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硝子のスプーン

そこにありました。

「LIKE A FAIRY TALE」 13

2012-06-19 17:44:12 | 小説「Garuda」御伽噺編
13.【 くだらなくて、小さくて、大事な 】   (ファルコ)


 膝を抱えた格好で、マリアは一人ベンチに座って、あの家族を目で追っている。
 思わず名前を呼ぼうと開いた口をそのまま閉じ、代わりにゆっくりと近づく。
 俺が目の前に来て、マリアはようやく視線を、その家族から離した。
「何してんだ?」
 上から声をかけると、そんなはずあるわけもないのに、まるでたった今俺を認識したように、マリアが僅かに目を大きくする。そうして、少しだけ息を吸って何か言おうとしたのだろう、口を開いたもののそれは声にならず結局、そのまま下を向いてしまった。
「どうしたよ? こんなとこで一人で膝抱えて」
 それはマリアが何か考え込んだり、心細くなったりした時に無意識にする子供の頃からの癖で。

 ―――俺の他に誰か、そのことを知っているヤツはいるんだろうか。
 ―――この三年間で、誰か、それがマリアの癖だと気づいたヤツはいるんだろうか。

 そんなしょうもないことを頭の隅でぼんやり考えていると、視線の先でマリアが無言のまま、酷く緩慢な動きで抱えていた膝を下ろした。
「マリア?」
 その余りに静かな動作に不安を覚え、マリアの肩に向かって手を伸ばす。と、その手が届く寸前に、マリアがやっと口を開いた。
「………あんなふうになりたかったネ……」
「…あ?」
「あんなふうに、お父さんとお母さんと笑ってみたかっただけなのに……。あの子と私では何がそんなに違ったネ…?」
「……マリア」
「なんで…私は、生まれてこなきゃいけなかったカ……?」
「……………」
 ぼんやりと宙を見たまま、そう訊くマリアに、思わず喉が詰まった。
 ああ、そうだった。
 こいつはいつだって、こうやって、ただ真っ直ぐに言葉をぶつけてくる。

 三年前のあの日のように。


 あの日。ゾロがアデル博士を連れてきた日から、六日経ったあの日の夜。
 部屋から一歩も出ずに篭城し続けるマリアに話をつけるために、部屋に入った。なのに実際に顔を見たら、話をつけるどころか言葉が何も出てこなくて、二人だけの部屋の中、ずっと沈黙が続いていた。
 そんな中、外で雨が降り出したのを契機に、マリアが先手を取って言った。
「やーネ」
「…マリア」
「ファルコ。マリアは、ここにいたいヨ」
 気がつくとマリアの目からは、涙が溢れていて。その涙がもう、答えを物語っている気がした。
 つまりは、俺達はもう一緒にいることは出来ないのだ、と。
「よく考えろ。あっちに行けば、お前の爺さんが死ぬ寸前まで願ってたことが叶うかもしれねぇ。お前だって種のせいで、今まで散々酷い目にあってきたじゃねぇか。それをやっと終わりに出来るかもしれねぇんだぞ」
「そんなの分かってるネ。でも、イヤ。少なくとも今は、絶対にイヤ」
「マリア、お前も博士の話聞いてただろ? 今ならまだ、体が完全に成長しきってないから、種を除去できる可能性が高いって。それをお前、今行かなくてどうするよ」
「どうもこうもしないネ。とにかく今はまだマリアは、ファルコの傍を離れたくない。どこにも行きたくなんかないネ」
「………いつまでもずっと一緒ってわけにはいかないって、本当はもう、お前だって分かってんだろ? どうしたっていつかは、こうやって離れる日が来るんだよ。……人と人って言うのは」
「でもそれは、今じゃないネ。ファルコ、約束したじゃんカ。マリアが大人になるまでは、傍にいるって。それが保護者のツトメじゃなかったのカ?」
「事情が変わったんだよ。可能性があるなら、それを大事にしてやるっつーのも、保護者の務めだ」
「そんなジジョー知らないネ」
「マリア」
「やーって言ったらやーヨ! 今離れたら、もう二度とここには帰ってこられない気がするネ、そんなのやーネ!」
「いつだって帰ってくればいいじゃねぇか。別にお前、宇宙の果てに行くわけじゃなし、ちょっと帰ってくるくらいそんなに難しいことじゃねぇよ」
「そういう意味じゃないネ! もうファルコの傍にいられなくなるかもしれないから、怖いのヨ! これまでずっとモジャモジャがマリアのこと、必死に護ってきてくれたことは知ってる。ありがたいと思ってるヨ、マリアだって。でもいくらモジャモジャの薦めでも、これだけは絶対にイヤ! 絶対に、絶対に、イヤ!」
「……………」
「お願いヨ、ファルコ…。マリアはまだ、ファルコの傍にいたいネ。ただ、いさせてくれるだけでいいネ。傍にいさせて、お願いヨ…」
 乱暴に涙を拭きながら、マリアは真っ直ぐにこっちを見た。
「ファルコが好きなの」

 途端、腹から込み上げるものがあって。

 ……あぁ。分かってる。俺だって、マリアを手放したいわけじゃないんだ。

 マリアの方に伸びようとする腕を必死に押さえて、出来るだけ冷静にマリアの名前を呼んでやる。
 だけど、マリアは厭々と駄々をこねるように首を横に振るだけで、こっちを見ようとしない。
 本格的にしゃくりをあげ始めたマリアの肩を掴んで、こっちを向かせる。
 見上げてくる瞳は涙に濡れてとても綺麗で、必死に自分に言い聞かせる。

 ……駄目だ。

 こいつがずっと、欲しがることさえ出来なかった本物の自由が、手に入るかもしれないんだ。
 何にも怯えなくていい未来が、その可能性が、こいつを待ってる。
 それを、何もかも全部捨てさせて、ずっと俺の傍においておくなんて出来るわけがない。
 こいつだけじゃない。ゾロにも他の奴らにも色んなものを捨てさせることになるのに、そんなこと、していいはずがない。

 俺達は家族みたいにずっと一緒にいて、だけど本当は家族でも何でもなくて。
 俺がこいつに与えてやれるものなんて、所詮、ちっぽけなものでしかなくて。
 本当に、ちっぽけなものでしかなくて。
 なのに、こいつはいつだって、そんなちっぽけなもののために、何だって投げ出そうとするから。
 そんなこいつを俺は人生をかけて守ると誓ったのだから。
 だから。

 だから、こそ。

 




 落ちたのは言葉ではなくて、涙だった。



 それを見て、マリアはしゃくりあげていたのを止め、息を呑んだ。
「……………ファル、」
「行けよ。………頼むから………」
 それだけ言うとマリアの前から立ち上がり、背を向けた。
 部屋のドアを閉じる前に見たマリアは、未だに微動だにしないままで。
 その視線を遮るように、バタンとドアを閉めた。
 そしてグイっと腕で涙を拭き、自分の部屋に戻って、ベッドに入った。


 溢れたのは、言葉か想いか。

 その答えを見つけだすことなく、静かに、最後の夜は更けていった。






(NEXT⇒背伸びをしてみても)

「LIKE A FAIRY TALE」 12

2012-06-19 17:43:18 | 小説「Garuda」御伽噺編
12.【 色を失くした世界の隅っこで 】   (マリア)


