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《一流》会計事務所の 《優秀》な会計士たち

2020-09-24 16:35:55 | 日記

《一流》会計事務所の 《優秀》な会計士たち

 

一度目の決算書を見せられた顧客。

――こんなに正確に数字を出してどうするんだ。こういうのを馬鹿正直って言うんだよ。

   二度目の決算書を見せられた顧客。

――赤じゃ困るんだよな。

   三度目の決算書を見せられた顧客。

――多少は色をつけてもらわんと。

   四度目の決算書を見せられた顧客。

――こんなところか。

   望む結果を得ようとしたら、プログラムの書き換えを要するコンピュータとは異なり、仄めかすだけで足りるとすれば、故障もしやすければ、連続運転に難もありはするが、それでも《優秀》な出力装置ではある。そこには少なくとも利便を見出せはする。

 

(了)

 

 


三島由紀夫の「切腹」 その"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を推理する (その四)

2020-09-20 11:29:02 | 日記

"ブックサーフィン"という愉楽――あるいは書淫
 

天皇との距離 三島由紀夫の場合』への助走
 

 

第一部

三島由紀夫の「切腹」  

その"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を推理する

 

その四

 

解剖所見(ウィキペディア「三島事件」)の記述をそのまま受け入れるとすれば、切創の左端の傷は二人共に深さ4センチ、切創の長さはそれぞれ三島14センチ、森田10.4センチ。両人で少なくとも複数回、切腹の作法・手順、短刀の使い方、腹を切る深さと長さ、介錯の頃合などを確かめ合ったことであろう。もし「まず切っ先を深く食い込ませ」と打ち合わせていたのだとしたら、三島は、「切っ先を深く食い込ませ」た時点で意識を失う可能性を果たして想ったであろうか。

異物を皮膚下に突入させた時点に於て八十三例中八十例までは、喪心又は失神状態に陥るものである。
(矢切止夫「切腹論考」、『切腹論考』中央公論社、1970年10月31日初版所収、10頁)

さらに、

三島の切腹傷のように、ここまで腹部に深く短刀を突き刺した場合には腹部内臓に分布する血管迷走神経を刺戟して血管迷走神経反射を起し、血管の拡張により脳血流が保てなくなり失神に陥る。
(ウィキペディア「三島事件」の〔注釈12〕)

すでに「その二」で「文句なしに面白くも刺激的、ときに痛快でさえある上に、11月25日以前にすでに三島の机の上にあったという証言もある10月31日初版発行のこの『切腹論考』については後述する」と述べておいた。

「切腹論考」が十月始めに中央公論社から出版された後、十日あたりだったか三島邸へ伺った編集者の某氏が、「机の上に本がありましたよ。読んで居られたようです」と私の許へ教えにきてくれた。
(矢切止夫、三島由紀夫追悼文「切腹の美学」、『新評 臨時増刊 全巻 三島由紀夫大鑑』1971年1月25日発行所収、209頁)

(注)ここでの「切腹論考」とは矢切止夫『切腹論考』中央公論社、1970年10月31日初版発行。

「十月始めに中央公論社から出版された」は「発売された」のことであろう。発行日は書籍が店頭に並ぶ日(発売日)よりかなり先の日付にすることが通例であるらしいから、「10月31日初版発行」の『切腹論考』が十月始めには店頭に並び、経緯はともかく、その本が三島の机の上にあったとしても驚くほどのことではない。「十日あたり」は「十月十日あたり」と考えるのが妥当であろう。

三島は机の上の『切腹論考』から、取り分け巻頭の論考「切腹論考」から目を逸らすことができなかったはずだ。三島にとっては喫緊の重要課題そのものであるこの論題を目にしながら、頁を繰らないという選択肢は三島にはなかったであろう。「編集者の某氏」の言うように、「読んで居られた」と考えて差し支えあるまい。そうであれば、「切腹論考」の指摘、闇雲に深く切ると苦痛で七転八倒するのみである、という知識は三島の頭にしまい込まれていたと考えていい。

そのことから導き出せるのは、一方では、苦しみもがくだけに終わる可能性のある切り方をするはずはない、という推断であるかもしれず、他方では、目を通していたからこそ深く切れば苦痛で七転八倒するだけで容易には死ねるものでないと承知しながらも、三島は既に深く切ると決意していたが故に、介錯を用意したのだ、という推断であるかもしれない。しかしその場合、三島はなぜ深く切ると決意したのか、という疑問あるいは謎は、四方八方に跳ね返り反響し、収拾に大いに手を焼かざるを得なくなるのは目に見えているのだが。

実際、三島は、関心ある主題の書物については小まめに目を通していたようである。「図書新聞」1971年1月1日号の記事「運命の完成のための一触」(田坂昂)には、田坂昂が1970年8月末に出した『三島由紀夫論』(風濤社)の「感想をかき記した丁寧な手紙(9月3日付)を貰った」とある。三島からの手紙の末尾には「私に残されたことは、あとはただ運命の完成のための一触しかありません」とあったという。「運命の完成のための一触」について思い巡らし、「うん、そうか、なるほど」は後思案に過ぎない。

あれは、ぼくが田坂さんにすぐ手紙を書いたくらい嬉しかった本です。
(「三島由紀夫 最後の言葉」、『決定版 三島由紀夫全集 第40巻』所収、769頁)
(「図書新聞」1971年1月1日号三面)
(注)「あれ」は田坂昂『三島由紀夫論』。「カセット」にこの箇所はない。

すでに「その一」の冒頭で、

『決定版 三島由紀夫全集 第40巻』の「三島由紀夫 最後の言葉」の取り扱いには最高度の注意を要する。

と書き、その理由を示す(注)も付けた。怪しい、と言えば、田坂昂のこの『三島由紀夫論』も三島の愛読書『葉隠』も見当たらない『定本 三島由紀夫書誌』の「蔵書目録」も怪しさいっぱいであるが、『決定版 三島由紀夫全集 第40巻』所収の「三島由紀夫 最後の言葉」には更に多量の胡散臭さといかがわしさが漂う。しかし、上記の「あれは、ぼくが……」の箇所は、三島が実際に口にしたのかもしれない、と思わせる内容である。

「切腹の美学」には更に興味深い記述が続くが、一点だけ紹介して、とりあえずこの件はこれくらいで片付けることにする。

矢切の記述。

そして私は自分の本を読み返してみた。

「葉隠」の読み違えを訂正し、切腹を美化し賛美するかのごとき「武士道」の虚妄をつき、

(屠腹は、とても一人では致死できえない。全治何週間かの手当で命拾いするか。さもなけば出血多量で死ぬ為にはのたうち廻る)

と、切腹のすすめではなく、その反対をかいたのを逆手にとられた感がする。

古来、切腹をする側が介錯人を同伴して行くなどという事は、作法にもなければ前例にもないからである。」(矢切止夫「切腹の美学」209頁)(句読点は原文のまま)

