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日々触れる情報から様々なことを考え、その共有・一般化を図る

したいからするのか、すべきだからするのか。~募金・寄付について(1)

2005-09-26 22:50:34 | 社会
新宿西口、地下広場の募金はダメ 通行の妨げ理由 (朝日新聞) - goo ニュース


募金・署名運動は、個人的な感覚で言うと最近随分増えた感がある。
だから、募金詐欺事件の多発も、単純に募金・署名運動の数自体が増えたから比例して認知数が増えたとも推測できるし、募金・署名運動を行わなければいけないような社会問題や天災などが増えたからとも解釈できる。
或いは、ニュース文中にあるように東京都に限れば、(他の自治体全部調べていないので)《以前は都と区市町村が団体を審査し、収支報告も提出させていたが、94年に都条例が廃止になり、警察の道路使用許可のみで可能になった》ことで、余りに容易に詐欺グループも活動できるようになってしまった、すなわち行政の不備って点もあるだろう。
(なんで条例が廃止になったのかは分からないけど。免許更新の時やたらと加入費を徴収しようとしてくる交通安全協会が、実質警察OBの天下り場所だから、つまり警察自体後ろ暗いところがあるからって訳でもあるまい(苦笑))

さすが流動人口の極端に多い東京都心と言うべきか、新宿や池袋などのターミナル駅には出口から募金・署名運動を行っている人間やティッシュ・チラシ配りのバイト、ちょっと繁華街の方へ歩いていけば怪しいキャッチを見かけぬ日はないくらいで、私は完全無視でスタスタ目的地へ歩いていくからどっちでもいいと言えばいいんだが、全員まとめて「撤去」してくれって感じることもしばしばある。


私は、署名運動はともかくとして、募金運動には基本的に参加しない。(記憶が定かでないが、10代の頃は1度や2度はしていたかもしれない)私より恵まれていない人間は世の中に沢山いるとは自分の中では思うが、かと言って、私は成功者・勝ち組でも何でもないし、値札を見ずに買い物できるほど裕福でもない。ジジィになって老い先短くなって、仮にその時養うべき家族もおらず使い切れない金があったら寄付してもいい、億に一つでも何千万何億という単位で資産が残っているんだったら、何とか基金とか何とか賞とかの創設に関わってもいいって考えている程度だ。

「署名運動はともかく」というのは、金を出すのはイヤだが署名する程度なら時間や労力さえそう損する訳でもないからいい、という意味"ではない"。新たに生み出すことができない点ではお金よりも時間の方が大切とは言えるだろうし、署名がそう損するものでもないというなら、小銭を募金箱に放り込むことだって、職もない住処もない借金だけはあるような極端な状況でもなければ今の日本でそう大損になる訳でもない。

ただ、正直なところ、私は少々寄付した程度で気分が大して晴れない、いや私の気分・精神作用そのものに寄付が影響を及ぼさないといった方がいいだろうか、だからする気も殆ど起こらない、それだけだ。

で、募金に協力する=寄付する行為が是か非か、善行なのか偽善のなせる業なのかって議論はよくなされるところではあるが、善かそうでないかって価値観は時代や社会によって変わるもので相対的なものだろうし、そもそも、この問いの立て方自体に問題はないだろうか。
何故なら、この議論には様々な意見対立があって、議論が起こっているコメント含む募金に関するエントリーやホワイトバンド絡みのエントリー(*注1)なども色々読んだのだが、どういう立場も一理あるものが多かったからだ。

私のその分析がそう間違ったもんでもないとするなら、結局、寄付なんてのはおのおのの個人的な問題で、「好きな人、協力したい人はすればいい、そうでない人はしなけりゃいい」類のものだって結論が一番しっくり来る。

にも関わらず議論が起きるのは何故かと考えれば、募金運動自体が「より多く」の協力者を募らないと(この募るという言葉がそのまま本質のようなものだが)成り立たないものなのに、普段から積極的に協力する一部の人間を除けば、多くの人間にとって寄付は非日常的行為であり、日常において「金を出す」行為は普通は何らかの見返りが確実に計算できる・少なくとも期待できる時に行うものだからだ。当たり前のことなんだが。

つまり、募金運動の場に遭遇した時に偶然でも気紛れでもお金を募金箱に入れてしまったら気分が何か良くなることがあるのは、多くの人にとっては本来寄付は見返りが計算期待できない、それは分かっていて、でもその心理的な枷≒合理性を自ら打ち破って行動したから、加えて非日常的行為ということは文字通り「日常ではしない・し得ないようなこと」をしてしまったから、と言うことはできないだろうか?
(「日常」や「合理性」から逃れる快感ってことを考えたら、募金は「旅行をして意図してハメを外す、散財する」快感に通ずるものがあるのかもしれない)

しかも、そういう非合理的・非日常的行為なのに、寄付は禁断でも禁忌でも不法行為でもなく、感謝され賞賛されるような行為でもある訳で、得られた快感は更に倍増していると考えられよう。ただ、やっぱり「非合理的」であるゆえに、寄付し終えて日常に戻ってしまえば、心理的に揺り戻し(この用語は適切ではないかもしれないが)のような作用が起こり、無意識のうちに「事後に自らの行為を自分に納得させる」ようリクツを付け加えるってことも行われ得ると考えられる。

「名聞(みょうもん)のために善事をなすは罪多くして福少なし」なんて言葉もあるけれど、やっぱり寄付は元々「個人的な」行為でしかない。

で、この話は、まだ終わりではないが、ちょっとまだ考えがまとまっていない部分も残っているので、次回か次々回のエントリーに続けることにする。


*注:
(1)
ホワイトバンドは「明らかに」募金活動ではなくただの政治的キャンペーンなのだが、PR戦略が募金と錯覚させるようなものであるために、ネットでも各所でかなり叩かれている。検索すれば幾らでも分析・言及しているサイトはあるので、ご存知ない方は探してみて欲しい。ここでは、ホワイトバンドの是非を考えるエントリーでもないので、説明は控えさせて頂く。