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硝子のスプーン

そこにありました。

「LIKE A FAIRY TALE」 8

2012-06-19 16:25:02 | 小説「Garuda」御伽噺編
8.【 毀れた空の色 】   (バルバ)


「以上。各自、第三機動隊員としての自覚を持ち、今後も警戒を怠るな」
 シューインの言葉を皮切りに、会議は終わった。
 実際は会議というより、昨夜未明に行われた大捕り物に関する一方的な命令通達だったが、それについて何か疑を唱えたり、不平を漏らしたりする者は誰もいない。それぞれ疲労の色を隠せずとも緊張した面持ちで、ぞろぞろと会議室から出て行く隊員達を見送る。
 そうしてから、そっと片目で、横にいるマリアちゃんを見やった。

『手出しは一切、無用ヨ』

 その言葉通り、一大テロリストグループのアジトをたった一人で襲撃し、組織そのものを壊滅させてから、数時間。後は任せて隊舎で休めというシューインの言葉に首を横に振り、マリアちゃんはずっと、指令官としての任務を果たしている。さすがに汚れた衣服を取り替えるために、一度隊舎に引っ込んだが、すぐにまた戻ってきて、今も、この後に予定されているマスコミに対する会見に備えて、書類のチェックを、一人黙々とこなし続けている。
 先ほどまでは、白髪の青年が寄り添うように、そんなマリアちゃんの傍らにいたのだが、どうやら、彼はマリアちゃんほどの体力はないらしく、夜が明ける前に、アトレイユが派遣してきた特殊部隊の男達に囲まれて、隊舎に戻っていった。
 その際に、マリアちゃんも少し休んだらどうかと、俺からも提案したのだが、「ダイジョブ」の一言で片付けられてしまった。
 実際その顔に、疲れの色は微塵も見えない。疲れの色どころか、何の色も見えない。大袈裟でも何でもなく、この数時間の間、時折不意に、眉間に小さな皺を寄せる以外、マリアちゃんは全く表情を変えていない。こちらが何かを言えば、それなりの返答を返すには返すが、それだけだ。
 まあ、事情が事情なだけに、仕方ないと言えば仕方のないことかもしれない。
 重責を担う人間は、その使命を果たすために、まず一に“自己”を消そうとするものだ。それに、マリアちゃんが、その細い肩に背負うものの重さは、並大抵のものではないとも理解している、つもりだ。
 だが、しかし、それにしても。と、どうしても考えずにはいられない。
 あれほど、感情が素直に表に出る子だったのに。
 生き生きと明るく笑う子、だったのに。
 過ぎ去った三年間に苛立ちを募らせても、仕方がないのは分かっているけれど、何と言うか、痛ましくて、見ていられないのだ。まるで仮面を被ったかのような、今の彼女を。

「ゲジ眉」
「えっ?」
 そんなことを考えていたものだから、書面から視線を逸らすことなく発せられたその声に、思わずビクッと体が反応してしまった。
 そんな俺をチロっと見て、マリアちゃんが、ふぅっと小さく息を吐く。
「いくら私が美人だからって、それ以上ジロジロ見るなら、セクハラで訴えるヨ?」
「おお、すまん、すまん」
 密かに盗み見ていたつもりだったのだけど、どうやら不躾過ぎたらしい。どうにも俺は、『密かに』とか『そっと』とかいう行為が下手糞で困る。
 ガハハと笑い、頭を掻く俺を無視して、マリアちゃんがシューインへと書類を突き出す。
「シューちゃん、マスコミへの発表内容は、これで問題ないネ。私は表に出るわけにはいかないから、後はよろしくヨ」
「承知した。……ところで、マリア。お前、腹空かねェのか?」
 咥え煙草で、書類を受け取ったシューインの言葉に、はっとして、ぽんと手を打つ。
「おお、そうだ! マリアちゃんと言えば、飯じゃないか! いかん、これはすっかり失念していた。すぐに何か…」
「いい、要らないネ」
「え? でも、朝飯もまだだろう? お腹空いてないの?」
「…ダイエット中ネ」
「えっ。ダイエットって。えっ、マリアちゃんが?」
 予想外の返事にびっくりして、つい聞き返した俺の横で、マリアちゃんが淡々とした表情のまま、すっと席を立った。
「ちょっと外の空気吸ってくるヨ。朝飯は、お前ら二人で食うがいいネ」
 それだけ言って、俺ともシューインとも目を合わせることなく、一人、会議室を出て行く。
 その足取りはしっかりしているのに、その背中はどこか、儚げで。
 チっという舌打ちに顔を向ければ、シューインも同じことを思ったのだろう。
 眉間の皺をいつもの数十倍グレードアップさせて、マリアちゃんを追おうとするシューインを手だけで制し、俺は立ち上がった。

