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評論-231 小林秀雄の仏語力

2021-03-07 18:54:10 | 評論

評論-231 小林秀雄の仏語力

 

小林秀雄訳

ランボオ詩集(創元選書)

昭和23年11月20日発行(286頁)と昭和47年11月20日発行(303頁)

 

昭和23年版と昭和47年版では翻訳に多々異同を見出せる。

 

「地獄の季節」についてだけ見る。

 

昭和23年版

「俺の生活は祭[festin]であった」(p.92)

昭和47年版

「俺の生活は宴(うたげ)であった」(p.3)

(これ以降、festinは宴に統一されている)

 

昭和23年版

「その上で猛獣の様に情容赦もなく躍ったのだ[j'ai fait le bond sourd de la bête féroce]」(p.92)

昭和47年版

「その上で猛獣の様に情容赦もなく躍り上がったのだ」(p.4)

(この箇所、いずれも明白な誤訳)

 

昭和23年版

「死を手に入れる事だ。……七大罪のすべてを傾けて[Gagne la mort avec .....tous les péchés capitaux.」(p.93)

昭和47年版

「死を手に入れる事だ、……七大罪のすべてを抱へて」(p.4)

 

昭和23年版

「あゝ、俺は死なんか食ひ過ぎて了った。[Ah! j'en ai trop pris」(p.93)

昭和47年版

「あゝ、そんなものはもう抱えきれぬほど抱へ込んでゐるよ。」

 

昭和23年版

「俺の奈落の手帖の目も当てられぬ五六枚、早速貴方から掻拂はして戴く事にする[je vous détache ces quelques hideux feuillets de mon carnet de damné. 」(p.94)(この箇所、明白な誤訳)

昭和47年版

「俺の奈落の手帖の目も当てられぬ五六枚、では、貴方に見て戴く事にしようか」(p.5)

 

小林秀雄の仏語力は決して高度なものでなかったことが分かる。そんな仏語力でランボオの難解きわまる詩を《分かる》のか、という疑問が浮かぶ。

 

そんな疑問に答えることは比較的容易である。

 

高度な語学力があれば《分かる》ものではない。仏語を母語とする人を含め、仏語の達人に問うてみるといい。

「ランボオが分かりますか」

と。

  

 

(了)


掌の小説0044 MAXMARA

2021-03-06 13:21:57 | 小説

掌の小説0044 MAXMARA

 

「マックスマラ(MAXMARA)がオッケーならマックスマンコ(MAXMANCO)だって当然オッケーだろ」

 

「オッケーだろ」

 

「あんたの店の、商標かなんか知らんが、丸に『レ』ね、どっかの高級車の印しみたいで、まずいんじゃねぇ」

 

「どこが。丸ん中に《煉瓦屋》の『レ』、当然オッケーだろ。まずい。気分悪いね。うちは食堂だぜ」

 

(オッサン二人の遣り取りを思わず立ち聞きしてしまった若者のひそかな呟き)

 

…………『マックスマーラ』だし、あれは『レ』じゃねえっつうの。それに『マラ』ってなんだよ。知らねぇよ、そんな日本語。…………

 

(了)


掌の小説0057 女と男(六)「もう会えない」

2021-03-04 12:51:21 | 小説

掌の小説0057 女と男(六)「もう会えない」

 

「もう会えない」

 

女の気持ちは分かる気がした。分からないような気もした。分かりたかったのかも知れず、分かりたくなかったのかもしれない。

 

ぼくには君に会うより靴の中心線を決める方が重要なんだ、だから君とはもう会えない、そんな風に女に別れを告げた職人人生まっしぐらの青年を想い起こしていた。

 

週に一度くらいだろうか、ふと、会いたい、という思いに駆られることはあった。女との結びつきはそれ以上でも以下でもなかった。

 

(了)


掌の小説0046 懐かしいサバトラ

2021-03-01 12:06:22 | 小説

掌の小説0046 懐かしいサバトラ

 

「おい、ネコすけ、元気でやってるか」

 

道端で毛づくろいに忙しい馴染みのネコすけに声をかけてみた。名前は知らない。

 

 動きを止め、瞬時、横目で私を見上げた。

 

 と、もう毛づくろいに精出していた。すぐ傍らを歩きすぎる私など一向お構いなしだった。

 

(了)