女性に汚物かける、シャープ社員を逮捕 (読売新聞) - goo ニュース
通学途中の学生に車内から消火器噴射やエアガン乱射なんて事件も先日あって、個々の犯罪の動機を考えるのは殆ど意味がないから「世の中色々な人がいるのね」で終わってしまってもいいんだが、やっぱりこういう新種とも思える事件が出てくると、その社会的背景や原因なんてことを客観的に考えざるを得ない。
消火器噴射事件、エアガン乱射事件、汚物ひっかけ事件、これらに共通して言えるのは、「犯罪者と被害者に個人的な・直接的な接点はなく、無差別的に行われた嫌がらせ」だってことだ。
ただ殺傷目的ではない嫌がらせと言っても、日本がアメリカのように銃の所持が認められている国であれば、消火器やエアガンは本物の銃やマシンガンになっていたかもしれない。だから、「無差別的に行われた」って点を考えなくてはならないだろう。
しかし、その前に考慮すべきは、犯罪者が精神的に病んでいた場合である。
大阪府池田市の付属池田小事件の宅間死刑囚は、統合失調症だったという報道は実は詐病だったなんて話もあるが、彼が生前子供の頃からADHDやアスペルガー症候群などの症状が見られ、高校時代からは精神科医にかかり抗精神病薬を常習的に服用していたのは事実なようだし、程度の軽重や法的な責任能力の有無は別にしても、度外視していいファクターではない。
「精神的に病んでいた」という表現にしたのは、病院で何らかの精神障害と診断され治療が試みられるようなケースではない、表面上社会生活は一応滞りなく行うことができている人間であっても、自覚症状なしに(潜在的に)ストレス・精神的抑圧を溜め込んでしまって、「正常」な精神状態を保てなくなっている場合というのが考えられるからだ。
そして又、身体と精神(こころ)は切り離して考えていいものでもない。体の調子が良くない、何らかの病気に罹っているのに、楽しい気分を持続していられる人はまずいない、と言ってもいいだろう。酒を飲み過ぎて翌日二日酔いになって、それで気分がどうも優れないっていう症状も、セロトニン不足、つまり生理現象であり、基本的に「心理的な抑圧云々・・」などの話とは関係がない。
「こころが全て脳のはたらきに依るものだ」なんてことは言わないが、自分のこころ・精神状態に脳内の神経伝達物質が関係しているのは事実であり、その神経伝達物質の量に影響を与えるのは普段摂取している飲食物であり薬である。(重度な精神障害には遺伝もかなり関係しているようだが)勿論、対人関係も含めた周囲の環境も影響を与えている訳だが、こころの不具合をこころの問題としてだけ捉えるのはやはり宜しくない。
個々の犯罪について調べるにしても一般化して学術的に犯罪を分析するにしても、実際にこういう生理学的アプローチをどの程度してるんだろうか?ってことは結構疑わしい。
というのも、刑事精神鑑定には幾つか種類があるが、嘱託鑑定にしろ正式鑑定にしろ、例えば精神科医や心理学者などの専門家が、裁判記録から容疑者の生活歴や犯罪歴などを見たり、心理テスト・知能テストを行ったりで、脳を調べる検査もあるようだが、せいぜい脳波検査、CTスキャンや瞳孔反射等の検査程度らしいからだ。
加えて、刑法での刑事精神鑑定(司法精神鑑定)の規定は、「裁判官は学識経験ある者に鑑定を命ずることができる」と記されているのみで、要は精神鑑定には「専門家でない」裁判官の裁量次第で精神鑑定の質が大きく左右されることになってしまう。これは、明らかに法制度の不備と言えるだろう。
私の個人的なカンに過ぎないが、最近の犯罪には、犯罪者の食生活や生活習慣などもかなり影響していると思っている。少年犯罪では「キレやすい子供」と食生活の関係はよく言及されるところではあるが、犯罪全体で見ても同じようなことは言えるのではないだろうか。何と言っても、昔と比べれば、食の選択肢・自由度のみならず行動自体の選択肢・自由度も比較にならないほど多い・高いから、食生活や生活習慣は乱れ出したら乱れっぱなしということも現在では十分可能だからだ。
でまぁ、そういうこころの不具合が起きていない、健常者同様に感情・理性がコントロールできる状態にあるにも関わらず冒頭のような犯罪が起きているとすれば、今度は「社会全体の病理」として考えなければならないだろう。