 正直、何をどういう風に言えばいいのか、分からない。
 ただ、一人ではないことを、甘えてもいいのだということを思い出して欲しかった。


 中庭で、ぽつんと、晴れた空を見上げているマリアちゃんに近づき、横に立つ。
 そうして同じように空を見上げながら、コホンとわざとらしくした咳払いに、マリアちゃんが再びチロリと俺を見たのが分かった。
「…何か用カ?」
「いやぁ、なんか俺も外の空気が吸いたくなって?」
「なんで、疑問形ネ」
 無意味にカハハと笑う俺の横で、マリアちゃんが呆れたように、ふんと鼻を鳴らす。それを了承と受け取って、前を向いたまま目だけをマリアちゃんに向ければ、ちょうど、飴玉を口に放り込んでいるところだった。
「飴玉じゃ、お腹膨れないだろ? ダイエットもいいけど、飯はちゃんと食ったほうがいいと思うぞ」
「……ほっとくネ」
 小さく眉間に皺を寄せつつ、もごもごと口を動かすその姿に苦笑して、また視線を空に戻す。
「今日もいい天気になりそうだな」
「……そうネ」
「こういうのを秋晴れって言うんだろうな」
「……そうネ」
「秋といえば、焼き芋だな」
「……」
「そうだ。全部片付いたら、隊舎で焼き芋大会でもしようか? マリアちゃんアレ好きだったろ?」
「……」
「あ、そっか。ダイエット中だっけか。すまん」
「……」
 いかん。どうも会話が、うまく進んでいない気がする。こういう話は、やっぱりシューインの方が向いていたかもしれない。
 黙り込んでしまったマリアちゃんを横に、一人、腕組する。
 そのまま少し考え、それからもう一度、コホンと小さく咳払いをして、口を開いた。
「ありがとうな、マリアちゃん」
「…何が?」
「マリアちゃんのおかげで、長年追っていたテロリストグループを一気に潰すことが出来た。俺達だけだったら、こうはいかなかっただろう。多分、いや、間違いなく死傷者が出てたはずだ。本当に感謝してる」
「………別に、あれはお前らのためじゃないネ」
 ややあってぼそっと呟くように返ってきた返事に、少しだけ視線をずらせば、ぐっと握り締めた、マリアちゃんの小さな手が見えて。
「なぁ、マリアちゃん」
 その手が微かに震えているのを認知した瞬間、もう勝手に口が動いていた。
「俺達じゃ頼りないかもしれんが、もっと、甘えてくれていいんだぞ」
 真っ直ぐマリアちゃんの顔を見て言った言葉に、マリアちゃんが顔を向け、目が合う。
 その金色の大きな目の中の自分を見ながら、思っていることをそのまま口に出した。
「無理強いする気も、あれこれと詮索する気もない。でも、マリアちゃんには、マリアちゃんの力になりたいって思ってる人間がいることを忘れないでくれ」
 言う俺をマジマジと見ながら、マリアちゃんが目をパチパチと瞬く。そういう仕草は、昔とそうあまり変わらない。
「…相変わらず、ストレートだナ、ゲジゲジは」
「すまんな。変化球はどうも苦手みたいだ」
 笑って頭を掻く俺を、またじっと見た後で、マリアちゃんは視線を逸らした。
 そうして今度は空じゃなく、地面を見下ろす。
「…ありがと、ナ。でも…。これは、私の問題ネ」
「………そっか」
 その目に再び宿った、あの日と同じ、諦めのような妙な潔さに、ぎゅっと拳を握る。
 やっぱり、俺じゃ役不足らしい。考える間でもなく、この子の心を本当に動かすことが出来るのは、昔から、一人しかいなかった。きっとあの男なら、今の、張り詰めて今にも切れてしまいそうな弦のようなこの子を、どうにかしてやることが出来るのだろうけど。

 ―――けれど、恐らく、今のマリアちゃんは、それを望みはしないのだろう。

「分かった。でも、これだけは、一人じゃないってことだけは覚えておいて。マリアちゃんには、俺達だけじゃない、ガルーダの連中だっているんだから」
 覗きこむように少し頭を傾けた俺を、マリアちゃんは見なかった。まるで縫い付けられたかのように動かない視線に、心の中だけでそっと息を吐き、俺も、地面に目を落とす。
 と、少しの間を置いて、マリアちゃんが「そう言えば」と、小さく口を開いた。
「アンナちゃんと付き合い始めたんだってナ」
「おおっ! 誰からそれを!?」
「グリちゃんに聞いたヨ。よかったナ、想いが叶って。長年殴られ続けた甲斐があったネ」
「いやあ。その節は本当に色々お世話になりまして」
 いかん、いかん。アンナの名前を聞くだけで、条件反射みたいに顔がにやけてしまう。こんな時にマリアちゃんの前でまで、デレデレしてたら、マジでアンナに殺されかねない。
 ナイフ片手にどす黒いオーラを放つ愛しい人を思い浮かべて、半ば本気で寒気を覚えた。身震いし、気を引き締めようとマリアちゃんを見れば、ちょうどマリアちゃんも、こちらを見上げたところで。
 けれど、お互いの目が合った瞬間にマリアちゃんが、ぐるっと首を回して目を逸らした。
「ゲジゲジ、は…」
「ん?」
「………辛く、なかったカ? アンナちゃんを、ずっと好きで」
「え?」
「…全然相手にされなくて、殴られてばっかで…。でも、ずっと好きだったデショ? アンナちゃんのこと」
「おう」
「……辛くなかった? もうやめようって、思ったことなかったカ?」
「え? やめるって? アンナを好きなことを?」
「………うん……」
 どこか気まずそうに小さく頷くその姿に、首を気持ち傾げる。
 何故、急にこんなことを聞き出すのか、さっぱり理由が見えない。脈絡がないとは、きっとこういうことを言うんだろう。
 じっと俯いたまま動かないマリアちゃんを見ながら、片手で顎をさすった。
「そうだな…、考えたことなかったな」
「一回も? まったく?」
「まあ、周りからは諦めろって散々言われたけど。でも、いつか絶対、通じるって信じてたからな」
「すっごい自信だナ…」
「そっか? でも、それがどうかしたの?」
「………別に、どうもしない、けど……」
 怪訝さを隠せず聞き返した俺に、ぼそぼそとそう答え、マリアちゃんが小さく、きゅっと唇を窄める。
「じゃあ、もし、アンナちゃんに他に好きな人が出来ちゃったら、どうするカ?」
「どうするって?」
「だから、アンナちゃんのこと、諦めるカ?」
「あ~……いや、それはないな」
「どうして?」
「どうしてって…。まあ、実際そうなったら、泣いたり喚いたりはすると思うけど。けど、俺はもうアンナに惚れまくってるからなぁ…。もう、手遅れだ」
「手遅れ?」
「何ていうか、アンナのこと思う気持ちはもう、体の一部っていうか、人生の一部みたいになっちゃってるから」

