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香港歴史博物館で、香港の歴史を辿る。(その3) -最終回

2011年04月30日 17時45分21秒 | -香港-

香港歴史博物館のクライマックスは、日本の敗戦で再びイギリス統治下に戻った香港が、様々な混乱も経ながら
経済発展を進めていく様子と、1997年にイギリスから中国へ返還されるまでの歴史を辿ります。


■戦後の混乱期

日本の降伏後、イギリス軍は香港に上陸し、再びイギリスの統治が始まりました。
戦後すぐに中国大陸では国民党と共産党の国共内戦が始まり、混乱を避けて多くの人々が香港に流入しました。
終戦直後の1945年には60万人だった香港の人口は、その2年後には180万人にも増えました。

1940年代のビクトリア港。奥に香港島セントラルの街並みが見える。


さらに、国共内戦に勝利した中国共産党によって、1949年に中華人民共和国が成立。
その後1年間に30万人以上の人々が共産化を恐れて香港へ流入したといいます。

これら共産化を恐れて香港へ移民した人たちは、主に労働者や農民でしたが、戦前に上海などの欧米列強の租界で
商売をしていた資本家や企業家も多く香港へ移っていきました。
なので、香港には特にエリート層に上海出身の人たちが多いです。
上海などから移ってきた資本家たちは、その後の香港の経済発展に寄与しました。


戦後まもなくのセントラルの路地。


貧しい移民の多くは苦力(クーリー)として肉体労働に従事しました。


中国大陸では、1950年代の大躍進政策の失敗、1960~1970年代の文化大革命と混乱が続き、
香港へ中国から難民が絶えず流入し続けました。

このため香港の人口は断続的に増え続け、住居不足と水不足に悩まされ続けました。
特に水不足は深刻で、夏場に一日に4時間しか水道水が出ないという日が何日も続いたといいます。

水を求めて長蛇の列ができた。


遠くまで水を汲みに行く香港住民。


香港は雨の多い地域ですが、山がちな地形のため雨が降ってもすぐに海に流れてしまいます。
このためダム建設や水道網の整備などが行われ、その建設に日本の建設会社が日本の優れた技術で貢献したといいます。


住宅についても、香港政庁は公共アパートの建設を進めましたが、平均11平米の部屋に7~8人が住むという
非常に不便な生活を庶民たちはしていました。

1950~1960年代の平均的な香港の部屋の様子が再現されています。


自然災害も香港の人たちを悩ませました。
特に台風は、毎年多くの被害を出してきました。



■香港の経済発展

1949年の中華人民共和国成立後や、1960年代の文化大革命で、多くの資本家、企業家、知識人が中国本土から
香港へ逃げ込んできたため、これらの人たちの先進的な知識・技術は香港の経済発展に大いに貢献しました。

もともと香港は中国本土との窓口として中継貿易で発展しましたが、共産主義の中華人民共和国が成立した後、
中国本土との貿易は途絶えたため、香港経済は中継貿易に依存ができなくなりました。

その代わりに、中国本土から流入する移民の安価な労働力を使って製造業が発展しました。
1970年代には衣類から始まり、香港フラワー、サンダルなどのプラスチック製品、雑貨やおもちゃ、時計、カメラ、ラジオ、
電気製品などの軽工業等など、「Made In Hong Kong」が世界でも大いに存在感を示しました。


一時期は香港のいたるところに衣類工場がありました。


香港製プラスチック製品。


1950年代、香港企業の調味料の広告。


香港工業展のコンパニオンたち。


1970年代に流行した喫茶店を再現しています。


1980年代に入り、中国が改革開放政策を開始すると、香港の各種メーカーは安価な労働力を求めて中国本土へ移転していきましたが、
代わりにコンテナターミナルなど物流インフラやシステムを整えて、アジアの物流の中心となり、世界一の貿易港として1980年代から
再び中継貿易で発展していくこととなります。

さらに香港政庁は、政府規制を極力押さえて、低い税率を維持するなど過剰な経済への介入を避ける積極的不介入主義を取ることにより、
貿易・金融・物流などで大いに発展しました。


1975年5月、香港を訪れ、香港の街を視察するエリザベス2世女王。


香港が中国・東南アジアにおける流通のハブ的地位を確立した結果、1980年代から1990年代にかけて香港は、
韓国、台湾、シンガポールとともに経済発展を遂げた「アジア四小龍」あるいは「アジアNIEs」と呼ばれるようになりました。



