*本記事は拙ブログをはじめて間もない2008年3月にUPしたものですが、記事中で紹介している『ドンキホーテ軍団』の著者・安部牧郎氏の訃報に接し、トップに持ってきました。
ご冥福をお祈りいたします。
先日UPしたエントリー「対東大戦 於:神宮球場」の試合の中で東洋大三番手の投手に千葉と言う名がある。
当時の新聞を見てみると、千葉投手は昭和四十一年春の二部リーグでの試合で少なくとも四勝を挙げている。(当時の新聞は二部の結果も現在より詳細に載せているが、それでもその日の紙面の関係なのか、日によって結果のみしか掲載されてない場合もあり、正確な記録は分からないが、この四勝はすべて完投なので間違いない)
翌、四十二年は一部リーグに復帰した年であるが、春はリリーフで四試合、秋もリリーフで四試合の登板し、最終戦の対日大三回戦では先発での登板を果たしている。この試合は七回まで投げているが1-1の同点で降板しており勝ち負けは付いていない。翌年の四十三年になると春・秋とも登板の記録は見当たらない。
東都大学野球での記録を見る限りでは勝敗の付かなかった一投手に過ぎない。
ところがである。昭和四十四年四月の新聞に次のような記事を見つけたのである。
グローバルリーグと言うのはこの年にユダヤ系米国人実業家ディルベック氏がナショナルリーグ、アメリカンリーグに次ぐ“第三のメジャーリーグ”の触れ込みで、日本のほか米国2・プエルトリコ・ベネズエラ・ドミニカの計6チームで発足させたものだ。幸いなことに筆者の手元にある白夜書房発行の雑誌『野球小僧』の創刊号には「グローバルリーグの戦歴」と言う記事が掲載されており、メンバーも紹介されていた。
グローバルリーグについて書かれたものはこの記事と阿部牧郎氏の『ドンキホーテ軍団』くらいしか目にしていないのだが、それによると引退したプロ選手とアマチュアの選手を入団テストを行ってメンバーを集めたようだ。テストは2月23日に神宮第二球場で90名ほどが集まって行われており、千葉投手もこれに参加して合格したものと思われる。
しかし、このグローバルリーグは発足当初から契約条件などの点であやふやな部分も多く、米国出発に向けた資金もなかなか送られてこず、一時は“渡米前に解散か”といった報道もされたようである。日本のマスコミも冷やかに見ていたようで、読売新聞などは“プロの草野球”などと酷評している。
それでもどうにか渡米にこぎつけ、フロリダでキャンプを行った後、4月24日にカラカスでベネズエラ・オイラーズとの開幕戦を迎える。観客は25000人が集まったそうだ。この試合を0-6で落とし、先に引用した記事にあるように第二戦、6回まで6-1とリードした7回にピンチを迎えた場面で千葉投手が登板した。
『ドンキホーテ軍団』にはこの場面が詳しく書かれているので、少し長くなるが引用してみる。(以下引用箇所はいずれも阿部牧郎『ドンキホーテ軍団』:毎日新聞社刊に依る)
このあと山田も打ち込まれ、最終回に追い上げたものの7対8で敗れている。
グローバルリーグはこの日本戦こそ観客も集まったものの、他の試合では客も入らず、また興行師に収益を持ち逃げされるなどして次第に資金難に陥る。選手の給料も払われず、ホテル代も未納で日本の選手たちは自分の所持品を売ったりして食いつなぎ、最後にはベネズエラの日本大使館に保護される。
結局11試合を行って、7勝3敗1分の成績を残したが、給料は四日分(平均で二十万円)しか支給されず、五ヶ月後の9月12日に帰国する。もちろんリーグはこの年限りしか行われなかった。
『ドンキホーテ軍団』もその後のドタバタ劇を中心に据えた実録小説だが、プロ出身の選手たちが中心で、千葉投手に関する記述は先の引用箇所以外はほとんどない。ただ、プロの出身の選手たちが連日夜の街へ繰り出したりするのに比べ、アマチュアから入団してきた選手たちは総じておとなしかったようである。