すなわち、コミュニケーションツールの発達と反比例するようなコミュニケーション不全現象であるとか、個や私権の解放による共同体・家族の崩壊とか、そういった問題だ。"勿論"社会学にも詳しくない私はその視点で論じることはできないけれども、この話は4/16と4/17のエッセイで述べた、集団自我と「わたし」のテーマにも関係しているかもしれない。
簡潔に言い換えると、「現代は、個人が所属する集団が多過ぎて、個人はそれぞれの集団で限定的な役割だけしか求められていないゆえに、ラクはラクであるが、そういった所属を外れた一個人に戻った時に、その一個人としての主体的・理性的・合理的判断ができにくくなっているんじゃないか」ってことである。(それこそ社会学チックに言うならば、現代は共同幻想が成り立ちにくくなっていて個のアンデンティティも云々・・ってなりそうだが、やっぱり勉強不足が過ぎるからロクなことが書けません)
そして、自分のアイデンティティ、自我すらふらふらしていて固まらないのであれば、他人のイメージ・他人に対する想像力も希薄になって、それが「無差別的」にもつながってるんじゃないか、って考えることもできるようなできないような。
中途半端なエントリーですいません。。。
とりあえず、「問題提起」のエントリーとして読んで頂ければ幸いです。
通学途中の学生に車内から消火器噴射やエアガン乱射なんて事件も先日あって、個々の犯罪の動機を考えるのは殆ど意味がないから「世の中色々な人がいるのね」で終わってしまってもいいんだが、やっぱりこういう新種とも思える事件が出てくると、その社会的背景や原因なんてことを客観的に考えざるを得ない。
消火器噴射事件、エアガン乱射事件、汚物ひっかけ事件、これらに共通して言えるのは、「犯罪者と被害者に個人的な・直接的な接点はなく、無差別的に行われた嫌がらせ」だってことだ。
ただ殺傷目的ではない嫌がらせと言っても、日本がアメリカのように銃の所持が認められている国であれば、消火器やエアガンは本物の銃やマシンガンになっていたかもしれない。だから、「無差別的に行われた」って点を考えなくてはならないだろう。
しかし、その前に考慮すべきは、犯罪者が精神的に病んでいた場合である。
大阪府池田市の付属池田小事件の宅間死刑囚は、統合失調症だったという報道は実は詐病だったなんて話もあるが、彼が生前子供の頃からADHDやアスペルガー症候群などの症状が見られ、高校時代からは精神科医にかかり抗精神病薬を常習的に服用していたのは事実なようだし、程度の軽重や法的な責任能力の有無は別にしても、度外視していいファクターではない。
「精神的に病んでいた」という表現にしたのは、病院で何らかの精神障害と診断され治療が試みられるようなケースではない、表面上社会生活は一応滞りなく行うことができている人間であっても、自覚症状なしに(潜在的に)ストレス・精神的抑圧を溜め込んでしまって、「正常」な精神状態を保てなくなっている場合というのが考えられるからだ。
そして又、身体と精神(こころ)は切り離して考えていいものでもない。体の調子が良くない、何らかの病気に罹っているのに、楽しい気分を持続していられる人はまずいない、と言ってもいいだろう。酒を飲み過ぎて翌日二日酔いになって、それで気分がどうも優れないっていう症状も、セロトニン不足、つまり生理現象であり、基本的に「心理的な抑圧云々・・」などの話とは関係がない。
「こころが全て脳のはたらきに依るものだ」なんてことは言わないが、自分のこころ・精神状態に脳内の神経伝達物質が関係しているのは事実であり、その神経伝達物質の量に影響を与えるのは普段摂取している飲食物であり薬である。(重度な精神障害には遺伝もかなり関係しているようだが)勿論、対人関係も含めた周囲の環境も影響を与えている訳だが、こころの不具合をこころの問題としてだけ捉えるのはやはり宜しくない。
個々の犯罪について調べるにしても一般化して学術的に犯罪を分析するにしても、実際にこういう生理学的アプローチをどの程度してるんだろうか?ってことは結構疑わしい。