 言いながら、空を見上げる。
 綺麗に澄み渡った、広く青い空。この空の下に自分と同じように彼女がいると思うだけで、自然と湧いてくる力強く暖かな感情。
 いつからか自分の核となったその感情に一人、目を細めた。

「アンナは、俺にとって大事な人だ。そういう人がいるだけで人生は大きく変わってくる。実際、アンナと出会って俺の人生は変わったし、俺と出会ってくれたアンナに、めちゃくちゃ感謝もしてる。だから、もしそういうことになっても、きっと俺は、アンナをずっと好きだと思うよ」
「でも…、好きなら、その人にも自分を好きになって欲しいって思うのが普通デショ? 他の誰かを好きな人をずっと好きでいるなんて、辛いだけヨ……」
「辛いだけ、か。まあ、確かにそうかもなぁ。でも、しょうがないんだよ。惚れたが負けってよく言うだろ? 俺はもう、アンナに心底惚れ込んでるからさ」

 例えば、断崖絶壁に咲く花を欲しいとアンナが言ったなら、俺は崖をよじ登ってその花を彼女に届けるだろう。
 例えば、時間を止めてとアンナが言うのなら、俺は宇宙に飛び出してでも、その方法を探すだろう。
 アンナのためなら、俺はきっと、命だって賭けられる。

 こんなに強い想いを俺にくれた、彼女、だからこそ。

「アンナが笑っていてくれるなら、その理由が俺じゃなくても別にいいんだ」

 例えば、アンナの笑顔が、俺じゃない他の誰かのために咲く日が来たとしても、俺と同じように、そいつの存在でアンナが強くなれるのならば。
 そいつごとアンナが笑えるように、そいつごと幸せになれるように、俺は力を尽くそう。

 本気でそう、思うから――――。


「俺にとって一番大事なのは、アンナが誰を好きかじゃなくて、アンナが幸せであること、なんだよ」


 言い切って、視線を空から横に戻すと、いつのまにか顔を上げていたマリアちゃんが、こっちを凝視していた。
「……ホント、相変わらずバカネ、ゲジゲジは」
「そっか?」
「うん。でも、なんかちょっとだけ、かっこいいヨ」
「そっかあ?」
「うん。さすがは、アンナちゃんが惚れただけのことはあるネ」
「そうか」
 ガハハと笑う俺を見ながら、昔のようにマリアちゃんが、ウヒヒと笑う。
 仮面ではない、マリアちゃん自身のその表情に、密かにほっと胸を撫で下ろす。よく分からんが、どうやら、少しは力になれたらしい。
 そうやって一頻り笑い合った後で、マリアちゃんはもう一度空を見上げ、一人で頷いた。
「じゃ、そのゲジ眉タイチョーを見込んで、特別任務を命じるネ」
「へ?」
「アンナちゃんに直で連絡つけてヨ。私が、…マリアが今日、船に顔を見せに行くって」
「了解であります!」
 ビシっと敬礼を返した俺に、マリアちゃんはもう一度、ニっと笑って隊舎のほうへと踵を返した。「後はよろしくヨ」と、それだけ言って、去っていく後姿を少し見送ってから、俺もまた、シューインの待つ会議室に戻るため、中庭を後にする。

 全部終わったら、一日だけでも何とか休暇を取って、アンナと二人、アンナの好きな場所に行こう。
 リムシティ中の花屋を全部回って、アンナの好きな花を全部集めて、大きな花束にして、プレゼントしよう。
 照れ屋の彼女のことだから、サムイことすんじゃねーと、また殴られるかもしれないけど。
 きっと、その後でこっそり、とびきり綺麗な笑顔を見せてくれる。


 そうして部屋に戻る前、見上げた空に浮かんだ愛しい人のその笑顔に、一人そっと、祈りを重ねた。
 願わくは、この青空のように、どこまでも澄んだ笑顔を。

 どうか、あの子が取り戻すことが出来ますように。




(NEXT⇒あの日失ったもの)

「LIKE A FAIRY TALE」 7

2012-06-19 16:23:33 | 小説「Garuda」御伽噺編
7.【 獣と化してさあ今宵 】   (ゾロ)


 迷いに迷いぬいた末に、踏み出した一歩だったはずなのに。
 今も分からない。
 何が正しくて、何が正しくなかったのか。
 ただ繰り返し思い出すのは、あの日のあいつの言葉。


 午前2時17分。
 運転席とパーテンションで仕切られた対面式の後部座席に流れる静寂の中、飴を噛む、カリっと言う音が殊更大きく響いた。
 その音に僅かに視線を上げたこちらに気づいたのか、マリアちゃんがふっと小さく息を吐き、口を開く。
「何も、モジャモジャが来る必要なかったのに」
 憮然とした表情で、スモークフィルムの貼られた窓ガラスの外に視線を投げたまま、マリアちゃんが声を尖らせる。その拗ねたような態度に、まだ微かに見て取れる幼さに痛んだ胸を無理やり無視して、努めて軽い口調で言葉を返した。
「まぁ、いいやんか。おいも官邸に篭ってばっかりじゃ気が滅入るとよ」
「でも。モジャモジャは奴らの一番の狙いなんデショ? もし、モジャモジャがここにいることがバレたら、こっちの計画が水の玉ヨ」
「マリア、それを言うなら、水の泡じゃ…」
「そうとも言うナ」
 白髪の青年が遠慮がちに入れた訂正に、軽く肩を竦めて見せながらも、マリアちゃんは外から視線を逸らすことはない。
 その視線の鋭さは、そのまま、彼女の三年間を表しているのかもしれない。
「大丈夫やって。まさか大統領御自ら、こげん時間にこげん場所におるなんて、誰も思わんよ」
 漠然と頭に浮かんだそんな考えを押し込めるように、殊更軽い調子で笑い、まだどこか幼さの見え隠れする、それでも以前より遥かに大人びたその顔を覗き込む。
「それより、マリアちゃんこそ、本当に大丈夫とね? 何も一人で全部相手にせんでも、機動隊はあれで結構強かよ?」
「ダイジョブ。ていうか、一人のほうがやりやすいヨ。守りながら戦うような、余裕も時間もないし」
 こちらを見ることもなく淡々とそう答え、マリアちゃんが腰につけた鞄の中から取り出した飴玉を、口に含む。
 再会からこっち、もう何度目にしたか分からないその光景に、こちらが何か言うより早く、彼女の隣に座る白髪の青年が、小さく項垂れた。
「…ごめん、僕が戦えたらいいのに」
 ぽつりと零すように呟かれたその言葉に、マリアちゃんの視線が初めて、揺らいだ。
「何言ってるカ。ラビはそんなこと気にしなくていいネ」
「…ごめん……」
「違うヨ、ラビ。それは反対。謝らなきゃいけないのは私ネ。悪いのは、ラビじゃなくて私ヨ」
 ゆっくりと首を振り、きっぱりとそう告げた金色の目は、切ないほどに潔くて。
 己の無力さに、今更ながら、身を焼かれるような思いがした。


