山口県周防大島物語

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正統 大伴姓大野系図(系図纂要・内閣文庫所収)3

2024年01月06日 07時08分46秒 | 正統 大伴姓大野系図(系図纂用・内閣文庫)
●大伴旅人
 ↓
●【兄】大伴家持

  宝亀十一年二ノ丙申三木 二ノ申辰右大弁 天応元年四ノ巳亥
  春宮大夫 五ノ乙丑左大弁 八ノ甲午東宮大夫 十一ノ巳巳従三
  延暦元年壬正ノ壬子坐川継黨解却見任 五ノ乙未春宮太夫
  六ノ戊辰陸奥按察使鎮守府将軍 同二年七ノ甲午中納言
  同三年二ノ巳丑持節征東将軍 同四年八ノ庚寅 薨 未葬種継事
  露見追除名 大同元年三ノ辛巳復本位

 「家持略伝 727(神亀4)年冬か翌年春頃、父旅人は大宰帥として筑紫へ下向し、家持もこれに同行したと思われる。

  730(天平2)年6月、父は重態に陥り、聖武天皇の命により
  大伴稲公と大伴古麻呂が遺言の聞き役として派遣されたが、間もなく旅人は平癒し、二人の駅使が帰京する際催された
  悲別の宴には、大伴百代らと共に「卿の男」家持も参席した。同年末、旅人は大納言を拝命して帰京の途に就き、
  家持も同じ頃平城京佐保の自宅に戻ったと思われる。父は翌年7月死去し、家持は14歳にして
  佐保大伴家を背負って立つこととなった。

  732(天平4)年頃から坂上大嬢や笠女郎と相聞を交わす(巻四・八)。736(天平8)年9月には「大伴家持の秋の歌四首」
  を作る。これが制作年の明らかな最初の歌である。

  739(天平11)年頃、蔭位により正六位下に初叙されたと思われる。この年6月、亡妾を悲傷する歌があり、
  これ以前に側室を失ったらしい。
  同年8月、竹田庄に坂上郎女・大嬢母娘を訪ねる。間もなく大嬢を正妻に迎えた。

  740(天平12)年までに内舎人に任じられ、同年10月末に奈良を出発した関東行幸に従駕。
  11月、伊勢・美濃両国の行宮で歌を詠む。
  11.14、鈴鹿郡赤坂頓宮では供奉者への叙位が行われており、おそらくこの時正六位上に昇叙されたか。
  同年末の恭仁京遷都に伴い、単身新京に移住する。

  741(天平13)年4月、奈良にいる弟書持と霍公鳥(ほととぎす)の歌を贈答する。この年か翌742(天平14)年の10.17、
  橘奈良麻呂主催の宴に参席し、歌を詠む

  743(天平15)年7.26、聖武天皇は紫香楽離宮への行幸に出発するが、家持は留守官橘諸兄らと共に恭仁京に留まり、
  8月には「秋の歌三首」「鹿鳴歌二首」・恭仁京賛歌を詠んでいる。同年秋か冬、安積親王が左少弁藤原八束の家
  で催した宴に参席し、歌を詠む。
  この時も内舎人とあるが、天皇の行幸に従わず安積親王と共に恭仁に留まっていることから、当時は親王専属の
  内舎人になっていたかと推測される。

  744(天平16)年1.11、安積親王の宮があった活道岡で市原王と宴し、歌を詠む。ところが同年閏1月の難波宮行幸の
  途上、主君と恃んだ安積親王は急死し、これを悼んで2月から3月にかけ、悲痛な挽歌を作る(03/0475~0480)。
  この時も内舎人とある。この後、平城旧京に帰宅を命じられたらしく、4月初めには奈良の
  旧宅で歌を詠んでいる。

  745(天平17)年1.7、正六位上より従五位下に昇叙される。746(天平18)年1月、元正上皇の御在所での肆宴に参席し、
  応詔歌を作る。同年3.10、宮内少輔に任じら れるが、わずか3か月後の6.21には越中守に遷任され、7月、越中へ
  向け旅立つ。8.7、国守館で宴が催され、掾大伴池主・大目秦忌寸八千嶋らが参席。同年9月、 弟書持の死を知り、
  哀傷歌を詠む。この年以降、天平宝字2年1月の巻末歌に至るまで、万葉集は家持の歌日記の体裁をとる。

  747(天平19)年2月から3月にかけて病臥し、これをきっかけとして大伴池主とさかんに歌を贈答するようになる。
  病が癒えると「二上山の賦」、「布勢水海に遊覧の賦」、「立山の賦」など意欲的な長歌を制作する。5月頃、
  税帳使として入京するが、この間に池主は越前掾に遷任され、久米広縄が新任の掾として来越した。

  748(天平20)年春、出挙のため越中国内を巡行し、各地で歌を詠む。この頃から、異郷の風土に接した新鮮な
  感動を伝える歌がしばしば見られるようになる。同年3月、諸兄より使者として田辺福麻呂が派遣され、
  歓待の宴を催す。4.21、元正上皇が崩御すると、翌年春まで作歌は途絶える。

  749(天平21)年3.15、越前掾池主より贈られた歌に報贈する。同年4.1、聖武天皇は東大寺に行幸し、盧舎那仏像
  に黄金産出を報告したが、この際、大伴・佐伯氏の言立て「海行かば…」を引用して両氏を「内の兵(いくさ)」
  と称賛し、家持は多くの同族と共に従五位上に昇叙される。5月、東大寺占墾地使として 僧平栄が越中を訪れる。
  この頃から創作は再び活発化し、「陸奥国より黄金出せる詔書を賀す歌」など多くの力作を矢継ぎ早に作る。
  同年7.2、聖武天皇は譲位して皇太子阿倍内親王が即位する(孝謙天皇)。この頃家持は大帳使として再び帰京し、
  10月頃まで滞在。越中に戻る際には妻の大嬢を伴ったらしく、翌750(天平勝宝2)年2月の「砺波郡多治比部
  北里の家にして作る歌」からは、国守館に妻を残してきたことが窺える。同年3月初めには「春苑桃李の歌」
  など、越中時代のピークをなす秀歌を次々に生み出す。5月、聟の南右大臣(豊成)家の藤原二郎(継縄)の母の
  死の報せを受け、挽歌を作る。
天平感宝元年 5月12日 続日本紀 ○大伴家持は東大寺建立の為の黄金が陸奥国より献上されたことに慶び
越中国守館に於いて「黄金賛歌」を作る。