というのも、刑事精神鑑定には幾つか種類があるが、嘱託鑑定にしろ正式鑑定にしろ、例えば精神科医や心理学者などの専門家が、裁判記録から容疑者の生活歴や犯罪歴などを見たり、心理テスト・知能テストを行ったりで、脳を調べる検査もあるようだが、せいぜい脳波検査、CTスキャンや瞳孔反射等の検査程度らしいからだ。
加えて、刑法での刑事精神鑑定(司法精神鑑定)の規定は、「裁判官は学識経験ある者に鑑定を命ずることができる」と記されているのみで、要は精神鑑定には「専門家でない」裁判官の裁量次第で精神鑑定の質が大きく左右されることになってしまう。これは、明らかに法制度の不備と言えるだろう。
私の個人的なカンに過ぎないが、最近の犯罪には、犯罪者の食生活や生活習慣などもかなり影響していると思っている。少年犯罪では「キレやすい子供」と食生活の関係はよく言及されるところではあるが、犯罪全体で見ても同じようなことは言えるのではないだろうか。何と言っても、昔と比べれば、食の選択肢・自由度のみならず行動自体の選択肢・自由度も比較にならないほど多い・高いから、食生活や生活習慣は乱れ出したら乱れっぱなしということも現在では十分可能だからだ。
でまぁ、そういうこころの不具合が起きていない、健常者同様に感情・理性がコントロールできる状態にあるにも関わらず冒頭のような犯罪が起きているとすれば、今度は「社会全体の病理」として考えなければならないだろう。
すなわち、コミュニケーションツールの発達と反比例するようなコミュニケーション不全現象であるとか、個や私権の解放による共同体・家族の崩壊とか、そういった問題だ。"勿論"社会学にも詳しくない私はその視点で論じることはできないけれども、この話は4/16と4/17のエッセイで述べた、集団自我と「わたし」のテーマにも関係しているかもしれない。
簡潔に言い換えると、「現代は、個人が所属する集団が多過ぎて、個人はそれぞれの集団で限定的な役割だけしか求められていないゆえに、ラクはラクであるが、そういった所属を外れた一個人に戻った時に、その一個人としての主体的・理性的・合理的判断ができにくくなっているんじゃないか」ってことである。(それこそ社会学チックに言うならば、現代は共同幻想が成り立ちにくくなっていて個のアンデンティティも云々・・ってなりそうだが、やっぱり勉強不足が過ぎるからロクなことが書けません)
そして、自分のアイデンティティ、自我すらふらふらしていて固まらないのであれば、他人のイメージ・他人に対する想像力も希薄になって、それが「無差別的」にもつながってるんじゃないか、って考えることもできるようなできないような。
中途半端なエントリーですいません。。。
とりあえず、「問題提起」のエントリーとして読んで頂ければ幸いです。
「自然化された認識論」っていうことを言っている
ようです。認識論を含めて科学より優位に立って
科学を基礎付けるという、従来の哲学の姿勢を
批判して、科学でも何でも利用可能なものは何でも
使って哲学しよう、諸学の基礎付けなんていうのは
止めにしようよ、ということのようです。まあクワインに限らず、形而上学を拒否して科学に親近感
を抱くのが英米系の哲学の傾向です。科学的に
説明できることは大いに活用しよう、という現代の
英米哲学の傾向は、社会現象をとにかく、
科学的に解明できるんだったら、道徳論などよりも
そっちの方が問題解決に近づけるんじゃないか
という考え方にも通じますね。哲学は素人なので
このあたりで止めますが(ボロが出そう、笑)
丹治信春「クワイン」講談社 という面白い
クワイン哲学入門書がありますので、ご興味
があれば、お読みになってみてください。
>哲学は素人なのでこのあたりで止めますが(ボロが出そう、笑)
哲学は"ど"素人なので、クワインをウィキペディアで引いて説明読んでみたけど、【分析命題と総合命題と区別や還元主義を拒絶して論理実証主義を批判し・・】・・意味がサッパリ分からず書けることがありません(笑)
まぁくがーとさんのご説明は、何となくは分かるような。犯罪精神学も、犯罪者の犯罪動機を分析するにあたってまだ科学を十分に使っていない感はあるようですから。(ここで言う犯罪とは、主に刑事事件で扱われる類の犯罪ってことですが)