 これ以上、大切なものを喪わせるつもりなど、毛頭なかったのに。

 あの日の決断が、彼女から、すべてを奪うだけだと知っていたなら。
 あいつをまた、地獄に突き落とすだけだと、知っていたなら。


 殺すか、殺されるか。その二つの選択肢しかなかったあの時代。
 今は遠いその過去の中で、奪うだけだった自分に、与えることも出来るのだと気づかせてくれた二人の人間。
 その一人は死に、もう一人であるあいつは、生涯消えることのない傷を心に負った。
 何もかも、自分のせい。
 肝心なときに護ることが出来なかった、自分の過ち。
 だからこそ、あいつだけは救いたいと思った。その幸福を支えたいと切に、切に願った。

 なのに。


 その幸福は、もはや絶望的な毒にその身を蝕まれてしまった。

 他でもない自分が下した、あの日の決断によって――――――。



 ややあって車内に響いた、窓ガラスを叩くコツコツという無機質な音に、マリアちゃんが再び視線をそちらに移し、落ち着いた態度で窓を開けた。
「作戦決行に付き、準備完了の旨、ご報告致します」
 ドア越しに敬礼する隊長を見上げ、静かに頷くその眼差しには、微塵の迷いも、弱さもない。
 もし昨日の晩、彼女が彼らに―――以前彼女が“ウチ”と呼んだあの船の乗組員を別として、彼女がこの街で一番心を開いていた彼らに、ほんの少しでも甘えや救いを求めたなら、自身の立場を投げ捨てることになっても、彼女を全てから隠し、残り少ない時間をあいつの傍で過ごさせようと決めていた。それが、せめてもの償いだとも思った。

 けれども、彼女は強くて。

 哀しいくらい、強くて。


「A地点を一番隊、三番隊。B地点を二番隊、四番隊がそれぞれ包囲。五番隊から七番隊は指示通り、C、D地点にて特別車を護衛中。各隊常時臨戦可能です」
「民間人の避難は? うまくいったカ?」
「問題ありません。0220現在、第五ブロックの住民は犬に猫に至るまで全員、第四ブロックに移動を確認済みです。指示にあった隣接するブロックへの全通路、および下水道の封鎖も実行済みです」
「ご苦労サマ。後はもう手出しは一切、無用ヨ」
 手短に告げ、マリアちゃんが首だけで車内を振り返る。
「んじゃ、行ってくるですヨ」
「マリア。くれぐれも無茶はしないで」
「心配いらないネ。テロリストなんて一瞬ヨ、すぐ帰ってくるネ」
 不安の色を隠せずに目で追いすがる青年に、力強くそう言って、そのまま、顔をこちらに向ける。
「モジャモジャ。私がいない間、ラビを頼むヨ」
 その顔を真っ直ぐに見返して、しっかり頷いた。
「…分かっとる。こっちのことは心配せんでよか」
 迷いを断ち切るように深呼吸し返した言葉に、マリアちゃんが「アリガト」と薄く笑い、ドアを開けて待つ隊長の方へと、颯爽と身を翻す。
 そのまま一度も振り返ることなく、待機していた機動隊隊員の間を抜け、ゆっくりと歩いていく彼女の姿は、美しく、そして気高かった。

 甘えも助けも求めない道。
 その道を進む覚悟を彼女が決めたのなら、自分もまた、覚悟を決めよう。
 三年前、彼女が決別しなければならなかったもの全て、そして、この三年間で彼女が背負わねばならなかったもの全てに、彼女が押し潰されることがないように、せめて、その後ろは自分が守ろう。
 迷いも悔恨も懺悔も、今このときより全てを捨て、彼女と同じ道を、鬼と化して進もう。
 彼女の中の毒が、その身を食い尽くすまで、あと少し。
 ならば、ただひたすらに、彼女のために。



『―――罪は全部、俺にある』

 そう決めても尚、繰り返し記憶の底で響く、あの日のあいつの言葉を振り切るように、そっと目を閉じた。







(NEXT⇒毀れた空の色)

「LIKE A FAIRY TALE」 6

2012-06-19 16:22:40 | 小説「Garuda」御伽噺編
6.【 愛とか恋とかいう言葉で説明できたら良かった 】   (シューイン)


 突然の深夜訪問の翌日。夜も更けた時間に、マリアは、また突然基地にやってきた。
 今度は大統領じゃなく、やたら色の白い白髪の男と一緒に、やたらがたいのいい黒尽くめの男共を大勢従えて。

