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日本会議福岡

「誇りある国づくり」へ、発言し行動します

3・7武道館大会に参加して(武道館大会参加記)

2006年03月12日 | 近況報告

 千鳥ヶ淵戦没者墓苑を出た私たちは代官町通を抜け、かつて近衛師団司令部であった現国立近代美術館工芸館前を通り、北白川宮能久親王銅像を拝し、北の丸公園を通って武道館に達した。
 菅原副会長、山本理事長、小菅副理事長、そして武道館で合流した塚田副理事長はAゲートから、他はDゲートから入場した。

 「皇室の伝統を守る一万人大会」は15時から始まった。北は北海道から南は沖縄まで全国47都道府県から参加者が集まっていることが紹介された。平日の昼間ながら1階のアリーナをはじめ2・3階席までほぼ満員であった。

 主催者を代表して、三好達・元最高裁判所長官より挨拶があった。三好氏は、終戦の詔勅の中で昭和天皇は「朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ」とお述べになり、陛下は国民に深い信頼を寄せられ、国民も陛下の御心にお応えし、今日の日本を築いてきた。しかし現在の皇室典範の改正は、陛下や皇族の方々のご意見も伺わずに皇位の継承を永遠に変えようとするものであり、国民の手で勝手に進めることなど許されないことだと厳しく批判された。

 続いて各界からの提言があった。まず京都大学教授の中西輝政氏から「皇室典範に関する有識者会議」の結論には3つの瑕疵(かし)-欠点-があると述べられた。一つは初めに結論ありき。二つ目は第一子優先。三つ目は女系天皇の導入。これらがもし実行されれば、神武天皇に繋がる現在の皇統譜や、神武天皇から更に神話まで繋がっている一つの家系、そしてそこからもたらされる権威がなくなってしまうと指摘された。こういう改正は日本の国柄を革命的に変更するもので断じて許されないと締め括られた。

 ジャーナリストの櫻井よし子氏は、まず「有識者会議のあり方は民主主義に悖る」と批難された。有識者会議の結論が17回30数時間の短時間もさることながら、6回や3回も欠席した委員、時には20分で中座した委員など、日本の国柄の根幹に関わる国家の重大事を審議する重要な会合にこのような不真面目な態度は許されないと強く批判された。嘗て昭和天皇は四人続けて内親王様が御誕生になった時、当時の元老であった西園寺公望氏に「養子は取れぬのか?」とご下問になったエピソードを紹介された。昭和天皇でさえ親王様がお生まれにならないからといって皇位の継承を内親王様に継承させることをお考えなさろうとはされなかった。皇位継承とはそれほど重大な事柄であると語られた。

 来賓挨拶は、自由民主党を代表して島村宜伸衆議院議員、民主党を代表して中井洽衆議院議員、最後に日本会議国会議員懇談会会長の平沼赳夫衆議院議員から行なわれた。平沼氏は、有識者会議の委員の中には皇室の歴史や法律に通じている方は僅か2人、また「どうして自分が選ばれたか分からない」という委員がいるなど、有識者会議の人選に疑問を呈された。そして男系による万世一系は「世界の宝」であり、これを絶対に守り続けなければならないと決意を述べられた。

 このあと出席議員のお名前が披露された。国会議員本人の出席は86名、代理出席は78名、合計164名であった。また拙速な皇室典範改正の国会提出に反対する議員の署名が225名に達したことが電光掲示板で紹介された。そして主催者よりこの日の参加者数が「10,300人」と発表されると、場内は喜びで大きな拍手に包まれた。  

 この後、各界を代表して5名の方から意見表明が行なわれた。
 最初に登壇された元インド駐日大使・現慶應義塾大学教授のアフターブ・セット氏は、わが国の歴史に触れられ、我が国の基礎は聖徳太子の時に築かれたこと、また日本の民主主議的な伝統は十七条憲法を基盤にしていることを語られた。そして日本はこれまで賢明な皇族に導かれ、国民は意見の一致に努力しながら、今日まで国づくりに努めて来たことを紹介された。

 続いて台湾総統府国策顧問の金美麗氏は、61年前の敗戦よりも今度の皇室典範改正のほうが国家的危機であると述べられた。何故なら敗戦の時は神風が吹かなかったが、今度は神風が吹いた。紀子妃殿下の御懐妊である。世界には神話を持たない国や歴史の短い国が数多くある中で、日本は神話を持ち、2600年以上の歴史を持っている稀有な国である。しかもその中心には皇室があり、皇室は日本の宝である。皇室の伝統や日本の歴史を大切にすることが重要だと述べられた。

