山口県周防大島物語

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大野家系譜(伊予大洲大野家本) 2

2024年01月31日 17時13分26秒 | 大野系譜(伊予大洲珍丸本)


大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)2

【大洲系譜十九代】
定武
 ・太田八郎 左京進
 ・母 源姓女
 ・今度源平之戦不省父依忠功如
   父賜当国地頭職

【大洲系譜】
武清(定武弟)
 ・於肥後国有凶徒依勅命而引率四国中国
  軍勢急而進発鎮西令凶徒追討揚威名感状
  数通帰国而先立父早世矦 壽二十一歳

 ↓
【大洲系譜二十代】
安清
  ・久万権介 実定清二男也
 ・武清同母 弟武清卒后継家督

 ↓
【大洲系譜二十一代】
成清
 ・六郎 母 源姓女
  ・於鎮西討死
 ↓
【大洲系譜二十ニ代】
成俊
  ・久万弥太郎
  ・降参者多分領大ニ治
  ・実 武清嫡男也
     *【予陽河野家譜】
       【河野通有 弘安の役出陣ス】

        後宇多院弘安四年五月廿一日、蒙古襲来充満干
        筑前国志賀鷹嶋鹿島等海上、此時蒙勅命、通有主
        同嫡子千宝丸、伯父伯耆守通時主、一族別府七郎
        左衛門尉通高、執事 久万弥太郎成俊以下、進発
        干彼所、日本兵者博多箱崎二三十里海岸高築 
        築地附乱杭逆茂木雖然当家陣者、海面者幕一重
        而後設築地、是輒引入敵兵、可決一戦勝負、後背
        有道則士卒必有怠慢之気、却而可失(致)利雖為
        一騎不得引退謀也、自爾謂河野後築地、望夷賊
        十万八千艘船、如向呉山蜀嶺、通有主兼志先魁
        祈念日本大小神祇別而三嶋八幡等於心中、砕丹
        誠之処、沖方白鷺一羽飛来当家陣上、所被置楼上
        百矢之中、加以山鳥之羽作征矢翔行唐船之上従
        両陣見之夷国大将之乗船楼閣重々磨金銀、旌旗
        方々飄風、落大船之上、夷賊者所天与喜、日本之
        陣者呑固唾怪之、通有主曰知是天神地祇予感
        忠貞、所教示敵将之船給也、勿疑再拝、伯州対州
        千宝丸通高 成俊己下士卒百余人乗戦舸漕入干
        夷賊陣中、日本兵者大驚、各雖可制之、曽不聞之
        異賊者下人歟怪、更不発矢見之、乗移一大船、
        対州者大太刀、伯州者長刀、士卒百余人不惜
        身命相戦、終生捕着玉冠者、放火於敵船而漕
        返本陣、被虜者異賊三将之中一人也云々、
        同七月朔日夜半暴風俄起、異賊舟船大半破損
        漂波亡命、残兵避危難漕返干本国之間、九州
        残兵避危難漕返干本国之間、九州既属無為畢、
        伯州負深手而卒干船中、対州親子 通高 成俊
        己下堅固帰国給、彼所虜之賊将者刎首使成俊
        彼所虜之賊将者刎首使成俊伝干京師、此時
        天子者為異賊征伐之御祈行幸男山八幡宮、
        被悩叡慮於九州之事之処、成俊持蒙古頸参上
        矣、乃召階下有勅問、仍九州合戦次第達叡聞、
        蒙御感賞、子孫為眉目、蓋所斬蒙古之首刀者、
        伝干久万家、重宝大和寿命之作也、
        対州此時海陸七十余度合戦、毎度依究高名蒙
        叡感、為勧賞賜肥前国神崎庄小崎郷、同加納
        郷下東、同荒野、肥後国下久々村以上三百町、
        後日拝領予州山崎郷、氏族別府通高者賜
        筑前国長渕庄
     