『切腹論考』所収の「切腹論考」には「屠腹は、とても一人では致死できえない。全治何週間かの手当で命拾いするか。さもなけば出血多量で死ぬ為にはのたうち廻る」に該当する箇所は見出せない。数箇所の記述をまとめたものと思われる。つまり矢切は「自分の本を読み返して」そこから引用しているわけではなく、「自分の本を思い起こして」記憶を頼りに書き綴ったということになる。

その数箇所を引用してみると、

「出血多量で死ぬ迄は七転八倒のひどい苦しみ方をするぞ。今ならば、腸を切ったかどうかぐらいだから縫合すれば助かる」(矢切止夫「切腹論考」8頁)

「二十五年前の夏には、阿南陸相を初め多くの軍人や宮城前では集団の男女が、歴史の嘘に騙されて切腹という苦しい死の中でのたうった。」(同書、29頁)

「腹を切っても容易に死ねるものではないから、阿南大将は拳銃を、宮城前の男女は、もがき苦しみ最後は手榴弾によって自分で自分らの腹切りの始末をつけねばならなかった。」(同書、29頁)

「逆手にとられた感がする」という矢切の思いは、1970年10月31日初版の『切腹論考』(取り分け書名にもなっている巻頭の論考「切腹論考」)に目を通した三島が、腹を切っても苦痛にのたうち廻るだけで、それだけでは容易には死ねるものではない、という矢切の指摘を目に留め、切腹全体の組み立てを改めて考え直したかもしれないということだ。切腹を己一人の手で完結するつもりなら、腹部の横一文字の傷は浅いものにとどめ、致命となる傷は頚動脈を切るか心臓を突くというものになる。介錯人が控えているとなれば、下腹部を思い切り深く刺し貫いた段階で意識を失おうと、激痛に身悶えしようと、数瞬後には介錯の太刀で首を落とされ、全てが終わる。

矢切の指摘に目を留めたことが、短刀をまず腹に突き刺すときの深さを慎重に検討する契機になったという可能性は残る。その反面、介錯役を引き連れて市谷に乗り込んだということは、短刀を突き刺す深さは慎重な配慮の対象ではなくなっていた、という可能性も示唆する。三島は既に、矢切の論考に目を通す前に介錯人を用意することを決めていたのであれば、「逆手にとられた感がする」という矢切の思いは思い過ごしということになろうし、決行の日が目前に迫ってから決めたのであれば、三島の決断に重大な影響を与えたどうかはともかく、多くのことを改めて考させる契機とはなったであろう。結局のところ、介錯人を用意することをいつの時点で三島が決断したのか、にかかる問題になる。

三島が「森田は介錯をさっぱりとやってくれ、余り苦しませるな」と言ったのは、11月3日、「小川は森田から介錯を依頼されて承諾した」のは11月10日のようである。(注一)

この箇所は「深く切るからきっと苦しむことになる。腹を切り終えたら、長い間苦しませるな。さっさと介錯してくれ」と読みたくなる。大過なき読み方であると思う。

真剣で巻き藁を切るくらいの下準備は不可欠であろうから、決行直前に介錯役を割り当てられるものではない。

結局のところ、矢切の論考が三島の行動計画にいかほどの影響を与えたのかを測るのは至難である。しかし、「逆手にとられた感がする」云々は、およそ矢切にしかなし得ない類の意表をついた極めて刺激的な指摘である。

虚実を大いに怪しんでしかるべき「その瞬間の証言」が事件直後の週刊誌には残されている。

午後零時十五分 再び総監室にとって返した三島は、やにわに上衣を脱ぎ、上半身裸となる。

益田氏「これは本当に死ぬ気だな、と瞬間感じました。しばられたまま『やめんか!命は大切にしろ!』と何度も叫んだ。しかし、三島さんは私の左側三メートルほどのところに坐ると、『ヤーッ』と大声をあげざま、短刀を腹に突き立てたのです。

間髪を入れず介しゃくの刃がひらめいたときの気持ちは、とても言葉には表わせない。……」
(「週間現代」1970年12月10日号、25頁)(下線は引用者)
(注)益田氏は当時、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地東部方面益田兼利(ましたかねとし)総監。

「『ヤーッ』と大声をあげざま、短刀を腹に突き立てた」の箇所は「短刀(の切っ先)を下腹部に当て、『ヤーッ』と大声をあげざま、上半身を前傾させた(上半身が前傾した。)」であることが必要であろう。「間髪を入れず介しゃくの刃がひらめいた」のでは、三島が4センチの深さに食い込んだ短刀を、殆どその深さのまま数ミリであれ十数ミリであれ右に引き回し、さらに「ヘソを中心に右へ5.5センチ、左へ8.5センチの切創」をつけるだけの時間的余裕はない。ここに引用されている証言そのものが雑なのか、証言記述者の表現が雑なのか、いずれにせよ全体的に極めて大雑把であることに変わりはない。東部方面益田兼利総監(当時)に加え、記述者もその周辺も切腹に格別の知識も関心も、加えて観察眼も想像力も、なかったということが明らかになる。

「間髪を入れず介しゃくの刃がひらめいた」のとは全く対照的な状況を伝える以下の記述は全体的に、そして取り分け下線部は眉につばをつけて読まねばならない。

カーキー色の隊服の前を開いて腹を出した。下にはなにも着けておらず、白いサラシの六尺ふんどし一本だけの上に、隊服をまとっていたのだった。

三島は短刀を引き抜くと静かに腹に当てた。そしてとても大きな声で「ヤーッ」と叫んで腹に短刀を突き立てた。この声は「ウォーッ」「ワーッ」という音響となって吹き抜けの方まで響いてきた。

一瞬、ブーッと血がほとばしり出て、短刀をにぎりしめた両手を赤く染めていく。三島は歯をくいしばり、懸命になって左から右へ向かってジワリ、ジワリと短刀をすべらせていく。血は文字通りドクドクと音をたててあふれ、ジュウたん(原文のママ)は血の海と化していった。約十三センチかき切った。古式の切腹作法にかなったものだった

(中略)

森田はもう一度刀をふりかぶった。ビュッと風を切って振りおろされた刃はこんどは三島の首を垂直に切り落としていた
(「週間実話」1970年12月14日号, 20---21頁)(下線は引用者)この記述の大部分は記述者の想像の産物、一部は『憂国』の切腹場面(注二)を借用であろう。

この記述の大部分は記述者の想像の産物、一部は『憂国』の切腹場面(注二)を借用であろう。

「腹に短刀を突き立てた」の箇所は、上記の「益田兼利氏の証言」の場合と同じく、「静かに腹に当てた短刀の刃先を、身体を前傾し、腹に食い込ませた」とあるべきところである。4センチの深さまで食い込んだ短刀をそのまま更に十数センチ右に引き回すのは至難というより不可能に近い。そのまま短刀を数ミリであれ十数ミリであれ右に引き回し、次いである程度短刀を引き抜いてから右に十数センチ引き回し終えるまで、十数秒か数十秒か、或いはそれ以上の時間経過があったはずである。短刀を右に引き回して出来た傷の大部分は浅いものであり、出血は極めて少なかったであろう。解剖所見や検視結果にあるように「深さ4センチの傷からは腸がはみ出し」たからには、飛び出した腸が傷を塞ぎ、結果的に、多量の出血を防ぐことになったと思われる。

