丼季報亭「8万時間の休息」

旅の記録や季節の便りそれに日々の思いを軽いトーンで綴ってみました。

226.提灯に釣鐘負ける浅草寺

2008-12-20 11:20:53 | 閑話

    若い頃から浅草は元気をもらえる町として大好きな町のひとつです。 

 江戸の名残 浅草は今も観光客など人で溢れています。 江戸時代の浅草は江戸一番の繁華街として栄えました。

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 年の瀬の浅草のスナップ集です。

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 浅草寺の正面入口、最初の門である雷門は松下電器の松下幸之助氏の寄進で、昭和35年昔の姿そのままに再建されたものです。 もともとは平公雅によって浅草寺の総門として942年(天慶5)に建てられたもので、その後 数度の火災による焼失、再建がなされています。

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           門の名で見りゃ風神は居候
 


 
雷門は1635年(寛永12)徳川家光によって建てられ右に「風神」左に「雷神」を安置してあるところから正しくは「風雷神門」と言います。1865年(慶応元)の火災に遭って以来、95年間、雷門は単に史跡としての存在でした。

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             提灯に釣鐘負ける浅草寺 

 大提灯の奉納は寛政7年(1795)の雷門の再建時ころに始まり、檀家同志の競争でより大きな物へとエスカレートしました。江戸っ子の負けず嫌いの気質の表れと言えます。

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  おい羽根に 娘を思う 親心

  毎年師走の17~19日に、浅草寺境内で開かれる「歳の市」は

歳末の風物詩になっています。

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 浅草寺は聖観音宗の総本山で、本尊は聖観音菩薩像です。江戸市中の多くの寺院の中でも最古の寺で、幕府の庇護とその政策により近隣に歓楽、遊興の街が形成されたことなどから多くの人を集めました。

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 浅草寺本堂は三代将軍徳川家光が1649年(慶安2)に再建し、約300年後の昭和20(1945)年の戦災で焼失するまで国宝に指定されていました。現在の本堂は昭和33年(1958年)再建されたものだそうです。五重搭は建物の上に五重の塔が建っている搭院づくりです。

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 鬼の中猿が一匹浅草寺 
 
 たくさんの鬼瓦の中に鬼門除けの「猿面の瓦」が一枚、

五重搭3層目の稚児棟に取りつけられています。
 この日 それを見つけることは出来ませんでしたが・・。

 五重塔は当初942年(天慶5)に平公雅によって本堂の東南側に建てられましたが、何度か火災による焼失の後、1648年(慶安元)徳川家光が再建しました。 

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 昭和20(1945)年の戦災で焼失の後、昭和48(1973)年参道を挟んで反対側、本堂の西南に再建されました。地上からの高さ:53.32m(搭の高さ48.32m、うち九輪部分15.07m)。 最上階の五層にはスリランカ伝来の仏舎利が納められているそうです。

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 小江戸川越の喜多院といい 浅草寺といい この世界では 三代将軍家光の功績が大きいことがわかります。

 年末には ふだんは忘れてしまっている寺社に足を運びます。 
 年始になると初詣に行こうかと思うのは 人の自然の営みなのですね。

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「家内安全」「無病息災」「商売繁盛」人々の願いはさまざまですが、

信心の心が謙虚さにつながり、人に感謝できる心がご利益に繋がるのでしょうか。

今年も十一日を残すのみ、皆様 ご自愛くださいますように。

今日もお立ち寄りいただいて有難うございます。


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4 コメント

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古さに恐れ入りました。 (あこ)
2008-12-20 22:43:42
浅草はやはり江戸一番の繁華街です。
浅草寺の総門、五重塔建築9422年という事は、794平安京だから平安時代~?
「浅草寺は聖観音宗の総本山」初めて知りました。
そういう宗派があることを。
ドン・キホーテさんのお陰で、知識がドンドン正しく更新されていきます。
ありがとうございます。

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平安時代中期にあたりますね。 ()
2008-12-21 10:42:02
あこさん

歴史は ロマンであり 最高の教科書ですね。

942年(天慶5)平安時代中期にあたります。
この時代の天皇は朱雀天皇(938-947)の時代です。 

この頃 都では 疫病と飢饉に供え賑給(しんごう)という制度がありました。

賑給は、古代日本の律令制の下で、貧民・病人の救済のために朝廷から米や塩を支給する制度をいいます。

元々は飢饉や災害に対する救済制度であり奈良時代にはじまったものですが、平安時代以降になると救済範囲も平安京内の貧窮者などに限定され、平安時代中期以降には毎年5月に支給するという具合に形骸化し、年中行事のようなものに変質していました。

掲題の天慶5年(942年)6月は疫病と飢饉によって多数の死者が出たため直ちに賑給使が定められ、このときは廩院に米の蓄えがなかったため常平所の米を左右両京に支給しています(『本朝世紀』)。

これは年中行事とは別の臨時的な措置でした。こうした臨時的な賑給は長承4年(1135年)3月の「院臨時賑給京中、於河原給之、千万人集会」(『中右記』)などの例もあり、賑給そのものが年中行事化した平安時代中期以後も状況に応じて行われたようですが、鎌倉時代には廃絶しました。

「丼」
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942年は重いです。 (あこ)
2008-12-21 17:23:18
疫病と飢饉に供えた賑給制度、奈良時代から
あったのですね。
昔もしっかり政治は民のために行われていましたね。
今は、非社員を助けてあげないといけません。

浅草は江戸時代からという感覚でいましたので、
942年と聴いてビックリしています。
ありがとうございます。
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建立された頃は平家の天下でした。 ()
2008-12-21 21:49:09
あこさん

浅草寺が建立された頃は平家の天下でした。

ゆえに 平公雅によって浅草寺は942年(天慶5)に建てられたのですが・・。

浅草は江戸時代からという感覚も 庶民でにぎわう町と化したのは 家光以降ですから 間違ってはいないと思います。

「丼」
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