      *【寛永諸家譜 越智姓一柳家系図】
        ●通有
        六郎對馬守に任ず。後宇多院の御宇、弘安四年
        三韓より蒙古襲来り、大軍志賀(筑前)鷹能古等の
        海岸に充満す。夷族退治の事先例たるの故勅命を
        かうふり、大将軍となって筑前国に馳せ向ひ、伯父
        伯耆守道時と通有と二艘敵船の中に紛入、大将
        一人生捕、敵船に放火す、伯耆守疵をかうふり、
        船中にをひて死す。通有も所々疵をかうふり予州に
        帰り、蒙古が頸を通有が家人久万弥太郎成俊
        京都に持参す。此時、忠恩として肥前国神崎の庄
        の内尾崎郷・同加納下東郷をたまふ。後日又
        同庄余残、同荒野、肥後国下久々村以上三百町
        と伊豫国山崎の庄をたまふ。海陸七十余度の合戦
        に、毎度軍忠を抽で、感賞の宣旨をかうふる。
        徳治年中、西国にをひて海賊蜂起の時、関東より
        御教書を給はつて賊黨を追罰す。
 ↓
【大洲系譜二十三代】
成義
 ・大野太郎
  ・母 平氏女也
  ・分領豊治

 女子 
・養子直義之室
 ↓
【大洲系譜二十四代】
直義
 実 熊谷次郎直実八世孫丹治直頼一子也
 大剛権化人也 諸国為一見武者修行而来
 此所干時二十三歳在志於当国初而至時国民
 大恐之成義無男子故為養子付使家督継改氏
 為大伴姓 国中静謐又於小田庄勧請当家
 氏神本地妙見大菩薩宮為領分惣氏神
 祭礼八月十五日也

 ↓
【大洲系譜二十五代】
直朝
  彦次郎

     直基(直朝息)
     ・東三郎  為家臣

 【大洲系譜】
 直頼(直朝弟)
 ・四郎二郎
     
     直範(直瀬息)
     ・城戸三郎  為家臣

     直資(直瀬息)
     ・今窪四郎  為家臣

 ↓
【大洲系譜二十六代】
直国
 ・弥太郎
 ・母 当家成義女也
 ・干時後宇多院御宇蒙古船数六千余艘来
  干鎮西主上有逆鱗而西戎追討者伊予国
  之役也 任先例可致征罰之旨依綸言
  賜赤地錦直垂引率四国軍勢発向筑紫
  直国自組伏戎大将得首級武勇威名揚
  於天下凱旋而帰陸之陣風吹而山海
  動乱数万賊船悉破 蒙古無令滅亡畢直国
  一人為御注進上洛 帝大有御感而為勧賞
  賜於肥州神崎庄之内小崎郷

     *久万弥太郎成俊と大野弥太郎直国は同一人物か?
      或は直国が実際に肥前国神崎庄に移ったからか成俊の
      弥太郎と同名の為、成俊の条が混入したか?
      但し「越智系図」は通有の11男 河野九郎通時が
      肥前小崎に居る、と記録している。【呑舟】

     *【河野系譜築山本】
       河野通将 六郎 居肥前

       譲与肥前国神崎庄内小崎郷
       並余残荒野地頭職之事
       右六郎通将任先例
       可令領知之状如件
       歴応三年二月十三日 善恵
       河野六郎(通将)殿  (對馬守通春)
       進之候

     * ・康暦元年(1379) 直利の兄で直国の男、直頼
       (大田三郎四郎、中川十郎入道)は11月6日河野通暁
        に属し当国吉岡佐志久原の戦いで討死している。【南朝】

     【大洲系譜】
      直武(直国息)
      ・東 弥六  為家臣

     【大洲系譜】
      直次(直国息)
       ・尾頸次郎  為家臣

 ↓
【大洲系譜二十七代】
直仲
 ・弥次郎
 ・母 村上太郎女也
 ・今度於筑紫尽無ニ戦功其後在京
  御所中御宿直時強盗小林大膳乱入
  紫震殿直仲走出組伏御簾上
  刎頭忽誅伐武勇威名揚於天下
  帝大有御感而勅賜當家紋木瓜二引也
  前自是先紋者鳩穂屋也