 ぐちゃり。と、内臓を握り潰されたかのような痛みに、思わず息を止め、ぎゅっと歯を食いしばる。
 定期的に襲ってくる激痛は、昨日から更に酷さを増してしまった。恐らく、船に戻った際に、無理して食事を取ったのがいけなかったのだろう。当たり前だ。内臓が殆ど機能しなくなっているときに、普通の人と同じ食べ物を摂取して無事で済むわけがない。
 昨日、機動隊隊舎に用意してもらった部屋に帰るなり、倒れてしまった私を見て、ラビは「なんて無茶するんだよ!」と、真剣に怒っていた。あんなに怒ったラビを見たのは初めてかもしれない。だけど、ラビには申し訳ないけど、後悔はない。最後にみんなの笑顔が見れたのだから。
 これでまた一つ踏ん切りがついて、覚悟が出来た。この痛みがその代価ならば、惜しくはない。

 やっと、痛み止めが効を成してきたのか、少しだけマシになった痛みに、少しずつ、呼吸を再開させる。その振動すら、お腹に響くようで、ゆっくりと恐る恐る、吸ったり吐いたりを繰り返す。
 そうしてやっと顔を上げられるようになった頃、硬くなった筋肉に無理をかけないよう、そろそろと時計を見れば、夕方四時半時近くだった。

 そろりと、隣続きの部屋のほうを見やって、そこにいるだろうラビの気配を探る。
 日の光を全身に浴びると、たちまち火脹れが出来て命さえ危なくなってしまうラビは、こっちに来てもアトレイユにいた頃と同じように昼夜が逆転した生活を送っている。つまり、ラビにとっては、午後四時は午前四時みたいなもので、今も眠っているらしく、気配は静かで落ち着いていた。
 どうしようか迷ったけれど、言われた通りこうしてじっとしていると余計、ギリギリと軋むような間接の痛みが増すようで、辛い。シューちゃんから、あまり出歩くなと釘を刺されたけど、モジャモジャがくれた通信装置兼発信機があるから、こっちの居場所はすぐに分かるだろうし、ラビも、ここにいる限りは安心だ。

 廊下で見張っているアトレイユの特殊部隊の人達に気づかれないように、窓からそっと、静かに抜け出した。


 どうしても、最後に行っておきたい場所があった。
 私の秘密のお気に入りスポット。と言っても、ただの国道沿いの歩道に設置された何の変哲もない、ベンチなのだけど。
 この近くに、ファミレスや焼肉屋さんなんかが集まっている大きなフードセンターがあって、そこを目的とする人達がよくこの道を利用する。日曜日の夕方ともなると、お父さんとお母さんと子供、と言った絵に描いたような家族連れの姿を何組も目にすることが出来る。
 はしゃぐ子供に、優しく笑うお父さんやお母さん。楽しげな話し声に、明るい笑い声。繋がれた手。
 私はそれを見るのが、好きだった。
 日曜日の夕方には決まってここに来て、一人ベンチに座って、幸福そうな家族を何組も何組も、飽きることなく、日が暮れるまで眺めていた。
 きっと、幼心に憧れていたのだろう。私には、最初からないもの、だったから。
 勿論、スレイやトゥルーやアンナちゃんを家族のように思う気持ちに嘘はない。スレイは私の中でマミーだし、トゥルーはお兄ちゃんで、アンナちゃんはお姉ちゃん。みんな大好きだし、みんなが私に与えてくれた愛情はとても言葉では言い表せないほどだ。
 けれども、そういう思いとはまた別のところで、私は『家族』というものにずっと憧れを抱いていた。
 それはきっと理屈ではなく、本能に近い感情だったのだろう。


 念のために飴玉を継続して舐め続けながら、ベンチに座り、少しずつ電灯が灯り始める通りを眺める。
 残念ながら、今日は日曜じゃないから、家族連れの姿は少ない。それでも、楽しげに行きかう人達の群れは、それだけで、私を慰めてくれる。
 目の前を通り過ぎたカップルが、一際楽しそうな笑い声を立てて、腕を組み仲良く歩いていく。
 デート帰りだろうか、それとも仕事が終わって今からデートだろうか。そんなことを考えながら、遠ざかっていく二人をぼんやりと見送る。
 何がどこでどう違ったら、私は―――……。
 見送りながら、ふと、そんなことを考えている自分に気づいて、首を横に降った。今更考えてもどうしようもないのだ。そう自分に言い聞かせるための行動だった。けれど。
 その瞬間、痛み止めをなめているのにも拘わらず、強烈な痛みが、目の奥を貫いた。
「っ!!!」
 思わず小さく呻いて、ぐっと瞑った目を手で覆う。
 痛い、痛い、痛い。なんだ、これは。こんな痛み、今まで感じてない。
 目が痛くて、開けられない。


「…あの、大丈夫ですか?」
 ややあって、上から降ってきた声に、じわじわと目を開ける。
 そうして、目を開けられたことにほっとしたのも束の間、私は急激にその場で凍りついた。
「どこか具合が悪いんですか? 救急車、呼びましょうか?」
 心配して覗き込んでくる親切な人の顔をマジマジと見つめる。



 うそ。


 ウソだ。
 嘘に決まってる。こんなの、だって。だってそんな。






 ――――――――――っ、い や だ!!!











「あの、もしもし? 私の声、聞こえてますか?」
「………ぃ、…だいじょぶ、です……」
「でも、顔色が悪いですよ? もしよければ、どなたか家族の方に連絡しましょうか?」
「……ホントに、ダイジョブですから…。ありがとございマス……」
 心配そうに言ってくるその人に、それだけ言って、何とか笑おうとしたけど、顔が引き攣って、すぐにはきちんとした笑顔が作れなかった。何度も何度も振り返っては、心配そうに去っていくその優しい人に、少し頭を下げて礼をしながらも、手が、自分のものじゃないみたいに、ブルブル震えて止まらない。

 車道のアスファルトも、歩道の煉瓦も、街路樹も、電灯も、行き交う人の服の色も、髪の色も。
 あの親切な人が心配そうに覗き込んできたその瞳の色も、何もかも。

 目に映るものすべて、白黒で。

 どこか縋るように、恐々と見上げた薄黒い空に浮かぶ、歪な月のその異様な白さに。
 あの瞬間、私の目から、色覚が失われてしまったことを――――。

 その事実を、震える手もそのままに、一人、呆然と、認めた。







「…っ…う…く…っ…」
 まったく予想出来なかったことじゃない。体中のすべての器官に種が寄生しているのだから、種がダメになれば、その器官だってダメになると分かっていた。
 何も目が見えなくなったわけじゃなし、色が見えないくらい、まだ大したことじゃない。そうだ、大したことじゃない、これくらい。
 そう何度も言い聞かせているのに、零れ出す涙を止めることが出来ない。

 怖い、と。
 いやだ、と。
 そう、思ってしまった。

 あの瞬間、恐怖に竦んで凍りついてしまったほど、『死』を怖いと思ってしまった。
 色を失ったと知った瞬間に、『死』が本格的に形を成して。
 こうやって一つずつ身体の器官がダメになっていって、もうすぐ私は死ぬのだと、悟った途端、その事実が一気に現実の恐怖に変わった。
 痛みなら、いくらでも我慢しようと思った。のた打ち回りそうな痛みだって、必死に耐えた。なのに。

 持ってはいけない感情だと知っていたのに。
 必死に押さえ込んでいた、のに。

 死ぬのが怖いと、思ってしまった。

 死にたくないと、思ってしまった。


 ぼろぼろと止め処なく零れては落ちる涙に答えを知る。
 結局私は、覚悟なんて、何も出来ていなかったのだ。
 世界から色が消えただけで、こんなにうろたえるほど。
 身体から一つの機能が失われただけで、こんなに怯えるほど。


 もう目前まで、その時は来ているというのに。



















「………ファルコ………」

























 どれくらい、そうしていたか分からない。気がつけば、もう涙は止まって、乾いていた。頭の中がぐちゃぐちゃで何も考えられない。ぼうっとした意識の中、ふと、帰らなきゃと、思う。そう思った傍から、だけど帰るって、どこへ?と、思う。

 どこに帰る必要があるというのだろう、今更。
 もうすぐ、死ぬのに。
 死ななきゃいけないのに。

 ベンチの上で一人、膝を抱えて座る。
 ベルトにつけた小さな鞄が、ベンチに当たって音を立てた。中の飴玉がごろごろ動く。
 ああ、そうだ。飴を舐めなきゃ。でも、なんで? 
 もうじき死ぬのに、なんで、そんなことをする必要があるの?