三島の首を落としたのは、三島が激しく身悶えするため介錯にてこずった森田ではなく、古賀正義だった。(注三)

「古式の切腹作法にかなった」とあるが、いかなる文献に「古式の切腹作法」を、取り分け「自裁としての切腹」の作法を見出せるか。ましてや、下腹部にあてがった短刀を思い切って深く刺せ、という類の記述を残す指南書は存在しないはずである。三島が、新渡戸稲造の『武士道』に延々と引用されている滝善三郎の凄絶な割腹場面を読んでいる節もなく(注四)、14センチの切創の左端の傷が深さ4センチであることは「古式の切腹作法にかなった」というよりむしろ、およそ「切腹作法」とは無縁の腹の切り方であったと考えられる。三島の頭に生じていた「深さ4センチ」(「深く刺す」ということ)の出所は何処であったのか。敢えて苦痛に身もだえすることになる腹の切り方をしたのはなぜか。第二部以降に論じ、思いをめぐらすことになる難題である。

「古式の切腹作法にかなった」切り方はむしろ「浅く切れ」であろう。短刀の代わりに扇子や木刀で済ますことさえ出来たのであり、その場合、切ること自体が不要になる。

この週刊誌記事の筆者に「古式の切腹作法にかなった」と言わせているのは、舞台や映画で目にする切腹は「古式の切腹作法にかなった」ものであるという筆者氏の認識であり、従って筆者氏はむしろ「舞台や映画で目にする切腹作法にかなった」と語るべきであったろう。

映画、テレビドラマ、舞台などの切腹場面は、矢切止夫の指摘によれば、「見せ場」となるように都合よく作り上げられたものである。

腹を切るという動作は、一つずつ節がついて区切れるから、舞台のメリハリがきく。「おのれッ」とまず突きたて、それから、「無念」と横に動かして見得が切れる。

つまり「見せ場」という要素がとれるからして、あらゆる歌舞伎には、この腹切りが挿入された。
(矢切止夫「切腹論考」、『切腹論考』中央公論社、1970年10月31日初版所収、12--13頁)

こうした切腹が指し示す意味合いを矢切はある種論理的に整理している。

刑罰以外の切腹というのは明快にいえば、

「本来の自殺行為の目的の前に、抗議つまり自己主張がある」ということ。裏返せば、

「自己の言い分を通すために、附加的に己れの生命を放棄する」という、純粋自殺行為からはまったく離脱したものである
(同書、32頁)切腹という習俗の観点からはこの指摘は「自裁としても切腹」の急所を言い当てている。三島の切腹は紛れもなく「刑罰以外の切腹」であったし、その全体を見回すと、「『自己の言い分を通すために、附加的に己れの生命を放棄する』という、純粋自殺行為からはまったく離脱したもの」と見えて来ないでもない。そして「ハラキリは絶対に自殺ではない」(同書、32頁)とは三島の切腹のザッハリッヒな有り様を検討し続けるうちに、ますます強まってくる思いである。

では、「三島の切腹」は何であったのか。

既に述べたように、切腹について、取り分け「自裁としても切腹」について知るべきほどのことを知るものは、武士の時代においてさえ、極めて乏しかったのである。作法とてなかったであろうと言ってもいいほどである。

新渡戸稲造は Bushido, the Soul of Japan 中に九百余語に及ぶ大量の英文を、《正確無比以上に》正確無比に引用している。 アルジャーノン・バートラム・フリーマン=ミットフォードの『古き日本の物語』から備前藩士・滝善次郎の事細かに描写された切腹場面である。一字一句たりとも過ちのない驚嘆すべきほど正確無比の引用で、新渡戸稲造という人物の極めて几帳面な性格を垣間見る思いがする。引用している箇所の冒頭の一節では、文の途中から引用してあるため、原文では"we"だが新渡戸は" We (seven foreign representatives)" と補足している。原文 "misterious "を" "myterious"と修正している(注 bushido)参照。

しかし、 切腹についての極めて興味を惹かれると共に実に示唆的な多くの記述は新渡戸稲造の『武士道』に引用されている箇所ではなく、その箇所を一部とするTales of Old Japan(Algernon Bertram Freeman-Mitford)の補遺[APPENDICES]中の一章"AN ACCOUNT OF THE HARA-KIRI"(pp.329--364)に見られる詳細な記述である。

こうした点は、第二部以降の話である。

恐るべき几帳面さを垣間見せてくれる新渡戸の正確無比な引用と、よく言えば融通無碍、批判的に言えば不正確であることを歯牙にもかけぬ矢切止夫の適当な引用は、まさに天と地ほどの際立つ対照を呈する。それを今なら、国家の紙幣に肖像が載る程の押しも押されぬ偉人、教養人(注五)と世に知る人とて少ない奇矯な説を連発した異能作家という対照、と言うことも出来る。

以上の雑談(断じて道草ではない)を第二部(『武士道』(矢内原忠雄訳)対「切腹の美学」(矢切止夫))へのつなぎとして第一部を終わる。

 

(その四 了)

(第一部 了)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三島由紀夫の「切腹」 その"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を推理する (その三)

2020-09-07 21:38:53 | 日記

"ブックサーフィン"という愉楽――あるいは書淫
 

天皇との距離 三島由紀夫の場合』への助走
 

 

第一部

三島由紀夫の「切腹」  

その"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を推理する

 

その三

 

ウィキペディア「三島事件」によると、慶応義塾大学病院法医学解剖室において、三島の遺体は斎藤銀次郎教授が、森田の遺体は船尾忠孝教授が解剖執刀し、その検視によると、二人の死因は、腹部の切創ではなく、「頸部割創による離断」である。三島は割腹はしたが自裁したわけではなく、介錯によって命を絶たれたのである。

腹部の切創に関する所見(昭和45年11月26日)中の「右左」は執刀医の目線ではなく、遺体の「右左」のことである。

まず三島の切創に関する所見。

頸部は3回は切りかけており、7センチ、6センチ、4センチ、3センチの切り口がある。右肩に刀がはずれたと見られる11.5センチの切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はヘソを中心に右へ5.5センチ、左へ8.5センチの切創、深さ4センチ。左は小腸に達し、左から右へ真一文字。

一読、お粗末な日本語、幼稚な記述であり、全体に曖昧、一部意味不明であるにとどまらず、誤解を招きかねない記述である。これでは、三島の腹部の切創は「長さ(5.5+8.5=)14センチに渡って深さ4センチの切創」であったと理解されても、これを一概に誤読と片付けられそうもない。不分明きわまる記述が必然的に招きよせた誤解と評するしかない。そのような切創は、いくつかの根拠(短刀を右に引き回せる可能性や出血量など)をもとに、三島の傷のザッハリッヒな有り様とは乖離していると判断せざるを得ないにもかかわらず、である。「深さ4センチ。左は小腸に達し」の記述から「14センチの切創の左端の傷は小腸に達する深さ4センチの傷」を読み取ることは至難である。「左は小腸に達し、」は「じゃ、右はどうなってるんだ」という類の突っ込みを誘って止まぬ怪しさきわまる箇所でもある。「左アゴ下に小さな刃こぼれ」の「刃こぼれ」に至っては首をひねるしかない。原因は「所見」そのものにあるのか、ウィキペディア「三島事件」のこの箇所の執筆者にあるのかは、残念ながら不明である。