 ↓
【大洲系譜二十八代】
直利
 ・土居弥次郎 左近将監 十郎左衛門尉
 ・母 平基家女也
 ・降参者多 分領大静也

 ↓
【大洲系譜二十九代】 【北朝】
直氏 (1300~1380)
 ・土居弥六
 ・宮内少輔     「付箋 土岐伯耆守頼清息」
 ・実 当国守護土岐太郎源朝臣頼清三男也
  依為当国荏原 林 久万山分領
  頼清任之未生己前有竒瑞直利無男子
  故為養子改姓為当家大伴氏継家督
  任従五位伊豫守 自正慶年中至貞治数度
  合戦依抽粉骨軍忠
  (足利)尊氏公感之賜感状并当国守護職又其后
  義詮公御書曰

   於御方致忠節者 伊豫国守護職之叓 可宛行
   之由 先度被仰出矦定令到来矦□所詮
   昨日九日立江前四十九院宿己所発向京都也
   継夜於日可責上之状如件
      観応三年 三月十日  (足利)義詮
    土居宮内少輔殿

 ・一族並国人等相催急走上尽無ニ戦功勝利
  有依茲自義詮公賜感状数通有 其后
  国土治天下泰平喜而嫡子詮直使家督
  譲於之隠居
  康暦二(1380)庚申年十一月十四日逝去也
  法名信慶大居士  齢八十歳

     *「直氏  ~1380)土岐頼清子 伊予宮内入道信慶侍所頭人」

 ↓
【大洲系譜三十代】
詮直
 ・十郎左衛門尉
 ・賜義詮公諱依義満公
  仰細川右馬頭頼有状曰

   於小田土居城連日致合戦之条、悦入候
   就中連判之状被見申、殊如此沙汰公私
   難有候、當方事可得落居候間、急速陣
   可被竒候、可心安候、恐惶謹言
    卯月十三日     頼有
    大野十郎左衛門尉(詮直)殿

    愛媛県編年史(947*本文書大洲随筆にも載す)

 ・又貞治六年(1366)山名退治仁木為大将被向
  宇和喜多両郡詮直尽粉骨軍忠 四月七日
  小田陣半落着註進其辺状為 
  上意 今川弾正俊通

   今月七日状一九日たうらい(到来)、
   いさひ(委細)きこし(聞食)めされ候、
   抑此方事、ミきち山はた(繁多)寺の上の
   あわちかもりのふる城を御ちん(陣)に
   めされ候て、てきほうハミなミな山へおい
   こまれ候へしほとに、とうこ(道後)のほう
   のハ、のこる物なくなりて、それニつき候てハ
   うわこうり(宇和郡)のせひ出候ハ、そのとき
   ハとう時に参らせくれ候へし、まつそのへん
   の事かつせん(合戦)をととめられ候て
   うわへん(宇和辺)のせひも不存出候やう
   にれうけん候ハ、たうほうのためしるへく
   候へし、兼而又このはた寺の御ちんハ、
   一日夜 御所方はかりにてまつめされ候て
   つきの日につきのする大しやうにて、二百
   よきはせはせくわわり申されて、このちん
   めされ候てのちいさのてきちんハ、ひらきて
   山こへひき入候へし、此ほうの事ハ、いまわ
   のこる所なくしてめてたく候、なをなをその
   へんのかつせんをととめられ、うわせひの
   ふひに参候やうにれうけん候ハンか、
   御忠せつにて候へし、又今月三日
   さわまつ殿へ御つかひをたてられかし。
   それともかさねて御しよをしんせ、それより
   つき申され候ハ、返々めてたく候へし、
   かまへてかまへてとくとくつけ申され候へし
   よし被仰下也、あなかしこ
     四月十九日     俊通 奉
    大野十郎左衛門(詮直)入道殿