葦原の 瑞穂の国を 天降り 領らしめける
  すめろきの 神の命の 御代かさね 天の日嗣と
  領らしくる 君の御代御代 敷きませる 四方の国には
  山河を 広み厚みと たてまつる 御調宝は
  数へ得ず 尽くしもかねつ しかれども 吾ご大王の
 諸人を いざなひたまひ 善き事を 始めたまひて
  黄金かも 確けくあらむと 思ほして 下悩ますに
  鷄が鳴く 東の国に 陸奥の 小田なる山に
 金有りと 申したまへれ 御心を 明らめたまひ
  天地の 神相珍なひ 皇御祖の 御霊たすけて
  遠き代に かかりしことを 朕が御世に あらはしてあれば
  御食国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして
  物部の 八十伴の雄を 服従の 向けのまにまに
  老人も 女童児も しが願ふ 心だらひに
  撫で賜ひ 治め賜へば ここをしも あやに尊とみ
  嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖の
  其の名をば 大来目主と 負ひもちて 仕へし官
  海行かば 水漬く屍 山行かば 草むす屍
  大皇の 辺にこそ死なめ かへり見は せじと言立て
  大夫の 清きその名を いにしへよ 今のをつつに
  流さへる 祖の子どもそ 大伴と 佐伯の氏は
  人の祖の 立つる辞立て 人の子は 祖の名絶たず
  大君に まつろふものと 言ひつげる 言の職そ
  梓弓 手にとりもちて 剣大刀 腰にとりはき
  朝まもり 夕のまもりに 大王の 御門のまもり
  われをおきて 人はあらじと 弥立て 思ひしまさる
 大皇の 御言の幸の 一に云はく、を 聞けば貴み 一に云はく、貴くしあれば

天平感寶元年五月十二日、於越中國守舘、大伴宿祢家持作之

  751(天平勝宝3)年7.17、少納言に遷任され、足掛け6年にわたった越中生活に別れを告げる。8.5、京へ旅立ち、
  旅中、橘卿(諸兄)を言祝ぐ歌を作る。帰京後の10月、左大弁紀飯麻呂の家での宴に臨席(。以後、翌年秋まで
  1年足らず作歌を欠く。

  752(天平勝宝4)年4.9、東大寺大仏開眼供養会が催される。同年秋、応詔の為の儲作歌を作る。
  11.8、諸兄邸で聖武上皇を招き豊楽が催され、これに右大弁八束らと共に参席、歌を詠むが、奏上されず。
  11.25、新嘗会の際の肆宴で応詔歌を詠む。11.27、林王宅で但馬按察使橘奈良麻呂を餞する歌を詠む。

  753(天平勝宝5)年2.19、諸兄家の宴で柳条を見る歌を詠む。2月下旬、「興に依りて作る歌」、雲雀の歌を詠む。
  以上三作は後世「春愁三首」と称され、家持の代表作として名歌の誉れ高い。同年5月、藤原仲麻呂邸で
  故上皇(元正)の「山人」の歌を伝え聞く。同年8月、左京少進大伴池主・左中弁中臣清麻呂と共に高円山に遊び、
  歌を詠む。

  754(天平勝宝6)年 1.4、自宅に大伴氏族を招いて宴を催す。3.25、諸兄が山田御母(山田史女島)の宅で主催した
  宴に参席、歌を作るが、詠み出す前に諸兄は宴を やめて辞去してしまったという。
  以後、家持が諸兄主催の宴に参席した確かな記録は無い。4.5、少納言より兵部少輔に転任する。

  755(天平勝宝7)年2月、防人閲兵のため難波に赴き、防人の歌を蒐集する。また自ら「防人の悲別の心を痛む歌」・
  「防人の悲別の情を陳ぶる歌」などを作る。帰京後の5月、自宅に大原今城を招いて宴を開く。
  この頃から今城との親交が深まる。同月、橘諸兄が子息奈良麻呂の宅で催した宴の歌に追作する。
  8月、「内南安殿」での肆宴に参席、歌を詠むが奏上されず。この年の冬、諸兄は側近によって上皇誹謗と
  謀反の意図を密告され、翌756(天平勝宝8)年2月、致仕に追い込まれる。家持は同年3月聖武上皇の堀江行幸に
  従駕するが、同年5.2、上皇は崩御し、遺詔により道祖王が立太子する。
  翌6月、淡海三船の讒言により出雲守大伴古慈悲が解任された事件に際し、病をおして「族を喩す歌」を作り、
  氏族に対し自重と名誉の保守を呼びかけた。
  11.8、讃岐守安宿王らの宴で山背王が詠んだ歌に対し追和する。11.23、式部少丞池主の宅の宴に
  兵部大丞大原今城と臨席する。

  757(天平勝宝9)年1月、前左大臣橘諸兄が薨去(74歳)。4月、道祖王に代り大炊王が立太子する。
  6.16、兵部大輔に昇進。6.23、大監物三形王の宅での宴に臨席、「昔の人」を思う歌を詠む。
  7月、橘奈良麻呂らの謀反が発覚し、大伴・佐伯氏の多くが連座するが、家持は何ら咎めを受けた形跡がない。
  この頃、「物色変化を悲しむ歌」などを詠む。12.18には再び三形王宅の宴に列席、歌を詠む。
  この時右中弁とある。12.23、大原今城宅の宴でも作歌。