三島の腹部の切創についてひとまず整理すると次のようになる。

下腹部の傷は左から右へ真一文字。ヘソの左8.5センチの位置に深さ4センチの傷。そこから右に14センチの切創。左端の深さ4センチの傷は、短刀の刃幅(約2センチ)+aセンチの長さで小腸に達している。」

深さ4センチの傷の長さは、解剖段階で解剖執刀医の意思的な検証の対象となることはなかったため、今となっては種々の手がかりをもとに推測するほかはない。傷の深さが注視の対象となるには、切腹に関する相当の知見が不可欠であったが、そのような知見は今も存在しないが、当時も、明治の時代においても、さらに言えば、武士の時代においてさえ、存在しなかったと言っていい。

深さ4センチまで食い込んだ短刀をその深さのまま極限的激痛と内臓と脂肪の凄まじい抵抗もものかは右に引き回し続けて腹を14センチ掻っ捌くことのほぼ不可能性とは別に、「長さ(5.5+8.5=)14センチ」の切創の大半は浅い切創であろうという推測の客観的根拠となり得るのは、出血量である。その出血量を判断するための手がかりとなるのが、事件直後の現場映像(「週刊平凡」(12月10日号)の極めて鮮明なカラーグラビア、「週刊言論」(12月11日号、15頁)の小さな白黒写真、「週刊YOUNG LADY」(12月14日号)の極めて鮮明なカラーグラビア、「週刊サンケイ」(12月14日号)の見開き二頁の白黒グラビア、「週刊女性セブン」(12月16日号)の極めて鮮明なカラーグラビア、ASAHI EVENING NEWS(11月26日)三面と朝日新聞夕刊一面(11月25日)に掲載の写真)のうち、三種類の極めて鮮明なカラーグラビアに見て取れる総監室の床に残る血痕の位置である(注)image

「三島の首と首無し死体を写した写真が報道され、多くの人の眉をひそめさせた。しかし、この報道の刑事責任は問われない(刑法百九十条、二百三十条二項参照)。人道上の問題である。(丸山雅也)」(週刊読売1970年12月18日号、23頁)という事情であったから、「刑法上の問題」とはならず、当時は様々な映像が格別に規制されることも報道媒体が自主規制することもなく出回っていたはずだが、時代の変化もあり、現在では入手は容易ではない。なお「丸山雅也」は当時の著名弁護士である。

もし仮に切創が長さ14センチに渡って深さ4センチというものであったとすれば、大量の内臓が体外にこぼれ出るであろうし、出血量も恐るべき量になる。現場映像は、腹部からの出血は極めて少なかったことを示している(「週刊YOUNG LADY」(12月14日号)の極めて鮮明なカラーグラビア参照)。

猪瀬直樹は三島の傷口について以下のように述べているが、既に引用したウィキペディア「三島事件」の曖昧きわまる解剖所見とも異なる点があり、出典が示されていないこと、及び傷口のザッハリッヒな有り様を反映してはいないことから判断すると、猪瀬の述べる傷口は猪瀬の想像によるものと考えるほかない。「小腸が五十センチほど外に出る」は解剖所見に記載はないものの、深さ四センチ、長さ「短刀の刃幅(約2センチ)+aセンチ」の傷口からは体内の圧力によって腸が押し出されることはあったかもしれない。物理学的に説明可能な現象である。

傷口は臍の下四センチのところ、左から右へ十三センチの傷が深さ四、五センチにわたっており、小腸が五十センチほど外に出るほどの堂々とした切腹だった。介錯は一回で成功しなかった。一太刀は頚部から右肩にかけて、一太刀は顎にあたり大臼歯が砕けていた。相当な苦痛であろう、三島は舌を噛み切ろうとしている。つぎに自分が自決する、その森田に介錯させるのは無理があった。森田は古賀に代わってくれ、と言った、古賀は一太刀で介錯を終えた。
(『ペルソナ 三島由紀夫伝』文藝春秋、1995年、385頁)

解剖所見の「腹部はヘソを中心に右へ5.5センチ、左へ8.5センチの切創、深さ4センチ。左は小腸に達し、左から右へ真一文字」という箇所の読み方は既に示した。次のようなものだった。

「下腹部の傷は左から右へ真一文字。ヘソの左8.5センチの位置に深さ4センチの傷。そこから右に14センチの切創。左端の深さ4センチの傷は、短刀の刃幅(約2センチ)+aセンチの長さで小腸に達している。」

既にウィキペディア「三島事件」〔注釈12〕から以下の箇所を引用した。

1971年4月19日の第二回および同年6月21日の第六回公判記録によれば次のように記録されている。「右肩の傷は初太刀の失敗である。森田必勝は三島由紀夫が前に倒れると予想して打ち下ろしたが、三島が後ろに仰け反った為、手許が狂って肩を切った。次の太刀は、三島が額を床につけて悶えて動いている所を切らねばならないため首の位置が定まらす、床と首の位置が近いから床に刀が当たってなかなか切断できない。結果、森田に代わって古賀正義がもう一太刀振るった。

猪瀬が想像した三島の切創についての「堂々とした」という価値判断は、判断主体の知識・価値観・思想・信条・好悪等を如実に反映したものである。「五十センチほど外に出る」腸の《出口》は、解剖所見をもとに推測すれば、切創の左端の深さ4センチ、長さ「短刀の刃幅(約2センチ)+aセンチ」の傷口であろう(猪瀬によれば長さ十三センチ、深さは四、五センチの傷口ということになる)。「自裁としての切腹」である限り、更に言えば、西郷隆盛の場合のように《緊急避難的に》ではないにもかかわらず「(歴史上初めてであるかもしれない)介錯を恃みにするが、処罰ではなく自裁としての切腹」の場合でさえ、既に「その二」で述べたように、「美しい死顔には円滑な介錯が必要であることを、苦痛に喘ぐ暇もなき速やかな死が必要であること」を弁え、もし「美しい死顔」を望むのであれば、「小腸が50センチほど外に出るほど」深く短刀を下腹に食い込ませて腹を切り割くことは避けねばならないのであり、「小腸が50センチほど外に出るほどの」切腹は「堂々とした」どころか、切腹の何たるかを心得ぬまま腹を切らねばならぬ状況に身を置くこととなった切腹主体が、衝動に身を委ねて無用な深傷を自らに与えるに至った「無分別」にして、それゆえ「無様」であり、時には切腹主体を動転させることにさえなりかねない腹の切り方と見なして差し支えないであろう。「切腹」というどこか伝奇的習俗の呪術性に絡めとられ、語り伝えられている数々の虚実不明の英雄豪傑の凄絶な超人的切腹譚が刷り込まれていたせいであると言えるのかもしれず、行き当たりばったりの無体な腹の切り方というのは、要するに無知のなせる業以外のものではない、とこの段階では述べておく。