 次に著書『天皇陛下の経済学』で有名なヘブライ大学教授のベン・アミ・シロニー氏は来日できなかったので、大会に寄せられたメッセージが朗読された。シロニー氏は、冒頭に皇室の伝統が廃絶されれば世界的な損失であると指摘された。男系による皇統継承は、ローマ教皇が男性に限定されていることやチベット仏教の最高指導者のダライ・ラマが男性で続いてきたこと、更にはヨダヤ教の祭司は三千年に亙り父から息子へ継承されている事実を挙げられ、皇室の伝統に対する理解を示されると共に、伝統継承の維持を訴えられた。

 次に外交評論家の加瀬英明氏は、まず有識者会議には「皇室を敬う念」のないことを指摘された。有識者会議の「女系天皇の容認」の「容認」という言葉は、国民が皇室の上にいる感覚であり「不遜だ」と厳しく叱責。更に皇室問題は政治の問題ではなく文化の問題であり、歴史・文化問題を扱わずに議論した今回の審議会のあり方を批判された。そしてこの日上梓された三笠宮寛仁殿下の『皇室と日本人』のエピソードを紹介された。殿下は、この時期にこの本を出すことが政治的発言にならないかと慎重であられたが、法曹界を代表する方の意見を聴取されて許可されたことを語られた。

 最後に若手を代表して、ノンフィクション作家の関岡英之氏より、子供たちは日本の建国も初代の神武天皇も全く知らない。しかし神話や日本の国の誕生、歴代の天皇様のことを語ると目を輝かせて聞き入る。日本の国の歴史、天皇様のことを知りたがっている。今の学校教育が教えないのであれば、親が教えなければならないと語られた。

 この後、日本大学教授の百地章氏より大会決議文が朗読され、決議文は自民党の下村博文衆議院議員、民主党の松原仁衆議院議員に手渡された。下村氏、松原氏からは、それぞれ皇室典範の本来あるべき改正へ向けて努力していく旨が語られた。

 最後に、前拓殖大学総長の小田村四郎氏の先導により、皇室の弥栄を祈念して高らかに聖寿万歳が三唱され、二時間に亙った「皇室の伝統を守る一万人大会」は盛会裡に終了した。

 今大会は、主催者はじめ国会議員や何人もの登壇者から大会の盛会さに感動の賛辞が寄せられた。また、我が国の2600年以上続いた皇室の伝統を護持することなくして日本の将来はないとの正鵠を射た言葉と登壇者の決意が語られた、質の高い大会であった。しかし今大会の一番の成果は、この大会が「皇室の伝統を守る国民の会」の設立大会であったことと、この大会を機に皇室制度を検討する「国会議員の会」の設立が進められていくことが決定したことであろう。大会決議に

 《皇位継承問題をはじめ、宮家の存続や拡充、皇族方の教育制度、皇室に課せられる相続税をはじめとする皇室経済の問題、皇室関係法規の不備など、皇室制度にかかわる解決すべき課題は山積している。これらの諸問題を抜本的に検討し、万世一系の皇室を磐石ならしめることこそ、いま国民に課せられた責務である》

と示されたように、私たち国民は戦後60年放置されてきた皇室制度に関わる様々な課題を解決していく責務が残されている。この大会を機に民間及び国会議員がその決意を新たにしたのである。世界に誇る皇室の伝統を守るために、ここに大きな第一歩が踏み出されたことを実感した。  (明)


3・7武道館大会に参加して(千鳥ヶ淵戦没者墓苑訪問記)

2006年03月11日 | 近況報告

 パール博士の顕彰碑見学の後、私たちは遊就館内の食堂に入った。菅原副会長(陸軍士官学校第57期卒)お奨めの海軍カレーを食した。説明書によれば、当カレーは明治41年の海軍割烹術参考書のレシピに基づいて丁寧に復元されたものであるとの由。食には事欠かない現代にあってもその美味な味わいには驚いた。

  食後は、遊就館の書籍販売コーナーに立ち寄った。館内の雰囲気は明るく、書籍コーナーには良書が多く並べられ、人の賑わいもあり、嘗ての遊就館には見られない柔らかさであった。国民が体験してきた真実の歴史に触れる場が少なくなっている今、参観者が遊就館を通して英霊の方々の言葉や真情に触れ、また書籍を通して真実の歴史の世界に触れることができるなら有り難いことである。遊就館が現在及び後世に生きる日本人と、英霊及び日本の真実の歴史とを結ぶ架け橋になることを願って止まない。