 軽い足音にぼんやりと顔を上げると、小さな男の子が笑いながら、目の前を走り抜けていった。
 その後を、お母さんが「危ないから止まりなさい」と、追いかけていく。
 二人の後ろから来るのは、お父さんなのだろう。優しい顔で笑ってる。笑って、二人を見ている。


 私だって。
 私だって、あれが欲しかった。
 お父さんとお母さんに囲まれて、その間で笑って、手を繋いだりして歩いてみたりしたかった。

 子供の頃、ここに来るたび、ここで幸福を絵に描いたような家族を見るたびに、込み上げる羨ましさに一人、唇を噛み締めた。
 私には最初から用意されていなかった愛情が、そこに溢れていたから。
 それでも、どんなに悔しくても、哀しくても、求めずにはいられなかった。

 まだ形にもなっていなかった私に、この悪魔の種を植え付けた、顔も知らない両親を。



 私は、何のために、生まれてきたんだろう。

 どうして、生まれてきてしまったのだろう。


 ただ、種の宿主となるためだけに造られて、望んでもいない重い枷をはめられて。
 大勢の人達を死に追いやって、辛い思いを沢山して、傷つけて傷ついて、苦しめて苦しんで。
 誰より愛してくれた人の人生を、取り上げて捻じ曲げて台無しにして。
 誰より愛した人の人生に、永遠に消えることのない傷を刻みつけて。

 挙句、こんなもののために、死んでいくのなら―――――。



 生まれてきた意味など、この世界のどこにも、




 ない。







(NEXT⇒くだらなくて、小さくて、大事な)

「LIKE A FAIRY TALE」 11

2012-06-19 17:41:50 | 小説「Garuda」御伽噺編
11.【 そんな彼の事情 】   (ファルコ)


 大統領官邸を出て、そのままツバキを店に迎えに行って家まで送り、船に戻ると朝方の四時過ぎだと言うのに、スレイが仁王立ちで俺を出迎えてくれた。
 その顔には確実に不機嫌さだとか心配とかが入り混じっていたけれど、敢えてそれを全部スルーして、右手をあげてみせる。
「よお。遅くまでご苦労サン」
「よう、じゃないだろう。こんな時間まで何をしてたんだ、お前」
「んだよ、目くじら立てて。お前は俺の母ちゃんか」
「こんな薄情な息子、願い下げだ。昨日マリアが来るって、お前も知ってたはずだぞ? それをなんだ。ふらりと出て行ったまま、こんな時間まで連絡一つ寄こさず、帰ってきもしないで」
「しょうがねぇだろ。俺にだって色々用事があんだよ」
「ほう。どんな用事だ? 三年ぶりに帰ってきたマリアと会うより大事な用事があるなら、是非聞かせて貰いたいものだな」
「だーかーら、色々つってんだろ」
「……お前、マリアを避けてるのか?」
「なんでそうなんだよ…」
「そう思われても仕方ないだろう。マリアが来ると分かるなり、いきなり出て行って、こんな時間になるまで帰ってこないなんて」
「あーも、うっせ。俺がふらりと出て行って帰ってこないのは、今に始まったことじゃねぇだろうが。いちいちグチグチ言うんじゃねぇよ」
 そう言ってスレイを押しのけ、自分の部屋へと足を向けた俺に大きな溜息を吐きながらも、スレイがブツブツと後をついてくる。
「マリアが大変な時だって言うのに……」
「大変?」
「始終ふらふらしてばっかのお前は知らんだろうがな、昨日の朝、臨時ニュースで流れてたんだよ。一昨日の晩、大物テロリストグループをアトレイユの極秘部隊の助けで一気に検挙したって。今のこのタイミングで、アトレイユの極秘部隊って言ったら、どう考えてもマリアのことだろうが」
「……へぇ」
「なんでマリアが、そんなことしなきゃいけないんだ。聞いても自分の勝手でやったことだとしか言わないし。そもそも、なんでウチじゃなくて機動隊にいるんだ、マリアは。あれはウチの子だぞ」
「俺に言うなよ。知らねぇよ」
 言いながら、部屋のドアを開け、しつこく中までついてくるスレイを無視して、ベッドに寝転がる。
「おい、ファルコ。まだ話は終わってないぞ」
「その話なら、また今度にしてくれ。俺ぁ、疲れてんだよ。今すぐ睡眠取らなきゃ、体がストライキ起こして大変なことになっちまう」
「ストライキでもストライクでも勝手に起こせ。それより、マリアのことのほうが大事だ」
「バッカ、お前。俺の体がストライキ起こしたら、大変なことになっちまうんだぞ。夕方になっても起きられなくなんだぞ」
「いつもと変わらんじゃないか」
「ああああっもう、うるっさいお前! あいつだってなぁ、三年前とはもう違うんだから、俺達がいなくてもちゃんとやっていけるっつの。それに機動隊がついてんなら、鬼に金棒じゃねぇか。心配すっこたねぇよ」
「そういう問題じゃないだろう!」
 声を荒げて俺から毛布を剥ぎ取ろうとするスレイの後ろから、また違う声が部屋に響く。
「何騒いでるかと思えば。おかえり、ファルコ。今の今までどこで何してたの? 折角マリアが来てたのに」
 部屋の入り口から、これ以上ない非難の目を向けてくるトゥルーに、がくりと頭を枕に埋めた。
「お前まで勘弁しろよ。つーか、もう、ほんと寝かせてくんない? マジ限界なんだって、俺」
「……でも、ファルコ。マリア、なんかちょっと変だったんだ」
「変って何が?」
「…上手く言えないけど、なんか、このまま放っておいちゃいけない気がする……」

 枕から少しだけ顔を上げ、部屋の入り口に立っているトゥルーを見上げる。
 眉を思いっきり八の字に寄せ、不安を隠すことなく覗かせるトゥルー特有のその表情は、三年前と何も変わっちゃいない。もっと言うなら、未だ仁王立ちで俺を睨んでくるスレイの、酷く心配そうな表情もだ。

 ―――誰も何も、三年前と何ら変わっちゃいないのに。

「分かった、分かった。とにかく、また今度な。もう眠たくて、脳みそが全く働かねぇんだよ」
 それだけ言い、毛布に潜り込んだ。
 てっきりまだ文句を言ってくると思ったのに、スレイもトゥルーも、そのまま静かにドアを閉めて出て行く。
 眠たくて限界というのは、逃げるための言わば口実だったのに、官邸に忍び込むのに久々に体力と神経を使ったせいか、二人の足音がそれぞれ遠ざかるのを聞きながら、俺はいつのまにか本当に意識を手放していた。