       愛媛県編年史(1040*本文書検討を要す)

 如上意依抽忠節為勧賞賜感状又其后
 凶賊依御退治為上意

  於与州致忠節之條、以心神妙也、
  弥可抽戦功状如件
   応安五年十一月十三日
       細川右馬頭 頼有
  大野十郎左衛門尉(詮直)殿
      (946*本文書大洲随筆にも載す)

   為上意所領
  伊予国塩引村 二宮太郎左衛門尉跡事
  所領置也 任先例可致沙汰状如件
       細川右馬頭頼有
   永和元年十一月廿一日
    大野十郎左衛門尉(詮直)殿

  伊豫国神崎庄北方三分二并余戸村窪田村
  分領、為 御恩可致知行、依今度忠儀深重
  可有其抽賞旨、被仰下状如件
   永徳二年七月十七日
          弾正弼  通俊
   大野十郎左衛門入道殿
     (1039*本文書検討を要す)

大野家系譜(伊予大洲大野家本) 1

2024年01月31日 08時52分55秒 | 大野系譜(伊予大洲珍丸本)

大野家系譜(伊予大洲大野家本)【大伴大野家勧請八多喜祇園神社蔵】(珍丸本)1

【大野直利嫡流】伊予史談会蔵(伊予系譜【オー34】)

(はしがき)

大野系図、大野略系図(分家)大野傳書之系
大野家聞書の四本は、大洲大野某の所蔵にして
今越智郡書記たる、小笠原珍丸の保管に属す。
仝人は大野家所出にして而して大野家には
着実の主人なく、亡失の處あるを以って、
仝人の監督に移したるものなり。
大野家の系譜記録多しと雖も、本書の如く詳悉に
して、且つ要領を得たるものは、未だ曽て
見ざる所なり。今回伊予資料展覧会に提出し
たるに因り、特に謄写して之を蔵置す。
大野家には本書の外、陣貝(螺貝)一箇を
珍襲す。伝えて、長宗我部氏と戦いたる時
分捕りたるものなりと云う。
此の四書を合本して假に大野系譜と題称す。
右 装幀に臨み事由を叙し 以って参考に
資すと云うなり。

大正八年五月上旬    西園寺富水識

(伊豫史談会)


筆者 考証するに此の系譜 底本を直澄流
より派生したるものと考察する。
来書の内容の記録等が詳細である為である。
尾首大野家伝来の書ならん
但し、伊豫に残る数多の大野系図の中でも
最古に属するものと思われます。
書簡等の一次史料の写しの多くを所収している
のはこの系図であり、「愛媛県編年史」が所収する
大野家文書の多くの出典はこの系図からである。
ただ、何度かの書き写しの為か、兄弟か親子か
不明な記述も多く代数は適時付けただけであてにならない。
(呑舟)


【大洲大野系図 『直利流』】

大伴氏

天智天皇之御子 (*間違いの始まり)
 ↓
大友皇子    (*大伴と大友を錯誤)
  ・太政大臣初
 ↓
【大洲系譜初代】
與多王
  ・従三位大納言
  ・初賜大友氏
 ↓
【大洲系譜二代】
牟磨
  ・従三位中納言
 ↓
【大洲系譜三代】
安麿     (*ここで大伴系図に戻る)
  ・正三位大納言

    *【日本書記】
     朱鳥元年(686)9月28日
      ○次直広参大伴宿禰安麻呂誄大蔵事。
     持統2年(688)8月10日
       ○大伴宿禰安麻呂誄焉。
     大宝元年(701)3月21日
       ○為 直大壱大伴宿禰安麻呂従三位
     大宝2年(702)1月17日
       ○以 従三位大伴宿禰安麻呂為式部卿
     大宝2年(702)5月21日
       ○勅従三位大伴宿禰安麻呂、令参議朝政。
     大宝2年(702)6月24日
       ○以 従三位大伴宿禰安麻呂為兵部卿。
     慶雲2年(705)11月28日
       ○以 大納言従三位大伴宿禰安麻呂、為兼大宰帥
     和銅元年(708)3月13日
      ○為 正三位大伴宿禰安麻呂為大納言。
     和銅元年(708)7月15日
      ○召 大納言大伴宿禰安麻呂 於御前 勅曰、
     和銅7年(714)5月1日
       ○大納言兼大将軍正三位大伴宿禰安麻呂薨。
       帝深悼之、 詔贈従二位。安麻呂、
       難波朝右大臣大紫長徳之第六子也。
 ↓