「常識ってものはねェのか、お前には。来るなら来るで、事前に連絡を入れろ」
「そんな時間はないネ。ゲジゲジはどこカ? 大事な話があるヨ」
「バルバなら、隊長室だが? ってこら。勝手に入るな」
「いちいちうっさいナ、シューちゃんは。ほら、モジャモジャからの正式な命令通達書」
 苛ついたようにマリアが眉を顰め、手に持っていた一枚の紙面を俺の眼前でひらひらさせる。
 トラビア共和国政府の公式印章と大統領の正統なサインがなされたそれを受け取り、間違いなく本物の公式文書であることを確認しつつ、その内容に、思わず舌打ちを付きそうになった。
「今の私は軍事長官と同じ身分ヨ。分かったら、恭しく隊長室にご案内するがいいネ。それから、これからのこと話したいから、とりあえずどっか大きな部屋に士官全員、至急集めるネ」
「………了解した」
 正式な大統領命令では、従うほかない。
 ヘリングに隊長室へ案内するように言いつけ、士官全員に緊急収集をかけるべく、背を向けたオレにマリアが、「あ、それと」と、付け足すように声を投げる。
「隊舎に部屋を二つ用意してヨ。二間続きになってる、なるべく日当たりの悪い部屋。それから大至急、全部の窓に遮光カーテンつけること」
「は?」
「今日から、私とラビ、第三機動隊隊舎を根城とすることにしたネ」
「はァッ?」
「そういうことだから。後々、軍法会議にかけられたくなかったら、さっさとするヨ」
 眉間に思いっきり皺を寄せたオレに、生意気にも飄々とそう告げて、マリアが早くしろと言わんばかりに、しっしっと手を振る。
 そのまま、二十人ちょっとくらいだろうか、ぞろぞろと見るからに屈強そうな黒服の男共を引き連れて、マリアは、一度も視線を揺るがすことなく真っ直ぐ前だけを見て、隊長室へと案内されていった。



「……納得、いかねェ」
 深夜の、それでも尚、人通りの絶えることない繁華街を歩きながら、煙草をふかす。
 ついさきほど、上司となったマリアから、これからのことについて説明を受け、任務を遂行する上での作戦を練った。たまに、ラビとかいう白髪男が口を挟むことはあったが、その内容の殆どを、マリアが一人で決めた。作戦に抜かりはなく、バルバを始め、俺やその他、機動隊の幹部連中は、口を挟む必要がまるでなかった。それほどまでに完璧だったのだ、マリアが指示した内容は。
「…種子、か……」
 最終兵器として造られた人工生命体。その本質が、並外れた腕力や俊敏さといった身体能力だけでは測れないことを、三年前、ゼイオンの神算鬼謀とも言える才略に、赤子のように翻弄された経験から、知っている。特に、マリアはゼイオンよりも、より精巧に造られた、いわば完全体なわけだから、戦闘に関するアイツの、天賦の才とも言える才覚を疑う理由など探すほうが無駄だと、分かっている。
 分かっては、いるが。

 どうしても、何か、納得いかない。

 収集した士官が揃ったところで、広間に現れたマリアは開口一番、オレ達に言った。
 この街を守るために、どうか協力してほしい、と。そして、面倒を持ち込んですまない、と。
 神妙な面持ちで、深々と頭を下げたのだ。あの、マリアが。
 そうして、すっと顔をあげたマリアは、一度も見たことがないほど淡々とした態度で―――微かな感情の揺らぎすら、一切見受けられないほどの完璧な―――で、オレ達に任務を説明すべく、話を進めていった。

 大人になった。そう言ってしまえば、それまでかもしれない。だが、たった三年で、あんなにも変わってしまえるものだろうか。
 マリアは、腹が立つほど無遠慮で、騒がしくて、常識知らずのヤツだが、あれでいて、繊細と言うか、情が深いところがある。少なくとも、オレが知っている限りでは、そうだった。情が深すぎるものだから、自分を悪用しようとしたゼイオンすら、心から憎むことが最後まで出来なかったヤツだ。
 そんなヤツが、たった三年で、情も甘えも弱さも何ひとつ見せずに、敵とはいえ人を陥れ、殺すことも辞さない作戦を淡々と指示出来るようになるものだろうか。
 どうもスッキリしない。個人的な会話の中で、生意気な口を叩く姿は、三年前とあまり変わっていないように見えるのに。

 隣で聞いていたバルバは、話の間中、そんなマリアを黙ってじっと見ていた。
 ひょっとしたら、バルバはもう、何か気づいているのかもしれない。
 オレとは根本的に器が違うというか、人を見る目が違うバルバなら、今のマリアを見て、オレとは違う解釈をすることが出来るのかもしれない。

 それから、もうひとつ、納得いかないというか、釈然としないのは。
 もう一人の種子である、ラビとかいう男のことだ。
 世界にたった三人、もしくは二人しかいない種子なのだし、非常事態の今、お互いに気遣いあい、大事にするのは当たり前かもしれない。だが、どこか変だ。異常、とまでは言わないが、あの男がマリアを案じる様子、そしてマリアがあの男を気遣う様は、少し度を越しているように思えてならない。まるで、明日にでも互いが―――――。


「っと、悪ぃ。余所見してた」
「いや。すまねェ、こっちこそ見てなかっ…」
 すれ違いざまに肩をぶつけてしまった相手の顔を見た途端、眉間にググっと皺が寄ると同時に、舌打ちが出た。これはもう、反射の域に達していると、我ながら思う。
「おーいおい、仮にも市民の税金で飯食ってる軍人さんが、市民にぶつかっておいて、その態度はないんじゃねぇの?」
「るせェな。大体、税金なんざ払ってねェだろうがテメーは」
「失敬な。これでもちゃんと消費税払ってますぅ」
「アホか。んなもん、鼻水垂らしたそこらのガキだって払ってんだよ」
「ガキは払ってませんんん。払ってるのは、ガキに小遣い渡してる親ですうう」
 相も変わらずどこか間延びした、ふざけたその顔に苛々指数がドンドン上がっていく。屁理屈抜かしてんじゃねェアル中が、と思わず怒鳴りかけて、やめた。代わりに小さな溜息を吐く。

