山口県周防大島物語

山口県周防大島を中心とした「今昔物語」を発信します。
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家系研究 投稿者:高須賀

2022年07月25日 18時08分46秒 | 南北朝時代の人々とその系図研究
屋代 様 友近 様

貴重な情報をいただきありがとうございます。知らないことばかりで、本当に勉強になります。

川内町誌系図に従えば、紀伊から伊予へ渡海後、堀口が高須賀を称したことになり、伊予不動大系図に従えば、その記載のとおり、伊予渡海前に伊勢の地名を称したことになるのかと考えております。事実かどうかは分かりませんが。

いずれにしても、鎌倉時代中期から後期に、どのような理由があって伊勢・紀伊地方から伊予へ渡海したのか知る手掛かりを発見したいところです。

Re: 字高須賀

2022年07月25日 17時25分35秒 | 南北朝時代の人々とその系図研究
友近さん頑張ってますね。

「予州 一色右馬三郎」の記事は私の投稿をもとに一色さんがコメントしています。
 投稿名は変えてありますが。

確かに高須賀は地名であろうと思っています。
問題はどこの地名であったか?ということですね。
高須賀というのは地理的な表現では、川の中州が盛り上がった所という意味のようですから、所謂、
デルタ地帯全体になりますので全国の大きな川全部に発生しています。
関東地方も高須賀の中に東京があります。
名古屋地方も大きな川の間の高須賀の間で発達した町となります。
広島市は川の間の高須賀の所に住居がありますので、橋を通らないと隣町に行けません。
もう少し小規模なものが「州浜」と呼ばれるようです。
伊予河野家旧紋の一つに「州浜紋」がありますが、河野家先祖は州浜に住んでいたのでしょう。

伊予高須賀家は伊勢から高須賀と名乗っている感じがしますので、伊勢の高須賀が源泉と思われます。
伊予では
高須賀義詮
紀伊那智城主

高須賀野中義員?
【上州 新田雑記(東大)】



高須賀次郎作(衛)堯寧
弘安年中(1278~1288)
住久米郡川上野口郷
久米郡余戸郷野々口邑?
延暦23年川之内と野々口に分離

に二つの伝承がありますので、温泉郡とするには早計と思いますが(笑)

ただどれが史実かは不明なのでなんとも言えませんが・・・・・。

Re: 微力ですが 投稿者:友近弥八

2022年07月25日 17時22分54秒 | 南北朝時代の人々とその系図研究
>  呑舟は私の別ハンドル名です。生意気な名と批判をされたことがありまして、ブログにより変えています(笑)

やはり屋代様でございましたか。
高い見識のご投稿にそうではないかと思っておりました。(笑)


>  友近、高須賀、友澤もなかなか史料を掘り返すのが大変です。

友近については、松山藩の町方・村方資料の中からも収穫があったりしますので
再度焦らずゆるゆると確認しております。(苦笑)
また、高須賀様や友澤様の系譜に関連しそうな事項を確認いたしましたら
ご報告させていただきます。


>
>  久米郡地図は参考になります。他の伊予の郡部地図はどのように探索すれば出てきますか?

下記サイトの「郡市町村単位の図」からご覧いただけます。
但し伊予郡のみ該当なしとなっているのが惜しまれます。

ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム
 愛媛県立図書館/愛媛県行政資料(藩政期・明治期)
 https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/3800115100

お世話になっております。
伊予高須賀氏を調べていて以前から松山南吉田の「挿桃遺跡碑」についての
こちらの掲示板の内容が気になっておりました。

 「予州 一色右馬三郎」
  http://dayzi.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=7130145

愚考するに「挿桃遺跡碑」碑文の『昔伊豫温泉郡生石村南吉田高須賀之地』は
やはり地名なのではないかと思い、角川の「日本地名大辞典38 愛媛県」を
確認したところ、南吉田の小字としては下記のみでございました。

 小字一覧:温泉郡南吉田村 1061ページ
        南代(ミナミダイ)
        北代(キタダイ)
        浜新田(ハマシンデン)

この情報だけでは諦め切れませんので(笑)、「郡市町村単位の図」にて
温泉郡の図を確認しましたところ、図の左最下部・伊予郡との境の少し上に
「南須賀松林」、間に小字名と思われる「濱新田」を挟んで「北須賀松林」という
書き入れを確認いたしました。

 https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/3800115100/3800115100100010/MM-034/

「高須賀」の地名は無かったものの少なくとも地形由来の「須賀」が付いた場所が
存在していたことが分かり“一歩前進”と気を良くいたしまして、
最近マイブームとなっております(苦笑)グーグル書籍検索にて「南吉田 字高須賀」で
調べましたところ2件が該当し、両誌とも地元の県立図書館には収蔵されておらず
隣県の県図書館で確認したところ、それぞれの内容は下記の通りでございました。