【大洲系譜四代】
旅人  (大伴)
  ・任従三位中納言
  ・春宮大夫 大納言

 ↓
【大洲系譜五代】
高多磨

 ↓
【大洲系譜六代】
正磨
  ・従五位下

 ↓
【大洲系譜七代】
壽兄
  ・伊勢守
 ↓
【大洲系譜八代】
吉兄
・伊勢守
 ↓
【大洲系譜九代】 (*実質伊予大野家初代)
●吉良喜
  ・母 藤原姓女
  ・喜多郡大洲領
  ・廻国赴於当国長濱初下向於八多喜休到
   於喜多郡 大野 宇津 森山 宇和川 鳥坂
   立花 小屋 北平 只海蔵川 以上九ケ里
   之民降参 此所無主従他郷依伐九ケ里為
   主自称大野伊勢守於干鎮西有逆臣有
   帝大逆鱗而以四国中国軍兵可令退治之由
   蒙勅命賜赤地錦直垂四国中国之勢引率
   進発干筑紫而逆臣伏誅得首級而致
   太平乎 自是以後為西戎静謐仍賜
   国司而下向当国喜多郡則住之

      *【予陽河野家譜】
      (越智好方純友討伐に出征)
       人皇六十一代朱雀院御宇天慶年中伊予掾純友
       反逆掠領九州、好方蒙宣旨賜赤地錦直垂鎧、
       引率中西國武者、乗兵船二百余艘、進発於備前
       籠島、大闘被官奴田新藤次忠勝終得純友首、
       忽揚武勇威名、忝蒙御感綸旨訖、好峰子安国
       風早大領 三嶋大祝 其子安躬
       喜多郡司 相伝父職 益男次男元興
       温泉郡司執行道後七郡 其子元家 久米大領
       其子家時 和介太夫、
       自益躬至干家時中間十有余代称之地霊、如曰地神五代、
       水里玄義曰地霊者実而雖成象、 頃人皇五十二代
       嵯峨天皇第十八皇子為世、賜藤原姓下向干与州
       造舘干浮穴郡住御、故号浮穴御舘、
       越智家時成婿君、有三子、越智為時  浮穴太夫
       次男今治為頼 中太夫別宮祖 経与
       新居氏祖 是也

      *【祇園神社】
       (由来沿革等)
       天慶二年(939年)伊豫掾藤原純友が平将門と
       ともに反乱した時に、朝廷は大伴吉良喜を喜多郡
       の大領に任じて暴徒を追捕したという。
       吉良喜は京都を出発する際に信仰していた祇園社
       (八坂神社)の御分霊を奉持し、粟津ノ森に社殿
       を造営し奉斉、「祇園社」と称したという。
       後に吉良喜夫妻の御霊を合祀した。大洲藩代々
       の崇敬を受け、参勤交代の時にはこの神社で
       海上安全諸祈願をして出発したと言う。
       明治元年に「粟津森神社」と改称されたが、
       昭和25年には再び「祇園神社」に改称された。

       神 社 名  祇園神社
        主 祭 神    素盞鳴尊 奇稲田媛命
        所 在 地  大洲市八多喜
        配 神    大国主命  神矢楯媛命
              吉良喜命  吉良喜比命
             (吉良喜夫妻)
        本殿の様式  流造 (銅版葺)
        社 格    旧郷社

