大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)2
【大洲系譜十九代】
定武
・太田八郎 左京進
・母 源姓女
・今度源平之戦不省父依忠功如
父賜当国地頭職
【大洲系譜】
武清(定武弟)
・於肥後国有凶徒依勅命而引率四国中国
軍勢急而進発鎮西令凶徒追討揚威名感状
数通帰国而先立父早世矦 壽二十一歳
↓
【大洲系譜二十代】
安清
・久万権介 実定清二男也
・武清同母 弟武清卒后継家督
↓
【大洲系譜二十一代】
成清
・六郎 母 源姓女
・於鎮西討死
↓
【大洲系譜二十ニ代】
成俊
・久万弥太郎
・降参者多分領大ニ治
・実 武清嫡男也
*【予陽河野家譜】
【河野通有 弘安の役出陣ス】
後宇多院弘安四年五月廿一日、蒙古襲来充満干
筑前国志賀鷹嶋鹿島等海上、此時蒙勅命、通有主
同嫡子千宝丸、伯父伯耆守通時主、一族別府七郎
左衛門尉通高、執事 久万弥太郎成俊以下、進発
干彼所、日本兵者博多箱崎二三十里海岸高築
築地附乱杭逆茂木雖然当家陣者、海面者幕一重
而後設築地、是輒引入敵兵、可決一戦勝負、後背
有道則士卒必有怠慢之気、却而可失(致)利雖為
一騎不得引退謀也、自爾謂河野後築地、望夷賊
十万八千艘船、如向呉山蜀嶺、通有主兼志先魁
祈念日本大小神祇別而三嶋八幡等於心中、砕丹
誠之処、沖方白鷺一羽飛来当家陣上、所被置楼上
百矢之中、加以山鳥之羽作征矢翔行唐船之上従
両陣見之夷国大将之乗船楼閣重々磨金銀、旌旗
方々飄風、落大船之上、夷賊者所天与喜、日本之
陣者呑固唾怪之、通有主曰知是天神地祇予感
忠貞、所教示敵将之船給也、勿疑再拝、伯州対州
千宝丸通高 成俊己下士卒百余人乗戦舸漕入干
夷賊陣中、日本兵者大驚、各雖可制之、曽不聞之
異賊者下人歟怪、更不発矢見之、乗移一大船、
対州者大太刀、伯州者長刀、士卒百余人不惜
身命相戦、終生捕着玉冠者、放火於敵船而漕
返本陣、被虜者異賊三将之中一人也云々、
同七月朔日夜半暴風俄起、異賊舟船大半破損
漂波亡命、残兵避危難漕返干本国之間、九州
残兵避危難漕返干本国之間、九州既属無為畢、
伯州負深手而卒干船中、対州親子 通高 成俊
己下堅固帰国給、彼所虜之賊将者刎首使成俊
彼所虜之賊将者刎首使成俊伝干京師、此時
天子者為異賊征伐之御祈行幸男山八幡宮、
被悩叡慮於九州之事之処、成俊持蒙古頸参上
矣、乃召階下有勅問、仍九州合戦次第達叡聞、
蒙御感賞、子孫為眉目、蓋所斬蒙古之首刀者、
伝干久万家、重宝大和寿命之作也、
対州此時海陸七十余度合戦、毎度依究高名蒙
叡感、為勧賞賜肥前国神崎庄小崎郷、同加納
郷下東、同荒野、肥後国下久々村以上三百町、
後日拝領予州山崎郷、氏族別府通高者賜
筑前国長渕庄
*【寛永諸家譜 越智姓一柳家系図】
●通有
六郎對馬守に任ず。後宇多院の御宇、弘安四年
三韓より蒙古襲来り、大軍志賀(筑前)鷹能古等の
海岸に充満す。夷族退治の事先例たるの故勅命を
かうふり、大将軍となって筑前国に馳せ向ひ、伯父
伯耆守道時と通有と二艘敵船の中に紛入、大将
一人生捕、敵船に放火す、伯耆守疵をかうふり、
船中にをひて死す。通有も所々疵をかうふり予州に