  この後、私たち一行(菅原副会長と金澤常任理事を除く五名)は千鳥ヶ淵戦没者墓苑に向かった。靖國神社から内堀通、鍋割坂を経て東門より墓苑に入った。多数の参拝客が次々と訪れる靖國神社とは異なり、楠や欅などが鬱蒼と生い茂り、参拝者を殆ど見かけない閑静な墓苑であった。

  墓苑の中の説明板には、先の大戦における海外主要戦域別戦没者数(昭和12年7月7日以降、軍人軍属及び一般邦人の数)一覧表が掲示されていた。
  総数 2,400,000人
   フィリピン                 518,000人
  中国本土                  465,700人
  中部太平洋                 247,000人
  東部ニューギニア、ビスマーク・ソロモン諸島 246,300人
  中国東北地区(旧満州)           245,400人
  沖縄                    186,500人
  インド・ミャンマー(旧ビルマ)              167,000人
  パプア州(旧西イリアン)           53,000人
  ロシア及び旧ソ連新独立国家諸国(旧ソ連本土) 52,700人
  台湾                      41,900人
  北朝鮮                     34,600人
  インドネシア                  25,400人
  樺太・千島・アリューシャン列島                24,400人
  タイ・マレーシア・シンガポール         21,000人
  硫黄島                         20,100人
  韓国                         18,900人
  ボルネオ島                        18,000人
  ベトナム・ラオス・カンボジア(旧仏印)       12,400人
  モンゴル                           1,700人

 戦没者240万人のうち、軍人・軍属の方々が210万人、戦火で亡くなられた一般邦人が30万人と言われている。現在我が国の防衛の任務に就かれている陸海空自衛隊の方々は約24万人。一概に比較はできないが、その数字と比べるとき如何に多くの方々が国の御楯となって大東亜戦争で亡くなられたか、言葉に尽くせないものがある。

 昨年8月15日日本武道館で開催された「全国戦没者追悼式」には、昭和38年の開催以来初めて戦没者の両親の世代の参列がなかったと言われている。戦没者の両親や妻の方々が激減している現在、遺族の方々にとっても世代を経るごとに戦没者の方々が遠くなっていくことは否めない。しかし先の戦争が国家の総力を尽くし、国民挙げての戦いであったことを思えば、家族の方々だけでなく国民全体が遺族に他ならない。家族や亡くなった方を慕う遺族の気持ちを胸に、国民全てがいつまでも変わりなく戦没者に対して追悼の誠を捧げていかなければと思う。
 この後、多数の供花がそえられた正面奥の六角堂にお参りし、戦没者の方々のご冥福をお祈りした。

 参拝の後、昭和35年3月28日に竣工された昭和天皇の御製碑
  國のため命ささげし人々のことを思へば胸せまりくる
 昨年9月27日に竣工された今上天皇の御製碑
  戦なき世を歩みきて思ひ出ずかの難き日々を生きし人々
を拝誦し、陛下の御心をお偲びしつつ、千鳥ヶ淵戦没者墓苑を後にした。  (勝)


3・7武道館大会に参加して(靖國神社訪問記)

2006年03月10日 | 近況報告

 3月7日(火)15時から東京の武道館で開催される「皇室の伝統を守る一万人大会」に参加した。日本会議福岡の近況報告として武道館大会への参加を3人のリレーで紹介したい。

 日本会議福岡からは、武道館大会に一行6名(菅原副会長、山本理事長、小菅副理事長、金澤常任理事、梶栗事務局長、小野事務局員)と塚田副理事長(武道館で合流)、私(吉村)が参列した。私たち以外にも本会の役員や会員の方々も参加しておられるので、最終的には20名前後であったと思う。私は所用で先に上京していたので、一行6名の方々とは11時35分に靖國神社で合流した。

  これ迄靖國神社には十幾度訪問したことがあった。大鳥居(第一の鳥居)から青銅大鳥居(第二の鳥居)、神門をくぐり、拝殿前で二拝二拍手一拝をし、英霊の御霊への感謝を捧げ、皇室の弥栄と日本国の安泰を祈念して靖國神社を後にしていた。時々遊就館には寄るもののいつも参道を直線的に往復する参拝であった。

  今回は陸軍士官学校(第57期)を卒業された菅原副会長より境内のご案内を戴いた。
 最初に、「幕末の志士ゆかりの練兵館跡」地を紹介された。そこには石碑と標示板だけがあった。練兵館とは神道無念流練兵館のことであり、千葉周作(北辰一刀流)の玄武館、桃井春蔵(鏡新明智流)の士学館とともに『幕末三道場』と言われた道場である。天保9年(1898年)にこの地に移ってより約30年間隆盛を誇った。その間、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)、品川弥二郎など幕末の志士が多数入門し、厳しい稽古に励んだと言われている。歴史の一齣を教えて戴いた。