      *【純友追討記】 (底本: 群書類従 第二十 東京 続群書類従完成会)
       伊予掾藤原純友居住彼国為海賊之首。唯所受性、狼戻為宗。不拘礼法。多率人集。
       常行南海山陽等国。濫吹為事。暴悪之類聞彼威猛。追従稍多。押取官物、
       焼亡官舎。以之為其朝暮之勤。遥聞将門謀反之由。亦企乱逆、漸擬上道。
       此比東西二京連夜放火。依之男送夜於屋上。女運水於庭中。純友士卒、
       交京洛所致也。於是、備前介藤原子高風聞其事。為奏聞其旨。
       天慶二年十二月下旬、相具妻子。自陸路を上道。純友、聞之将為害子高。
       令郎等文元等追及摂津国兎原郡須岐駅。同十二月二十六日壬戌寅剋、
       純友の郎等、放矢如雨。遂獲子高。即截耳割鼻。奪妻将去也。
       子息等為賊被殺畢。公家大驚。下固関使於諸国。且於純友給教喩官符。
       兼預栄爵。叙従五位下。而純友野心未改。猾賊弥倍。讃岐国與彼賊軍合戦、
       大破。中矢死者数百人。介藤原国風軍敗。招警固使坂上敏基。窃逃向阿波国也。
       純友、入国府放火焼亡。取公私財物也。介国風、更向淡路国。
       注於具状飛駅言上。経二箇月招集武勇人。帰讃岐国相待官軍之到来。
       于時公家、遣追捕使。左近衛小将小野好古為長官。以源経基為次官。
       以右衛門尉藤原慶幸為判官。以右衛門志大蔵春実為主典。即向播磨・讃岐等二国。
       作二百余艘船。指賊地伊予国艤向。於是純友所儲船號千五百艘。
       官使未到以前。純友次将藤原恒利、脱賊陣窃逃来着国風処。
       件恒利能知賊徒宿所隠家并海陸両道通塞案内者也。仍国風置為指南。副勇捏者令撃賊。
       大敗散如葉浮海上。且防陸路絶其便道且追海上認其泊処。遭風波難共失賊所向。
       相求之間。賊徒到太宰府。更所儲軍士、出壁防戦。為賊徒被敗。于時賊、
       奪取太宰府累代財物。放火焼府畢。寇賊部内之間。官使好古、引率武勇、自陸路行向。
       慶幸・春実等鼓棹自海上赴向筑前国博多津。賊、即待戦。
       一挙欲決死生。春実、戦酣裸袒乱髪。取短兵振呼入賊中。恒利・遠方等亦相随。
       遂入截得数多賊。賊陣更乗船戦之時。官軍、入賊船、着火、焼船。
       凶等遂破。悉就擒殺。所取得賊船八百余艘。中箭死傷者数百人。恐官軍威、
       入海男女不可勝計。賊徒主伴、相共各離散。或亡、或降。分散如雲。
       純友、乗扁舟逃帰伊予国。為警固使橘遠保被擒。次将等皆国々処々被捕。
       純友得捕。禁固其身。於獄中死。



 ↓
【大洲系譜十代】
武虎
 ・大野太郎
 ・母 大伴姓女
  ・久米押領使
 ・右兵衛尉
 ↓
【大洲系譜十一代】
国兄
 ・大野又太郎 大井御舘
  ・母 越智宿禰久米権介元家女也
 ↓
【大洲系譜十二代】
良国
  ・次郎 右兵衛尉
  ・越智押領使
  ・実武虎二男国兄同母弟也
 ↓
【大洲系譜十三代】
時泰
  ・又太郎
 ・西条御舘
  ・実 嵯峨天皇御子為世二男浮穴郡御舘 
  ・母 越智宿禰和気太夫家時女也
 ・良国無男子故為養子当家大伴氏令継
 ↓
【大洲系譜十四代】
時武
  ・母 大伴姓女
  ・伊豫大領