「舌を噛み切ろうとしていたとされる」という箇所については、意志的に「舌を噛み切ろう」としたのか、非意志的に「舌を噛み切ろう」としたのかの判断はつき難い。

三島の切創の不分明極まる解剖所見と比べると、以下の森田必勝の切創の解剖所見(ウィキペディア「三島事件」による)はまだしも明快、と言えないこともない。

第3頸椎と第4頸椎の中間を一刀のもとに切り落としている。腹部の傷は左から右に水平、ヘソの左7センチ、深さ4センチの傷、そこから右へ5.4センチの浅い切創、ヘソの右5センチに切創。右肩に0.5センチの小さな傷。

「ヘソの左7センチ、深さ4センチの傷」は「ヘソの左7センチの位置の傷は深さ4センチ」ということであろう。「そこ(深さ4センチの傷)から右へ5.4センチの浅い切創」に続く「ヘソの右5センチに切創」(「ヘソの右へ5センチの切創」ということであろう)が突如深い傷になろうはずもない。要するに、計10.4センチの切創は浅いものである。この所見も正直に言えばお世辞にも明快とは言えない。解剖執刀医は傷の有り様を正確な日本語で表現し切れていない。その原因の一つは多分に、「自裁としての切腹」と「処罰としての切腹」の違いについても、更には「切腹作法」についても無知であるがゆえに、切腹の傷については何を記述する必要があるのかを弁えていない、即ち切腹創の対象化ができていないということである。世界は見ようとしなければ見えないもので満ち溢れている。

おそらくこうであろう、という森田の切創の有り様を整理してみる。

「腹部の傷は左から右に水平、ヘソの左7センチの位置に深さ4センチの傷、その傷から右へ(ヘソ付近まで)長さ5.4センチの浅い切創、更にヘソの右へ長さ5センチの浅い切創。」

以下、ASAHI EVENING NEWS(1975.11.26)3面の記事[Mishima's Sword and Lieutenants ]中に見られる検視結果。

Tokyo police Wednesday night announced the results of their inspection of the bodies of Mishima and Morita. Mishima's belly had a 13-centimeter-long gash five cm deep from left to right made by a dagger. The intestines were found protruding from the cut. There were three cuts around his neck and one on the right shoulder made by Morita during decapitation. Morita had a 10-cm-long shallow gash in his belly and there was almost no bloodshed. His head was lopped off at a stroke.

警視庁は水曜日(25日)の夜、二人の遺体の検視結果を公表した。三島の下腹部には短刀による左から右へ長さ13センチ深さ5センチの傷があった。切り口から腸がとび出ていた(とび出ているのが見出された)。森田が介錯する際につけた傷が、首の周囲には三箇所、右肩には一箇所あった。森田の下腹部には長さ10センチの浅い切創があり、出血は殆どなかった。彼の首は一刀のもとに切り落とされた。(私訳)

検視担当者が誰であれ、切創の(現場での)検視結果について言えば、見立てが殆ど相違しそうもないのが長さと出血量であり、見落としようもないのが傷口から内臓がどの程度飛び出ているかである。反面、検視結果が、実際に、著しく相違しているのが、丁寧かつ慎重な検視なしでは正確な判断のつかない切創の深さであることを、手に入る数少ない資料からでさえ、確認できる。

問題は出血量である。森田の切創からは「出血は殆どなかった」。三島の切創からは「腸がとび出ていた」とあるが、出血量に関する記述の欠如は、言外に、記述に値するほどの出血量は認められなかった、と述べているに等しい。

"were found protruding"は、「(腸が)突き出ている」ことの認知に至る過程は、「よく見たら」あるいは「たまたま」のいずれが介在するにせよ、直線的ではなかったことを、一目瞭然で「突き出ている」ことが分かったわけではないらしいことを、腸が大量に溢れ出てはいなかったことを示唆している。

"protrude"は「(その形はどうあれ、突起状であると評せるようなのものが)突き出る、飛び出る」ということである。「長さ13センチ深さ5センチの傷」からは大量の内臓が「こぼれ出る、溢れ出る[spill out]」ことになろうし、見落とされることはありえず、必ず検視調書に記録されるであろう。

三島は「深さ五六寸、長さ七八寸」(「憂国」参照)に及ぶ割腹創のもたらす想像上の事態を描いている。

中尉がようやく右の脇腹まで引廻したとき、すでに刃はやや浅くなって、膏と血に辷る刀身をあらわしていたが、突然嘔吐に襲われた中尉は、かすれた叫びをあげた。嘔吐が激痛をさらに攪拌して、今まで固く締まっていた腹が急に波打ち、その傷口が大きくひらけて、あたかも傷口がせい一ぱい吐瀉するように、腸が弾け出て来たのである。腸は主の苦痛も知らぬげに、健康な、いやらしいほどいきいきとした姿で、嬉嬉として辷り出て股間にあふれた。
(河出書房新社『英霊の聲』所収「憂国」93頁)

ASAHI EVENING NEWS(1975.11.26)の同じ記事には二人の割腹創の所見が載っている。

Michioki Naito, a lecturer at Tokyo University's Medical Department who witnessed the inspection of the bodies, said Mishima's harakiri gash was deep and was in a straight line while Morita's was only a scratch. This showed the violence with which Mishima had disemboweled himself, Mr. Naito pointed out.

遺体検視に立ち会った東京大学医学部内藤道興講師によると、三島の割腹創は深く真一文字であったが、森田の切創はほんのかすり傷であった。三島は思い切り力を入れて腹を切ったことを示している、と内藤氏は指摘した。(私訳)

内藤道興氏の所見(「森田の切創はほんのかすり傷」)は「森田必勝の切創の解剖所見」(「ヘソの左7センチ、深さ4センチの傷」)とはかなり食い違うように思えるが、共通するのは、森田の切創は全体的に浅い、という点である。そのことから、森田の割腹創左端の「深さ4センチ」は、短刀が下腹部に「深さ4センチ」ほど食い込むとすぐ引き抜き、次いで浅く右に引き回した、と考えていいことが分かる。内藤道興氏の所見(「三島の割腹創は深く」「思い切り力を入れて腹を切った」)は、三島は短刀を深さ4センチにまで食い込ませた後、森田のように直ちに引き抜くことはなく、短刀をその深さのままある程度右に引き回した、と考えていいことを教えてくれる。森田の深さ4センチの傷はその長さを敢えて指摘するほどのものではなかったのとは対照的に、三島の深さ4センチの傷の長さは「短刀の刃幅(約2センチ)+aセンチ」というものであったと考えていいことを教えてくれるのである。