帰り、蒙古が頸を通有が家人久万弥太郎成俊
京都に持参す。此時、忠恩として肥前国神崎の庄
の内尾崎郷・同加納下東郷をたまふ。後日又
同庄余残、同荒野、肥後国下久々村以上三百町
と伊豫国山崎の庄をたまふ。海陸七十余度の合戦
に、毎度軍忠を抽で、感賞の宣旨をかうふる。
徳治年中、西国にをひて海賊蜂起の時、関東より
御教書を給はつて賊黨を追罰す。
↓
【大洲系譜二十三代】
成義
・大野太郎
・母 平氏女也
・分領豊治
女子
・養子直義之室
↓
【大洲系譜二十四代】
直義
実 熊谷次郎直実八世孫丹治直頼一子也
大剛権化人也 諸国為一見武者修行而来
此所干時二十三歳在志於当国初而至時国民
大恐之成義無男子故為養子付使家督継改氏
為大伴姓 国中静謐又於小田庄勧請当家
氏神本地妙見大菩薩宮為領分惣氏神
祭礼八月十五日也
↓
【大洲系譜二十五代】
直朝
彦次郎
直基(直朝息)
・東三郎 為家臣
【大洲系譜】
直頼(直朝弟)
・四郎二郎
直範(直瀬息)
・城戸三郎 為家臣
直資(直瀬息)
・今窪四郎 為家臣
↓
【大洲系譜二十六代】
直国
・弥太郎
・母 当家成義女也
・干時後宇多院御宇蒙古船数六千余艘来
干鎮西主上有逆鱗而西戎追討者伊予国
之役也 任先例可致征罰之旨依綸言
賜赤地錦直垂引率四国軍勢発向筑紫
直国自組伏戎大将得首級武勇威名揚
於天下凱旋而帰陸之陣風吹而山海
動乱数万賊船悉破 蒙古無令滅亡畢直国
一人為御注進上洛 帝大有御感而為勧賞
賜於肥州神崎庄之内小崎郷
*久万弥太郎成俊と大野弥太郎直国は同一人物か?
或は直国が実際に肥前国神崎庄に移ったからか成俊の
弥太郎と同名の為、成俊の条が混入したか?
但し「越智系図」は通有の11男 河野九郎通時が
肥前小崎に居る、と記録している。【呑舟】
*【河野系譜築山本】
河野通将 六郎 居肥前
譲与肥前国神崎庄内小崎郷
並余残荒野地頭職之事
右六郎通将任先例
可令領知之状如件
歴応三年二月十三日 善恵
河野六郎(通将)殿 (對馬守通春)
進之候
* ・康暦元年(1379) 直利の兄で直国の男、直頼
(大田三郎四郎、中川十郎入道)は11月6日河野通暁
に属し当国吉岡佐志久原の戦いで討死している。【南朝】
【大洲系譜】
直武(直国息)
・東 弥六 為家臣
【大洲系譜】
直次(直国息)
・尾頸次郎 為家臣
↓
【大洲系譜二十七代】
直仲
・弥次郎
・母 村上太郎女也
・今度於筑紫尽無ニ戦功其後在京
御所中御宿直時強盗小林大膳乱入
紫震殿直仲走出組伏御簾上
刎頭忽誅伐武勇威名揚於天下
帝大有御感而勅賜當家紋木瓜二引也
前自是先紋者鳩穂屋也
↓
【大洲系譜二十八代】
直利
・土居弥次郎 左近将監 十郎左衛門尉
・母 平基家女也
・降参者多 分領大静也
↓
【大洲系譜二十九代】 【北朝】
直氏 (1300~1380)
・土居弥六
・宮内少輔 「付箋 土岐伯耆守頼清息」
・実 当国守護土岐太郎源朝臣頼清三男也
依為当国荏原 林 久万山分領
頼清任之未生己前有竒瑞直利無男子
故為養子改姓為当家大伴氏継家督
任従五位伊豫守 自正慶年中至貞治数度
合戦依抽粉骨軍忠