  758(天平宝字2)年1.3、玉箒を賜う肆宴で応詔歌を作るが、大蔵の政により奏上を得ず。
  2月、式部大輔中臣清麻呂宅の宴に今城・市原王・甘南備伊香らと共に臨席、歌を詠み合う。
  同年6.16、右中弁より因幡守に遷任される。7月、大原今城が自宅で餞の宴を催し、家持は別れの歌を詠む。
  8.1、大炊王が即位(淳仁天皇)。

  759(天平宝字3)年1.1、「因幡国庁に国郡司等に饗を賜う宴の歌」を詠む。これが万葉集の巻末歌であり、
  また万葉集中、制作年の明記された最後の歌である。

  760(天平宝字4)年から762(天平宝字6)年頃の初春、家持が因幡より帰京中、藤原仲麻呂の子久須麻呂が、
  家持の娘を息子に娶らせたい意向を伝えたらしく、家持と子供たちの結婚をめぐって歌を贈答している。
  家持の返歌は娘の成長を待ってほしいとの内容である(大伴家持全集本文篇の末尾を参照)。

  762(天平宝字6)年1.9、信部(中務)大輔に遷任され、間もなく因幡より帰京する。
  9.30、御史大夫石川年足が薨じ、佐伯今毛人と共に弔問に派遣される。

  763(天平宝字7)年3月か4月頃、藤原宿奈麻呂(のちの良継)・佐伯今毛人・石上宅嗣らと共に
  恵美押勝暗殺計画に連座するが、宿奈麻呂一人罪を問われ、家持ほかは現職解任のうえ京外追放に処せられる。

  764(天平宝字8)年1.21、薩摩守に任じられる。前年の暗殺未遂事件による左遷と思われる。
  同年9月、仲麻呂は孝謙上皇に対し謀反を起こし、近江で斬殺される。10月、藤原宿奈麻呂は正四位上大宰帥に、
  石上宅嗣は正五位上常陸守に昇進し、押勝暗殺計画による除名・左降者の復権が見られるが、家持は叙位から
  漏れている。10.9、上皇は再祚し(称徳天皇)、以後道鏡を重用した。

  765(天平神護1)年2.5、大宰少弐紀広純が薩摩守に左遷され、これに伴い家持は薩摩守を解任されたと思われる。
  二年後の神護景雲元年まで任官記事なく、この間の家持の消息は知る由もない。

  767(神護景雲1)年8.29、大宰少弐に任命される。

  770(神護景雲4)年6.16、民部少輔に遷任される。同年8.4、称徳天皇が崩御し、道鏡は失脚。志貴皇子の子
  白壁王が皇太子に就く。9.16、家持は左中弁兼中務大輔に転任。
  同年10.1、白壁王が即位し(光仁天皇)、同日家持は正五位下に昇叙される。天平21年以来、実に21年ぶりの叙位であった。
  以後は聖武朝以来の旧臣として重んぜられ、
  急速に昇進を重ねることになる。11.25、大嘗祭での奉仕により、さらに従四位下へ2階級特進。

  772(宝亀3)年2月、左中弁兼式部員外大輔に転任する。774(宝亀5)年3.5、相模守に遷任され、
  半年後の9.4、さらに左京大夫兼上総守に遷る。

  775(宝亀6)年11.27、衛門督に転任され、宮廷守護の要職に就いたが、翌776(宝亀7)年3.6、衛門督を解かれ、
  伊勢守に遷任された。

  777(宝亀8)年1.7、従四位上に昇叙される。778(宝亀9)年1.16、さらに正四位下に昇る。

  779(宝亀10)年2.1、参議に任じられ、議政官の一員に名を連ねる。
  2.9、参議に右大弁を兼ねる。

  781(天応1)年2.17、能登内親王が薨去し、家持と刑部卿石川豊人等が派遣され、葬儀を司る。
  同年4.3、光仁天皇は風病と老齢を理由に退位し、山部親王が践祚(桓武天皇)
  4.4、天皇の同母弟早良親王が立太子。4.14、家持は右京大夫に春宮大夫を兼ねる。
  4.15、正四位上に昇進。5.7、右京大夫から左大弁に転任(春宮大夫は留任)。この後、
  母の喪により官職を解任されるが、8.8、左大弁兼春宮大夫に復任する。
  11.15、大嘗祭後の宴で従三位に昇叙される。この叙位も大嘗祭での奉仕(佐伯氏と共に門を
  開ける)によるものと思われる。12.23、光仁上皇が崩御し、家持は吉備泉らと共に山作司
  (山陵を造作する官司)に任じられる。

  782(天応2)年閏1月、氷上川継の謀反が発覚し、家持は右衛士督坂上苅田麻呂らと共に連座の罪で現任を解かれる。
  続紀薨伝によれば、この時家持は免官のうえ京外へ移されたというが、わずか四か月後の5月には春宮大夫復任
  の記事が見える。6.17、春宮大夫に陸奥按察使鎮守将軍を兼ねる。続紀薨伝には「以本官出、為陸奥按察使」とあり、
  陸奥に赴任したことは明らかである。程なく多賀城へ向かうか。

  783(延暦2)年7.19、陸奥駐在中、中納言に任じられる(春宮大夫留任)。

  784(延暦3)年1.17、持節征東将軍を兼ねる。785(延暦4)年4.7、鎮守将軍家持が東北防衛について建言する。
  8.28、死す。死去の際の肩書を続紀は中納言従三位とする。『公卿補任』には「陸奥に在り」と記され、
  持節征東将軍として陸奥で死去したか。
  ところが、埋葬も済んでいない死後20日余り後、大伴継人らの藤原種継暗殺事件に主謀者として家持が
  関与していたことが発覚し、生前に遡って除名処分を受ける。
  子の永主らも連座して隠岐への流罪に処せられ、家持の遺骨は家族の手によって隠岐に運ばれたと思われる。

