時には、旅の日常

管理人:taろう/旅先で撮ったスナップにコメントを添えて、他にも気の向いた事を綴っていきます。

初海外1990 チェコスロバキア&DDR-03~プラハの中心 旧市街広場

2017-06-23 20:45:31 | チェコスロバキア
 バーツラフ広場から、旧市街広場へとやって来ました。

 <<初海外1990 チェコスロバキア&DDR-02>

 古きヨーロッパの色濃く漂った佇まいを楽しみながら、プラハ都心の通りを散策。
 程なく、旧市街の中心部に位置する、広場へと至りました。

 広場を行き交う人々の服装や、街灯以外には、時代を遡った歴史の中に身を置いているような錯覚を覚えた程に、歴史的建造物によって囲まれていた、プラハの旧市街広場。
 今日なお現役であることを窺わせる、建物のいい感じにくすんだ感じも、一層この広場が刻んできた時の経過を感じさせられました。

 「百塔の街」の二つ名に相応しい尖塔や、市庁舎の天文時計、瀟洒な雰囲気を纏った宮殿等、魅力的な建築物も建ち並ぶ広場の景観を、堪能しました。

 <旧市街広場>


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 バーツラフ広場(Václavské náměstí/上記地図で英語名「Wenceslas Square」と表記のある辺りです)の散策を楽しんだ後、隣接する、プラハ(Praha)の旧市街へ、移動します。

 旧市街(Staré město/スタレー・ムニェスト)を貫き、旧市街広場(Staroměstské náměstí)へと通じる通りの1つ、ツェレトナー通り(Celetná)。
 通りの両側の建物は全てが、年季の入っていることが一目で分かる、歴史的建造物。
 通りに沿って、高さの揃った建物が、緩やかにカーブを描いて、街の奥へと続いていく景観…初めて体験した、ヨーロッパの歴史的な街の雰囲気に既に囚われて、気分も逸りながら、この通りを歩いていましたw



 迷路のような小路が入り組み、建物が密集した旧市街の中心部にぽっかり空いた、旧市街広場の広々とした空間。
 著名な建物等が幾つも建つ、プラハの心臓部ともいえる、街の中心です。

 そうした建物の1つの、聖ミクラーシュ教会(聖ニコラス教会/Kostel svatého Mikuláše)。
 外壁の装飾も控えめな、すっきりとした外観。
 すっきりとしていながら瀟洒な雰囲気も漂わせる、1735年に完成した、バロック様式の教会です。
 長らく、正教会の教会として使用されてきましたが、1920年に、チェコ人である宗教改革の先駆者、ヤン・フス(Jan Hus)を信奉する、フス派の教会となりました。

 今日では、クラシックのコンサート会場としても、利用されています。

 聖ミクラーシュ教会の右に立っているのが、そのヤン・フスの像です。
 宗教改革でカトリックに背き、火刑に処せられてから500年後の1915年に、建立されました。



 フス像の背後には、キンスキー宮殿(Palác Kinských)が建っています。
 華麗なロココ様式の宮殿は、仄かなピンクがかった外壁からも、上品な風格を感じられます。

 ゴルツ伯爵によって、1765年に10年がかりで建築されたキンスキー宮殿。
 旧市街広場に建ち並ぶ建物の中でも、ひときわ華やいだ雰囲気を纏っていました。
 キンスキー宮殿は、現在は国立美術館(Národní galerie)として、利用されています。



 キンスキー宮殿の南隣りには、「百塔の街」に相応しい尖塔を持つ、ティーンの前の聖母教会(ティーン教会/Kostel Matky Boží před Týnem)が、荘厳な姿で聳えています。

 手前の、広場に満している建物が、まるでティーン教会のファサードのようにも、ティーン教会への入場を阻んでるかのようにも、見えますね…。
 「ティーン(Týn)」とは、税関のことで、かつてこの教会の裏手に、税関があったので、上記の教会名となったとのこと。

 12世紀にこの場所に立てられた教会をもってその創建とする、このティーン教会は、1365年からゴシック様式への建て替えが始まり、20世紀になってようやく完成したとのことです!
 その間にも、宗教改革に伴うカトリックとフス派との抗争で、後者の拠点となるも、最終的には前者に敗れてこの教会からも追放された後、教会はカトリックのものとなりました。
 カトリックの教会となるにあたり、敗れたフス派によって奪還されないよう、教会への侵入を阻むために、教会の前に建物を建ててしまったそうです;
 そのため、今日でも、ティーン教会への入り口はとても分かり難くて、教会の前を塞ぐ建物のアーチの奥の一角から、教会の中へとはいるとのこと。

 歴史的な出来事にも事欠かない、古都プラハです。



 カーブを描いて建ち並ぶ建物のファサードが、見事な景観ですね^^
 色とりどりな壁面が、広場にカラフルな華やぎをもたらしていました。

 プラハは、第二次世界大戦でも戦災をほとんど受けずに、旧い街並みが奇跡的にそのまま今日まで残っています。
 この旧市街とその周辺一帯は、「プラハ歴史地区」として、1992年にユネスコの世界遺産に登録されました。
 …ということは、私が滞在した、この旅の頃はまだ、登録前ということになりますね。

 共産主義体制崩壊直後という時期でもあり、観光客で溢れかえる程ではなかった、当時のプラハ。
 いい時期に訪れた、と思います♪



 広場の西側、ティーン教会に相対する位置に建つ、旧市街市庁舎(Staroměstská radnice)。
 この旧市庁舎の塔もまた、プラハのランドマーク。
 塔の周囲は開けているので、美しい姿を、無理なく堪能することができます。