 このアホだって、もういい加減いい年こいた大人なのに、アホさ加減は三年経っても何も変わっちゃいない。なのに、このアホと一緒に暮らして、それこそ馬鹿の一つ覚えみたいにこのアホに付いて回っていたガキンチョは、たった三年の間に、いわゆる立派な大人ってヤツになっている。
 環境の違いってやつか。
 いや、立場の違い、か。
 どちらにしろ、一方はアル中寸前の社会適応力ゼロのダメ人間のままで、片や一方は、一国の非常時に軍事長官という大役を卒なくこなせるほどの判断力を持った大人に……。

「もしもーし? なに人の顔見て、いきなり物思いに耽ってんの。気持ち悪いんだけど。とうとうヤニで肺だけじゃなく脳まで真っ黒けになったんじゃねぇの、お前」
「…うっせェな。アル中に構ってる暇はねェんだ、とっとと失せろ。こっちはテメーんとこの金髪娘のせいで、色々と忙しいんだよ」
「………マリア、か?」
「他に誰がいんだよ。テメーんとこの金髪娘つったら、アイツしかいねェだろうが」
 アイツの話がでた途端、僅かに声質を変えたアホに、ほんの少し鼻白んだ気分になりながら、二本目の煙草に火をつける。
「お前だって、もう会ったんだろ? マリアと」
「あぁ……まぁな。ツバキと一緒にいるときに、会った」
「ほぉー……」
 ヘリングから噂は聞いてはいたが、このアホ、本当にあの赤毛の女とデキてんのか? ったく、物好きな女もいるもんだ。オレだったら、こんなアホ野郎、絶対、お断りだがな。
 ますます鼻白むオレを尻目に、目の前のアホは一人、何か思案するように顎に手を当てて黙り込んでいる。

 その様子に、何とも言えない違和感を覚えた。

「…しかし、アイツもだいぶ変わったなァ。前は、食い物とお前のことしか頭にねェようなただの馬鹿って感じだったのに。まァ、アデル博士が殺されて、その下手人がゼイオンかもしれねェんじゃ、いくらアイツだって、いつまでも馬鹿やってられねェか」
「………なんつった、今?」
「あ?」
「誰が、誰に殺されたって…!?」
「なんだよ、お前……。聞いてなかったのか……?」
 驚きに目を見開くアル中予備軍を、思わずまじまじと見る。
 てっきりもう聞いていると思っていた。
「まぁ、下手人のことはまだ推測でしかねェが、アトレイユの国家警察は、そう決め付けてるみてェだぞ」
 補足するようにそう言うオレと視線を合わせることなく、目の前のアル中予備軍は、黙って眉間に皺を寄せている。
 それにしても、あのマリアがこの男に、こんな大事なことを話してないとは、どういうこった。いくら三年経っているとはいえ、以前のこいつらの関係を思えば、それこそ誰より先に相談していてもおかしくない。というか、そう考えるのが普通だ。それをどうして。

 そう考え、ふと、先程の淡々としたマリアの態度を思い出す。
 そこでようやく、なるほどな、と合点がいった。

 あれはただ、感情を押し殺していただけか。
 ああでもしないとマリアは、自分を保っていられないのだろう。
 この男に頼らずに、アデル博士の死やそれに纏わる諸々のこと、たとえば、ゼイオンと自分達が同じ種子であることに対する周囲の目なんかに耐えるためには、恐らく、感情を押し殺してしまう他なかったんだろう、マリアには。
 
 それは裏を返せば、マリアの中で、この男の存在が未だ大きいということで……。

「…そうだよな。普通に考えりゃ、この国でアイツが真っ先に頼るとしたら、お前だよな……」
「……さぁ? そうでもないんじゃね? あいつには大統領っつーモジャモジャもいるし。しがない貧乏空賊よりは、モジャモジャでも大統領のほうが断然頼りになんだろ」
「何言ってんだ。つい三年前まで、口を開けばファルコファルコって、お前の後ばっかついて回ってたヤツだぞ」
「三年経てば色々変わるだろ。今のマリアが俺を頼る理由はねぇよ」
「アホか、お前は。頼りたくても頼れねェんだろうが。今回の件で、アイツ、オレ達にすまないって頭下げたんだぞ。あの、マリアが、だぞ?」
 いつにもまして煮え切らない態度のアホ野郎に対して、何故かマリアを庇ってしまっている。
 ったく、何やってんだかな。つくづく自分がアホらしくなる。
 つまるところ結局は、オレも、三年経っても何も変われてねェってことなんだろう。
 なんにせよ、マリアに何かあったなら、それをどうにかするのは、コイツの役目のはずだ。

 オレじゃ、ない。


「なあ」
 仰ぐように空へと向けた視線を地上へ戻して、目の前のアホをちらりと見やる。
「アイツと、話したほうがいいんじゃねェか?」
「なんで?」
「なんでって…」
 いつもと少しも変わらない、飄々としたその態度に閉口する。
 思わず怒鳴ってやりたい衝動に駆られながらも、ああ、そうかと思った。
 これが違和感の正体だ。
 この男のこの態度。他の誰かならともかく、マリアに纏わることで、この男がこんな態度を見せたことなど、これまで一度もなかったはずだ。

 何かがおかしい。
 マリアといい、この男といい。

 何もかもが釈然としない状況に、自然と眉間の皺が深くなる。と、その時、背後で隊員が呼ぶ声がした。その声に返事をしているうちに、目の前のアホは、「じゃあな」と一言だけ残して去っていく。
 その立ち去る背を思わず呼び止めようとして、一体何を言おうとしているのか、分からない自分に気が付いた。
 舌打ちを零して、伸ばしかけた手を下ろす。

 所詮、アイツらの問題だ。
 それよりも、今、オレにはするべきことがある。

 後ろを振り返りながら、やってきた隊員の名前を呼ぶ。そうして集まった隊員達にこの後の指示を出しながらも、拭い去ることの出来ない、どこか歯車がずれたような妙な心地悪さに、オレはもう一度、舌打ちを響かせた。