  806(延暦25・大同1)年3.17、病床にあった桓武天皇は種継暗殺事件の連座者を本位に復す詔を発し、
  家持は従三位に復位される(『日本後紀』)。
  これに伴い家持の遺族も帰京を許された。
  家持は万葉集に473首(479首と数える説もある)の長短歌を残す。これは万葉集全体の1割以上にあたる。
  ことに末四巻は家持による歌日記とも言える体裁をなしている。
  家持は万葉集に473首(479首と数える説もある)の長短歌を残す。これは万葉集全体の1割以上にあたる。
  ことに末四巻は家持による歌日万葉後期の代表的歌人であるばかりでなく、後世隆盛をみる王朝和歌の基礎
  を築いた歌人としても評価が高い。古くから万葉集の撰者・編纂者に擬せられ、1159(平治1)年頃までに成立
  した藤原清輔の『袋草子』には、すでに万葉集について「撰者あるいは橘大臣と称し、あるいは家持と称す」
  とある。また江戸時代前期の国学者契沖は『萬葉集代匠記』で万葉集 家持私撰説を初めて明確に主張した。
  なお914(延喜14)年の三善清行「意見十二箇条」には家持の没官田についての記載があり、越前加賀郡100余町・
  山城久世郡30余町・河内茨田渋川両郡55町を有したという。


 ▽弟 書持
    書持略伝 739(天平11)年6月、家持の悲傷亡妾歌に即和。740(天平12)年12月9日、大宰府の梅花宴の歌
    に追和。741(天平13)年4月2日、奈良より恭仁京の家持に霍公鳥の歌を贈る。天平14年頃の冬、
    橘奈良麻呂の宴に出席して歌を詠む。家持が越中に赴任していた746(天平18)年、死去。
    同年9月25日作の家持による哀傷歌がある。続日本紀などに名は見えず、また万葉集を見ても
    官職に就いていた形跡はない

 ▼弟 大伴高多麿 【伊予大野家祖】
    ・天平二庚年(730)誕生
    ・舎兄附子 家持事闙官

   【以下は大野家各系図の大伴高多麿へ続く、彼の先代までに大友皇子系がまぎれ込むのは間違い。
    高多麿は旅人の庶子として大宰府で出生した模様で大伴家系図からは外されている。】


正統 大伴姓大野系図(系図纂要 内閣文庫所収)2

2024年01月06日 06時50分23秒 | 正統 大伴姓大野系図(系図纂用・内閣文庫)
大伴安麻呂
 ↓
●大伴旅人
  養老四年三ノ丙辰 征隼人持節大将軍 天平二年十ノ一
  大納言 同三年正ノ丙子 従二 同三年七ノ辛未 薨 六十七

  「旅人略伝 672(天武1)年、8歳の時、壬申の乱勃発。父安麻呂は吉野方として
   参戦し、勲功を挙げる。乱後、母方の祖父と推測される巨勢比等は子孫とともに
   流刑に処されており、あるいは母巨勢郎女もこの時配流されたか。

   684(天武13)年、大伴氏は宿禰を賜わる。旅人はこの時20歳。

   701(大宝1)年、第七次遣唐使が任命される。伴氏系図は旅人を
   「入唐使」とするが、正史に記録は無い。

   705(慶雲2)年、父安麻呂は大納言兼大宰帥に就任する。

   708(和銅1)年、弟宿奈麻呂、従六位下より従五位下に昇進する。
   この年、藤原不比等が右大臣に就任。

   710(和銅3)年、元旦朝賀において左将軍(正五位上相当)として騎兵を陳列、
   隼人・蝦夷らを率いる(続紀における旅人の初見。この年46歳)。同年3月、
   平城京遷都。この頃父と共に佐保に移るか。

   713(和銅7)年5.1、父安麻呂薨ず。同年11.26、左将軍。

   715(和銅8)年1.10、従四位下より従四位上に昇叙。同年5月、中務卿。

   718(養老2)年3月、中納言(参議を経ず)。中務卿は留任。この年、長男家持生誕か。

   719(養老3)年1.13、正四位下。9.8、山背国摂官。

   720(養老4)年3月、征隼人持節大将軍として九州に赴任。6.17、元正天皇より征隼人
   将軍旅人を慰問する詔が出される。「将軍原野に曝されて久しく旬月を延ぶ」とあり
   野営して後一カ月以上が経過。すでに相当の戦果を挙げていたと判る。8.4、右大臣
   不比等が薨去し、直後の12日、勅命を受け京に帰還。同年10.23、長屋王と共に
   故右大臣邸に派遣され、不比等に正一位太政大臣と諡「文忠公」を追贈する役を負う。

   721(養老5)年1月、従三位。同年12.7、元明上皇が崩御し、翌日陵墓の造営に当たる。
   同年、大伴氏の氏寺(永隆寺)が般若山の佐保川の東の山に移される。

   724(神亀1)年2月、聖武天皇即位に際し、正三位に昇叙される。同年3月、吉野行幸に
   従駕し奉勅作歌一首(奏上されず)。同年7.13、正三位石川夫人(蘇我赤兄の女で天武
   夫人。穂積皇子・田形内親王の母)が薨じた際、邸に派遣され正二位を追贈する役を負う。
   