「今、何時だ……?」
 目が覚めて部屋を出ると、居間には誰もいなかった。居間だけではなく、しんとした静けさが、船全体に漂ってる。どうやら全員留守にしているらしい。とりあえず顔を洗い、何か口に入れるために食堂に行く。
 時計を見ると針は午後四時半を指していた。
 さすが秋だけあって、日が暮れるのが早くなった。もう既に少し薄暗い室内を見渡して、あいつらがどこぞから帰ってくる前に、出掛けてしまおうと行動に移す。
 昨日のことをまた蒸し返されて、無駄に討論する気はさらさらない。あいつらが望む答えを俺だって持っていないのだ。大体、マリア自身が俺達の介入を拒んでいるのに、それを一体、俺にどうしろというのか。

 街を歩けば機動隊にあたると言うくらい、ここ数日、どこを見ても黒い隊服を着た野郎だらけだ。
 徐々にネオンが灯り始める騒がしい通りを、厳めしい顔で巡回する機動隊員を見ながら、溜息をつく。こうも奴らが多くちゃ、街をぶらぶらするのさえ気が乗らない。
 見知った士官クラスの隊服を目に映しながら、一昨日の夜に会ったシューインの言葉を思い出す。それと同時に、朝方見た、スレイの心配顔やトゥルーの不安顔が頭を過ぎる。
「…俺にどうしろってんだよ……」
 アデル博士の事にしろ、マリアがリムシティに戻ってきている事にしろ、今の俺には何の関係もないことなのだ。
 勿論、三年前まで確かにあいつは、俺が守るべき存在だった。
 けれど、その義務も権利も何もかもを、三年前に俺は自分から放棄したのだ。
 そして、あいつは出て行った。それきり何の連絡もなかったというのに。
 あいつが言ったでもなしに、俺があいつのためにしてやれることなど、とうの昔にないというのに。

 自然と握られていた拳に気づき、ゆっくりと手のひらを開く。
 マリアに会ってからこっち、気がついたらこうして体に力を入れ過ぎていることが多い。
 その事実に僅かに眉を寄せ、ぷらぷらと手を振ってみる。
 と、馴染みの声が俺を呼んだ。
「おう、ファルコじゃねぇか」
「…よお」
「何してんだ、一人か? しっかし相変わらず死んだ魚みたいな顔してんなぁ、お前。大丈夫か、そんなんで」
「あ、何が? つーかお前に心配されるようになっちゃ、俺もオシマイなんだけど」
 振り向くなり、べらべら喋ってくるナッティの顔を見ながら、そう返せば、ナッティが心外だと言わんばかりに口をひん曲げる。
「失敬な。人が心配してやってんのによ」
「だから何、心配って。あぁ、健康? 大丈夫だって、お前。俺は丈夫さだけが取り得なんだからよ」
「誰がお前の健康なんか心配すっか。そうじゃなくて、経営状況だよ、経営状況。さっき、そこでお前んとこの片目と会ったぜ?」
「は、スレイ?」
「ああ、何か不機嫌っていうか、相当思い詰めた顔してたぞ。どうせお前また、金もないのに、飲み屋のツケしこたま溜め込んでんだろ」
「あー……」
 気持ち斜め上を向いて、少し考える。
 こりゃあ船にはしばらく戻らないほうが良さそうだな。うん。
「ということで、ナッティ。飲みに行こうや、お前の金で」
「あぁっ? 何が『ということで』なんだ、全く話の前後が通じてねぇぞ。言語障害か、お前は」
「いやあ、持つべきものはトモダチだよね、ほんと」
「イヤイヤイヤちょっと、俺の話聞いてる? 聞いてないよね? あれ、聴覚障害? ていうか、引っ張るな、離せ! 俺は家に帰るんだァァァ!」


「おっちゃん、お代わりぃ」
 馴染みの安酒パブの中、もう何杯目かよく分からないグラスを突き出した俺を見ながら、隣で、ナッティがどこか不安げな声を上げる。
「おいおい、大丈夫かお前」
「あん? 何言ってんだよ、ナッティお前。こんくらいでビビってちゃこの街じゃ生きてけねぇぞ?」
「いや俺、少なくともお前よりは、まともに生きていけてるから。そうじゃなくて、ちょっと飲みすぎなんじゃないかって言ってんだよ」
「あー、気のせいら、気のせい」
「気のせいって、もう思いっきり呂律回ってないじゃんか。グデングデンに酔って帰って、またスレイにどやされても知らねぇからな」
「ほっとけ。あいつぁ、いっつもなんか怒ってんだから。怒りこそあいつの生きる糧なんだよ」
「いや、それ違うと思う。ていうか、本当に大丈夫か、お前。スレイもなんかやたら思い詰めた顔してたし、何かあったのか?」
「何かって、何が?」
 反対に聞き返して、グイっとまた酒を飲み干す。そしてまた店のオヤジに向かって、「もう一杯ちょうだい」と叫んだ俺の横で、ナッティが「あっ」と、思いついたように手を打つ。
「ひょっとしてアレか、ツバキちゃんか? ツバキちゃんのことで何かあったのか?」
「あ? ツバキ?」
「最近よく一緒にいるだろ、お前とツバキちゃん。まあ、男と女のことに口出しするほど、スレイも野暮じゃないだろうけど、相棒として一言物申しておきたいことがあんじゃないのか。特にお前、ちゃらんぽらんだし」
「悪かったな、ちゃらんぽらんで」
 グビっと酒を呷りながら横目で睨めば、それをいともせずに、ナッティがニヤけた面を近づけてくる。
「で、どうなんだよ、本当のとこ」
「どうって?」
「またまた、トボけんなって。ツバキちゃんだよ、ツバキちゃん。いい仲なんだろ?」
「……あ~…さあ? どうなんだろうな」
「なんだよ、それ。ほんっとお前、ハッキリしねぇよなぁ。そんなんだから、スレイも気苦労が絶えないんだよ」
「あ~、もういいだろうが。ツバキのことは多分何も関係ねぇよ」
「ふ~ん…。ま、いいけど。でも、お前がツバキちゃんといるようになって、俺は結構安心してたんだけどな」
「安心?」
「だってお前よ、マリアちゃんがいなくなってから荒れてただろ? それがツバキちゃんといるようになって、少し落ち着いたから、さ」
「…………荒れてた?」
「荒れてたっていうか…、ピリピリしてたじゃん。横で飲んでてもさ、ピリピリした感じが伝わってきて、正直ちょっと怖かったぜ、俺は」
 言って、ナッティが店のオヤジに殻付き豆を注文する。それを耳に聞きながら、俺は酒を凝視したまま、止まっていた。
 急に動かなくなった俺に気づいて、ナッティが訝しげに首を傾けて見てくる。
 それが分かっても、俺はしばらく動けなかった。
「おい? どうした、ファルコ? まさかお前、目ぇ開けたまま寝てんじゃないだろうなおい」
 問い掛けてナッティが、無遠慮に肩をユサユサ揺さぶってきて、そこでようやく金縛りから解けた。
 そのまま、ゆるゆると口を動かす。
「………マリアがさぁ…、帰ってきてんだわ」
「え?」
「だ~か~らぁ、マリアが帰ってきてんだよ、リムシティに」
「マリアちゃんが!?」
「ああ」
「ああって、お前。じゃあ、何してんだよ、こんなとこで」
「何してって…、酒飲んでる。お前の奢りで」
「そういうことじゃなくて! マリアちゃんが帰ってきてんだろ? だったらお前、こんなとこで酒飲んでる場合かよ、さっさと帰れ。ここは俺が奢ってやるから、ほら」
「別に、帰っても仕方ねぇだろ。船にいるわけじゃねぇんだから、あいつ」
「あ、そうなの?」
「そうなの」
 簡潔に答えて、酒を喉に流し込む。そのまま何を言うでもなく、ナッティが注文した殻付き豆の殻を適当に割って、何粒か纏めて口に運んだ。
 そんな俺を同じように黙ったまましばらく見た後で、ナッティが脈絡なく、突然、感慨深げに「はぁ」と息を吐いた。
「なるほどねぇ……」
「あ? 何がなるほどなんだよ?」
「いやいや。なんか変だと思ってたんだよ。今日のお前」
「変? 俺が?」
「あ、やっぱ無自覚なんだ。それはそれで問題だぞ、お前」
「だから、何が変なんだっつってんだよ」
 進まない会話に、じろりと目を向ければ、ナッティが焦ったように顔を引き攣らせるのが見て取れた。
「や、変っていうか、お前らしくないっていうか。なんか、いつもの余裕が感じられないと思ってさ」
「そうかぁ?」
「やけにハイッピッチで飲んでるかと思えば、突然魂抜けたみたいに固まるし。急にマリアちゃんの話振ったと思ったら、黙り込んじまうしよ」
「………」
「だから、なんか、らしくないなって思っただけだよ。……ちょ、お願いだから、そんなに睨まないでくれる? すっごく怖いから」
 一気に喋ってナッティが、本気でおどおどとした目で俺を見ながら、自分のグラスに口をつける。
 よほど俺は今、怖い顔をしてるんだろう。その自覚はないが、やたら苛ついている自覚は少しある。
 そこまで考えて、ふとまた、動きが止まる。

