西弘次 『子どもにツケをまわさない!』自由を求める一市民として再出発

ミーゼス・ハイエクに連なる古典的自由主義の社会を目指して活動をしています。

「宇都宮セミナー」という母校が消える寂しさ

2009年03月23日 | 政治ネタ
今日は宇都宮市の「都市・地域交通戦略策定協議会」を朝から傍聴してきました。
問題だらけの進行と内容で、参加者からもブーイングだらけです。
詳しくは明日以降に改めて書きます。


帰宅後は自宅で5月に開催する「自治体財政研究会in丸の内」
「環境会計研究会in大崎市田尻町」のチラシの最終校正作業でした。
関係者と何度となく校正を繰り返し、先ほどようやく終了。
明日には印刷に出せる状態にこぎ着けました。
やっと参加申込書の作成作業に取りかかれます。

今回の財政研は和光市の松本武洋市議の市長選挙出馬を受けて、
松本さんが受け持っていてくれた財政分析の2コマが、
新たな講師と内容にリニューアル。
納税者保護誓約書サインナーでもある高井章博さんが担当して下さいます。

環境研については数日後に改めてご案内いたします。
なかなか楽しい内容となるはずです!
乞うご期待!


さて、昨日の地元紙に載っていたのですが、
我が母校の「宇都宮セミナー」という老舗の地元予備校が廃校です。
大学進学が中心でしたが、当時は高校進学にも力を入れていました。
2006年には休校となっていたので覚悟はしていましたが、
無くなってしまうというのは本当に寂しいですね。

私の場合、中学を卒業した時点で1年間浪人生活を送りました。
今でも少ないですが、当時は中学浪人というのは本当に珍しかったのです。
栃木県内で中学浪人受け入れる予備校は宇都宮セミナーともう一つだけ。
生徒数は合わせても50名くらいだったでしょうか。

大学は行きたかったけど、高校には行きたくなかった私としては、
第一志望がダメなら「大検」か「浪人」をするという覚悟で…
今思うと若気の至りで…1校しか受験しませんでした。
受験は見事失敗した上に、当時の大検はかなりの難関(今より相当厳しい)で、
結局は「浪人」という選択肢しか私には残されていなかったのです…。

そこで我が家からも近く、実績のあった宇都宮セミナー高校進学部に入学。
普通の学校と同様に毎日朝から夕方まで授業に通います。
中学浪人というのは予想していたより遙かに厳しい道でした。
セミナーの規定で、服装は中学校の制服…。
中学校も自宅から近かったために、学校に通う後輩たちと同じ制服で私は反対方向に。
また、同級生は高校の制服で通学の中、私は中学校の制服で…。
多感な時期でしたから…
自分で選んだ道とはいえ、本当に毎日が辛かったです。
とは言いながらも、その辛い毎日の思いを共有できる仲間と出会え、
素晴らしい教育者の先生方とも出会え、ある意味貴重な1年となったのも事実。
この1年の経験が私の人生を大きく変える事になった第2の転換期です。
ちなみに第1の転換期は…暗くなるので言えません…。

1年間しっかり勉強すればよいものを、結構自由気ままに過ごした上に、
成績は随分伸びていたのですが、次の年の受験校が悪かった…。
ちょうど理系分野に力を入れる!という新設校が第一期生募集の年でした。
当時は天文分野に進もうと真剣に考えていた私は当然受験。
ところがその年だけは周囲(予備校や中学校の進路指導)の予想を覆す高レベルに。
逆に昨年受けた第一志望校は一気にレベルが下がって、
その新設校より唯一楽だった年と言われています。
2年連続の高校受験失敗で仕方なく滑り止めの私立高校に進学。
これが先日の日記でも書いた作新学院です。

作新学院は行って良かった!と今でも本当に思っている学校ですから
後悔は全くありません。

でも、中学浪人って、本当に大変なのはここからでした…。
高校の同級生も本来は1学年年下の人たちです。
作新学院は生徒数も多いから、中学の後輩も沢山居ました。
同じクラスにも隣のクラスにも…。
元の同級生は1学年上の2年生。
休み時間などに友人(元の同級生)とため口(当たり前ながら)で話していると、
別の先輩(実は同じ年)から生意気だと呼び出され、
ツッパリ系の同級生(実は一つ下)からは因縁を付けられ…
人生の中でこんなに喧嘩に明け暮れた時代は無かったです。
まあ暴力は嫌いなので、殴らず勝ちますが…(笑)
多分、一度も殴った事とかなかったはずです。

