山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
(興味のある話題のカテゴリーを古い順に見て下さい。)

昭和11年発行 【小松町誌 31】

2024年07月23日 09時45分28秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】
昭和11年発行 【小松町誌 31】
    
   【 高 齢 者 】

 町政施行二十周年記念式にあたり町は八十才以上の高齢者に記念品を贈呈したが、
 該当高齢者は左の人々である。

 (源三注・下記の人達は昭和11年現在ですので、今、これをご覧の関係者からすれば、ひい爺さん、
  ひいひい爺さんの時代です。地域も現在の小松地区、開作地区、志佐地区に限られます。)

   氏 名         年齢      氏 名        年齢

   【男子の部】

   田元 吉十郎(志佐)   92才     矢田部 宗橘(開作)  91才

   隠田 銀蔵 (志佐)   91才      山根 勘兵衛(小松)  88才

   中村 乙之助(志佐)   88才     杉山 松三郎(小松)  87才

   大松 幸太郎(小松)   87才     木村 伊三郎(小松)  86才

   加藤 延次郎(開作)   85才     藤本 市蔵(小松)   85才

   松村 太郎吉(小松)   85才     星出 弥助(開作)   84才

   高野 諦雲(小松)    84才     中谷 光五郎(小松)  83才

   佐原 又次郎(志佐)   82才     島元 直蔵(小松)   82才

   湯口 重助(志佐)    82才     大海 一孝(小松)   82才

   川本 久蔵(小松)    83才     松田 光五郎(小松)  82才

   山中 八郎(小松)    82才     島田 吉助(小松)   82才

   道中 大治郎(小松)   81才     山根 勇吉(小松)   81才

   西岡 松治(小松)    81才     矢野 重吉(小松)   80才
  
   木本 太吉(小松)    80才     古柳 喜世助(小松)  80才

   田中 才助(小松)    80才     佐原 弥一(志佐)   80才

   大西 富次郎(小松)   80才     牧野 栄助(小松)   80才

   【女子の部】

   柳原 ムメ       101才     小田村 フジ     94才

   廣田 ミネ       94才      河内 キョウ     94才

   岡村 ナツ       91才      奈良崎 サト     90才

   大丸 ツル       90才      藤村 ムメ      90才

   河村 ヤス       90才      池田 マツ      90才

   山中 セキ       90才      秋元 ユキ      89才

   武末 フジ       88才      松岡 ユキ      87才

   三谷 タツ       87才      木村 ヤス      87才

   清水 トモ       86才      東 タニ       86才

   岡下 ヒナ       86才      中村 ノブ      86才

   中村 トメ       86才      岡野 キム      85才

   串本 スミ       85才      山根 キク      85才

   大串 ヨシノ      85才      串崎 サツ      85才

   山藤 ヘム       85才      山本 キヨ      84才

   松田 トヨ       84才      近藤 モト      84才

   藤永 ナツ       84才      松田 ソノ      84才

   大下 マツ       83才      井倉 ミネ      83才

   秋元 ハナ       83才      矢田部 シズ     83才

   山本 ハナ       83才      河原 ミヨ      83才

   中原 フイ       83才      福元 タネ      83才

   川本 コト       83才      岡本 サク      82才

   岩本 サヨ       82才      名倉 シム      82才

   平岡 イシ       82才      日元 セキ      82才

   國廣 トモ       82才      川野 リト      82才

   古池 キヌ       81才      徳光 イノ      81才

   平井 テム       81才      山根 タヨ      81才

   松田 ワカ       81才      川崎 テイ      81才

   東石 タキ       81才      吉谷 トヨ      81才

   清水 ハル       81才      吉村 サヲ      81才

   若林 タイ       81才      田中 チヨ      81才

   廣津 キヌ       81才      平本 キヨ      80才

   山本 チカ       80才      森國 ナヲ      80才

   右田 トモ       80才      川村 ツネ      80才

   是永 マツ       80才      山本 クメ      80才

   奈良元 ツナ      80才      田村 ナツ      80才

   弘中 キム       80才

        

       
 
 

昭和11年発行 【小松町誌】30

2024年06月30日 15時57分34秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】
昭和11年発行 【小松町誌 
    