(NEXT⇒獣と化してさあ今宵)

「LIKE A FAIRY TALE」 5

2012-06-19 16:21:43 | 小説「Garuda」御伽噺編
5.【 反抗的アガペー 】   (ラビ)


 出来ることなら僕は、君を守りたいと、ずっとそう思っていたんだよ。


「マリア、あの人…。あの男の人……」
 車のバックミラーに映る、どんどん遠ざかって行く二つの影を後部座席から見ながら、確信めいた思いを言葉にしようとして、視界の端に入ったものに、瞬間、言葉を失った。
 蜂蜜色に輝く宝石から零れ落ちる、透明な水晶の雫。


 ―――ああ、本当に、どこまで綺麗に出来ているのだろう、君は。


「マリア?」
 蹲るように身を屈め、両手で胸を押さえる姿は、痛々しいまでに悲壮で。
「どこか痛いの? 大丈夫?」
 荒い呼吸が嗚咽に変わって、答えることなど出来ないと分かっていても、問いかけずにはいられない。
「マリア。ねぇ。マリア。あの人、なんだろう? あの人がマリアの……」
 ふるふると横に揺れる金の髪は、あの男の人と同じ色で。
 何かが壊れたように涙を流し続ける金の瞳も、そっくり同じ。
 だから、僕の確信は間違いなく事実に違いないのに。
 なのに、なんで。
「どうして、泣くの……?」


 君は、不完全な僕達の中で、唯一完全で。
 僕や彼が、持っていないものを沢山持っていて。

 君が、大切な宝をこっそり見せてくれるように、話してくれた沢山のこと。
 それはいつからか、僕にとっても、大切な宝物になっていった。
 君が嬉しそうに、楽しそうに、時にはにかみながら、語った言葉は全部、胸に残ってる。
 この三年間、君が見せた表情や仕草も、全部。
 
 僕にとっては、君自身が、大切な、かけがえのない宝だったんだ。


 不完全な僕達の中で、唯一完全で、特別な君。
 だけどもし、そうじゃなかったとしても、僕は。


 君を守ってあげたいと、本当に、そう思っていたんだよ―――…。







(NEXT⇒愛とか恋とかいう言葉で説明できたら良かった)

「LIKE A FAIRY TALE」 4

2012-06-19 16:20:36 | 小説「Garuda」御伽噺編
4.【 曖昧なディスタンス 】   (ファルコ)


 あいつが出て行ったのは、そんなに昔のことだっただろうか。

 思わずそう思ってしまうほど、目の前にいるマリアの姿は、俺の知ってるそれとは違っていて。
 波打った金髪や瞳の色や、僅かに残る面影は、確かにマリアだったけど。

「マリ、アちゃん…?」
 横にいるツバキが掠れた声で、あいつを呼ぶ。
 それに呼応するかのように、マリアは閉じていた瞳を開いた。
 瞳を閉じる前に見えた泣きそうな顔は、俺の見間違いだったのかもしれない。そう思うほどに、開かれた瞳にはそんな気配微塵も感じられなかった。

 マリアが発したことで一気に膨張した殺気が、瞬時にその場の空気を凍らせる。
 それを感じ取ったのだろう、俺達の前、マリアとの間にいる妙な連中が漂わせていた殺気に戸惑いが走る。それを見逃さず、マリアは一気に、その野郎共に向かっていった。
 決して安穏とは言えないその流れに思わず、横にいるツバキの腰を抱き、こちらに引き寄せる。一瞬強張ったツバキの身体は、いとも簡単に腕に収まり、その腕の中、少しだけぎこちなく笑いながら、ツバキが、薄く頬を染め「ありがとう」と言った。
 何だか場違いな空気を醸し出してしまった俺達とは裏腹に、マリアはさっさと、野郎共とケリをつけたらしい。倒れた奴らを背にしながら、パンパンと手で服についた泥を払っている。
 そうして、少し思案するように、もう一度倒れた奴らを見た後で、ゆっくりとこちらにその瞳を向けた。

 途端、マリアとの距離に妙な緊張が走る。

 久しぶり過ぎるからか、唐突過ぎたからか、どうしてだか、喉が引き攣ったみたいに、言葉がひとつも出ない。こいつらは何だとか、お前は何でここにいるんだとか、この場合相応しい言葉はいくらでもあるだろうに、全然、声になって出てこない。
 無駄に一人喉の筋肉を痙攣させている俺を無視して、マリアが先に口を開いた。
「久しぶりネ、ツバキさん。元気だったカ?」
「……え、えぇ。マリアちゃんも、元気そうね。安心したわ」
「あったり前ネ。私はいつだって元気モンモンヨ」
「満々な、満々」
「んなことどうでもいいネ。細かいこと気にしてるとハゲるヨ。あれ、もう手遅れ?」
「んだとコラ。どこが手遅れだってんだよ。360度どこからどう見ても、ふっさふさだろうが」
「360度どこから見てもへしょへしょネ。いい加減、現実を受け入れるヨ、ダメ人間」
「っおっまえなぁ! あんだけお世話になった元保護者との久々のご対面だっつーのに何、その態度!? ここは普通、感動的な再会をする場面だろうがオイ!?」
「ダメ人間に、私の感動なんて勿体無くてあげられないネ」
「ぅおおいマリアちゃん? 何、反抗期? 今更反抗期? カルシウム取ってる? ちゃんと」
「ちょっとファルコ。どんどん話がずれていってるじゃないの。やめてちょうだい、私とマリアちゃんの感動の再会の邪魔するのは」
「そーヨ。邪魔しないでヨ」
「こらこら待て。なんで俺、邪魔者扱いなんだよ」
 当然の抗議も哀しくなるほど綺麗に無視され、俺の存在自体を完璧無視したツバキが、マリアに向き直る。
「それでマリアちゃん、いつこっちに戻ったの?」
「うん。きの、」
 それに対しマリアが何か答えかけたとき、ピーピーピーという高音の機械音がそれを遮った。
 その音にすぐさま反応したマリアが、「ごめんなさいヨ」と口早に告げて、腰に下げていた小さな鞄から小型の通信装置を取り出し、俺達と距離を取るように少し離れた。
 何となく、ツバキと顔を見合わせ、誰かと連絡を取っているマリアを窺う。
 少し距離があるから、はっきりとした内容までは聞こえない。
 ただ、時折マリアが、通信機の向こう側にいる相手に対して、「ダイジョブ」とか「分かンない」とか言っているのは雰囲気で読み取れた。