 ①全国研究機関通覧 昭和38年版 https://goo.gl/TMWyYe
   著作者=文部省大学学術局
   出版元=日本学術振興会
     東京大学地震研究所 松山観測所
       愛媛県松山市南吉田町字高須賀

 ②全国大学職員録 平成5年版 国公立大学編 https://goo.gl/Ys7zQz
   著作者=広潤社編集部
   出版元=広潤社
     東京大学地震研究所 附属松山地殻変動観測所
       愛媛県松山市南吉田町高須賀

なお、松山観測所は〔昭和24年 1949 松山地殻変動観測所設置〕との情報は確認できたのですが
現在の詳細は掴めませんでした。

兎にも角にも地名としての「高須賀」の手掛かりが掴めた事は良かったのですが、古い記録では
見つからずに、ことに②については平成の御代の記録で見つかった事にどう判断したものか
聊か戸惑っております。あとは確証を得るために地籍調査が必要なのかどうか・・・(苦笑)。

以上の結果で「伊予高須賀氏の発祥は南吉田」と牽強付会する積もりはございませんが、
改めて調べ続けて参りたいと思う次第でございます。
長々駄文をつづり失礼いたしました。

微力ですが 投稿者:友近弥八

2022年07月25日 17時21分30秒 | 南北朝時代の人々とその系図研究
屋代源三様 高須賀様

今年になって最初の投稿なりますので今更ながらではございますが
本年もよろしくお願いいたします。

及ばずながら高須賀様のご先祖に関する事項を引き続き調べておりますが
ネット検索しか能がございません。検索結果①②は既にご承知かも知れませんが、
③④の書籍調査分と共に取り敢えずご報告させていただきます。


①『新編温泉郡誌』
当資料で、新田義宗・脇屋義治の一族として「堀口治部大夫貞範」の名を確認いたしました。
義宗・義治の墳墓などに関する項目で「芳闕嵐史に曰ふ」として記述されています。
伊予高須賀氏の遠祖とされる「堀口備後守堯氏」は紀州から来予したとのことですが
「治部大夫貞範」は出羽・羽黒山から来予したとございます。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950969/345

※芳闕嵐史について、とある「伊予黒川家と正岡家」関連の掲示板に投稿されていらっしゃる
 お名前が「呑舟」という方のご投稿が大変勉強になりました!


②龍神社
神社由緒に「慶安元年(1648)8月吉日、願主高須賀佐兵衛在銘の金幣は市指定文化財」
とございます。所在地からしますと元は久米郡山之内村と思われます。
http://ehime-jinjacho.jp/jinja/?p=4844


③『松山市史料集 第七巻 近世編6』
郷土資料『川上村のおもかげ』に、西岡村「高須賀與次右衛門」、樋口村「高須賀嘉右門(ママ)」とあり
「與次右衛門」は改庄屋とも記されていますが、当史料集所収の文書に
 『梅斉院井手筋三ケ村一件控』天明六年に大庄屋「高須賀与次右衛門」705P
 『池田家文書 代々勤功附』慶応四年に西岡村庄屋「高須賀嘉左衛門」359P

また、明治三十七年の『松山領里正鑑』には、
 樋口村里正「高須賀嘉平次」 南方村里正「高須賀堯普」507P
と記載されております。

これは全くの想像ですが、南方村近傍の西岡村・樋口村で庄屋役を務めた家格からして、元を辿ると
南方村高須賀家のご一門のような気がいたします。


④『角川日本地名大辞典38 愛媛県』
当書の資料編に小字一覧があり、久米郡に下記の小字がございました。
〔西岡村〕熊之畑(下原)
〔北梅本村〕熊ノ畑(徳永)

堀口備後守堯氏の由緒にある「住久米郡熊畑邑」の熊畑と字熊之畑(熊ノ畑)、どうも気になりまして
記した次第でございます。なお、愛媛県立図書館のデジタルアーカイブで位置が確認できます。
下記リンク先の2で、地図中央の下部で赤○で囲まれた地名「北野田」「牛渕」をお探しください。
その傍に字熊之畑・字熊ノ畑がございます。 ※西岡村はニシノオカ村ですね。念のため・・・

 「久米郡地図」
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/ImageView/3800115100/3800115100100010/MM-038/


長くなり失礼いたしました。

家系研究 投稿者:高須賀

2022年07月25日 17時20分15秒 | 南北朝時代の人々とその系図研究

初代兵庫の父母については、亡くなった祖父が晩年に先祖調査をしたメモにあるだけで、根拠は不明です。私と同じ壁に当たり、家系を想定しただけの可能性もあります。少なくとも、家伝として聞いたことはありません。

友近様の御教示に感謝しつつ、千葉県立図書館へ行き、『野田市金石資料集』の複写、『大山・石鎚と西国修験道』の借用を受けて来ました。『西国修験道』に西条市の高須賀家のことが半ページほど記載されておりました。ゆっくり読み込んでみます