   【 指 定 港 小 松 】

 小松港は往古以来、良港として知られているが、昭和9年4月23日を以て内務省より
 指定港とする旨告示された。即ち

  「屋代川左岸先端を中心として一粁二(1200M)の半径を有する円圏内の海面及び河川水面」

 がそれである。これによって同港が重要なる港湾たることを立証されたのである。
 ちなみに、同港に見る昭和9年の状況は左の如し。

 『入港船舶』 入港船舶数は33,005隻でその大半は貨客船である。

 『移出入貨物』 同港における移出入貨物は、移出約44万円、移入約85万円と見られているが
        内主なものは左の如し。

       『 移 出 』

 品種         数量       価格      
 
 穀物         404石     43,000円
 食料      8,478,850斤     2,543円57銭
 清涼飲料水     3,831打     3,832円
 煙草        3,201才    12,164円
 動物         89頭     4,270円
           2,500羽      750円
 鮮魚介       4,850斤     2,910円
 果実        2,670才     13,300円
 味噌        19,900才    24,700円
 瓦         3,470才     1,735円
 藁製品       9,820斤      982円
 醤油         146石     6,570円
 和酒         674石     67,400円

      『 移 入 』

 穀物         647石     84,246円
 小麦粉澱粉     27,007斤     5,286円
 食用海草      50,000斤     5,00円
 鮮魚介       44,000斤    14,500円
 塩魚        20,000斤     4,000円
 乾魚         2,200斤     600円
 蔬菜        17,700斤    1,770円
 醤油         130石     5,850円
 和酒         461石    46,100円
 動物         164頭     8,100円
           7,100羽     2,130円
 植物         193斤     1,930円
 皮製品        1311斤    2,622円
 食用油類       49石     10,800円
 製綿類       30,000斤    19,650円
 織物類       92,500斤    177,415円
 肌衣帽子履物類           14,640円
 紙類                20,000円
 石炭その他             64,200円
 金物類               20,800円
 木材類               28,500円
 砂糖菓子      80,000斤    16,000円
 陶器硝子類             19,600円
 肥料飼料類             12,900円

昭和11年発行 【小松町誌】29

2024年06月29日 06時25分12秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】
昭和11年発行 【小松町誌】29

     【 伝 説 】

 (二)伝 説

  【般若姫遭難】
  
   欽明天皇の二十一、庚辰三月中旬、豊前国の満能長者、眞名原小五郎の姫たりし般若姫が
   契り浅からぬ、豊日ノ宮の許に赴くべく都をさして船出の途中、大島瀬戸に於いて遭難
   されたと言われている。この姫の遺骸を葬ったのが熊毛郡平生町の般若寺である。

   【源三注】この話は色々と訛化して関連の各地に残ります。般若姫の出身地の大分では
        毎年「般若姫祭」をしていますし、平生の般若寺は参詣の人が絶えません。
        勅使をもって祀ったとされる、大畠の鳴門神社は今は忘れさられていて地元
        の人に聞いても分かりません。小松瀬戸の大多麻流神社境内には般若姫の
        供養塔があります。


  【虚空太鼓】

   昔軽業師一行が船によって大島瀬戸を通過せんとして海難の為全滅した。彼らは落命する
   まで笛太鼓を叩いて救いを求めたものであるため、爾来、その遭難の時期である夏期の夜半
   にこの海上にあたかも太鼓を叩くが如き音を発する。しかしその音響の在る所が分からない
   ために、世に虚空太鼓と言われている。


  【飯の山の大蛇】

   大多麻根神社の縁起の中に、飯山に往古より大蛇住みけり。常に隠れる石室深森なり。
   折々、諸人見ることあれども害をなさず、長さ五、六尋と云う。是、一宮大明神の
   令使と申し伝ふ。