  続いて大手水舎で手を洗い、口を漱ぎ、拝殿で参拝した。
 次に拝殿・本殿を右手にしながら「守護憲兵之碑」や旧軍の方々によって献納されている献木などを見て回った。拝殿や本殿の周囲をまわれるとは全く不知であった。「守護憲兵之碑」の説明には「憲兵の任務は監軍護法に存したが、大東亜戦争中は更に占領地の行政には現地民族の独立指導に至誠を尽くした。又昭和二十年三月十日の東京大空襲の戦火が靖國の神域を襲うや神殿を挺身護持したのも憲兵であった」と記されていた。戦後の歴史では憲兵は悪者のイメージでしか伝えられてこなかったが、憲兵の役目も決して小さくはない。憲兵の任務と功績、誇りが記されたこの説明文はもっと多くの人に読まれてほしいものだと思った。

 この後、回遊式の日本庭園を訪れた。靖國神社の中に日本庭園があることを初めて知った。標示板には「靖國神社神池・庭園」と記され、明治時代を代表する名園と解説されていた。正面奥のほうには隠れ滝があり、清楚で美しい庭園だった。池には錦鯉が泳ぎ、風情豊かな景色に、皆で庭園の中を廻った。

 最後に遊就館へ回った。遊就館の前には、昨年(平成17年)6月25日に建立されたパール博士の顕彰碑があった。この顕彰碑は、今から9年前のインド独立50周年にあたる平成9年11月20日に京都霊山護国神社の境内にも建立されている。いずれも陸軍士官学校出身の有志の方々(同台経済懇話会)の努力が大きく、日本国家の恩人であるパール博士の碑の建立はまことに意義深い。碑にはパール博士の次の文が刻まれていた。

  《時が熱狂と偏見とを
   やわらげた暁には 
   また理性が虚偽から 
   その仮面を剥ぎとった暁には 
   その時こそ正義の女神は   
   その秤を平衡に保ちながら 
   過去の賞罰の多くに     
   そのところを変えることを 
   要求するであろう》

 東京裁判における連合国11ヶ国の中でパール博士は唯一の国際法専門の判事であり、昭和21年5月の開廷から23年11月の閉廷まで膨大な史料の調査と分析に従事され、当時の国際法に照らして我が国被告の全員の「無罪判決」を下された。今や博士のこの裁定はや国際法学界の定説と言われており、独り我が国だけが連合国の復讐と虚偽、偏見等に塗れた東京裁判史観に拘束されている。パール博士の記念碑が靖國神社に建立されたことは、アジア解放のために尽くした英霊の方々が祀られた聖地であるだけに天界の博士も喜んでおられることと思われる。しかしその反面、戦後60年を超えながらもなお東京裁判史観から抜け出せない戦後の日本政府及び国民に対し、一日も早く覚醒せよと檄を飛ばされているのではないだろうか。

 博士は、昭和25年10月に二回目の来日をされた時、次のような言葉を残された。

《戦争が犯罪であるというなら、いま朝鮮で戦っている将軍をはじめ、トルーマン、スターリン、李承晩、金日成、毛沢東にいたるまで、戦争犯罪人として裁くべきである。戦争が犯罪でないというなら、なぜ日本とドイツの指導者のみを裁いたのか。勝ったがゆえに正義で、負けたがゆえに罪悪であるというなら、もはやそこには正義も法律も真理もない。力による暴力の優劣だけがすべてを決定する社会に、信頼も平和もあろう筈がない。われわれは何よりもまず、この失われた「法の真理」を奪い返さねばならぬ。

《日本は独立したといっているが、これは独立でも何でもない。しいて独立という言葉を使いたければ、半独立といったらいい。いまだにアメリカから与えられた憲法のもとで、日米安保条約に依存し、東京裁判史観という歪められた自虐史観や、アメリカナイズされたものの見方や考え方が少しも直っていない。日本人よ、日本に帰れ!と私は言いたい。

 博士のこれらの言葉は肝に銘じておきたい。

 靖國神社は、私たち日本人にとって我が国のために尊い生命を捧げられた英霊の方々に感謝の誠を捧げる場であるとともに、英霊の方々を顕彰慰霊していくべき聖地である。英霊の方々の生き方や歴史を学びながら、誇りある日本の歴史を後世に正しく語り継いでいかなければと思っている。  (恭)