(足利)尊氏公感之賜感状并当国守護職又其后
義詮公御書曰
於御方致忠節者 伊豫国守護職之叓 可宛行
之由 先度被仰出矦定令到来矦□所詮
昨日九日立江前四十九院宿己所発向京都也
継夜於日可責上之状如件
観応三年 三月十日 (足利)義詮
土居宮内少輔殿
・一族並国人等相催急走上尽無ニ戦功勝利
有依茲自義詮公賜感状数通有 其后
国土治天下泰平喜而嫡子詮直使家督
譲於之隠居
康暦二(1380)庚申年十一月十四日逝去也
法名信慶大居士 齢八十歳
*「直氏 ~1380)土岐頼清子 伊予宮内入道信慶侍所頭人」
↓
【大洲系譜三十代】
詮直
・十郎左衛門尉
・賜義詮公諱依義満公
仰細川右馬頭頼有状曰
於小田土居城連日致合戦之条、悦入候
就中連判之状被見申、殊如此沙汰公私
難有候、當方事可得落居候間、急速陣
可被竒候、可心安候、恐惶謹言
卯月十三日 頼有
大野十郎左衛門尉(詮直)殿
愛媛県編年史(947*本文書大洲随筆にも載す)
・又貞治六年(1366)山名退治仁木為大将被向
宇和喜多両郡詮直尽粉骨軍忠 四月七日
小田陣半落着註進其辺状為
上意 今川弾正俊通
今月七日状一九日たうらい(到来)、
いさひ(委細)きこし(聞食)めされ候、
抑此方事、ミきち山はた(繁多)寺の上の
あわちかもりのふる城を御ちん(陣)に
めされ候て、てきほうハミなミな山へおい
こまれ候へしほとに、とうこ(道後)のほう
のハ、のこる物なくなりて、それニつき候てハ
うわこうり(宇和郡)のせひ出候ハ、そのとき
ハとう時に参らせくれ候へし、まつそのへん
の事かつせん(合戦)をととめられ候て
うわへん(宇和辺)のせひも不存出候やう
にれうけん候ハ、たうほうのためしるへく
候へし、兼而又このはた寺の御ちんハ、
一日夜 御所方はかりにてまつめされ候て
つきの日につきのする大しやうにて、二百
よきはせはせくわわり申されて、このちん
めされ候てのちいさのてきちんハ、ひらきて
山こへひき入候へし、此ほうの事ハ、いまわ
のこる所なくしてめてたく候、なをなをその
へんのかつせんをととめられ、うわせひの
ふひに参候やうにれうけん候ハンか、
御忠せつにて候へし、又今月三日
さわまつ殿へ御つかひをたてられかし。
それともかさねて御しよをしんせ、それより
つき申され候ハ、返々めてたく候へし、
かまへてかまへてとくとくつけ申され候へし
よし被仰下也、あなかしこ
四月十九日 俊通 奉
大野十郎左衛門(詮直)入道殿
愛媛県編年史(1040*本文書検討を要す)
如上意依抽忠節為勧賞賜感状又其后
凶賊依御退治為上意
於与州致忠節之條、以心神妙也、
弥可抽戦功状如件
応安五年十一月十三日
細川右馬頭 頼有
大野十郎左衛門尉(詮直)殿
(946*本文書大洲随筆にも載す)
為上意所領
伊予国塩引村 二宮太郎左衛門尉跡事
所領置也 任先例可致沙汰状如件
細川右馬頭頼有
永和元年十一月廿一日
大野十郎左衛門尉(詮直)殿
伊豫国神崎庄北方三分二并余戸村窪田村
分領、為 御恩可致知行、依今度忠儀深重
可有其抽賞旨、被仰下状如件
永徳二年七月十七日
弾正弼 通俊
大野十郎左衛門入道殿
(1039*本文書検討を要す)