【大洲系譜】
行泰
 ・母 藤原氏女也

【大洲系譜】
泰衡
 ・太郎右衛門太夫
  ・周敷押領使
 ・母 橘氏女也

【大洲系譜】
純衡
  ・伊豫守 従五位下

【大洲系譜】
武衡
 ・浮穴押領使

【大洲系譜】
泰行
 ・太郎 民部少輔
 ・母 藤原氏女也
 ・芸州沙田郡有凶賊
  依勅命而発向干沙田安々誅伐
  有御感為勧賞賜沙田

      (注)安藝(広島県)
        「沙田郡」(ますたぐん)として設置されたが、10世紀初頭に
         豊田郡に改称された。当時は内陸部が範囲であった。その後
         平安時代末頃に沼田郡の大部分を編入した

【大洲系譜】
純行
 ・次郎 称富永 太田押領使
 ・母 大伴姓女也
 ・干時天慶二己亥(丑カ)年(939) 
  筑紫有逆乱当国八家士
  依勅命而進発鎮西尽粉骨戦功揚武勇名
  天下主上有御感賜藤原姓并九刕之守護職
  八家同前也

【大洲系譜】
純宗
・雅楽 伊豫大領
・母 越智氏女也

【大洲系譜】
宗成
・母 橘氏女也
・大井大領

【大洲系譜】
吉雅
・久米御舘
・母大伴氏女

【大洲系譜】
純頼
・宮内少輔

【大洲系譜】
安雅
・久万太夫
・母 越智氏女也
 ↓

【大洲系譜十五代】
安綱 (久万祖)
・五郎太夫
     *【予陽河野家譜】
       河野通信相共候後家人三十二名の中に
       久万安綱子 永助(久万太郎太夫) と注記あり
       (景浦氏曰く後世の加筆カ)と
 ↓
【大洲系譜十六代】
安仲
・八郎太夫
・母 源義夏女
     *【予陽河野家譜】
       河野通信相共候後家人三十二名の中に
       久万安中子 高盛(久万太郎太夫・同舎弟[六郎安清]
       と注記あり
       (伊予史談会景浦氏曰く後世の加筆カ)と断ず

 ↓
【大洲系譜十七代】
安行
・久米太夫
・母 大江氏女
     *【予陽河野家譜】
       河野通信が平泉配流の時同行した一族国人の
       なかに久万六郎安清と仝七郎安重の名があるが
       同一人物カ

【大洲系譜】
宗行
・太郎 冨永八郎
・母 大江良元女也 任右兵衛尉

     *大江が中原から大江へ改正許可は中原廣元が
      実父中原廣季ではなく実父大江惟光の姓を継ぐ
      として建保4年(1216)以降とされるので大江良元は
      はそれ以降である。(2015/10/30)呑舟

【大洲系譜】
藤行
・太田六郎太夫
・母 当女房 織部左衛門尉

【大洲系譜】
定雅
・久万七郎
・降参者多而領分広大得長者号

【大洲系譜】
藤元
・三郎 宮内少輔

【大洲系譜】
元有
・二郎 右兵衛尉

【大洲系譜】
貞有(具?)
・三郎 左京進

【大洲系譜】
有頼
・太郎 左京進

【大洲系譜】
綱頼
・十郎

有藤
・五郎 左衛門尉

経武
・又太郎


【大洲系譜十八代】
義有
・太田十郎
・母 源姓女也
 干時元暦元申辰年(1184)二月三日九郎太夫
 判官義経公着岸干勝浦義有聞之従士数百人
 召倶兵船百余艘取乗為御方走参抽無二軍忠
 武勇威名揚天下依茲自義(経)公賜感状数通
 并当国地頭職又其後自頼朝公安堵御状曰

  伊豫国御本領 并家人等 御進退不可有相違者也
  遠国之間 上下向其煩矦欽然者子息若近親一人
  可下給矦 且委旨實平申含矦也
       文治元己己年 三月二日   頼朝
  太田十郎殿

  (元歴元年ではなく元歴二年の伊豫史談会の
    転記間違いと思われる。)【呑舟】