■香港と中国との関係

共産党による中華人民共和国が成立すると、共産主義国の赤いカーテンに包まれた中国本土は、
その内部事情は秘密のベールに包まれ、西側諸国からは中国内部の実態が見えなくなりました。

そのため、香港が資本主義国と中国との唯一の窓口となり、中国文化の発信基地となりました。


1970年代には香港映画が世界へ進出し、ブルース・リーをはじめ多くのスターが生まれました。


中国本土の混乱は、香港とも無関係ではありませんでした。

1960年代後半に毛沢東によって文化大革命が始まると、香港でも中国共産党の影響下にある住民を中心にした暴動が発生して、
毛沢東を熱狂的に支持する紅衛兵が深セン方面から香港へ越境し、イギリス軍や香港警察と国境付近で銃撃戦が起こりました。


さらに暴動を鎮静化させる過程でデモ隊に負傷者が出ると、これに対する謝罪を中国共産党が香港政庁に要求し、
中国人民解放軍を国境付近に移動させるなどの恫喝を行いました。
しかし、間もなく共産党政府のナンバー2で穏健派の周恩来が「長期的な利益から香港を回収しない方針」を表明して、
文化大革命による香港での暴動は沈静化しました。


その後、毛沢東の死去、文化大革命の終結により経済の改革開放政策が始まると、香港と中国との関係も改善しました。

中華人民共和国成立後途絶えていた広州と香港を結ぶ広九直通列車も、文革終結後の1979年に復活。

この広州までの直通列車は出張などでよく利用します。


1950年代から1990年代までの年代ごとの出来事をパネルで分かりやすく展示しています。


やがて、1898年にイギリス・清国で結ばれた99年間の新界地区租借期限が近づくにつれ、
香港の将来が議論されるようになりました。



■中英香港返還交渉

香港の将来について議論が高まる中、1970年代に入って、イギリス政府は租借の延長を中国政府に求めましたが、
中国政府は応じませんでした。

1982年、中国はイギリスと香港返還の交渉を始めます。
イギリス首相のマーガレット・サッチャーは北京を訪問し、当時の中国最高実力者であるトウ小平や、趙紫陽首相と会談しました。


イギリス・サッチャー首相。


イギリスは、主権は返還するが、統治権はイギリス側が維持するとしていましたが、中国側の代表のトウ小平は、
イギリスのサッチャー首相との会談で、全面返還を強く求め、場合によっては武力行使も辞さないと、主張しました。


博物館内にトウ小平の写真が大きく掲げられている。


トウ小平の強硬姿勢に驚いたサッチャー首相は、会談を終えて北京人民大会堂の階段を降りる時、足元がふらついたといいます。
(本当かどうかは不明。。)

結局、1984年9月26日、「中英共同声明」により、香港が1997年7月1日に中国に返還されることが決まりました。


イギリスのサッチャー首相と合意文書を取り交わす趙紫陽首相。真ん中はトウ小平。


トウ小平が提唱した「一国両制度」を採用し、香港は社会主義国家・中国の中にありながら、
資本主義と英国法を基にする現在の法体制を維持。
その体制は2047年までの「50年間不変」と約束されました。


しかし、香港の人々は先行きの不安からカナダ、オーストラリア、シンガポールなどの英連邦諸国や、米国などへ移民したそうです。
特に、1989年北京の天安門で市民を武力で弾圧する天安門事件が発生すると、香港では民主派支持の大規模デモが行われ、
専制的で、強権的な中華人民共和国の本質が明確になったとして再び、移民ブームが巻き起こりました。

香港での天安門事件に抗議する市民100万人デモの様子。


1990年4月4日、中国返還後の新たな憲法に当たる香港基本法が制定されると、香港人の不安は一応、沈静化しました。

香港基本法成立時の写真。



その一方、1992年にイギリスから、クリストファー・パッテンが最後の香港総督として着任。


パッテン総督は、中国返還への当てつけのように、主権移譲を前に香港の政治的な民主化を加速させ、
香港総督が全権をにぎっていた議会制度を改革し、直接選挙制度を導入するなどの民主改革に着手しました。
中国側は、「中英共同声明」に違反すると反発し、中英関係は緊張しました。