勿論動機を完全にシカトできるかと言えば微妙なところではあるんですが、「事後」に犯罪者自身の口から語られるその犯罪についての言葉が筋が通って(=理性的で)いればいるほど、罠にはまり易いと思うんですね。
犯罪の計画自体は理にかなったものであっても、「ジャぁ何でそもそもそうしようと思った・考えたのか」が「事前」に自分で分析できているようなら、その犯罪を犯す可能性は非常に低い筈なんです。
で、くがーとさんのお話に戻れば、どんな学問分野であれ私も「科学的に説明できることは大いに活用すべき」とは思いますが、「実際の科学」と「いわゆる科学"的"思考」は全く同じものではありませんから、その点は注意すべきとは考えています。
すなわち、実際の科学で注意すべき点は、生物学教授の池田清彦氏の言葉を借りれば、「ほぼ確実な言説」なのか「確率の話」なのか「現時点で最も有力な仮説」なのかの区別だってことですね。
その区別に関する話で最近論争になりかかって(なって?)いるのが「ID理論」についての話で、このブログのリンクにある『幻影随想』さんでこの話は非常に詳しく今扱われています。
>ご興味があれば、お読みになってみてください。
えぇ、ご紹介有難うございます。興味はありますが、何せ読む本が溜まりに溜まっていてなかなか消化できないので、手をつけるにしても結構先になりそうですが(苦笑)とりあえず、Amazonで探してみて、あればカートに放り込んでおきます。
っていますので(笑)、集中して書けないかも
わかりません。
分析命題とは文の意味だけで真偽が決まるものです。
「独身男性は結婚していない」のたぐいで、経験
に依らずに真であるとわかります。総合命題は
経験的な情報も加味しないと真偽が判定しない文
のことです。「アメリカの首都はワシントンである」
のたぐいですね。この二つは峻別できる、というのが
常識だったのですが、クワインは「経験主義の二つの
ドグマ」の中で、いかなる文も単独で、経験と
照合されて真偽が決まるのではない、その文を含む
我々の考え方の体系全体が経験と照合されるの
である、どのような、けったいな文でも、
体系の他の部分を修正することによって、正しいと
主張することはできるし、反対に、分析命題も
論理学の命題も修正されることは、ありうる、
と主張します。では、我々は「アメリカの首都は
北京である」と主張しても良いのか。クワインは
ちがうと言います。要するに、そんな文を正しく
するために全体の枠組みを大きく改定するメリット
がない、ここにプラグマティズムの考え方が
登場します。まあ、詳しくは丹治さんの本に
当たってください。これは哲学の知識が無くても
読めます。わかりやすいです。それから飯田隆
さんの「言語哲学大全」全四巻も、分析哲学を
学ぶ人のバイブルと言われていまして、面白くて
内容も深いです。
それよりも早く優勝を決めてほしい(ねえ、るかさん)
>巨人阪神戦が気にかかっていますので(笑)
くがーとさん阪神ファンでしたか?優勝おめでとうございます。私は今シーズンほど野球観なかった年は初めてですねぇ・・・え?なんでかって?一応巨人ファンだからです(笑)
>分析命題とは文の意味だけで真偽が決まるものです。
☆分析命題≒ア・プリオリ
☆総合命題≒ア・ポステリオリ
・・みたいなテキトウな解釈でよろしいっすか?(知ってる単語出してみただけ(汗))
>ここにプラグマティズムの考え方が登場します。まあ、詳しくは丹治さんの本に当たってください。
プラグマティズムは単語としては知ってますが、意味内容はまるで理解しておりません・・・その丹治さんの本、できれば書名も教えて頂けると。
(v9の年から三年ほど、あのころ巨人はよれよれ
だったもんで、つい応援したくなkつたんです。
その後、強くなったので、もういいやと思いました。)
あの、先日の巨人阪神戦は、次の前田さん特番
のことが心配だっただけです(るかさんや、やまもん
さんと同じです、笑)
丹治さんの本のタイトルは、そのものずばり