 なんだろう。なんか、腹の底がぞわぞわして落ち着かない。
 そうだ。大事なことをまだ聞いてない。何でここにいるのか、こいつらは何なのか。

 ややあって通信を切り、振り返ったマリアに開口一番問いかけようとして再度、先を越された。
「私、もう行かなきゃネ」
 そして、発せられたその言葉に、またしても、喉が引き攣る感覚を覚える。
 そんな俺の横で、ツバキが慌てたように声をあげた。
「え? もう行かなきゃって、そんな。他の皆もきっと凄く会いたがって…」
「うん、私もみんなに会いたいネ……」
 言いながら、マリアが俺を見る。
 金色の、琥珀玉のような瞳。昔と変わらない、色。

 ………マリア、なんだな。本当に。

 なんて、この期に及んでそんなことを考えつつ、何だよ?と目で返事をすれば、それをまた綺麗に無視して、今度はツバキに向き直る。「なぁに?」と笑うツバキをじっと見た後、マリアが徐に一歩下がって、すっと、頭を下げた。
その行動に、ツバキが困惑した声を出す。
「マリアちゃん?」
「今は、詳しい話は出来ないけど、みんなのことは絶対、私が守るヨ」
 言いながら、顔をあげたマリアを見た瞬間、言いようのない不安に襲われた。
 いや、これは予感、だろうか。
 思わず一歩詰め寄って、マリアの瞳を覗き込んだ。
「……どういうことだ?」
「多分、後四日くらいで片がつくと思うから…。だからそれまで、出来たらなるべく夜は出歩かないで欲しいネ。どうしても外に出なきゃいけないときは、出来る限り用心して。一人では歩かないで。みんなにもそう伝えて」
 こっちを真っ直ぐ見て、そう言うマリアは、凛々しいという言葉が似合うくらい、決然とした態度だったけど。
 見据えた顔が一瞬、最初に見た泣きそうな顔に見えて。
 咄嗟にその腕を捕まえようとした俺より早く、マリアがするりと後方に身を引いた。
 奇妙な違和感が全身に駆け巡る。
 口の悪さも少し生意気な態度も、その瞳の色も、昔のままだと思ったのに、焦りにも似たこの違和感は、どこから来るのだろう。
「…マリア?」
 自分でも驚くほど低い声が出たそのとき、俺達のいる路地に、凄いスピードで二台の黒塗りの車が乗り込んできた。
 キィィと派手なブレーキ音を立てて、そのうち一台が、マリアに横付けするように止まる。
「マリア!」
「ラビ…」
 叫ぶようにして、僅かに下げられたスモークが張られた窓の向こうから、白髪らしき頭の男がマリアを呼び、「よかった…」と顔が見えずとも分かるほど、安堵した声をあげる。
 その後ろでもう一台の車から出てきた黒服軍団が、さっきマリアがノックアウトした野郎共を車に運んでいる。

 一体なんだ、これは。何が起きてる?

「えらく早かったナ、ラビ」
「あぁ。ゾロさんが車いつでも動かせるように手配してくれてたから」
「ゾロ? バカモジャと何か関係あるのか?」
 その名前に反応して間に割り込む。と、そのとき初めてこっちの存在に気づいたかのように、顔を動かした白髪の男が、窓ガラス越しに俺を見て、すぐさま、何か言いたげな素振りでマリアを見た。
「マリア、こ……」
「紹介するネ。この人はツバキさん。こっちが万年二日酔いと書いてダメ人間という名前の男ヨ」
 その視線に促されるように、マリアが軽く肩を竦め、ツバキと俺を順繰りに指して紹介し、そしてこっちが何か口を挟むより早く、白髪の男を指して言った。
「彼はラビ。ラビはあんまり日の光に当たれないから、もう行くネ。暫くは、モジャモジャのとこにいる予定だから、そのうち、船にも顔見せに行くヨ。みんなによろしくナ。後、くれぐれも身の回りには用心するヨ」
 凄まじく早口でそう言い切ると、問答無用と言わんばかりにサッサと車のドアを開け、グイグイ白髪男を奥に押し込み、自分も乗り込む。
 その間約四十秒にも満たなかったかもしれない。マジで、それくらいの早さだった。口を開ける暇さえない。
「じゃあ、またネ。ツバキさん」
 乗り込んだ車の中からマリアが、呆気に取られている感じのツバキに顔を向ける。その後でちらっと俺を見、「それとアル中ハゲも」と付け足すように言うと、またすぐに顔を前に向けて、車を出すように指示し、去っていった。誰がアル中ハゲだ馬鹿娘と、突っ込む暇すら、本気でなかった。だから、勿論、引き止めることなんて出来なかった。

 残されたのは、何がなんだか分からないスッキリしない状況と、奇妙な違和感。


 不安そうな顔で見てくるツバキに、大丈夫だと言ってやりながら、帰路につく。
 ゆっくりと歩きながらも付き纏う違和感に、思ったことは唯一つ。

 家の前まで送ったツバキが、別れ際に、ぽつりと口にした言葉に、それを確信した。

「マリアちゃん…。“私”って言ってた。もう自分のこと、名前で呼ばなくなったのね」


 そうだ。

 マリアは一度も、俺の名前を呼ばなかった。






(NEXT⇒反抗的アガペー)