同書は残念ながら絶版となっており、古書店などでしか手に入らないが(筆者は“日本の古本屋”というサイトで購入した)、グローバルリーグについては他に資料も少ないようなので是非復刊してほしいものであるが、先の引用箇所にある“白いのや黒いのや褐色のが口惜しがっていた。よろこんでいるのか残念がっているのか異国の客はよくわからない”といった表現は、今日の基準ではアウトの可能性があるので難しいであろう。
尚、『ドンキホーテ軍団』では千葉投手は「大学中退」としか書かれていないが、東洋大の名前が一か所だけ出てくる。
カラカスで行われた開幕戦は25000人の観衆を集めたが、当然圧倒的なベネズエラの応援である。そんななかで
と綴られている。
昭和四十四年と言えば国内では学生運動が席巻していた年である。そんな時代に意気昂く海外雄飛を志した東洋大生がいたことは、記憶に留めておきたいものである。
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ご冥福をお祈りいたします。
先日UPしたエントリー「対東大戦 於:神宮球場」の試合の中で東洋大三番手の投手に千葉と言う名がある。
当時の新聞を見てみると、千葉投手は昭和四十一年春の二部リーグでの試合で少なくとも四勝を挙げている。(当時の新聞は二部の結果も現在より詳細に載せているが、それでもその日の紙面の関係なのか、日によって結果のみしか掲載されてない場合もあり、正確な記録は分からないが、この四勝はすべて完投なので間違いない)
翌、四十二年は一部リーグに復帰した年であるが、春はリリーフで四試合、秋もリリーフで四試合の登板し、最終戦の対日大三回戦では先発での登板を果たしている。この試合は七回まで投げているが1-1の同点で降板しており勝ち負けは付いていない。翌年の四十三年になると春・秋とも登板の記録は見当たらない。
東都大学野球での記録を見る限りでは勝敗の付かなかった一投手に過ぎない。
ところがである。昭和四十四年四月の新聞に次のような記事を見つけたのである。
東京ドラゴンズ連敗―グローバルリーグ―
グローバルリーグ、東京ドラゴンズの第二戦、対ベネズエラは二十五日カラカスで行われ、日本は7-8と第一戦に続いて連敗した。ドラゴンズの先発交告(元阪神)は前半ベネズエラをよく抑え、五回まで5-1とリードしていた。ところが六回、にわかにコントロールを乱し、千葉(東洋大中退)がリリーフしたが、ベネズエラはこの回に8安打を集中、2四球と敵失をからめ7点をあげ逆転した。
ドラゴンズは最終回二死後、2点をあげて一点差に迫り、二走者をおいて森監督が代打に登場したが三塁ゴロに終わった。(『毎日新聞』昭和四十四年四月二十七日朝刊より)
グローバルリーグと言うのはこの年にユダヤ系米国人実業家ディルベック氏がナショナルリーグ、アメリカンリーグに次ぐ“第三のメジャーリーグ”の触れ込みで、日本のほか米国2・プエルトリコ・ベネズエラ・ドミニカの計6チームで発足させたものだ。幸いなことに筆者の手元にある白夜書房発行の雑誌『野球小僧』の創刊号には「グローバルリーグの戦歴」と言う記事が掲載されており、メンバーも紹介されていた。
氏 名 年齢 前所属
監督 森 徹 33 東 京
投手 古賀 英彦 29 巨 人
竜 隆行 27 東 京
平沼 一夫 27 東 京
牧 勝彦 26 東 京
交告 弘利 22 阪 神
山田 裕 22 大 洋
室井 勝 21 大 洋
萩原 英晴 27 八幡西高
千葉 久 21 東 洋 大
奈良 正雄 19 大 宮 工
捕手 関根 勇 25 サンケイ
石塚 雅二 22 三菱重工川崎
内野 矢ノ浦国満 28 巨 人
是久 幸彦 25 東 映
高島 昭夫 25 東 映
鈴木 幸弘 25 サンケイ
福井 勉 26 甲 賀 高
松本 宏 24 三菱重工川崎
外野 黒崎 武 28 東 映
畑口 健二 21 大 洋
内藤 久 20 西 鉄
吉田 忠之 24 駒 沢 大