 旧市庁舎は、1364年に完成しました。
 築600年超という建築物を、こうして間近にじかに触れてみることができる…実に貴重で、贅沢な体験だと思います。

 この塔の南側(画像の左側)に、プラハでも屈指の人気観光スポットであろう、天文時計(プラハの天文時計/Pražský orloj)があります。

 また、この塔から続く、北側(画像右側)の赤い建物は本来、もっと北側にもせり出して立っていたのですが、第二次世界大戦末期、プラハを占領していたドイツ軍とプラハ解放のために侵攻してきたソ連赤軍との戦闘の中で、ドイツ軍の砲撃等により被災、破壊されました。
 赤い建物をよく見ると、不自然な途切れ方をしていますね…。
 プラハの、数少ない戦災の名残です。
 こちらのリンク先に、19世紀末の旧市庁舎の画像がありました。
 破壊された部分の方が、大きな面積を占めていたのですね。



 旧市庁舎の塔の根元、天文時計(オルロイ/Orloj)のそばへと移動。
 (画像クリックで、別ウィンドウが開きます)

 上の円形の部分が、天動説に基づく天文図文字盤で、下の円形の部分は、暦表盤です。

 天文図文字盤は、1410年に制作され、以後、暦表盤やからくり仕掛けの彫像や人形が加えられたり、修理を繰り返しながら、今日に至るまで、時を刻み続けています。
 からくり仕掛けは、毎正時に動き出すので、正時に近くなるにつれ、天文時計の下には、徐々に人だかりができてきますw
 天文図文字盤の上にある、2つの小窓(画像では、閉まっています)から十二使徒が挨拶し、天文図文字盤脇の死神(骸骨)等の彫像が動くという、からくりです。

 集まった人々の多くは、からくりの動き出すのを今かと待ち構えているようでしたが、私は寧ろ、意味は分からなくても、天文文字盤や暦表盤の精緻な造りに、見とれていました。



 とはいえ、せっかくの機会なので、正時まで粘ってw、からくり仕掛けも眺めていました。
 (画像クリックで、別ウィンドウが開きます)

 からくりが動き始めると、待っていた人々から、歓声が^^
 十二使徒が開いた小窓から、一人ずつ出てきては、挨拶してくれます。
 からくりが動いている間、骸骨姿の死神の彫像は、鐘を鳴らすための紐を引っ張り続けていました。



 旧市庁舎の塔を、ほぼ真下から、見上げます。
 塔の上部にも、(こちらは通常の)時計が設置されていますね。

 真下から眺めると、塔の最上部の部分が隠れてしまうので、少し離れた場所からの眺めと比べて、かなり印象が変わりますね。
 この旧市庁舎の塔は、内部を登ることもできます。
 プラハ中心部からの眺めは、さぞかし絶景であるのでしょうが、それを楽しむのは後日にしました。



 旧市庁舎前から、再びヤン・フスの像とキンスキー宮殿とを、眺めます。
 (画像クリックで、別ウィンドウが開きます)

 フス像の足元は、人々が思い思いに憩い、また、記念撮影のスポットとなっていました。
 キンスキー宮殿の瀟洒な装飾にも、改めて目を見張ります。

 旧市街広場を取り巻く他の建物も、よく見てみると、それぞれが個性を競い合うかのように、彫像や絵画を施し、外壁を彩っていますね。
 小さな尖塔を持つ建物もあったり…と、ただ眺めているだけでも退屈しない、旧市街広場でした。

 これらの建物のメンテナンスも、共産主義時代には中々完璧には施すことが困難であったからかは分かりませんが、街の景観が全体的に少々くすんだトーンであったことが、却って歴史あるプラハを、よりリアルに感じさせてくれたような気がしていました。



 旧市街広場の「シンボル・タワー」である、旧市庁舎とティーン教会の2ショット。
 直線的なシルエットの尖塔の塔頂に、球形の装飾が、プラハの尖塔のイメージのようですね。
 (画像クリックで、別ウィンドウが開きます)

 旧市庁舎の塔の高さは、70m。
 ティーン教会の塔は、80mとのことで、高さ的にも均整の取れた素晴らしい眺めに、視線も釘付け。

 日本では、御伽話かテーマパークでしかお目に掛かれないような街の景観が、リアルな現代の都市のものとして、当然に存在するという衝撃に、すっかり魅せられてしまった、プラハの旧市街広場散策でした。 

 まだまだ、魅力的な見どころに溢れているプラハの街を、更に彷徨い歩き続けます。

 <初海外1990 チェコスロバキア&DDR-04>>



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2 コメント

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Unknown (タヌ子)
2017-06-29 06:51:16
今では考えられないことですが、プラハ旅行をした時は見学順序は夫に殆ど任せていたので、スポット的に建物や食べ物などは覚えているのですが、観光の大まかな流れは忘れてしまいました。
この広場は勿論覚えているし、天文時計もからくりが始まるまでじっと待った記憶があります。
まだこれから出てくるかもしれないので、私が印象に強く残っているプラハの場所はtaろうさんのプラハ記事が終了するまで明かさずにおきますね。
ところでプラハ旅行の写真…どこに行ったんだろう。全く記憶にありません(汗)
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タヌ子さん。 (taろう)
2017-06-29 08:00:05
この旅では、プラハ滞在をメインにしていたので、確か一週間位滞在したと思います。
それで、思うが儘に、街中を歩き回ったので、今思うと、とても贅沢(非効率的)で、今ではまねのできない過ごし方をした、プラハ滞在でした。
何より、食べ物の写真が全くと言っていいほど見当たらない!というのが、自分でもアルバムを見返してみて、衝撃でしたw
チェコが世界に誇るビールや、郷土料理も堪能したのは覚えているのに…;
当時は何より、ビロード革命直後の雰囲気や、ヨーロッパの歴史的な街並みに強烈に魅了されて、興味が全てそちらへ向かっていたのでしょうね(^^;)
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