  【龍 燈】
  
   大島瀬戸に、毎年大晦日の夜十二時に龍燈が上ると言われている、これは別記、般若姫遭難と
   結びつけられてこの龍燈の一つは必ず般若寺に飛ぶと言われている。

   【源三注】この伝説は筆者がきちんと調べていない。筆者は般若姫伝説と別な話としているが
       この龍燈(龍の様な火の玉)は般若姫伝説に出てくる。
       鳴門神社に残る縁起によると、般若姫を欲した瀬戸の海神龍が瀬戸に身を投げて海神
       の許に来なければ、周りの人達をすべて嵐により殺すとしたので般若姫は泣く泣く
       身を投げたとされます。そして毎年末の深夜、火の玉となって海中より脱し、一旦
       大多流神社の松に留まったあと、平生の般若寺と大畠の鳴門神社に飛ぶとされます。
       「旧大島町誌」は三蒲の松尾寺にも飛ぶと付け加えています。
       ただ、大晦日は旧暦ですから新月では2月になりますので旧暦の年末の零時に瀬戸で
       待って居れば見えるかもしれません。
 
  

   

【1940年(開戦前)ハワイに居た大島郡の人達】2

2024年06月17日 12時07分35秒 | 1940年(開戦前)ハワイに居た大島郡の人達
【1940年(開戦前)ハワイに居た大島郡の人達】

11)笹木 重吉  Sasaki Shigekichi
  明治13年11月3日生
  本籍地 大島郡森村
  現住所 ハワイ島ヒロ市キラウエア街アアラレーン
  家族  大正2年12月2日結婚 夫人モヨ(明治26年6月12日生)
      長男久夫、次男篤、長女千代子、二女タケ子、三女サダ子、四女キミエ、五女ユリ子


12)戒崎 七右衛門  kaizaki Shichiuemon
   明治33年1月14日(日系市民)
   親の本籍地 大島郡家室西方村字沖屋室
   現住所 ホノルル市ウヲード街221
   職業  魚具商
   家庭  夫人 ハクヨ
   経歴  氏はハワイ島ヒロ市に於いて出生の日系市民である。
       妻はヒロ市椰子島に於いて永年理髪店を経営、先年経済的に成功を果たし郷里
       沖家室にて余生を送っている。  


13)中村 兼吉  Nakamura Kenkichi
   明治14年12月3日生
   本籍地 大島郡平郡村字西
   現住所 ハワイ島リフェ耕地
   職業  水道工事監督
   家庭  昭和5年8月28日結婚 夫人ココ(明治15年6月3日生)
       長男信隆
   経歴  氏は明治31年8月3日渡布。ハワイ島ヒロ市に上陸、1ケ年就労後、同島コナ市
       出雲大社教分員として2ケ年勤む。その後マウイ島に移住、同地の耕地会社に
       5ケ年就労。ついで、ホノルルに出府、鉄道会社に入社、十有余年働き、1920年
       カウアイ島に来りて水道工事請負業を始め現在に至る。長男信隆君は現在同地
       (カラヒヨ)に於いて写真館を経営して居られる。尚、氏は捕少講義及び防長
       海外協会支部長。
   趣味  柔道


14)築山 長松  Tukiyama Nagamatu
   親の本籍地 大島郡屋代村
   現住所 ホノルル市リバー街1495
   出生地 ホノルル市 1897年3月21日生(日系市民)
   修 学 カヌマヌ校、マッキンレー・ハイスクールを経て、伏見宮記念奨学金を得て
       米大陸に学び、1924年シガゴ大学法科を卒業し、法学士となりて帰布す。
   職 業 ホノルル市郡検事
       最初、ヒューバーケンブ代言組合員として一般法律事務を取り扱い、1929年
       ホノルル市郡政府第三副検事に任命され、1931年には第一副検事に進み、1933年
       ライト市長より市郡検事に任命され今日に至る。この間日系市民を代表し来日し
       日本政府と二重国籍問題及び国籍脱問題を協議し、また1934年大統領ルーズベルト
       氏、来布の節、各国人連合提灯行列の先頭に立ち一場の挨拶をなせり。
   余 業 布哇謄本保会社、ホノルル酒造製氷会社、ホノルル洗濯会社、ナショナル・モーゲージ
       エンド・ファイナンス会社、日本人投資会社、等の重役を兼ね実業界に活躍し、この間
       日系市民協会長、日本人大学クラブ会長、仏教青年会長にも推されている。