   727(神亀4)年末、帥として大宰府に赴任か(続紀には旅人の帥任官の記事なく、
   赴任の時期も不詳)。前任者は不明(715年多治比池守任)。一説に養老2年から
   旅人が兼任、この頃初めて赴任したとする。
   この任官を長屋王排除に向けた藤原氏による一種の左遷と見る説も多いが、
   むしろ当時の国際情勢から外交・防衛上の手腕を期待されての順当な人事で
   あるとする説(増尾伸一郎)が妥当であろう。
   なお当時の大宰大弐は多治比県守、少弐は石川足人(この年小野老と交替か)
   石川君子(この年以前粟田比登と交替か)。
   727(神亀4年)冬 万葉集等  ○大伴旅人 太宰帥として大宰府に赴任、家持(10歳)等も同行する。
   神亀4年10月(はるのゆき) 聖武天皇と夫人安宿媛の間に、待望の男子が生まれ、翌月にはその立太子が朝堂で
   盛大に祝われた。この直後かまたは翌年春、旅人は大宰帥に任命され再び九州に下向した。
   妻の大伴郎女や家持も同行するが、大伴郎女は大宰府に到着して間もない神亀五年夏、病死する。
   すでに筑前守として九州に赴任していた山上憶良は旅人に「日本挽歌」を捧げ、以後旅人と憶良の間に
   活発に歌がやり取りされる

   728(神亀5)年3月か4月頃、小野老が大宰少弐として着任、これを祝う宴を
   開く。沙弥満誓・山上憶良も参加して歌を詠む。同年4月
   前後、妻大伴郎女を失う。5月頃、式部大輔石上堅魚らが弔使に派遣され
   弔いの歌を詠む。旅人、これに和す。6.23、報凶問歌を詠む。
   7.21、筑前守山上憶良より「日本挽歌」を進上される。
   同年11月、大宰府官人らを率いて香椎廟を奉拝。一説に豊前守宇努男人の退任帰京の報告のための奉拝。

 728(神亀5)年か729(天平1)年頃、丹生女王(系譜等不詳)より歌2首を贈られる。
   旅人が女王に贈った「吉備の酒」に対する返礼。

   729(天平1)年2.11、大宰大弐多治比県守、権参議に任命される。この頃、帰京する県守に歌を贈る。
   同年2.12、長屋王、京の自邸で死を賜わる。同年10.7、藤原房前に「梧桐日本琴の歌」を贈る。
   文選の「琴賦」などを踏襲した序文と歌に、密かに帰京を願う心を暗示したと見る説や、
   長屋王失脚後消沈していた 房前に対する激励慰撫と取る説、政権を巡る抗争に対し超然たろうと
   する私的な感懐を籠めたと見る説などがある。
   11.8、房前より答歌を贈られる。

   730(天平2)年1月、大宰府の帥邸において梅花宴を開催。
   同年晩春から初夏にかけ、松浦郡を巡行、この頃「遊松浦河」序文と歌を作る。
   同年4.6、京の吉田宜に書簡を贈る。
   同年6月、脚に瘡をなし重態に陥る。庶弟稲公に遺言を語ることを請い、天皇より大伴稲公と大伴古麻呂の二人
   が駅使として派遣される。数旬の後平癒して、二人の駅使帰京の折、夷守の駅家で送別の宴を設ける。
   この時大伴百代と山口忌寸若麻呂が駅使に歌を贈る。
   同年7.8、「帥家」で集会、憶良が七夕の歌を詠む。一説に旅人の全快祝いを兼ねた祝宴。
   同年7.10、吉田宜より書簡を贈られる。松浦佐用姫の歌を含む。
   同年7.11、憶良より歌を謹上される。
   同年10.1、大納言拝命(大宰帥は元の通り)。
   11月、坂上郎女ら、京へ向け発つ。12月、上京に際し、筑紫娘子が歌を作り、旅人これに和す。
   同じ時、「府の官人等、卿を筑前国の蘆城の駅家に餞する歌」。「大宰帥大伴卿、京に向ひて上道する時作る歌」。
   天平2年11月 万葉集963-4 ○大伴坂上郎女、太宰師大伴旅人の家を発し京に向かう。
   天平2年12月 広島県史    大伴旅人,京への帰途,備後国鞆浦で妻をしのぶ歌 3 首を詠む〔(県)万葉集〕。
   天平2年12月 万葉集3-446 ○太宰師大伴旅人 大納言を拝命し家持(13歳)等と帰京佐保の自宅へ三年ぶりに帰る

   (注)この年、伊豫大野家祖とされる大伴高多麿が庶子として生まれるとされる。
      ただ 旅人の庶子として730年生まれたとするは父親の年齢からすると無理がある。
      むしろ家持の庶子とする方が理に叶う。

   731(天平3)年1.27、従二位。臣下最高位となる(注2)。同年秋頃、「寧樂の家で故郷を思ふ歌」。
   同年7.25、薨ず。大納言従二位、67歳。
   天平3年7月25日 続日本紀 ○大納言従二位大伴宿禰旅人薨。難波朝右大臣大紫長徳之孫。大納言贈従二位安麻呂之第一子也。

   万葉に歌76首を載せる。また『懐風藻』に五言一首がある。
 当時の房前は正三位参議兼中務卿中衛大将(公卿補任によれば民部卿も兼ねる)。
   養老5年に元正天皇の内臣に任命されているが、この肩書きは以後見えず、
   元正譲位後は自然消滅したと思われる。房前は若くして元明・元正両女帝や父不比等に力量を認められたらしく、
   兄武智麻呂より昇進は早かったが、不比等薨後、武智麻呂が急速に昇進してのち右大臣にまで至ったのと対照的に
   、政治の表舞台から退き、死に至るまで参議に留まった。これはおそらく長屋王駆逐に向けての動きに対し              
   房前が距離を取ったため、藤原氏主流の反発を招いたためであろうと推測される(長屋王の変において暗躍した
   首謀者を房前と見る向きがあるが、まったく根拠のない憶説に過ぎない)。
   したがって天平2年当時の房前に強力な人事権があったとは考えにくく、旅人が書簡によって房前の配慮を望んだ
   とは到底思えない。旅人・房前の贈答書簡については、「政権掌握をめぐる抗争や、音楽をも統治の方途とするよう
   な在り方に距離を置き、心情的には『方外の士』たろうとする私的な感懐を込めたもの であって、房前もまた知音
   の人として、その真意を受け止め、深い共感を示した」とする解釈(増尾伸一郎『万葉歌人と中国思想』)が最も
   行き届いたものと思われる。
   従二位は左右大臣相当の官位。当時、不比等の長子武智麻呂でさえ正三位の地位にあったことを思えば、
   諸説において旅人の政治的地位があまりに低く見られがちである感を禁じ得ない。」