辻 正孝 23 いすゞ自動車
杉山 富栄 20 日 本 大
マネージャー 平野 洋司 28 大 洋
(『野球小僧No1』平成10年12月6日発行より。)
グローバルリーグについて書かれたものはこの記事と阿部牧郎氏の『ドンキホーテ軍団』くらいしか目にしていないのだが、それによると引退したプロ選手とアマチュアの選手を入団テストを行ってメンバーを集めたようだ。テストは2月23日に神宮第二球場で90名ほどが集まって行われており、千葉投手もこれに参加して合格したものと思われる。
しかし、このグローバルリーグは発足当初から契約条件などの点であやふやな部分も多く、米国出発に向けた資金もなかなか送られてこず、一時は“渡米前に解散か”といった報道もされたようである。日本のマスコミも冷やかに見ていたようで、読売新聞などは“プロの草野球”などと酷評している。
それでもどうにか渡米にこぎつけ、フロリダでキャンプを行った後、4月24日にカラカスでベネズエラ・オイラーズとの開幕戦を迎える。観客は25000人が集まったそうだ。この試合を0-6で落とし、先に引用した記事にあるように第二戦、6回まで6-1とリードした7回にピンチを迎えた場面で千葉投手が登板した。
『ドンキホーテ軍団』にはこの場面が詳しく書かれているので、少し長くなるが引用してみる。(以下引用箇所はいずれも阿部牧郎『ドンキホーテ軍団』:毎日新聞社刊に依る)
七回、交告が四球、死球で二走者を出したあと、次打者に右前打を食った。6対2.さらに次の打者がぼてぼての内野安打。ノーアウト満塁である。森は千葉を救援に起用した。
ベネズエラの攻撃は一番コントラマスティンからだった。
現役大リーガーの遊撃手である。二塁手のガルシアと組んで絶妙の併殺プレーを何度か見せつけた選手だった。こんなすごいショートがなぜこんなドサ回りのリーグに属しているのか。クインタナ同様、自分の国で試合をしたかったのだろう。
そのコントラマスティンが左前安打した。依然として無死満塁。6対3.千葉はさほど球威がない。森はいやな予感がした。下手投げの物珍しさでなんとかここを切りぬけてくれないだろうか。
次打者のガルシアは力んで三塁ファウルフライに倒れた。が、次の三番打者コリナスは中前安打。6対4となって、なお満塁である。つづいてこれも大リーガーである四番打者、黒人のマルティネーズを打席に迎えなければならなかった。
森はよいしょっとダグアウトをとびだし、マウンドの千葉のもとへとんでいった。
「ムキになって勝負するなよ。ボールになるシュートかスライダーをひっかけさせるんだ。いいな。」
右打者の内角低めから沈んでボールになるシュート、外角低めから、スライドしてやはりボールになる球を千葉はもっている。
現役大リーガーにストライクを打たせる必要はない。森がそう指示すると、千葉と捕手の石塚は目を光らせてうなづいた。どちらもノンプロ出身だが、デイトナ・ビーチ以来プロ出身者に揉まれて、相手の力を逆利用するピッチングを身につけている。
マウンドへ千葉はもどり、投球動作に入った。頭を大きくさげ、大きくテークバックし、一瞬動きをとめて打者の呼吸をそらすのが彼のフォームの特徴だった。
初球、千葉は森の指示どおり外角低めのスライダーをほうりこんだ。ボール一つ、外側へ逃げて空振りをさそう球である。
思うつぼだった。マルティネーズは猛然とバットを振ってきた。強引にひっかけてボテボテのゴロを左方向へころがすだろうと森は一瞬青写真を描いた。
が、現実はちがっていた。マルティネーズはさすがだった。ミートの瞬間、体から力をぬき、右へ流すフォームに変わった。
球音がさ炸裂した。打球はライナーとなって右前へとんだ。やや右へカーブしながら、白いロープのような軌跡を描いて、あっというまに球は右前へ飛んでゆく。
やられたか。森は目をつぶった。右翼線をかすめて打球はグラウンドのすみにころがるだろうと思った。