森田がさほど苦しまなかったこと、同じ深さ4センチでも、腸が飛び出ていたとは観察されていないこと、「ほんのかすり傷」という所見さえあること、これら全てを勘案すると、森田の深さ4センチの傷は、三島のものがともかく線と認めうるだけの長さがあったのとは異なり、点に近かったことを示している。点に等しい森田の傷は、そこから腸が飛び出るのに充分な大きさの出口となることはなかった。腸が飛び出るには、三島のように思い切り力を入れてさらに腹を切り割き、深さ4センチの傷口を幾分かでも切り広げねばならなかった。

所見に明示されていないのは、水平の傷がヘソを横切る位置のものか、ヘソの下方を通るものかという点だが、深さ4センチの傷口の存在は水平の切創は下腹部にあることを教えている。

一般的に、皮膚をかすめる程度の切創で済ませる場合や扇子腹(短刀の代わりに扇子を手に取り、何らかの合図をして介錯を待つ)の場合を別にすれば、ヘソを横切る位置で腹部を深さ10ミリから15ミリ程度真一文字に切り裂くという腹の切り方は現実的には成立し難いと考えられる。また、腹部にあてがった短刀の切っ先を、腕力で下腹部に突き刺そうとしたら、突き刺す深さを10ミリから15ミリ程度に微調整することなどほぼ不可能であり、腹部の筋肉が緊張して硬化し、突き刺さりにくいから更に腕に力を入れる、更に腹部の筋肉が硬化するといういたちごっこが生じるはずで、その結末は酷さ極まるものとなろう。そんな悲惨な情景しか私には想像できない。映画、テレビドラマ、舞台などの切腹場面は、矢切止夫の指摘によれば、「見せ場」となるような形に適当にでっち上げられたものである。

腹を切るという動作は、一つずつ節がついて区切れるから、舞台のメリハリがきく。『おのれッ』とまず突きたて、それから、『無念』と横に動かして見得が切れる。
つまり『見せ場』という要素がとれるからして、あらゆる歌舞伎には、この腹切りが挿入された。
(矢切止夫『切腹論考』所収の「切腹論考」、中央公論社1970年10月31日初版、12--13頁)

切っ先をあてがう位置がヘソの下方であるというのは、短刀を肉体に食い込ませるためには、上半身を傾け、短刀をいわば身体全体で肉体に食い込ませる必要があり、そのためにはヘソの下方である必要があるからだ。

突くものではない。力が倍いる。腹に押しあてて前のめりに身体で押すんだ。
(矢切、前掲書、7頁)

三島の割腹創を整理すると、およそ次のようであった。

「下腹部の傷は左から右へ真一文字。ヘソの左8.5センチの位置に深さ4センチの傷。そこから右に14センチの切創。左端の深さ4センチの傷は長さ「短刀の刃幅(約2センチ)+aセンチ」で、小腸に達している。」

既に示した映像(注)imageに見て取れる血痕から、深さ4センチの傷は下腹部に当てられた短刀の切っ先が下腹部に食い入ってできた傷で、次いで短刀を右に引き回して出来た傷は相対的に浅いものであろうと推測できる。「週刊YOUNG LADY」(12月14日号)の極めて鮮明なカラーグラビアは、腹部の切創からの出血は少ないこと、多量の出血は介錯後の首の落ちた胴体からのものであると判断できることを教えている。

ASAHI EVENING NEWS(1975.11.26)の三面に掲載の写真の左下には、二人の首が床に並べて置いてあるのを見ることが出来るが、白黒写真はあまりにも解像度が悪いため、どちらが三島の首であるのかさえ判別し難いほどで、ましてやその表情など確認の仕様もなく、切腹の"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を推し量る参考にはなりそうにない。

この白黒写真に添えられている説明文。

Yukio Mishima and Hissho Morita were decapitated by fellow members of their "Tate-no-Kai"(Shield Society) after they had committed hara-kiri. Their heads lie on the floor at left foreground in the office of Lt.Gen.Kanetoshi Mashita, director of the Ground Self-Defense Force's Eastern Army, at Ichigaya. In the traditional hara-kiri the person comitting suicide usually is decapitated to end his suffering from his disembowelment.

下線部のみ私訳を示しておく。

二人の首は陸上自衛隊市ケ谷駐屯地東部方面益田兼利総監室の床の上、写真手前左に置かれている。(私訳)

朝日新聞26日朝刊一面にも同一の写真が掲載されている。写真の説明は「三島らが割腹自殺したあとの東部方面総監室(25日午前零時半東京・市谷の自衛隊で)」とある。三島割腹の直後に撮影された写真で、遺体検視は30分後の25日午後一時に始まる。総監室に未だ首がある以上遺体もまだ総監室にあるはずだが、写真にはどうやら写っていない。あるいは暗い影の位置にあるため視認できないのかもしれない。

これらの低解像度の白黒写真は引用しない。三島由紀夫の「切腹」の"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を検討する上で、参考にはなりそうもないからである。

 

(その三 了)

(その四 に続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三島由紀夫の「切腹」 その"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を推理する (その二)

2020-08-31 15:10:08 | 日記

"ブックサーフィン"という愉楽――あるいは書淫

 天皇との距離 三島由紀夫の場合』への助走

 

第一部

三島由紀夫の「切腹」  

その"ザッハリッヒ[sachlich]"な有り様を推理する

 

その二

 

三島は切腹はしたものの、ザッハリッヒな観点からは、それは自裁でも自刃でも自殺でもなかった(注 1)。そして、三島は死を覚悟していたにせよ、己が手で己が命を絶つと固く決意してはいなかったと推測し得るし、従って、そう試みることも、恐らく、しなかった、あるいは、そうしようとしてもそうする余力は残っていなかった。

風に吹かれて行き当たった「解説/間羊太郎『切腹の作法』教えます」(「週刊ヤングレディ」、1970年12月14日、第49号、140--141頁)を読む。

切腹のやり方は、短刀を腹の左につきたて右にまわしてひきぬく。その長さは十五センチ、深さは一.五センチ、なぜなら脂肪層は三センチほどなので、あまり深くさすと腸にふれてしまい短刀が動かしにくくなるので……。
(「……。」は原文のまま。引用者による省略ではない)

切腹が、それを実行する当人の死に最終的に結び付くものならば(必ずしも直結はしない)、肝心なことがまだ述べられていない。この記述はまだ続かねばならず、実際、更に以下のような記述が続く。

腹だけを切って死ぬのは非常な苦痛をともなう。しかも一両日は死ねない。そこで、腹を切り終わると同時に、介錯人がいる時は首を落とし、そうでない場合は、自分で頚動脈を切り、それによって死ぬのである。(同上)(注8.15)

作法が重んじられたのは、刑罰としての切腹のときだ。(同上)

切腹にさいしては、検使、介錯、添介錯、小介錯が登場する。(同上)

戦後、精神異常者めいたのが何十人も腹を切って死のうとしたが、いずれも一日以上苦しんで死んでいる。首をおとされ、切腹による死亡は、今回の三島由紀夫がはじめてである。(同上)(注)8.15

