上左衛門大夫殿
     御宿所

五一 大内義隆下文(村上新藏人宛)
   (大內義隆) (花押)
下    村上新藏人□□(虫喰亻)
  可令早領知備後国安名
  都鞆浦内拾八貫文足事(虫喰イ)
右以件人所宛行也者守先
例可全知行之状如件
  天文十三年七月三日


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