微妙

散乱する言の葉

皇室メモ4(満州事変ほか)

2015年03月07日 16時17分54秒 | 皇室
「皇室」とするより「皇室関連」にした方がよいかもしれないが、とりあへず引き続きメモ。

天皇陛下のご感想(新年に当たり):平成27年 - 宮内庁

平成27年
英文

昨年は大雪や大雨,さらに御嶽山の噴火による災害で多くの人命が失われ,家族や住む家をなくした人々の気持ちを察しています。

また,東日本大震災からは4度目の冬になり,放射能汚染により,かつて住んだ土地に戻れずにいる人々や仮設住宅で厳しい冬を過ごす人々もいまだ多いことも案じられます。昨今の状況を思う時,それぞれの地域で人々が防災に関心を寄せ,地域を守っていくことが,いかに重要かということを感じています。

本年は終戦から70年という節目の年に当たります。多くの人々が亡くなった戦争でした。各戦場で亡くなった人々,広島,長崎の原爆,東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした。この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています。

この1年が,我が国の人々,そして世界の人々にとり,幸せな年となることを心より祈ります。

満州事変に触れた天皇陛下の年頭のご感想について

「満州事変」又は「満州事変に始まるこの戦争」といふ天皇陛下のお言葉に関し、また満州事変や「この戦争」自体に様々な見解があるわけだが、「昭和天皇と満州事変」に絞つて考へてみると、昭和天皇が仰せになつた「旧軍部の悪いところ」、「旧軍の悪いこと」(※後半で詳述)に相当すると思はれる事象が含まれてゐることがあまり注目されてゐないやうに感じ、残念に思ふ。


Wikipediaが絶対に正しいといふわけではないが以下、参考資料。
柳条湖事件 – Wikipedia

本来、国境を越えての出兵は軍の統帥権を有する天皇の許可が必要だったはずだが、その規定は無視された[8]。

閣議でこの議論がなされていた午後3時半ころ、朝鮮軍より越境開始を知らせる参謀総長宛の電文が到着し、ただちに陸相より閣議に報告された[20]。林銑十郎司令官の命令による独断越境であった。一軍の司令官が天皇の命をまたず部隊を国外に動かすことは重大な軍令違反であり、陸軍刑法では死刑に相当した[19]。若槻首相や井上準之助蔵相は閣議の席上でおおいに憤慨した[20]。この話をあとで聞いた鈴木侍従長も「御裁可なしに軍隊を動かすことはけしからん」と怒ったという[20]。午後6時、金谷参謀総長は、単独の帷幄上奏によって、朝鮮軍独断越境について天皇の裁可を得ようとして参内したが、それには事前に首相の承認を必要とするとの奈良武次侍従武官長、鈴木侍従長らの助言、および、同様の趣旨からの永田鉄山ら軍事課の反対により、これを断念、独断越境についての報告と陳謝をおこなった[20]。その夜、杉山陸軍次官が若槻首相を訪ね、独断越境について閣議で承認する旨を今晩中に天皇に奏上してほしいと頼んだが、若槻はこれを断った[20]。

9月22日午前9時半、若槻が参内した際、昭和天皇より、政府の事変不拡大方針は至極妥当と思うので、その趣旨を徹底するよう努力せよとの言葉をかけられている[20]。

満州事変 – Wikipedia

24日の閣議では「此上事変を拡大せしめざることに極力努むるの方針」を決した。林銑十郎は大命(宣戦の詔勅)を待たずに行動したことから、独断越境司令官などと呼ばれた

これ以降、関東軍は満州問題について専行して国策を決定し実行するようになった(陸軍戦闘教義における独断専行および文民統制問題)

さらに事件の日本人関与の事実を把握すると、12月27日通牒の記事差止命令に「張作霖の爆死と本邦人との間に何等かの関係あるか如く瑞摩せる事項」を入れて情報操作を強化した[22]。

この電話会談での不拡大路線の意志決定を幣原は駐日大使フォーブスに伝え、錦州までは進出しない旨を伝え、フォーブスはそれを本国にいるスティムソン国務長官に伝え、スティムソンは戦線不拡大を記者会見で伝える(スティムソン談話)。しかし金谷陸軍総長の抑制命令が届く前日に、石原莞爾ら関東軍は錦州攻撃を開始してしまう。スティムソンはこれに激怒する一方、関東軍も、軍事作戦の漏洩に激怒する[注釈 18]。

統帥権 - Wikipedia

昭和6年(1931)9月|満州事変:日本のあゆみ 国立公文書館

時事ドットコム:終戦特集・太平洋戦争関係年表

柳条湖事件 (満州事変勃発) / クリック 20世紀

満州事変 | ニューワイド学習百科事典 | 学研キッズネット

自虐年表/左派と右派の歴史認識比較年表 【賢者の説得力】

満州事変

満州事変(柳条湖事件)は侵略ではありません – Yahoo!知恵袋

Amazon.co.jp: 天皇陛下と語る (1982年): 細川 隆元: 本

75頁
 天皇はおもむろにお言葉をのべられた。それは、
「(略)開戦以来、軍のいう所と実際との間にしばしば食い違いがあった。現に軍は本土決戦などというけれども九十九里浜の防備さえできていないではないか」
 天皇はご気分が悪そうで、いまにも倒れそうだったという。
(※昭和20年8月9日深夜の第一回御前会議での昭和天皇のお言葉)

83~84頁
 それは、昭和四十八年、田中角栄内閣の防衛長官・増原恵吉氏が参内して、人事異動の内奏のあとで、当面の防衛問題だった四次防や近隣諸国の軍事力などについてご進講申し上げたときに、陛下から、
「わが国の自衛力は近隣諸国に比べ大きいとは思わないが、国会や新聞などでは大きなものをつくているとも書いている。国の守りは大事なので、どうか旧軍部の悪いところは見習わず、よいところを取り入れてしっかりやってほしい」
 との激励のお言葉があったというのである。
 感激した増原長官が、そのあとの記者会見で陛下のお言葉をそのまましゃべったのがえらい問題になってしまった。要するに、増原長官は陛下のお言葉を政治的に利用したというわけで、とうとう引責辞職というところに追い込まれてしまった。

増原内奏問題 - Wikipedia

増原内奏問題(ますはらないそうもんだい)は増原内奏問題1973年年5月に起こった政治問題。

経緯


1973年5月26日、増原惠吉防衛庁長官は昭和天皇に「当面の防衛問題」について内奏したとき、昭和天皇は、「近隣諸国に比べ自衛力がそんなに大きいとは思えない。国会でなぜ問題になっているのか」と述べた。増原は、「おおせの通りです。わが国は専守防衛で野党に批判されるようなものではありません」と述べると、昭和天皇は、「防衛問題は難しいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いことは真似せず、よいところは取り入れてしっかりやってほしい」と述べた[1]。

増原はこの内奏を新聞記者に紹介した上で、「防衛関連法案の審議を前に勇気づけられた」と話した。しかし、現役閣僚が天皇の政治的言葉を紹介したことが5月28日に新聞記事に掲載され、「天皇の政治利用である」との批判をうけて政治問題化した[1]。

問題が皇室に及ぶことを回避するため、5月29日に増原は防衛庁長官を辞任した[1]。

増原惠吉 - Wikipedia

特に防衛庁長官は、佐藤栄作内閣時代と田中角栄内閣時代の二度に渡り就任したが、それぞれ全日空機雫石衝突事故増原内奏問題で短期間で引責辞任に追い込まれた[1]。

全文表示 | 亀井氏が天皇陛下との会話漏らす 過去には辞任した閣僚も : J-CASTニュース


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