「切腹による死亡は、今回の三島由紀夫がはじめて」なのは、刑罰としての切腹(介錯人が用意される)は1873年(明治6年)に廃止されているのであれば当然のことである。

女性向け週刊誌の記事だが、「自裁としての切腹」及び「刑罰としての切腹」について、概ね妥当な概略的記述がなされている。ただ、「短刀を腹の左につきたて右にまわしてひきぬく。その長さは十五センチ、深さは一.五センチ」という記述には《テクニカル》な問題点があることに、江戸時代の武士でさえ気付くものはわずかであろう(注)tech。また、「あまり深くさすと腸にふれてしまい短刀が動かしにくくなる」という箇所には、以下に述べるように医学的観点からの注釈が必要であろう。

今の時代はもちろん、武士の時代においてさえ、切腹について知るべきほどのことを知る人間(武士)はきわめて少数であったと考えられる。ましてや「自裁としての切腹」をそうあるべきように為し得る武士など。

当日(1970年11月25日)夕刊の見出し

「三島由紀夫が自衛隊に乱入 演説して割腹自殺」(朝日)

「三島由紀夫が割腹自決」(毎日)

「三島由紀夫、自衛隊(市谷東部総監部)で切腹」(読売)

26日の「赤旗」の見出し。  

「反共・ファッショ化を挑発――三島由紀夫らの自衛隊乱入 "改憲・治安出動"叫ぶ 楯の会会員と総監を監禁、割腹自殺」

「割腹自殺」も「割腹自決」も不適切な表現。読売の「切腹」は見出しに限れば適切な表現といえるが、無論まぐれ当たりでしかない。

三島の遺体の「解剖所見によれば、腹部(合理的な理由があって下腹部である)の「左から右に真一文字14センチの切創」についてはさておき、「深さ4センチ。左は小腸に達し」という傷があったとすると、このことから三島は自らの手で決着をつけるのではなく、介錯を恃んでいたことが窺える(上記「解説/間羊太郎『切腹の作法』教えます」の記述参照。更に以下の記述参照)。その腹の割き方は、割腹による《意志的な死》を目論んだ行為、即ち自裁としての切腹たりえないと言っていい。

 


解剖所見」(ウィキペディア「三島事件」より)

慶応義塾大学病院法医学解剖室において、三島の遺体は斎藤銀次郎教授が、森田の遺体は船尾忠孝教授が解剖執刀し、その検視によると、二人の死因は、腹部の切創ではなく、「頸部割創による離断」である。

頸部は3回は切りかけており、7センチ、6センチ、4センチ、3センチの切り口がある。右肩に刀がはずれたと見られる11.5センチの切創、左アゴ下に小さな刃こぼれ。腹部はヘソを中心に右へ5.5センチ、左へ8.5センチの切創、深さ4センチ。左は小腸に達し、左から右へ真一文字。

 


「刑罰としての切腹」には伝承的作法がある。しかし「自裁としての切腹」には伝承的作法さえないのだが、その目的が割腹による《意志的な死》である場合、その目的を完遂するために必要な《合理的な腹の切り方》というものは、これをも作法というとすれば作法は存在する。いずれの作法に照らしても「三島の切腹のザッハリッヒな"sachlich"(英"factual")有り様」は異様さが際立つ。

何ゆえに異様かといえば、

古来、切腹をする側が介錯人を同伴して行くなどという事は、作法にもなければ前例もないからである。
(矢切止夫、三島由紀夫追悼文「切腹の美学」『新評 臨時増刊 全巻 三島由紀夫大鑑』1971年1月25日発行、所収、209頁)
(注)矢切止夫 1914年12月22日~1987年4月28日

「介錯人」が用意されるのは「刑罰としての切腹」の場合であり、「検使、介錯、添介錯、小介錯」を用意するのは処罰する側であり、腹を切る側ではない。

次いで「深さ4センチ。左は小腸に達し」の意味合いを考える。

現在の法医学の臨床データでは、
「第一の動作つまり異物を皮膚下に突入させた時点に於て八十三例中八十例までは、喪心又は失神状態に陥るものである」とされている。
(矢切止夫『切腹論考』中央公論社、1970年10月31日初版所収「切腹論考」、10頁)

文句なしに面白くも刺激的、ときに痛快でさえある上に、11月25日以前にすでに三島の机の上にあったという証言もある10月31日初版発行のこの『切腹論考』については後述するが、よく言えば融通無碍、批判的に言えば大雑把で不正確な引用をためらわない矢切の記述だけでは心もとなく思えないでもない。

そこでウィキペディア「三島事件」の〔注釈12〕によると、

慶応義塾大学病院法医学解剖室教授・斎藤銀次郎(当時)による1970年11月26日の解剖所見の三島の切腹傷のように、ここまで腹部に深く短刀を突き刺した場合には腹部内臓に分布する血管迷走神経を刺戟して血管迷走神経反射を起し、血管の拡張により脳血流が保てなくなり失神に陥る。さらに瞬時に襲ってくる全身の痙攣と硬直により両脚が伸びきり、そのために上体は前のめりになるか後ろにのけぞってしまう。だから切腹する者の傍らに押さえ役を配しておかなければ到底介錯することはできないのである。

同じ〔注釈12〕には、

1971年4月19日の第二回および同年6月21日の第六回公判記録によれば次のように記録されている。「右肩の傷は初太刀の失敗である。森田必勝は三島由紀夫が前に倒れると予想して打ち下ろしたが、三島が後ろに仰け反った為、手許が狂って肩を切った。次の太刀は、三島が額を床につけて悶えて動いている所を切らねばならないため首の位置が定まらす、床と首の位置が近いから床に刀が当たってなかなか切断できない。結果、森田に代わって古賀正義がもう一太刀振るった。」

ここで述べられている三島のある種の七転八倒振りは、『憂国』の武山信二中尉の割腹場面(注)yukokuを想起させる。中でも注目すべき記述を二箇所指摘しておく。そしてこの二箇所については次のような伏線がある。即ち、「介錯がないから、深く切ろうと思う。」(『英霊の聲』河出書房新社所収「憂国」88頁)と「中尉としては、どんなことがあっても死に損なってはならない。そのためには見届けてくれる人がなくてはならぬ。」(同書、74頁)である。

腸は主の苦痛も知らぬげに、健康な、いやらしいほどいきいきとした姿で、嬉嬉として辷り出て股間にあふれた。(同書、93頁)

中尉は自分の血溜りの中に膝までつかり(同上)