        



       








































正統 大伴姓大野系図(系図纂要・内閣文庫)1

2024年01月06日 04時26分02秒 | 正統 大伴姓大野系図(系図纂用・内閣文庫)
 伊予大野系図は複数あって多くは天智天皇(大友皇子)を元祖とする書き出しで始まっていますが
それらの多くは同じ元本から派生したと見られます。
中身は大伴を大友皇子の書き出しに代え、「神別系図」を「皇別系図」に変更しようとした形跡が
あります。今残る日本の多くの系譜が元祖を天皇としています(皇別系図)。勿論多くは加冒です。
次に多いのが天皇の重臣たちを元祖とする(神別系図)ですね。その他、地方豪族(國造)や外来人
を元祖とするものもあります。いつの時代も日本の中心家であった天皇家に対する尊敬は厚く、天皇
の子孫以外も天皇の子孫と系図を加冒することは絶えませんでした。
流布されている伊予大野家系図もその一例ですね。
ただ唯一、系図纂用や内閣文庫に所収されている『大伴姓菅田大野系図』が史実に近いものと思われます。

これらを少し補強しながら紹介していきましょう。


    【 正統 大伴姓大野系図(系図纂要・内閣文庫)】

大伴宿禰姓 武日命 武持初賜大伴宿禰姓

● 高皇産霊尊

 ↓
〇天忍(押)日命
   ・姓氏録云 高魂尊五世孫 ・旧事記作 神挟命 大伴連、家内連等祖・旧事記作 神挟命
 
 初天孫彦火瓊之杵尊神駕之降也、押日命、大来目部立御前降干日向高千穂峯然後以大来目部為天靭負部之号起於此後、
 雄略朝以天靭負賜大連公奏曰衛尉門開闢之勤於職巳重若一身難堪望与愚児語相伴奉衛左右勅依奉
 是大伴佐伯二氏掌左右開闢之縁也

 「天忍日命略伝 記によれば、天孫降臨の際、天久米命と共に、天の石靫を負い、頭椎(くぶつち)の太刀を佩き、
  天の波士弓(はじゆみ)を持ち、天の真鹿児矢(まかごや)を手挟み、御前に立って仕え奉る。
  また書紀神代下一書によれば、天クシ津大来目を率い、背には天磐靫を負い、臂には稜威(いつ)の高鞆を著き
  、手には天ハジ弓・天羽羽矢を捉り、八目鳴鏑(やつめのかぶら)を取り副え、
  また頭槌剣(かぶつちのつるぎ)を帯き、天孫の御前に立って、高千穂の峰に降り来る。」

 ↓
〇天彦日子咋命

 ↓
〇天津日命   以上神代分終

 ↓
●道臣命     本名 日臣命
 大伴山前(ヤマサキ)連   大伴宿禰同祖

 大伴氏遠祖、日臣命帥大来目督将元戎踏山啓行乃尋以八咫烏所向仰視而追遂達干蒐田下時云々、戊午年九月勅道臣命、
 天皇親作顕斉高産霊用道臣命為斉主授以
 厳媛之号  神武帝元年(BC660)東征帥来目部護衛宮門掌其開闢矣、並今令四方之国以規天位之貴亦俾率土之民以示 
 朝廷之重者也 二年(BC661)二月乙巳詔曰、汝忠而且勇加有
 能導之功是以改汝名為道臣矣、帥大来目督将元戎奉承密策能以諷歌倒語掃蕩妖気如此功能哀為軍将流傳後
 裔其倒語之用始發此時即大伴連等祖之復道臣宅地
 居干築坂邑以優寵矣復使大来目居干畝傍山以西川辺之地、今号来目邑、即其縁謂久米連祖之、

 「道臣命略伝 神武即位前戊午年6月、神武天皇東征のとき、大来目部(記では大久米命)を率いて熊野山中を踏み分け、
  宇陀までの道を通す。この功により道臣(みちのおみ)の名を賜わる。同年8月、天皇の命をうけ、菟田県の首長
  兄滑(えうかし)を責め殺す。同年9月、神武天皇みずからが高皇産霊尊の顕斎を行う際、斎主となり「厳媛(いつひめ)」
  と名付られる。同年10月、大来目らを率い、諷歌倒語(そえうたさかしまごと)を以て妖気を払う。
  神武即位の翌年には、築坂邑(橿原市鳥屋町付近)に宅地を賜わる。」

 *現在、サッカーのシンボル八咫烏(ヤタガラス)は道臣命が擬態化されたものである。

 ↓
〇味日命

 ↓
〇雅日臣命

 ↓
〇大日命

 ↓
〇角日命

 ↓
〇豊日命

 ↓
●武日命     後健日命
 日本武尊東征与吉備武彦為副将軍

 「武日命略伝 垂仁天皇25年、阿倍臣の遠祖武渟川別(たけぬなかわわけ)・和迩臣の遠祖彦國葺・中臣連の遠祖大鹿嶋・
  物部連の遠祖十千根と共に、厚く神祇を祭祀せよとの詔を賜わる。景行天皇40年、日本武尊の東征に吉備武彦と共に従い、
  日高見国での蝦夷征討の後、甲斐国の酒折宮で靫負部を賜わる。」