 ―――苛つく? なんで、俺が苛つかなきゃいけねぇんだ?

「どうしたんだ、本当に。なんかもう怖いを通り越して、恐いぞお前」
 ビビリながらも、意味不明なことを言ってくるナッティの顔は見ぬまま、口を動かした。
「なぁ。…なるほどって何? 何がなるほどなわけ?」
「え、いや、それはさ」
 一瞬言いにくそうに口ごもったナッティが、動かない俺を見て、観念したようにひとつ息を吐いて、喋り出す。
「マリアちゃんが帰ってきて、なのに、いる場所がお前のとこじゃないってなったら、どういう事情があるにせよ、そりゃあ、さすがのお前だって寂しくなっちまうよなぁと思ってさ」
「………」
「いや、馬鹿にしてるわけじゃないぞ。お前が目に入れても痛くないってくらい、マリアちゃんのこと可愛がってたのは、お前らのこと知ってる奴なら誰でも知ってる。マリアちゃんもお前によく懐いてたしなぁ。いっつも、ファルコファルコってお前の後ばっか追いかけてさ」
「………」
「その子が久々に帰って来たってのに一緒にいられないんじゃ、寂しくなって当然だよ。まあ、お前は天邪鬼だから認めたくないのかもしれないが、でもそりゃあ、当然の感情だよ」
 言い切ってナッティがちょっと俺を見た後、「まあ飲め。付き合ってやるよ」と、グラスを傾けて中身を空にし、店のオヤジへと視線を投げる。
 けど、もう、俺の意識はそこになかった。

「おおい、マスター。もう一杯くれ。ついでに、こいつにももう一杯……」
「……ぇよ……」
「? 何か言ったか? ファルコ」
「違うんだよ」
「え?」
 きょとんとして見てくるナッティに、「ここは奢りなんだよな? ごちそうさん」とだけ言って、席を立つ。
「あ、え? おい、ファルコ?」
 そのまま店を出ていく俺の背中に向かって、ナッティがやや困惑気味に呼びかける。その声に背を向けたまま、右手を挙げる。
 その手をひらひらと振ってみせながら、少しだけ振り返り、笑って言った。
「俺ぁ、寂しいなんて思ってねぇよ」

 そう、寂しいだなんて思ってはいない。そうじゃなくて、俺はただ―――。

「ただ無性に、悔しいだけだ」



 分かってみれば、単純なこと。

 あいつが、俺を頼ろうとしないことが悔しくて。
 悔しかったから、苛ついた。
 我ながら、ガキ臭くて笑える。
 自分から突き放しておいて、そのくせ、あいつが俺なしでもきちんと立てるようになっていたことが、その様子を人から聞くのが、イヤでたまらない、なんて。
 自分で全部放棄したくせに、あいつのために俺がしてやれることがもう本当に何もないのだと、その事実を思い知らされるのが、イヤでしょうがない、なんて。

 おまけに――――……。

 思わず、フっと自嘲の笑みを浮かべた俺の耳に、その時不意に聞こえてきたのは、小さな子供特有の少し甲高い笑い声。
 こんな時間に?と、思い、目をやれば、駆けて行く子供の姿があった。
 それを諌めるように母親らしき人物が後を追い、父親らしき人物はゆっくり歩きながら、そんな二人を笑って見ている。
 きっと、家族揃っての外食の帰りか、なんかだろう。こんな時間にと一瞬思ったけど、よくよく考えてみれば、まだ九時にもなっていない。早い時間から飲み出したせいか、どうも時間の感覚がズレてしまったらしい。
 何となくボンヤリと、その家族を見送りながら、その子供が来た方向に何気なく目をやる。


 そこには、ぽつんとベンチに蹲るようにして座る、マリアの姿があった。




(NEXT⇒色を失くした世界の隅っこで)

「LIKE A FAIRY TALE」 10

2012-06-19 16:26:51 | 小説「Garuda」御伽噺編
10.【 深夜一時の密会 】   (ゾロ)