これは自裁としての切腹ではなく、実質的に介錯の役を果たすのは若妻である。

割腹による《意志的な死》を自らの手で完結させるには、即ち自らの手で自らに止めを刺すのに必要な余力を残すためには、「深さは一.五センチ」(あるいは更に浅く)という条件は極力満たされねばならない。なぜかといえば、「あまり深くさすと腸にふれてしまい短刀が動かしにくくなるので」(「解説/間羊太郎『切腹の作法』教えます」)というよりむしろ、深く刺さったままの短刀を動かしにくいと意識し、ひとまず短刀を殆ど引き抜き、その上で右に浅く引き回して割腹をやり遂げたあと(割腹だけでは自裁は完結しない)、短刀の柄を床に押し当て、切っ先を喉頸にあるいは心臓に打ち込む、あるいは短刀を握って頚動脈を掻き切る、といった一連の意識的(あるいは無意識的)動作を行えるだけの余力を残すには、もはや手遅れでしかないのだが、時を遡って、自身の肉体の制御を困難にしかねないほどの深さまで短刀を下腹部に食い込ませないことにするしかないのである。

矢切止夫は、大正元年九月十五日付『国民新聞』に掲載された、乃木将軍の切腹にさいし行政検視に立ち会った当時の赤坂警察署本堂署長の《証言》を引用している。

二階八畳敷で夫人を左にして将軍は、まず上衣をぬきシャツのみとなって正座し、腹下左の横腹より軍刀を差し込み、やや斜め右に八寸切りさきグイと右へ廻し上げて居られた。……これは切腹の法則にあい実に見事なものだった。而して、返しを咽喉笛にあて、軍刀の柄を畳につき身体を前方に被ぶせ首筋を貫通、切先六寸が後の頭筋にで、やや俯伏になって居られた。
(「切腹論考」9頁)(「……」は原文のまま)

ウィキペディア「乃木希典」には以下のようにある。

警視庁警察医員として検視にあたった岩田凡平は、遺体の状況などについて詳細な報告書を残しているが、「検案ノ要領」の項目において、乃木と静子が自刃した状況につき、以下のように推測している。(注2)

乃木は、1912年(大正元年)9月13日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町(現・東京都港区赤坂八丁目)の自邸居室において、明治天皇の御真影の下に正座し、日本軍刀によって、まず、十文字に割腹し、妻・静子が自害する様子を見た後、軍刀の柄を膝下に立て、剣先を前頸部に当てて、気道、食道、総頸動静脈、迷走神経および第三頸椎左横突起を刺したままうつ伏せになり、即時に絶命した。

「切先六寸が後の頭筋にで」は「切先六寸が後頭筋に出」であろう。切尖六寸が後頭部から突き出ていたということのようである。乃木将軍は自裁としての切腹をやり遂げたことになる。そしてこんなところでも矢切の語りの縦横無尽ぶり(言いたい放題)は発揮される。十頁ほど先には、

乃木将軍のような意志の強い人は、出血多量による死をもって切腹という行為をなし得ても、普通はその真似はできず介錯といって背後から頚動脈を切断することによって、つまり首をはね落されて死なされているのである。(「切腹論考」20頁)

「軍刀で首筋を貫通、切尖六寸が後頭部から突き出ていた」(岩田凡平が推測したように、即死、であったろう)という『国民新聞』の記事を引用したのは矢切であるが、その舌の根も乾かぬうちに、今度は、乃木将軍の死因は「出血多量による死」と語るのである。この手の齟齬を矢次は歯牙にもかけぬようである。

本堂署長の《証言》中の「これは切腹の法則にあい」については、乃木将軍の腹の切り方の何処がどのように「切腹の法則にあっている」のか、本堂署長自身も認識できてはいないであろう。「八寸」切りさいたとあるが、深さについは触れず、必然的に出血量についてもふれていない。内臓が飛び出していた、というような記述もないのは、切創は内臓が飛び出すほど深いものではなかった、即ち浅かったことの裏返しである。「己の手で己に止めをさせるだけの余力を残すために、斜め右に浅く八寸切っている」という乃木の腹の切り方こそ、「自裁としての切腹」のいわばあるべきあり方なのだが、「自裁としての切腹」の法則など伝承されていない以上、これは「切腹の法則にあっている」という認識の成立する道理はないのである。

介錯(人)を恃む場合、短刀を過度に深く下腹部に食い込ませた結果、身体の動きを制御できず「上体は前のめりになるか後ろにのけぞってしまう」という事態が生じると、一刀のもとに首をはねるという円滑な介錯(従って速やかな死)は極めて成立しにくくなる。要するに、下腹部に当てた短刀の切っ先を、「喪心又は失神状態」あるいは「瞬時に襲ってくる全身の痙攣と硬直」を引き起こす可能性のある「深さ」(例えば三島の切創の左端のような深さ4センチ)まで食い込ませてはならないということになる。

YouTube(ユーチューブ)で見ることのできる9分9秒の動画"Yukio Mishima Speaking In English" の中で、三島は武士の美意識について語っている。出所不明の資料だが、登場する人物は三島であり語る声は三島のものであると信ずるにたる。

And in samurai tradition the sense of beauty was always connected with death. And for instance if you commit harakiri, samurai was requested to make up his face by powder or lipsticks in order to keep his face beautiful after his such a suffering death.

("Yukio Mishima Speaking In English"を聴く」)

武士の伝統では、美意識は常に死と結び付いていました。例えば切腹を行う場合、白粉や紅で化粧することは武士の嗜みでした。苦しんで死んだ後の死顔が美しいものであるように、です。(私訳)

三島は「香を用いることも」と付け加えることもできた。身分ある武士の中には、戦に臨み、死に臨み、薄化粧を含め身だしなみを整えることを武士の嗜みと心得る武士もいたであろう。

介錯が用意された切腹の場合、美しい死顔には円滑な介錯が必要であることを、苦痛に喘ぐ暇もなき速やかな死が必要であることを三島は意識していたであろうか。苦しみ、のた打ち回った挙句の死顔は見苦しいものとなりえても美しくあろう筈もない。

三島は己の想像力を手に、苦痛に喘ぐ武山中尉と闘っているように思える。その勝敗や如何。

中尉の顔は生きている人の顔ではなかった。目は凹み、肌は乾いて、あれほど美しかった頬や唇は、涸化した土いろになっていた。ただ重たげに刀を握った右手だけが、操人形のように浮薄に動き、自分の咽喉元に刃先をあてようとしていた。こうして麗子は、良人の最期のもっとも辛い、空虚な努力をまざまざと眺めた。血と膏に光った刃先が何度も咽喉を狙う。又外れる。もう力が十分でないのである。
(河出書房新社『英霊の聲』所収「憂国」94頁)

麗子は、かつてはあれほど美しかったが、いまや変わり果てた良人の身体の隈隈に、生前最後の夫婦の営みの折りにしたようには、接吻することはない。

 

凛々しい眉、閉ざされた目、秀でた鼻梁、きりりと結んだ美しい唇、……青い剃り跡の頬は灯を映して、なめらかに輝いていた。麗子はそのおのおのに、ついで太い首筋に、強い盛り上った肩に、二枚の楯を張り合わせたようなたくましい胸とその樺色の乳首に接吻した。胸の肉付きのよい両脇が濃い影を落としている腋窩には、毛の繁りに甘い暗鬱な匂いが立ち迷い、この匂いの甘さには何かしら青年の死の実感がこもっていた。(同書、.82--83頁)

 

(その二 了)

(その三 に続く)