 ↓
●大伴武持    一ニ健持、又武以
 初賜大伴宿禰姓
 仲哀帝元年(192)十ノ 為大連大臣

  「武持略伝 仲哀朝の四大夫の一人。伴氏系図に「初賜大伴宿禰姓」とある。公卿補任には、
   仲哀天皇の即位の年大連(おおむらじ)を賜り、若年の天皇の輔佐を命じられた旨見える。」

 ↓
●室屋      佐伯連 高志連 壬生連等之祖
 長寿之人、
 雄略帝元年正ノ 為大連

   「三代實録云、貞現三年伴善男奉佐伯真豊雄等言室屋大連公之
    一男御物宿禰胤倭故連公允恭帝世始任讃岐国造倭故連公ハ
    豊雄等之列祖之、孝□天皇世国造之号永徒停止、同族玄蕃
    以従五下佐伯宿禰直持、正六上佐伯宿禰正雄等耽貫京兆而
    田公之門猶未得預、改姓佐伯宿禰云々」

   「室屋略伝 允恭天皇11年、衣通郎姫のため藤原部を定める。雄略天皇即位に伴い物部連目と共に大連となる。
    雄略2年、百済から貢ぜられた池津媛を犯した石川楯を、来目部に処刑させる。
    同23年、遺詔を受けて後事を託される。雄略崩後、東漢直掬に命じて兵を起こし、星川皇子の乱を鎮圧させる。
    清寧天皇2年、諸国に白髪部舎人・同膳夫(かしわで)・同靫負を置く。武烈天皇までの5代にわたり大連として政権を
    掌握した。」
 ↓
●談 カタリ    大伴大田宿禰
 大連、雄略帝八年三ノ伐新羅討死、
 同族津麻呂殉死

  ▽弟 御物   林宿禰

 ↓
●金村     神松連 仲丸子等祖
 武烈帝即位年(498)十一月大連、元年十一ノ戊子 起兵殺大伴真鳥
 歴 安閑、宣化、欽明、継體為大連  欽明元年(539)九ノ老

 「金村略伝 仁賢天皇11年(498年)、天皇崩後、大臣平群臣真鳥・鮪(しび)父子の横暴に怒った太子(後の武烈天皇)の
  要請により兵を起こし、真鳥らを攻め滅ぼす。
  同年末、太子を即位させ、自らは大連となる。武烈天皇8年(506年)、継嗣のない天皇が崩ずると、翌年1月、
  物部麁鹿火(あらかひ)大連・許勢男人大臣らを越前三国へ派遣し、応神天皇の五世孫、男大迹王(おおどのみこ)を迎えさせる
 (古事記には淡海国より迎えたとある)。同年2月、王を河内国葛葉宮で即位させる(継体天皇)が、大和に入るまで20年を要し、
  この間王位継承を巡って戦乱があったと推測される。継体6年(512年)、百済が任那の4県の割譲を要求し、
  金村はこれを承認。翌年、この代償として百済は五経博士を貢上する。継体20年(526年)、ようやく大和磐余に都を移す。
  翌年、筑紫で磐井が反乱を起こすと、金村は物部麁鹿火を将軍として派遣し、継体23年(528年)、鎮圧する。
  安閑天皇が即位すると(534年)、引き続き大連となり、皇后・妃のため各地に屯倉を設定する。
  宣化2年(537年)、新羅が任那に侵攻すると、子の磐・狭手彦らを派遣して任那を救援。しかし欽明天皇1年(540年)、
  物部尾輿らに任那4県割譲の責任を問われ、政界を退いて住吉の自宅に引き篭る。
  大伴氏は政治的指導権を物部氏・蘇我氏に奪われ、室屋の時代から続いた最盛期は幕を閉じた。
  なお江戸時代成立の『摂津名所図会』は住吉に近い大帝塚山古墳(前方後円墳)を金村の墓とするが、
  考古学的に年代が合わず、無理があるという(小笠原好彦)。  
  奈良県北葛城郡新庄町大屋には金村を祀る金村神社がある。」

  ▽弟 歌
    初賜佐伯姓  佐伯宿禰等之祖

    *大伴分家佐伯家祖 この末裔に弘法大姉空海がでる。(別途掲載予定) 

 ↓
●咋子    大職冠
 
  「咋子略伝 用明天皇2年(587年)、蘇我馬子らの物部守屋征討軍に加わる。崇峻天皇4年(591年)、任那復興のため大将軍
   として出陣するが、天皇暗殺により筑紫に留まり、推古天皇3年(595年)に帰還。同9年(601年)、再び任那救援の命を得て
   高句麗に派遣され、翌年百済より帰国。その後も外交に活躍したらしく、推古16年(608年)、隋使裴世清らの入京拝朝を出迎え、
   隋煬帝よりの国書を天皇に奏上する。また同18年(610年)には新羅使を迎える役に任じられている。」

  △兄 磐     
  小職 、推古卅一年七ノ伐新羅、副将軍
 
  「磐略伝 宣化天皇2年(537年)、新羅の任那侵攻に際し筑紫に派遣され、那津官家(大宰府の起源)で執政。」

  ▽弟 狭手彦
   大伴連、榎本連祖、欽明廿三年(562)八ノ伐新羅大克之

  「狭手彦略伝 宣化天皇2年(537年)、新羅の任那侵攻に際し朝鮮半島に派遣され、任那・百済救援に活躍。
   肥前国松浦郡の娘子(おとめ)との悲恋説話はこの時のもの(肥前国風土記逸文、万葉。)
   欽明天皇23年(562年)、大将軍に任命され、兵数万を率い、百済の計略を用いて高句麗を討つ。逃亡した高句麗王の宮に進入し、         
   多くの珍宝・武器などを奪って持ち帰り、七織帳を天皇に献上した。武具並びに捕えた美女媛とその従女は蘇我稲目大臣に送り、
   稲目はこの二人を納れて妻としたという(書紀の分注には11年とある)。
   なお861(貞観3)年8月の伴善男の奏言によれば、狭手彦は金村の三男で、宣化天皇の代、新羅を征し、任那を復興し  
   百済を救けた。欽明天皇の代、高句麗の侵攻を受けた百済救援のため大将軍に任命されて高句麗を討ったという
   (日本三代実録)。