15)川近 健一   Kawachika Kenichi
   明治35年12月10日生(日系市民)
   親の本籍地 大島郡小松町
   出生地 ハワイ島オノメア耕地
   現住所 ホワイ島ヒロ市ワイアケア Po.Box 366
   職業  魚仲買業
   家庭  夫人ハル子、長男健治、次男秀雄、四男諭吉、長女ハツミ、二女チエ子、三女シナエ
   経歴  氏は7才の時(明治44年)父母とともに日本へ行き、小松町立明新高等小学校卒業と
       同時に再び布哇に帰りオノメアに2ケ年在住、耕地の仕事を為す。その後、ヒロ市に出
       伊佐クラージに入社し1ケ年勤務後、魚仲買業3年、後東京庵食堂を6ケ年経営さる。
       1934年同食堂を中曽根氏に譲り日本訪問をなす。その後引き続き魚仲買をなし今日に至る。
       ハツミ、健治、秀雄、チエ子さん全て公日両校在学中。尚、川近氏は防長海外協会、ヒロ
       水産会社仲買組合顧問、椰子島日語校、大正寺教団関係者、日米酒造株式会社理事を勤む。
   趣味  魚釣り
   


16) 尼崎 貞一   Amagasaki Sadaichi
   明治29年7月18日生(日系市民)
   親の本籍地 大島郡安下庄町
   現住所 ハワイ島ヒロ市ラウカプ街
   家庭  大正8年12月21日結婚 夫人シナヨ(明治34年8月25日生)
   経歴  氏は長年ヒロ郡建業部のノーマンとして勤続す。尚、令弟の太一氏は大工職にて郡政府
       建築部に勤務し、既に結婚、一女あり。末弟の栄一氏はスタンダード・オイル社に勤務
       し、ヒロ市 藤本伊作氏長女敦子さんと結婚、二子あり。令妹は北川商会支配人中村正一
       氏に嫁し、数名の子女あり。
   


17)大久保 源一  Oukubo Genichi
   明治19年12月2日生
   本籍地 大島郡沖浦村大字戸田
   現住所 ハワイ島ヒロ市 PO.Box231 Tel.3223
   家庭  結婚大正6年12月1日 長男康平(大正7年8月生)次男勝治(大正9年6月生)長女
       ワサヨ(大正11年6月生)次女ミネ子(大正13年3月生)三女フサ子(大正14年7月生)
   経歴  明治37年2月布哇に渡航し、後、ホノルル市日布時事社に入社、記者として勤務する事
       4ケ年にして、1920年布哇島ヒロ市、毎日新聞社主筆として来任、同社に18年間勤務、
       昭和11年同社を辞し、独立して布哇商業社を起こし翌12年初頭雑誌型の布哇商業を
       二回発行、ついで新聞にあらたむ、印刷業も合わせ行い今日に及ぶ。
   趣味  読書 将棋


18)松永 伊助  Matunaga Isuke
   1902年5月24日生(日系市民)
   親の本籍地 大島郡平郡村字東村
   現住所 カワイ島リフェ
   職業  請負業
   家庭  1929年結婚 夫人ツル(明治35年11月27日生)
       長男助、次男伊三郎、三男矢五郎衛門、四男光明、長女サチ子
   経歴  氏は1902年5月24日カウアイ島リフェ耕地生まれの日系市民である。公日両校を卒業後
       職人となり、各島を巡業、目下カウアイ島リフェ耕地の製糖場に働き請負業をなして居る。
       尚、氏はチャップリン松の森関の実弟である。


19)松多 傳之丞  Matuda Dennojyo
   明治18年11月20日生
   本籍地 大島郡久賀町
   現住所 ハワイ島コナ郡ホナウナウ
   家庭  1911年結婚 夫人ハル(明治25年4月25日生)
       長男正、次男重人、三男三郎、四男四郎、五男五郎、六男靖、長女マツエ、二女チズエ
   経歴  氏は1928年5月21日来布。布哇島ホノヒナに上陸、その後コナに来りて珈琲業に従事
       今日に至る。
 
20)川崎 喜代蔵  Kawasaki Kiyozo]
   本籍地 大島郡久賀町
   現住所 ホノルル市北ククイ街285
   経歴  川崎旅館主にて、在留同胞の長老の第一人者である。
       第一回移民船東京市號で来布し、耕地就労を振り出しに永き奮闘の歴史を持っている。
       旅館業者としても古参の一人で、実務は若き人々に委ね、堅実発展の道を辿りつつある。
       氏は既に八十余才で白髪にて見るからに崇高な気がする。篤信のクリスチャンにて街頭
       説教をなしたこともある。