 扉を開けて一瞬息を止め、直後思いっきり、頭を抱えたい気分になった。
 その原因が、椅子をぐるりと反転させてこちらを向き、表情は変えぬまま片方の眉だけを僅かに上げて、「よぉ」と口を開く。
「遅いお帰りで。つか、初めて座ったけど、座り心地いいなぁ、この椅子。ウチに譲ってくんない?」
「すまんばってん、それはおいのじゃなか。官邸のもんは全部、国のもんやけん」
 無断で忍び込み、しかも完全に気配を隠して待ち伏せていたくせに、何食わぬ顔でぐるぐる椅子ごと回り、「ちぇ」とぼやくファルコに、こちらもまた何食わぬ顔で、「しかしまぁ」と口を動かしながら、扉を閉め、少し考えてから小さな間接照明だけを点けた。
「流石っちゅーか、何ちゅーか…。よう警備隊に見つからんとここまで来れたたい。お前、空賊やなくて、盗賊のほうが向いとるんやなかか?」
「それが仮にも一国の長の発言かよ。見つからねぇで来れるわけねぇだろ。どんだけ苦労したと思ってんだ。赤外線やら、熱探知機やら、音センサーやら、しっちゃかめっちゃか仕掛けやがって。どこの要塞ですか、ここは。おまけに何、この部屋。なんで落とし穴があんの、大統領の私室なのに」
「大統領の私室やけんこそや。ところで、お前、警備兵達に怪我させとらんやろうな?」
「させてねぇよ。……多分」
「多分ってなんや、多分って」
 背広を脱ぎ、長椅子に腰掛けながら呆れた視線を投げれば、普段から覇気のない顔をさらにだるそうにして、ファルコが机に頬杖をついたまま、ガシガシ頭を掻いた。
「仕方ねぇだろ。大統領サマとのアポの取り方なんざ知らねぇし、正面から訪ねたところで何だかんだ尤もらしい理由つけて、今は俺に会おうとしねぇだろ、てめぇは」
 そう言って、凄むでも責めるでもなく、ただ見てくる金の目を、こちらもまた、ただ見返す。
「そこまで分かっとるなら、もう分かっとうやろ? おいの口からは何も言えん」
 きっぱりと告げて、見合うこと優に二分以上。
 先に動いたのは、ファルコだった。人を芯から責めることが出来ない、弱いと言えば酷く弱い、その性質を知り尽くしているこちらの作戦勝ちと言ったところだろう。
 視線の先で、不機嫌そうに眉を顰めたファルコが、音を立てて背もたれに凭れかかる。
「……ったく、お前さあ。あいつより俺のほうが断然付き合い長ぇだろうが。ちったぁそこらへんに重きを置いてくれてもいいんじゃねぇの?」
「そがん怖か顔で、仕事と私どっちが大事なのっ!?っちゅー、奥さんみたいなことば言わんどってよ。困ってしまうやんか」
 言って、白々しいまでにわざらしい困り顔をしてみせる。それが、この話はこれで終了という合図だと、正確に読み取ったファルコが、ふんと小さく鼻を鳴らして、椅子から立ち上がる。
「なんね、もう帰るとね? わざわざ苦労して不法侵入までしたんやけん、茶ぁくらい飲んでいったらよかとに」
「るせぇ。これ以上お前と喋ってたら、バカとモジャが伝染んだよ」
 投げ捨てるように言って、恐らくそこから侵入したのだろう、開いた窓へと向かう背中に気づかれぬようそっと息を吐き、目を閉じる。
 と、その心の動きを見抜いたかのように、ファルコが足を止めた。そうして、考えるようにゆっくりとこちらを振り返る。
「一つだけ、教えてくれや」
「何や?」
「アデル博士が殺されたっつーのは、本当なのか?」
「……誰から聞いた?」
「誰でもいいだろ」
「…マリアちゃん、……なわけなかか」
 探るように放った言葉に、ファルコが微かに、その目に苛立ちの色を滲ませる。
 恐らく無意識なのだろう。普段何の感情も覗かせない代わりに、彼女のことになると、こいつの目は途端雄弁になる。と言っても、そこからその真意を正確に読み取れる者は、極僅かだろうが。
 身が焼かれそうな感情は、胸の奥底に隠し込み、軽く肩を竦めた。
「ああ、確かにアデル博士は死んだ」
「アトレイユの研究施設はどうなる?」
「正直、おいにもまだ何も分からん。アトレイユの首脳陣が決めることやけんな。けど」
「けど?」
「アトレイユ政府は、こん事が表沙汰になって国際的窮地に立たされる前にあん研究施設を、種子ごと根こそぎ、隠蔽してしまいたいやろうな」
 そして、すべての責をトラビア政府に負わせる気なのだろう。……無論、そうさせるつもりは更々ないが。
 最後の考えは口には出さなかった。それは国を背負って立つ者の問題だ。こいつには関係ない。
 大きく息を吐き出して、それきり口を噤む。
 ファルコは、一瞬考え込むように目を伏せたものの、それ以上言及することなかった。
 やや間を置いて「そうか」と返し、また窓へと歩き出す。その背をじっと見送りながら、知らず知らず、口が動いていた。
「なぁファルコ。おいにも一つだけ教えてくれんか?」
 無言のまま、訝しげに振り返った金の目が、薄暗い部屋の中でも、冴え冴えと光って見えた。それは、まるで空に浮かぶ、今夜の月のようで。
 いつだったか、彼女がこいつのことを月のようだと話していたことを思い出した。
 
 ―――仮に、こいつを月とするならば、彼女はきっと……。

「三年前、どうして、あん子ば手放した?」

 その言葉に、ファルコが瞬間、呼吸を止めるのがありありと分かった。
 刹那的に見開かれた目が、心臓に突き刺さる。

「……お前が聞くか? それ」
「…すまん……」

 刺すような金の目と、胸の痛み、その両方から目を逸らさず、噛み締めるように、はっきりと呟く。

 理不尽なことを言ったのは重々承知の上だ。アトレイユへの移住話を持ちかけたのは、他でもない自分なのだ。首脳会議の席での勧告も確かにあったが、何より自分自身、それが最良の策だと信じていた。長い目で見て、それが二人のためになると、建前ではなく本当にそう思ったからこそ、話を持ちかけた。
 だが、言い訳ではなく本当に、決定権は全てこいつに委ねていた。
 こいつが首を横に振れば、どんな手段を使ってでも、この話を白紙に戻す心構えでいた。勝手な言い分だが、最初にこの話をするためにアデル博士と船に出向いたとき、正直心のどこかで、こいつは承諾しないだろうと漠然と思っていたのだ。三年前のあの事件で、半年間眠り続けた彼女をずっと、誰より傍で見守り続けたこいつのあの姿を、一度でも見たことがある者なら、きっとそう思っただろう。
 だが、こいつはそうしなかった。何も言わぬまま、黙って、彼女を手放した。
 そうして出発の日、本当にこれで良いのかと問うた自分に、こいつは、あの言葉を返したのだ。

 その真意をどうしても、知っておきたかった。建前や何層にも塗り固められた偽りでない、こいつの本当の気持ちを確かめておきたかった。そんなことをしても今更、何がどうなるわけでもないのは分かっている。それが更に自分や、こいつを苦しめることになるのも分かっている。それでも、どうしても、聞いておきたかった。

 ファルコはこちらを見たまま、暫くの間、推し量るように黙っていた。そして不意に、ふぅと小さく鼻で息を吐くと、徐に背を向けた。
 一瞬、そのまま去るかに思えて、諦めに小さく目を伏せたとき、低い静かな声が薄暗い部屋に響いた。

「………俺の、一番の罪を消せるかもしれないって思ったからだよ……」

「一番の、罪?」
「じゃあな」
 思わず、その語句をなぞるように繰り返したこちらには構わず、それだけ言ってファルコが、後ろ向きに片手を挙げ、ひらりと窓から出て行く。その身軽さは、その昔金獣と呼ばれていた頃と、何ら変わらない。だが、その身を、心を縛るものは、あの頃とは比べ物にならないほど遥かに重く―――…。
 その重さに、一人きりになった部屋で、たまらず長い溜息を吐いた。
「罪は全部俺にある、か……」
 ひたすらに彼女のためと自分に言い聞かせ、鬼になる決意をしたばかりだというのに。
「なあ、ファルコ。お前がおいやったら、お前なら、どうする?」

 無意識のうちに口から毀れた言葉に、返る声があるはずもなく。

 太陽を失った月はどうなるのだろうと、薄暗い部屋で一人、夜が明けるまで考え続けた。




(NEXT⇒そんな彼の事情)

「LIKE A FAIRY TALE」 9

2012-06-19 16:25:56 | 小説「Garuda」御伽噺編
9.【 あの日失くしたもの 】   (トゥルー)


 頭が真っ白になる。
 という言葉を知ってはいたけれど、経験したのはこれが初めてかもしれない。
 待ち詫びたチャイムに飛びついて、急いで開けた玄関の外側に立っていた人は、確かに待ち侘びていた人に違いないのだけど。
 ふわふわした長い金色の髪も、金色の瞳も、昔と変わらないのに、すらりと伸びた綺麗な手足が、柔らかな曲線を描く胸元が、まるで女の人みたいで(いや、確かに女性なんだけど)。
 三年前と違い、あまりにも“女の人”になっていた彼女を前に、僕は一瞬、何にも考えられなくなっていた。