右翼手の吉田忠之がすっとんできた。彼自身が球のようになって跳んだ。頭から地に落ちて一回転した。打球が消えた。吉田のグラブに入っている。信じられないような美技だった。
球場中が大さわぎしている。口笛を吹き、足をふみならして、白いのや黒いのや褐色のが口惜しがっていた。よろこんでいるのか残念がっているのか異国の客はよくわからない。
二死満塁。オイラーズの次打者は左利きだった。
右翼手の美技でたすかったが、千葉はいい当たりをされている。下手投げなので、左打者には分がわるい。
千葉を代えようかどうか。森は迷った。だが、試合はこの日かぎりではない。リーグ戦のさきはながい。大学中退の千葉に経験をつませる必要があった。森は千葉に続投を命じた。二死である。なんとかなるだろう。
だが、森の決断は裏目に出た。千葉は次打者のひざもとを速球で突いた。コースが甘かった。次打者は火の出るような右前安打。二走者が還った。6対6.森は歯ぎしりしながら、元大洋の山田裕をリリーフにおくりだした。
このあと山田も打ち込まれ、最終回に追い上げたものの7対8で敗れている。
リリーフに失敗した千葉はしょんぼりして、みんなとはなれた席に腰をおろしている。
「一つコースをまちがうと外人にはやられる。いい勉強になったろう。今夜はぐっすり眠っておくんだぞ。くよくよするな。失敗はあとでとりもどせばいいんだ」
森になぐさめられて、若い下手投げピッチャーは救われた顔でうなずいた。
グローバルリーグはこの日本戦こそ観客も集まったものの、他の試合では客も入らず、また興行師に収益を持ち逃げされるなどして次第に資金難に陥る。選手の給料も払われず、ホテル代も未納で日本の選手たちは自分の所持品を売ったりして食いつなぎ、最後にはベネズエラの日本大使館に保護される。
結局11試合を行って、7勝3敗1分の成績を残したが、給料は四日分(平均で二十万円)しか支給されず、五ヶ月後の9月12日に帰国する。もちろんリーグはこの年限りしか行われなかった。
『ドンキホーテ軍団』もその後のドタバタ劇を中心に据えた実録小説だが、プロ出身の選手たちが中心で、千葉投手に関する記述は先の引用箇所以外はほとんどない。ただ、プロの出身の選手たちが連日夜の街へ繰り出したりするのに比べ、アマチュアから入団してきた選手たちは総じておとなしかったようである。
同書は残念ながら絶版となっており、古書店などでしか手に入らないが(筆者は“日本の古本屋”というサイトで購入した)、グローバルリーグについては他に資料も少ないようなので是非復刊してほしいものであるが、先の引用箇所にある“白いのや黒いのや褐色のが口惜しがっていた。よろこんでいるのか残念がっているのか異国の客はよくわからない”といった表現は、今日の基準ではアウトの可能性があるので難しいであろう。
尚、『ドンキホーテ軍団』では千葉投手は「大学中退」としか書かれていないが、東洋大の名前が一か所だけ出てくる。
カラカスで行われた開幕戦は25000人の観衆を集めたが、当然圧倒的なベネズエラの応援である。そんななかで
ベンチの裏にほんの一握りの日本人のグループがいた。当地で空手の道場をひらいている青年とその門下生たちだった。東洋大OBであるその青年たちは整然と手拍子を打ち、蛮声をはりあげて二万五千人に対抗した。近くのベネズエラ人とときおり険悪な空気になることもあったが、
「文句があるならかかってこい。何人でも相手になってやるぞ」
と、青年の意気は高かった。
「なんとか打って、あの人たちによろこんでもらえ。男なんだろう、おまえたちは」
森は選手たちを挑発しつづけた。
と綴られている。
昭和四十四年と言えば国内では学生運動が席巻していた年である。そんな時代に意気昂く海外雄飛を志した東洋大生がいたことは、記憶に留めておきたいものである。
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