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『カンマを伴う分詞句について』の分冊化について

2022-03-17 20:13:23 | 評論

『カンマを伴う分詞句について』の分冊化

 

何ゆえの分冊化か。

自著『カンマを伴う分詞句について――《分詞構文》という迷妄を晴らす試み』は大部である上、デジタル書籍の特性を存分に活用し、膨大な数のリンクを縦横無尽に張り巡らせている。その利便性を十分味わうには一定以上の大きさのモニター画面で、例えば現在Puboo(https://puboo.jp/)で販売しているEPUB形式で本書を読むことが求められる。

現在の頁構成では、取り分けamazonのkindle画面で見るには不適当な点も多々あるため、膨大なリンクを相当程度整理し、分冊化することにした。

現在、第十分冊まで刊行し(各1ドルでamazon.comで販売中)、作業は継続中、全十三分冊となる予定である。

本書の中心的課題は「修飾」、具体的には「制限的修飾」と「非制限的修飾」について論ずることである。

わかりやすい例を挙げてみる。

制限的修飾」の場合。

私が書店に行き、「推理小説ください」と言っても、店員は応対に困るだろう。「本ください」と言われているのに等しいからだ。私が言葉を継いで、「ディック・フランシスが書いた推理小説」と言えば、私の求めているのがどのような推理小説であるのかが店員に伝わる。「ディック・フランシスが書いた」のように、名詞句の構成要素としてその名詞句の指示内容を絞り込むのに役立つような名詞修飾要素は一般的に「制限的名詞修飾要素」とされる。これを英語で表現する場合、例えば、“a mystery (that) Dick Francis wrote” となる。この関係代名詞節(下線部)にはカンマは不要である。

 

非制限的修飾」の場合。

私から知人への電子メール「"Twice Shy"を貸して欲しい」では、私はディック・フランシスの小説"Twice Shy"を貸してほしいと頼んでいる積りである。「ディック・フランシスの"Twice Shy"」という日本語表現は問題なく許容されるが、「ディック・フランシスの」という名詞修飾要素は、話者である私にとって、"Twice Shy"が何であるのかを明示する働きも、どの推理小説のことであるのかを明示する働きもしない。"Twice Shy"と表記するだけで既に貸して欲しいものを(これが本であることはもちろん)唯一的に特定できていると私は判断している。

話者の視点からは次のように言える。既にその指示内容は特定されている(と話者が判断している)名詞句について更に何ごとかを語る場合、話者は「非制限的名詞修飾要素」を用いることがある。"Twice Shy, which Dick Francis wrote/ written by Dick Francis"の場合のように、"Twice Shy"について更に何ごとかを語ることになる" , which Dick Francis wrote / , written by Dick Francis”は「非制限的名詞修飾要素」である。この場合、カンマは不可欠である。

こうしたことを、《分詞構文》に関わる-ing分詞句(いわゆる《現在分詞句》)と -ed分詞句(いわゆる《過去分詞句》)について、膨大な文字数を用いて、極めて精緻な論理を展開することになる。

本書を執筆しながら、また執筆を終えてからも、本書を理解してくれる人は日本に100人くらいはいるのではないか、という思いを抱え続けていた。ただ、本書がその100人の内の一人でもいいから、目にとまるかどうか、は別の大問題なのであるが。

分冊化の作業を続ける過程で、本書は自著でありながら、そこに展開されている極めて綿密精緻と言うほかはない論理的記述は、正直なところ、かなり厄介なものであることを確認せざるを得なかった。一言で言うと、しんどいのである。比喩的に言うと、海底には宝石がごろごろ転がっているのだが、10分以上素潜りできる能力がないと、海底の宝石を取ってくることはできない、のである。過酷な酸欠に耐え続けることは容易なことではない。

本書は直接的には《分詞構文》という英語の文法事項に関わるものだが、時間が経過してみると、狭く言えば「解釈学」、もう少し広げていれば「現象学的解釈学」に関わるものだということに気付かされる。

本書はついに広く人目に触れることはないかも知れず、ましてや理解されることはないかもしれないとは、すでに、想定内である。

ただ、私はこの著作を世の中に提示した。あとは世の中と歴史にゆだねるほかはない。已んぬる哉、私の努力はどうやら報われそうもないが、我が座右銘、bene vixit qui bene latuit  に背かずにはすみそうである。

現在執筆中の「『天皇との距離 三島由紀夫の場合』への助走」の「第一部  三島由紀夫の「切腹」 その"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を探る」に続く「第二部 『武士道』(矢内原忠雄訳)対「切腹の美学」(矢切止夫)」を含むいくつかの著作をすべて書き終える時間はおそらくない。が、できる限りの事はしてみる。

遺書めいた一筆だが、遺書となる可能性もなきにしもあらず。すべては時が決する。この一筆を遺書とするには、せめて分冊化の作業を完了せねばならない。

急ごう。

 

(了)

 

 

 

 

 

 

 



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