ただ、このような政治的動揺や移民の大量流出にもかかわらず、経済的には、中国資本の流入によって、
返還前の香港の不動産市場や株式市場は空前の活況を呈しました。



■そして、1997年香港返還…

1997年7月1日。香港は中国へ返還されました。

返還前日の6月30日、イギリス・中国合同で返還式典が行われました。
香港歴史博物館では、この式典の様子を映像で紹介しています。

イギリスの返還式典招待状。


返還式典には、イギリスからチャールズ皇太子やパッテン総督が参加。
中国側は江沢民国家主席が参加しました。
中国の悲願であった香港返還を成し遂げたトウ小平は、返還の日の5ヶ月前に亡くなっていました。


式典の日の香港は、返還を悲しむかのように雨が降っていました。
返還式典が進むにつれてさらに雨は激しく香港の街をたたきました。


厳かなイギリス国歌「女王陛下万歳」の演奏とともに、イギリス国旗「ユニオンジャック」が降ろされます。

続いて、イギリス国歌とは正反対の勇ましい中国国歌「義勇軍行進曲」が流れ、中国国旗「五星紅旗」が香港に初めて掲げられました。


演説するパッテン総督。


チャールズ皇太子は演説で、
「In a few moments, The United Kingdom's responsibilities will pass to the People's Republic of China…」
と述べ、この言葉を聴いた人々は、香港がイギリスから中国へ返還されることを実感したのではないでしょうか。

さらに、中国の江沢民国家主席は演説で、改めて50年間の一国両制度の堅持、「港人治港(香港人による香港の統治)」を約束しました。


香港総督府からイギリス国章が取り外されました。


代わって、中国国章が取り付けられる。


パッテン総督の娘さんは式典中、涙が止まらない。右はパッテン総督夫妻。


式典の最後、イギリス・スコットランド伝統楽器・バグパイプの演奏による「蛍の光」が流れる中、
チャールズ皇太子、パッテン総督とその家族たちが船に乗り込み香港を去って行きました。



そして1997年7月1日午前0時。
香港・中国国境の落馬洲から陸海空の中国人民解放軍が続々と香港へ入ってきました。
そのおびただしい数に少々引いてしまう…。

ここに名実ともに中国への香港返還が完了。
中華人民共和国 香港特別行政区が成立し、一国両制度の下、中国共産党による香港統治が始まりました。


返還翌日の新聞記事がパネル展示されています。



香港特別行政区初代行政長官の董建華。


董建華は、あまりにも中国政府寄りで香港市民に不評だったため任期途中の2005年に退任した。


「香港明天更好(香港の明日は更に良い)」の自筆パネルを掲げる江沢民国家主席。


この香港返還を以って、香港歴史博物館の香港の歴史めぐりは終了となります。



■中国返還後の香港

香港歴史博物館は香港返還で終わりとなりますが、簡単にその後の香港について述べたいと思います。



1997年の香港返還直後、アジア通貨危機が起こり、香港経済に深刻な打撃を与えました。
さらに2003年には隣接の広東省が発端となったSARSが香港でも急速に拡大して、2000人が感染、299人が死亡する事態となり、
観光客は激減、香港経済は大打撃を受けました。

急速な経済成長を進める中国本土に比べて、香港はアジアの金融・物流ハブとしての地位低下がささやかれるようになり、
香港の将来を悲観的に見る人たちも増えました。

しかし、中国政府は香港・中国間の投資規制の緩和や、香港・中国間のインフラ整備、中国人の観光ビザ緩和などの政策で
主に中国本土からの資本投資が活発となって香港経済は上向き、引き続き現在もアジアにおける金融・貿易・物流の中心地
としての地位を確立しています。
しかし、中国の各都市が急成長で香港の優位性が薄れ、中国と香港の一体化がゆっくりと進んでいる中で、
「中国の中の香港」がどのように独自性を保ち発展していくか、香港はこれからもこの大きな課題を背負いながら歴史を作っていくことでしょう。

香港の摩天楼。


■最後に…

「植民地・香港」という特殊な歴史を持つ香港。
また50年間という期限付きで現在の体制が保たれるという不安定な状況下にある香港。

150年以上のイギリス植民地下で培った先進的な教育、素養、国際色豊かな文化など、
返還後10年がたち、今、猛烈に経済発展する中国との一体化が徐々に進んでいる中でも、
香港人はやはり大陸中国人とは(良い意味で)異なる人たちであり、
香港の人たち自身も、「香港人」というアイデンティティを強く持ち続けようとしているように感じます。

世界でも有数の親日でもある香港の人たちとの関係を、これからも大事にして、
香港の今後の発展を願いたいと思います。





(終わり)

 

2011mothers day


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