「クワイン」です。講談社から出ている「現代思想の
冒険者」シリーズの一冊です。
ア・プリオリ、ア・ポステリオリーは認識論的
概念なんです。我々が得る知識の性質のちがいです。
それに対して、必然的・偶然的というのは存在論
的な概念です。事物のあり方にかかわる区別です。
伝統的に、ア・プリオリに知られるもの=分析的
=必然的と考える傾向があったのですが、
意味の上ではちがいます。それに実際にもこの
=は成り立たないと主張したのが、アメリカの
クリプキです。彼は、ア・ポステリオリで必然的な
知識、ア・プリオリだが偶然的な知識があるのだ、
と言います。
京都大学の富田恭彦さんの「現代哲学の最前線」
はクリプキやサールなどの英米系の言語哲学の
わかりやすい入門書です。講談社現代新書です。
まずは「クワイン」がお薦めです。
巨人ファン時代は堀内投手と末次選手が好きでした。
くが~とさんにもお呼ばれしていたようなので(?)ここにコメント♪私の中では前田さん優勝!!やほやほv
さて!
neo108さん、ブログ開設6ヶ月!おめでとうございます☆
いつも私の下らないエントリーも一言一言大事に拾ってコメント下さり、ありがとうございますv優しい方だなぁ~と思っておりましたよ♪感謝してますvvv
ブログも眼に良い色合いのテンプレで!
…ん?今頃気付いたのですが、neo108さんちでは絵文字使えないんですね。ありゃ~
ともかく、これからも仲良くお付き合い下さいなっ♪
私も軽く論じる時は、こころを脳の働きとしてますけど、
臓器移植(特に聞くのは心臓)で、ドナーの趣味・思考・能力等が似通った性質を持つようになる話などを考えると、こころってどこにあるのかな?って思いますね。
言葉に変換してるのは脳ですが、心は体全体に染みてたりして…。
書名そのままでしたか(笑)紹介して頂き、有難うございます。
確かに「事物のあり方にかかわる区別」を「得る知識の性質のちがい」に対比させたのはちょっと強引な捉え方過ぎましたかね(苦笑)とりあえずもっと勉強します・・・(しなきゃいけないことが多過ぎるな)
堀内と末次ですか・・・私が生まれたのがV9のちょっと後なので、流石に彼らの現役時代は分かりません。。。私の子供の頃はクロマティや若大将でしたからね。
>るかさん
わざわざこちらまでいらして下さって、本当に有難うございます。別にあっちで頂ければ十分だったんですが(笑)、これを機に思いついた時にこちらにもコメント頂ければ幸いです。
絵文字・・・そういえば使えなかったっけ(汗)ブログ開設時に自分で設定したのかデフォルトだったのかはちょっと忘れちゃったけど、なんせコメント滅多につかないもんで(苦笑)この次から使えるようにしておきました。
心臓移植でドナーの趣味や能力等が移ることもあるって話は、どちらかと言えば記憶にまつわる話でしょうね。つまり海馬だけに記憶がある訳ではなく、「体が覚えている」の表現通り、他にも記憶してる場所はあるんじゃないか。(ちょっとこの話はよく調べてないのでこれ以上今は書けませんが、そのうちエントリーすることもあるかも)
こころについては、私の捉え方は、どこかにあるってよりも、「発生している」という感覚で捉えています。
人間は大抵、黙々と何かの作業に集中している時は「我を忘れて」いますし、例えば学問的な、それこそ哲学的なテーマを言葉を使って頭ん中でああでもないこうでもないと考えている時は感情が関わってくることは少ない筈です。
そもそも「こころ」の定義、線引き自体難しいんですが、完全に論理的思考している時はパソコンのCPUが0と1で計算しまくってるようなもんで(脳内では電気信号が飛び交っているだけで)、ちょっと「こころ」の動きとは言い辛いんじゃないか。
であれば、やっぱ感情や自我が関わってきた時に「こころ」で、感情や自我というのも自分の体と外部環境と何らかのきっかけひっくるめて幾つか条件が揃っている時にボヤーンと発生しているもんなのかな、と思うんですね。人間の意識自体、非連続的なものですしね。連続的なものだと私達は勝手に思い込んではいるけど。
おめでとうございます♪
neo108さんの言う「こころ」って何でしょうか?
