
その感情は突然やってきた。
ポットを持ち上げ
お湯をコーヒーカップに注ぐ。
壁の鏡に自分が映ったらふいに
「いとおしい」という気持ちが
わいた。
自分に対してです。
「いとおしいのぉ」と独り言がでる。
←老人が使う広島弁。
あなたは頑張っているし
これまでも頑張って来たよね。
と、生まれて初めて自分を
ほめたくなった。
シンガーとしてはもちろん、
両親の娘として、某所職員として、
地域住人としても(ちょっとだけ)
頑張ってきたじゃないの。
肉体的にもメンタル的にも、
才能や資質についてもいつも、
全然、まったくもって自分を
許せなかった。
けれど結果的に幸せな自分が
ここにいるよねと肯定したくなった。
思えば自分を肯定できないがゆえに
いつも人間関係上のトラブルに
見舞われて来たのだろうね。
自己肯定感は何より大事だ。
摂食障害や自傷行為という
極端な自己肯定感欠如に
苦しむ子らに接したこともある。
「見聞きすることはすべて自分のこと」
でもある。
自己肯定感の欠如は幼少期に
周囲の大人に増長させられる
こともある。
“このままだとダメだ”
“このままだと将来苦労する”とか、
“大変なことになる”とか。
たびたび脅されてきた。
ピュアな私は
「このままの自分ではいけない」と
思って来た。
昨今「このままの自分で何が悪い?」
と半端なく自己肯定感が強い子が
時々いて、
むしろあたしは見習いたい。
自分を肯定できないから
いたずらに相手の「才能」「権威」
はたまた「チャンス」に敏感だ。
私にとっての「権威」は
独特な目線ですけど。
何故嫌われるのかずっと
分からなかった。
「私があなたを嫌ったか?」と
自問自答してきた。
けして私から嫌ってはいない。
けれど内心では「立ち位置」を
争っていた。
その闘争本能が伝わるのでしょう。
「自分はこのままで良い」と
完全に自己肯定できたならば
誰とも立ち位置を争う必要がないし、
そもそも「立ち位置」とは
自分が作り出した幻想だ。
実体がない。
自分にチャンスが来るも来ないも
他人にとってのチャンスを
自分のチャンスとすり替える方に
無理がある。
「チャンスを逃した」と思う事象が
私にはいくつかある。
それは他人が招いたのではなく
自分がどこかで選択したのだろうと
思わざるを得ない。
自分にとっての「成功」を
選択しない心理の根底に、
自己肯定感の欠如が根深く横たわる。
これまでいつも誰かに、
または何かに自分の視点が向いていた。
ベクトルを自分に戻す。
自分を取り戻す。
自分はこれで良い。
これ以下でもこれ以上でもないと
強くしなやかに宣言したい。
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