「トゥルー?」
 玄関を開けたまま動かない僕を怪訝に思ったらしく、マリアが不思議そうに首を傾げる。三年前は確かに幼さが勝っていたその顔も、すっかり大人びていて、もしかしたら僕なんかより、ずっと大人っぽいかもしれない。
「どしたネ、トゥルー? ははぁ、さては私があまりに美人過ぎて、声も出ないカ?」
 怪訝な顔つきから一転して悪戯っぽい表情を浮かべて笑ったマリアに、少しだけ昔の面影が見えて、ほっとしつつ、妙にドギマギしてしまう。
 おいおいしっかりしろ、僕。彼女は、三年前まで妹みたいに可愛がっていた、あのマリアだぞ。
「……おかえ、」
「マリア~~~ッ!!!」
 自分を叱責して、コホンと小さく咳払いした後にやっと言いかけた言葉を、馬鹿でかい声が打ち消した。ついでに、体も横に大きく突き飛ばされた。
「マリアマリアマリアマリア!」
「アンナちゃん!」
 僕を遠慮なく突き飛ばして、飛び出してきたアンナがマリアにひしっと抱きついて喚く。
「テメー、帰ってくるなら帰ってくるで、なんで連絡しねーんだよ! ゲジ男から聞いてアタシがどれだけビックラこいたと思ってんだテメーこのアホンダラ!」
 怒ってるのか喜んでいるのか……。まぁ、アンナらしいけど。そうして抱きついたまま、マリアの頭に拳をグリグリさせているアンナの背後に、ぬぅっと大きな影。あ、アンナ危ない。なんて警告する暇もなく(というか、そんな気はサラサラないけど)、現れたスレイが、その大きな手でアンナの肩を掴み、マリアから引っぺがし、横に押しのける。
「マリア…」
「…スレイ」
 ひとつ残った右目を潤ませて見つめるスレイに、マリアの目も潤んでいく。
「マリア!」
 まるで恋人同士の再会のように名を呼んでスレイが、マリアをガシッと抱きしめる。スレイの巨体に閉じ込められるように抱きしめらて、マリアがよく見えない。
「おいデカブツ、いい加減にしとけよ。マリアが潰れたらどーすんだテメー」
「あぁ、すまん。あまりにも嬉し過ぎてな」
 アンナの言葉に、スレイが目尻の涙を指で拭きながら素直に身を引いて、ようやく姿の見えたマリアに近づいて、奥に促す。
「マリア、ご飯食べるでしょ? マリアの好きなもの沢山用意したから。って、作ったのはスレイだけど」
「ああ、久々に腕を振るった大御馳走だ。お代わりも沢山あるからな。好きなだけ食べていいぞ」
「マリア、お前ちょっと、痩せたんじゃねーか? アトレイユでちゃんと食わせて貰ってんだろーな」
 そうやって、次から次に喋りかける僕らの間を歩きながら、マリアが、何かを確かめるように、ぐるりと視線を巡らせた。
「……ファルコは?」
 その問いに思わず一瞬口ごもり、スレイと視線を交差させた。
 そんな僕らとは対照的に、アンナが呆れたように首を竦め、いつもの如く、しゃきしゃきと口を動かす。
「それがあのバカ、ふらっと出て行きやがって。マリアが来るってことは知ってるはずだから、多分すぐ帰ってくんだろ」
「そっカ…」
「あんな奴放っておけ。それよりマリア、お前本当に少し痩せたんじゃないのか? こっちにはどれ位いられるんだ? 毎日でもお前の好物山ほど作ってやるから、食いだめしろ、食いだめ」
 心持声を小さくしたマリアの肩に、スレイが手を乗せ、食堂へと誘う。顔を見ずともその声で、素晴らしく上機嫌だと分かる。その後に続くアンナだって、スキップしそうな勢いだ。
 二人ともよほど嬉しいのだろう。そういう僕だって、すごく嬉しい。三年ぶりに僕らのマリアが帰ってきて、久々に一緒にご飯を食べるのだから、嬉しくって当然だ。
 そこまで考え、ちらりと玄関へと目をやる。

 おかしいのは、ファルコだ。

 バルバさんから連絡があってマリアが来ると分かってから、みんなそれぞれ浮かれまくって大変だったのに、その騒ぎの中、ファルコは一人何かを考えるような顔つきで黙りこくったままで。そして、そのままふらっと出て行ってしまって、それきりだ。一向に戻ってこない。
 一体、何を考えてるんだろう、あの男は。
 久しぶりに、ガルーダ全員が揃うというのに。
 マリアが、帰ってきているというのに。

「おい、何やってんだ、トゥルー。さっさと来い」
 アンナの呼ぶ声に、はっとして、我に返る。
 最近、独り考え事が多いせいか、どうもすぐ思考に行動が遮られてしまう。いけない、いけない。
「うん、今行く」
 気を取り直して、僕も食堂へと足を向けた。


 いつも思うことだけど、楽しい時間と言うのは、過ぎるのが早くて困る。
 三年ぶりにマリアを交えての夕食は、本当に楽しくて、僕もアンナもスレイも、終始笑顔だった。マリアが、ご飯を残したことが、驚きだったけれど。でも、マリアの言うように、確かに彼女ももう年頃の女の子なんだから、幼い頃のようにバクバク食べなくなっても当然かもしれない。
「あー、食い過ぎたー」
 爪楊枝片手に、アンナが満足げにお腹をさする。その横で、スレイが、残った料理をマリアに持って帰らせるためタッパに詰めながら、ちらりと時計を見た。その意図を汲み取って、僕もちらりと玄関へと意識を向ける。
 すっかり夜も更けたというのに、ファルコはまだ帰ってこない。一体、どこで何をしているのやら。もし、どこぞで飲んで酔っ払って倒れているなら、説教しなきゃ。こんな日に何をやってんだと、いつもの数十倍きつく言ってやる。
 そんな僕らの思考をまるで読み取れない鈍感女王が、『ちょっとトイレ』と席を立ったまま戻らないマリアを案じるように、眉を顰めた。
「マリアのヤツ、いつまでウンコしてんだ? 便秘か?」
「それは自分でしょ」
「うっせー。便秘の苦しみも知らねーくせに。罰としてトゥルー、お前ちょっと様子見て来い」
「いや、何の罰? 意味がまったく分かんないんだけど」
 白く乾いた視線を投げあう僕とアンナに苦笑しつつ、スレイが「でも確かにちょっと遅いな」と呟き、そのまま僕を見る。その無言の催促に白旗を揚げた。
「…分かったよ。僕が見てくるよ」
「悪いな。まあ、心配することはないとは思うが」
「素直に最初からそうしてりゃいいんだよ、快便ちゃん」
 思案顔のスレイとは違い、ムカつくほど能天気な顔で笑うアンナの頭を小突いて、マリアの様子を見るため、廊下に出る。

 実を言うと、僕も少し気になっていた。勿論、アンナとは違う心配だ。
 多分スレイも気づいて、気にしていたんだろう。
 マリアが時折不意に、まるで何かを耐えるみたいに、ぎゅっと唇を噛み締めることに。
 それは本当に一瞬で、次の瞬間にはもう見間違いかと思うほど、普通に戻ってしまうのだけど。
 その刹那の表情が、酷く辛そうで。
 どうかしたのかと聞くのさえ、躊躇われるほど、苦しそうで――――。