  【1935年のハワイ移民50周年時の川崎 喜代蔵翁】

   『ハワイ移民50年後の大島郡人現存者』

    明治18年(1885)初回ニハワイに渡った大島郡の人たち

   大島郡久賀村      河崎 喜代蔵       31歳1ケ月渡航時
     Ooshima-gun kuka v. Kiyozou Kawasaki 31.1 old

    原籍   山口県大島郡久賀町
    現住所  ホノルル市ククヰ街
    年齢   81歳  帰国2回

   ◇明治18年(1885年)独身31歳の時、同じ久賀町の青年等と連れ立って東京市號に乗り込み2月8日ホノルルに
   上陸、3ケ年の条約を結んでカワイ島カパア耕地へ赴き条約を果たしてホノルルへ出府、帝国総領事館の小使い
   を働いていたが小金を蓄え明治24年(1891)マウナケア街ベレタニア街突き当りカナカ協会の近くへ旅館を
   開業した。最も初期の日本人旅館の一つであった。

   ◇明治25年(1892)第一回郷里訪問を為し翌26年(1893)キク夫人を伴い再渡布、再び旅館を開業し斯業に従事
   すること四十余年に及んだ。日本人禁酒会の事業に就いて大いに活動し、また永年リバー日本人美以協会の役員
   として重きをなした。

   ◇大正8年(1919)再度郷里訪問をなし翌大正9年(1920)に三度布哇に渡航後は現在のククイ街リバー街近く
    の川崎旅館内に住んでいる。

   ◇45年前より旅館経営を長男正一氏(34)に一任し今は楽隠居として子や孫に取り巻かれつつ晩年を楽しみつつある。

   ◇キク夫人(64)との間に三男四女あり、長女静さん(40)は博士號を三つ持つシンシナチ医科大学教授田代四郎氏
   に嫁して17歳を頭に3人の子供あり、二女操さん(38)も米国コネチカット州ニューヘブンに医師を開業し同時に
   同地エール大学講師をしている平田勲氏に嫁して二人の子供あり。
   長男正一氏(34)父の業を継ぎククイ街で川崎旅館を経営し、夫人との間に三人の子供あり。次男美和氏(31)
   は大学卒業後シンシナチで医師を開業し、三女君子さん(29)はハワイ大学卒業後コナワエナ・ハイスクール
   教諭をなし、一昨年の農学士後藤安雄氏と結婚。

   ◇四女松子さん(27)は田村姓を名乗っているがハワイ大学卒業後、今は川崎旅館の翁の許にあり。
   三男愛作くん(22)目下シンシナチ大学に在り、今年卒業予定である。
   翁夫妻には孫が八人である。

   【1935年 官約日本移民布哇渡航 五十年記念誌】より転載

   
   
  




   
   

  

昭和11年発行 【小松町誌】28

2024年06月16日 06時28分55秒 | 昭和11年発行 【小松町誌】
昭和11年発行 【小松町誌】28

     【 名 所 旧 跡 】

 ② 子すかし観音

   小松字石丸にあり、かなり古い歴史があるようであるが、その創建年月日は詳かではない。
   夜泣きをする子供を連れて参拝すると、不思議に夜泣きが全快するというので篤信が多い。
   現今では付近のみではなく他地方から参拝する者もある。


 ③ イボ観音
   
   小松字開作雲蓋寺境内にある地蔵尊はイボに功顕ありと言われており之を試みる者が多い。


 ④ 瀬戸明神社五重塔

   瀬戸にある大多満根神社境内の五重塔は相当古いものである。巷説によると、人皇三十二代
   の当時有名なる般若姫がこの瀬戸に於いて人身供養となられし時、追善の為に建てられた
   ものとされている。