今ではその片鱗もありませんが、当時はほぼスポーツ万能で、
走るのも50メートル5秒台で陸上部並みだし、
握力が強くて、林檎も片手で潰せたし、
柔道の授業でも柔道部にも負けなかったしと
色々と伝説と強みがあったのですよ。
そのせいで目立って余計に絡まれたりしてましたけど…。

基本的には争いが嫌いな私ですから、それらに耐えて高校を卒業できたのも、
宇都宮セミナーでの1年があってこそでした。
もし浪人せずに高校に入って、もめ事が何度もあったりしたら、
きっと耐えられなくて途中で辞めちゃっていただろうね…。
大好きな部活と素晴らしい先生方との出会いがあったにしても…。

その位、私にとって重要な1年間を過ごした「宇都宮セミナー」です。
杉山先生、関口先生の楽しくも考え尽くされた授業は今でも思い出します。
先生方や同級生の皆は元気だろうか?
当時の仲間にも本当にしばらく会っていません。

一般的には「たかが予備校」かもしれませんが、
私にとっては人生を変えた「されど予備校」です。
母校が40年の歴史に幕を下ろしたのは、
時代の流れとはいえ、本当に寂しいことです。
寺尾理事長もお疲れ様でした。
そして本当にありがとうございました。

これからも一生、我が母校「宇都宮セミナー」を忘れることはありません。



以下、報道記事です。


■県内老舗予備校「宇都宮セミナー」が40年の歴史に幕
(3月22日 05:00 下野)

 県内の老舗予備校として知られた「宇都宮セミナー」(宇都宮市東宿郷一丁目、寺尾球司理事長)が今月廃校し、四十年の歴史に幕を閉じた。少子化、「大学全入時代」を迎え、生徒が確保できなくなったことが理由。学舎も既に取り壊され、受験生であふれかえったかつての面影はない。県によると、大学受験を目的とする県認可の予備校が廃校したのは初めて。

 浪人生を主体とした同セミナーは一九六七年、同市一条三丁目に開校。七〇年代後半にはJR宇都宮駅東口付近に七階建ての校舎を構えた。

 第二次ベビーブーム世代が受験期を迎えた九〇年代初頭は、茨城や福島からも生徒が集まり、ピーク時で九百人、講師陣は六十人に上ったという。

 しかし少子化に加えて、大手予備校が東北新幹線の大宮駅周辺に相次いで進出。生徒数はじりじりと減少し、二〇〇五年度は五十人を割り込んだ。〇六年度から募集を停止し、休校状態に。「浪人生が減少する中、これ以上の生徒数は確保できない」(寺尾理事長)と判断、二月県に廃校届けを提出し、今月認可された。

 寺尾理事長によると、宇都宮大の合格者は多い年で百二十人を超えたという。寺尾理事長は「経済的理由など家庭の事情で東京の予備校に通学できない生徒に対する一定の役割は果たせたと思う」と振り返る。

 受験勉強以外で登山や座禅といったセミナー独自のレクリエーションも人気があったという。旧馬頭町から通った大田原市、男性会社員(51)は「英語の有名講師も多かった。ファミリー的な予備校でしたが、廃校ですか。時代の流れですかね」と感慨深げに話した。
http://www.shimotsuke.co.jp/biz/economics/business/news/20090322/126577
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1 コメント

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懐かしのセミナー (太郎山)
2014-02-11 20:05:59
はじめまして。宇都宮セミナーOBの会社員(49)です。現在は転勤で名古屋に住んでいますが、帰省の度に駅東の校舎を懐かしく眺めておりました。

何時の間にか校舎がなくなり、検索したところ、こちらのブログにたどり着き廃校を知りました。

私は大学受験で二年も通ってしまいましたので想い出も多く、廃校を知った時は悲しかったですね。

大変失礼ですが、西浩次様は西フサミさんとご関係がおありですか?
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