感情?記憶?意識のことですか?どこからどこにむかって発生しているとお考えでしょうか?
無意識の研究だと、深層心理学を勉強中です
楽しいですよ~意識を連続的と考えている方も見かけませんし、neo108さんと合う学問なんじゃないかな~。哲学も面白いですが、こちらもお薦めです
>どこどこ??TBのことかにゃ???
仰る通りTBのことなんですが、詳しくは10/3のエントリーを読んで頂ければ、私のあちらに書いたコメントの意味はお分かりになるかと。
>neo108さんの言う「こころ」って何でしょうか?
感情?記憶?意識のことですか?どこからどこにむかって発生しているとお考えでしょうか?
え~~・・・
と・・・(汗)
そもそも知識が断片的過ぎるために、前のコメントのようなことを書くぐらいなら本来はこのるかさんのご質問にはきちっと答えられなければいけないんだけど、改めて訊かれると結構困るものですね(苦笑)
とりあえず、前のコメントでの「こころ」というのは、「(多分かなり広義での)意識+意思」にイメージとしては近いかな?・・・感情や欲求や理性も含んでいるし、記憶もある程度関係はしているんですが。
簡単に端的に定義するのは非常に難しいです。というのも、人間の場合は、そういう複雑で高次の「こころ」という機能を持っているからこそ、他の生物にはなかなかできない複雑な行動を取り得るからです。
「複雑な」ってのは、肯定的に「自分の意図した行動を取れる、それによって何らかの目的を達し得る」ってことだけじゃなくて、「ミスする、目的や必要性から外れたあらぬ行動をしてしまう」ってことも含みます。
「生物・動物としての反射的瞬間的な反応・行動を除いた、人間のあらゆる行動に関わっているもの」がここで言う「こころ」に当たると言い換えてもいいでしょう。
で、「こころ」は無論有形物として存在しているものではないので、「どこからどこに向かって」というのも表現するのはとても難しい。
「私という個体」があって、「外界(他の人間って存在も含む)」があって、私と外界の「関わり方」や、私の外界の「認識方法」(この認識方法には例えば人間の可視光線が400~780nmというような物理的な意味も含む)、その"関わり方や認識方法そのもの"を「こころ」と言うんじゃないか、なんて考えているんですけどね。
その意味では更に、「どこからどこに」を考えるのは難しいです。時間の経過にしたがって、という言い方はできそうですが。
意識は連続的ではないにせよ、生きてりゃ知覚経験・行動の体験といったものは積み重ねられていきますから、それに伴って「関わり方や認識方法そのもの」も変化している、と考えられなくはないのかなと。
書いてるうちに混乱してくるのでひとまずこの辺りでやめておきますが(苦笑)
>深層心理学を勉強中です
私のように節操なく浅く広くちょこちょこ手をつけているって訳じゃないと思いますが、るかさんも随分色々やってらっしゃいますねぇ(笑)
ってそれは大学の方の講義で、ですか?