 きっと、単なる考え過ぎだ。
 そもそも、マリアは普通の人の倍は丈夫なわけだし、万が一どうかあるとするなら、それをマリアが僕らに言わないはずがない。
 そうだ、言わないはずがない。
 考え過ぎだ、考え過ぎ。どうも僕の思考回路は複雑過ぎていけない。アンナみたいに、短直的な考え方を少しは身につけよう。うん。

「…れ?」
 何とも言えないあやふやな不安を無理やり、楽天的な思考回路で飲み込んで顔をあげたとき、廊下の窓の向こう、デッキに佇むマリアの姿が、ちょうど目の端に映った。
 昼間と同じく澄んだ空に、くっきり浮かぶ金色の月。その月を、デッキの柵に寄りかかるようにして、マリアがじっと見上げている。
 それは三年前、よく目にしていた光景であると同時に、この三年間、僕がよく思い出していた光景でもあって。

 そのはずなのに、何故か。

 何故か、その光景を目にした瞬間、ゾクリと背筋に悪寒が走った。

 思わずゴクリと喉を鳴らした僕に気づいて、マリアがゆっくり顔を動かして、こっちを見る。
 窓を開ける手が、微かに震えた。
「ここにいたんだ? みんなあっちで待ってるよ?」
 なるべく平静を装って言葉をかけた僕に、マリアが黙ったまま薄い笑いを返す。そしてまた空へと顔を向けたマリアの、その横顔は、まるで芸術彫刻のように綺麗で。
 彫刻のように、まるで精彩がなかった。
「…マリア?」
 海は凪いでいるはずなのに、波の音がざあざあとやけに耳につく。
 呼びかけた声は、ずっと喉を使わなかったみたいに、酷く掠れてしまい、静かな潮風に簡単に掻き消されてしまう。なんで、僕はこんなに緊張しているんだろうと思った。
 本当に、一体何に、こんなに緊張しているのだろう。
 月光に照らされて仄かに光る白い肌も、それ自体がまるで月の光で出来ているように薄い光を放つ金の髪も、昔と同じもののはずなのに。よく見知っているもののはずなのに。
 何故か、そのままマリアが月の光と同化して消えてしまうんじゃないかと、そんな訳の分からない不安に突き動かされて、慌てて手を伸ばす。
 だけど、その手が届くより早く、その動きを制するかのように、マリアが唐突に口を開いた。
「あの二人」
「え?」
「アンナちゃんとゲジゲジ。付き合い始めたんだってネ」
「あ、あぁ」
 その声が至極いつも通りで。
 ほっと脱力しつつ、マリアの隣に立って言葉を返す。
「うん、そう。ちょっと前からね。と言っても相変わらず、ど突き漫才ばっかりやってるけど」
「そッカ。………ファルコと、ツバキさんも?」
 じっと空を見上げたまま、ぽつりと付け足すように言われた言葉に、瞬間的に、声帯が潰れたかと思うくらい喉が引き攣った。
 そんな僕をゆるりと振り返って、マリアが静かに微苦笑する。
「気を遣わないでいいネ。見たヨ。二人で、歩いてるとこ。結構お似合いだったネ」
「……あの二人は、付き合ってるってわけじゃないと思うよ…」
 視線を下げて、それだけ言うのが、精一杯だった。
 ぶっちゃけ、ファルコが誰と付き合おうと僕の責任ではないし、それについて僕がどうこう言う権利もない。だからこんな風に、静かに笑って二人の名前を口にするマリアに対して、僕が罪悪感を覚える必要はないはずで。なのにどうして、こんなに居心地が悪く感じるんだろう……。
 ざあざあと規則的な波の音が、耳に煩い。何となくマリアの顔が見れなくて、下を向いたまま、掌を握り締める僕を少しだけ見て、マリアがまた空に視線を戻すのが気配で分かった。
「ねぇトゥルー。私、変わった?」
「え?」
「三年経ったネ。ここを離れて」
 呟いてマリアは、息を吐き出すように、静かに声を紡ぐ。
「三年間。変わらないものなんか一つもないって知ってたのに、ここだけはずっと変わらないような気がしてた。ホント、馬鹿ネ。私自身、こんなに変わったって言うのにナ」
「………マリアは、変わってないよ。……そりゃ確かに外見はすごく大人っぽくなったけど、でも、マリアは、マリアだよ? 変わって、ないよ」
「…………うん………」
 寂しそうに少しだけ目を伏せたマリアに、何故かそれ以上の言葉をかけてやることが出来なくて、僕もまた俯く。
 黙り込んだ僕達の間に、湿った潮風が静かに通り抜けていく。

 あの日、マリアがいなくなってしまった日。
 あの日から、ずっとモヤモヤしているもの。
 考えるたびに行き詰って、いつの間にか考えることも止めてしまったことがある。

 小さく深呼吸して、自分を落ち着かせてから、ぐっと顔を上げた。
 声が震えたりしないよう、一言ずつゆっくり口にする。
「ねぇ、マリア。あの日、マリアがアトレイユに行くって決めた前の晩、ファルコと何かあったの?」
 月の光とざあざあと繰り返す波の音。その中で、マリアが真っ直ぐに僕を見た。
 その目は、とても澄んでいて。

 ……ああ、そうだ。マリアはいつだって、真っ直ぐな目をしていた。いつだって澄んだ目で真っ直ぐに、自分や人と向き合っていた。
 その強さは、変わらない。

 やっぱり何も変わっていないじゃないか。

「もし、私が種子じゃなかったら。ファルコを、好きだなんて言わなかったら。そしたら私はあの夜、ファルコを泣かすこともなかったかもしれないネ…」
「え……」
「ねぇ、トゥルー。どんな私だったら、今もここにいれたのかナ」
 問いかけるようにそう言って、マリアが細い指で、デッキの柵を握り締める。
「どんな私なら、ずっとファルコの傍にいられたネ……」
 僕は、言葉が出なかった。頭がグルグルして、言葉を忘れていた。

 泣いた? ファルコが? 

 グルグル回る頭をよそに、波の音だけが、何も変わらずに、ざあざあと耳に流れる。
 本格的に言葉を失くしてしまった僕の隣で、マリアはただじっと俯いている。


 一つだけ、分かった気がした。
 アデル博士と尋ねてきた日、ゾロさんがファルコに頭を下げた理由。

 マリアがここに、ファルコの傍にいたいと願ったように、ファルコも、マリアを求めていたのかもしれない。
 マリアが望んだように、本当はずっとファルコも―――。

 理解した途端、一気に目が覚めたように、ずっと気になっていたモヤモヤが晴れていく。
 でも、その後に残ったのは、三年間と言うどうしようもない時間だった。
 過ぎた時間は、マリアにも、僕らにも、そしてファルコにも、確かに三年間分あって。
 悲しいくらい残酷に、あの日とは違う時間が、僕らの間には流れてしまっている。

 例えばあの日、違う道を選んでいたなら、マリアは今も、あの頃のように顔全部で笑っていたのだろうか―――。


 何処にもやり場のない、やりきれなさのようなものを抱えて、僕はただ、マリアを見つめるしかなかった。




 そうして。
 彼女がその夜、『さよなら』をするために僕らに会いに来ていたのだという、身も凍る事実を僕が知るのは、この日から二日後のことになる。





(NEXT⇒深夜一時の密会)