 ↓
●長徳   宇真飼
 大化五年(649)四ノ甲午、大紫、右大臣、在官三年、白雉二年(651)七ノ 薨

  「長徳略伝 632(舒明4)年10月、唐使高表仁らの船が難波津に停泊した際、一行を迎えるため江口に派遣される。
   この時船32艘・楽器・旗幟などを飾り整えたという。642(皇極1)年12月、舒明天皇の喪葬の礼に際し、
   大臣蘇我蝦夷に代わり誄(しのびごと)を奉る。この時小徳(冠位十二階の第2位)。
   644(皇極3)年6月、連理の百合の花(祥瑞)を献上する。645(大化1)年、孝徳天皇即位式の際、金の靫を帯びて
   壇の右に立つ。649(大化5)年4月、大紫位右大臣。『公卿補任』によれば651(白雉2)年7月に薨じたという。」

 ↓
●安麻呂   六男
 大宝元年三ノ甲午従三 同二年正ノ乙酉 式部卿
 五ノ丁亥三木 六ノ庚申兵部卿 慶雲二年八ノ戊申大納言
 十一ノ甲辰大宰使 和同元年三ノ丙午正三
 同七年五ノ丁亥 薨 贈従二

  「安麻呂略伝 天智年間、巨勢郎女を娉う歌が万葉に見える
   672(天武1)年、壬申の乱に吉野方として参戦。同年6.29叔父の大伴吹負が
   坂上熊毛らと謀って奇襲作戦に成功し、倭古京を制圧した時、安麻呂は
   不破宮の大海人皇子にこれを報告。天武政権確立後は壬申の功臣として
   重んぜられ、684(天武13)年1.28、広瀬王らと共に新都のための適地視察
   の使に派遣される。686(天武15)年1月、川内王らと共に新羅の使者接待の
   ため筑紫に派遣される。688(持統2)年8.10、天武の殯宮に際し、誄を奉る。
   文武即位後の701(大宝1)年3.21、直大壱より「正従三位」に昇叙される。
   『公卿補任』にはこの年3.19、中納言に任じられ、同年3.21停中納言
   (中納言廃止は続紀にも見える)、散位と為る、とある。702(大宝2)年
   1.17、式部卿に就任。同年5月、前年廃された中納言に代わって新設され
   た参議に就任する。同年6.24、兵部卿を兼ねる。705(慶雲2)年4.17、
   大納言の定員が4人から2人に減り、中納言(3人)が復活する。これに伴い
   粟田真人らが中納言となるが、『公卿補任』によれば安麻呂もこの時
   中納言となる。同年7月、大納言紀麻呂が薨じ、代わって安麻呂が
   大納言に昇進。この時点では右大臣石上麻呂・大納言藤原不比等に次ぐ
   第三位の地位であった。同年11.28、大宰帥を兼ねる(遥任か)。708(和銅1)
   年3.13、石上麻呂が左大臣に、不比等が右大臣に昇進するが、安麻呂は
   大納言に留められ、帥は解任される。710(和銅3)年3.10、平城京遷都に
   際し、佐保に宅地を賜わる。714(和銅7)年5.1、薨ず。時に大納言兼
   大将軍正三位。「不受葬礼。遣大膳大夫鈴鹿王等」(補任)。
   元明天皇より従二位を追贈される。」

   △兄  御行   五男
       天武四年三ノ庚申 大輔 小錦上 持□ 八年加封為氏上
       同十年十ノ庚寅賜資人 文武四年八ノ丁卯 正廣三
       封五百戸 兵政官 真大一 大宝元年正ノ三 薨 五十六
       同ノ廿 贈右大臣 正廣二

       「御行略伝 壬申紀に名は見えないが、壬申の乱の功臣であったことは続紀701(大宝1)年7月の功封の
        記事から明らかである。675(天武4)年、小錦上兵部大輔。
        684(天武13)年、宿禰賜姓。688(持統2)年、天武天皇葬送の際、誄を奉る。694(持統8)年1月、贈封され計500戸。
        同時に大伴氏の氏上に任命される。696(持統10)年、正広肆大納言として資人80人を仮賜される。
        700(文武4)年8月、善政を称され正広参に昇進。701(大宝1)年1月、大納言正広参として薨去し、正広弐右大臣
        を追贈された。同年7月21日文武天皇の勅に、壬申功臣として賜った功封100戸のうち4分の1を子に相伝する旨見える。
        712(和銅5)年には、その妻紀音那の貞節を賞め、邑50戸を賜っている。
        万葉に「壬申の乱平定以後の歌」として「大将軍贈右大臣大伴卿作」の歌が載る。
        なお『竹取物語』に登場する「大納言大伴のみゆき」は御行をモデルとしていると言われる。

   △次兄 御依
       宝字六年四ノ庚戊義部大輔 神護元年正ノ巳亥 正五上
       同二年十ノ庚寅 出雲守 宝亀五年五ノ癸亥 卒

   ▽弟 稲公  一ニ稲君 
      天平勝宝元年八ノ辛未兵部大輔 同六年四ノ庚午上総守 宝字元年八ノ庚辰従四下