   【源三注】上記は所謂「般若姫伝説」によるものであるが、どうも「史実」が伝説化した
        可能性も高い、いづれ別スレッドで説明します。

 ⑤ 念仏橋

   小松字水車と堀川の境界にある橋の名である。橋側に地蔵尊が祀られており、往古参拝者が
   多かったために附せられた名である。この地蔵尊は一時雲蓋寺の境内に移傳されたが、付近
   の篤信家の寄付により旧地にかえされた。今ある地蔵尊がそれである。

 ⑥ 首切地蔵

   小松字手崎屋代川河畔にあり。四境戦慶応二年に松山藩士二名を斬首したるためこの名が
   生じたのである。往時大きな櫻の木があったが今は枯れてない。

  【源三注】この筆者の説明は不十分である。
       現在も首切地蔵は存在するが、この屋代川河畔は満潮時には汐が上がってくる上限
       で、江戸時代から萩藩が処刑場としていた所である。よって、上記の如く、慶応二年
       の第二次長州征伐で安下庄に上陸した幕軍の松山藩の斥候を二名捕らえ、尋問の後、手崎
       大川処刑場で斬首したもので、この二人の墓は小松の入道松付近の墓所に葬られたと
       されます。ただ、松山藩士を斬首したから「首切地蔵」と名付けられたのではなく
       往古より処刑した場所であるからこの名が付けられています。平和な大島で大事件と
       して伝えられるのは享保年間の一揆の罪でこの地で処刑された百姓の代表14名の処刑
       が特に有名です。尚、現在この地にある首切地蔵尊は実際に首がありませんが、元は首は
       有って、地震かで落下した時に折れたものと思われます。昭和30年代初頭までは折れた
       首が地蔵胴体の傍に置かれていた事は記憶していますが、いつのころからかこの残首
       は無くなりました。昔の土手は今より2M以上低く土手を上げる工事の時移動して
       いますのでこの時紛失したのかも。今は首折地蔵ですが、元々は首はありましたが
       処刑場の地蔵なので「首切地蔵様」として拝まれていました。事情をあまり知らない
       人が「四境の役の時の松山兵首切りの為首切地蔵」として現在看板と説明文を設置してあります。
       「旧・大島町誌」を読んでもらいたいものです。

 ⑦ 城山
 
   小松字西にあり、今尚その名を存す。恐らく往時における要害の地であったであろう。

 ⑧ 古墳

   小松字志佐友田の山林畑中より、明治24年ころ石棺を発見したという。

 ⑨ 土器

   志駄岸八幡宮境内より、二回に亘り弥生式土器が発見されている。発見された物件は左の如し
   杯三、 杯の破片二、坩底一、鉢形土器等
   また、久保田勇治氏が昭和9年字中の木の自家所有地を掘る内、弥生式食器を発見した。
   この地には荒神社があり、上方に元寺院があったと伝えられている所である。

 ⑩ 櫻
   
   小松大字小松西字磯崎大師堂付近は櫻の名所である。樹数約百本、花の四月には爛漫として
   咲く有様は町内唯一である。

   【源三注】この名所は今はもう無い。
       枯れた入道松の周りが櫻の名所で昭和30年代までは花見で賑わっていた。
       ただ、この花見の場所の側は元墓所で上記の四境の役で斬首した松山兵らを葬って
       いる場所でもある。土葬なので骨が時折出て来た所でもある。
       旧蜜柑選果場の上である。

 ⑪ 入道松
 
   小松大字西字磯崎の飯山の麓海に面したる県道附近にあり。幹の周囲一丈五尺、高さ五丈
   四尺、枝葉の広さ六畝歩、赤松の見事なもので樹齢数百年と伝えられている。
   巷説によると杉原入道宗託の植えたもので、入道松の称がある。この松は目下、天然記念物
   指定の申請がしてある。

   【源三注】この松も今は無い。
        上記櫻の名所と同じ所に有ったが、昭和30年代末頃、松食い虫にやられ枯れて
        しまった。その後切り倒してしまった。現在は「入道松の跡」の碑が残るのみ
        である。周りには大下氏が作ったセメント造りの仏像が多くある。商船学校の
        旧校歌を刻んだ記念碑もある。

 ⑫ 往時の堤防

   明新小学校前の道路は往古における堤防線であった。即ち、屋代村小田、得蔵寺付近に
   おけるものが第一堤防、明新小学校前が第二堤防であった。